第10話 『殺人鬼アドルフ』
シスタリス辺境の山岳地帯から馬で半日ほど進んだ集落。
その集落の外れにはのどかな農場があり、牛や羊などの家畜が囲いの中で草を食んでいる。
だが今、その農場の主は血まみれで横たわっていた。
そこは農機具などを収納している納屋の中だ。
すでに農場主は息絶え、その目を見開いたまま物言わぬ骸と化していた。
首を深く切り裂かれたことによる失血死だ。
そしてその初老の農場主のすぐ傍には、血の付いた刃物を手にした若い男が立っていた。
長い栗色の髪を後ろで縛って一つにまとめたその男は、暗く鋭い目をしてその場に佇んでいる。
「つまらん……男など殺しても実につまらん。男の悲鳴は耳障りなだけだ」
男は人殺しを生業にしていた。
この農場主と競合関係にある別の農場主からの依頼で彼はここにやって来たのだ。
今目の前に倒れている農場主を殺すために。
競合相手を排除すれば自分の農場が儲けを独占できるという浅ましい私欲からの依頼だが、男にはどうでもよかった。
依頼を果たし、報酬を受け取るだけのいつも通りのつまらない仕事だ。
だが、男にはこの仕事で一つだけ楽しみにしていることがあった。
ここの農場主には息子はいないが、20歳を過ぎた娘が1人いる。
まだ後継者はいないらしく、娘はいずれ婿を取ることになるだろう。
そうなる前に娘を殺せばこの家は断絶する。
それゆえに農場主と娘の両方を殺すのが依頼の内容だった。
農場主を殺すのはつまらなかったが、娘を殺すのは楽しみだった。
だというのに娘の方は不在らしく、農場内のどこにも姿が見当たらない。
だから男はひどく不機嫌になったのだ。
「女を殺したい。殺して楽しいのは女だ」
だが男は自分の欲求がすぐに満たされることになる音を聞いた。
馬車の車輪が地面を転がる音と馬の嘶き。
次いで若い女の声が聞こえてきた。
「お父さん。ただいま。卵も牛乳も全部売れたよ。そのお金で冬用の外套を新調してきたから。今のうちなら安く買えるからね」
その声が近付いてくると、男は急いで農場主の遺体を担ぎ上げた。
そして納屋の中の作業机の前の椅子に座らせると、机の上に突っ伏すような姿勢で遺体を固定した。
首の切り傷が入口から見えないように。
そして男は扉のすぐ横の壁に背を付けて息を殺す。
納屋の扉が開きっ放しなのを見たらしく、女の声が向かって来た。
「お父さん? 納屋?」
そうして納屋に入ってきた娘は、父親が机に突っ伏しているのを見て息を飲む。
「お、お父さん。どうしたの? 具合でも悪いの?」
娘は慌てて父のいる机に駆け寄る。
父がすでに事切れていることを知らずに。
そして父を殺した男が壁際に潜んでいることも知らずに。
男の動きは早かった。
父親に駆け寄る娘の背後から太い錐のような刃物を突き出す。
それは娘の背中から差し込まれ、正確に心臓を貫いた。
「かっ……はっ……」
何が起きたのか分からずに苦しげに息を吐き、娘はその場に崩れ落ちそうになる。
そんな娘を背後から抱きかかえると男は言った。
「心臓を貫かれるのはどんな感じだ? 痛むか? 痛むよなぁ」
そう言うと男は娘の顔を見た。
まだ20代くらいの若い娘の顔は苦痛と絶望に歪んでいる。
だがそれもすぐに薄れていく。
娘の表情が消えていき、その呼吸が弱くなっていく。
死が今まさに娘の体を蝕もうとしているのだ。
男はその様子を一瞬たりとも見逃さぬように目を見開く。
娘の命が消えゆく瞬間に、男は性的な興奮を覚えていた。
「ああ。ああ。いいぞ。女の命が消える瞬間は……実に美しい」
娘は口から血の泡を吹きながら、目の光を失った。
そして呼吸が止まり、全身の力が抜けていく。
その肉体から命が失われたのだ。
男は満足げに息を吐くと娘の体をうつ伏せの格好でその場に横たえた。
そして娘の長い茶色の髪に手を触れると、それを器用に編み込んで三つ編みにする。
それから編み上がった三つ編みを小刀で切り取った。
男はその戦利品を愛おしそうに見つめると、その匂いを嗅ぐ。
「ああ。いい匂いだ。死んだ女の匂いがする」
そう言うと男は切り取った三つ編みの頭髪を懐にしまった。
男は余韻に浸るように恍惚とした表情で女の遺体を見下ろす。
その時だった。
扉の外から声がかけられる。
「アドルフの兄貴。お頭の命令でお迎えに上がりました」
その声を聞いた男は不満げに後方を振り返る。
そこでは彼の見知った山賊の男が片膝を地面に着いて控えていた。
その顔は緊張に強張っている。
もちろん知っている男だが、名前は憶えていない。
男の名前など興味はないからだ。
アドルフと呼ばれた男はつまらなさそうに小さく息を吐いた。
「ふぅ。兄者が? 珍しいね。何があった?」
山賊の頭目デクスターの弟であるこの男が非常に凶暴な殺人鬼であることと、まどろっこしい話を嫌う短気な性格であることをよく知っている山賊の男は、努めて端的に答えた。
「お頭の山にダニアの女戦士が現れて、仲間を数人やっちまったんです。どうにも手練れの弓兵らしく、お頭が兄貴の力が必要だと……」
「ダニアの女? それはどんな女だった? 見たのか?」
アドルフは山賊の話を遮ってそう問い質す。
つまらなさそうにしていた瞳が爛々と輝きを放ち始めていた。
「若くて……肌は褐色で……髪は燃えるような赤毛でした。勝ち気そうな生意気な女でしたぜ」
「そうかそうか。赤毛か。ダニアの女は見たことがないなぁ。楽しみだ」
アドルフはすぐさま立ち上がる。
「こっちはもう片付いた。山に戻ろう。ダニアの女を狩りたい」
そう言うアドルフの目がギラギラと恐ろしげに輝くのを見て、山賊の男は息を飲むのだった。




