第9話 『鉄の矢』
レギンから精巧な造りの鉄の矢を見せられたネルは、それを試射するべく工房の外に出た。
ナサニエルとレギンの2人も彼女に付いてくる。
前方30メートルほどのところに、燭台に差された松明が煌々と燃えていた。
ネルはそのすぐ隣の建物を指差す。
軒先に朽ちかけた看板がぶら下がっていた。
「あの看板に当てるぜ」
そう言うとネルは弓にレギンの矢を番えた。
木の矢に比べると無機質な冷たい金属製の手触りに違和感を覚えるが、ネルは指先にその感覚を馴染ませながら呼吸を整える。
矢を放つ時、彼女は弓と矢と自分の一体感を大事にする。
この3つが一体と感じられた時、彼女は明確に的までの軌跡をその視界に捉えるのだ。
そうして放たれたネルの矢は的を外さない。
その感覚を彼女は完璧に自分のものにしていた。
そうした彼女独自の作法は、弓や矢が変わったとしても変わらない。
指から伝わるレギンの矢の感触に慣れると、弓矢との一体感がネルの体の隅々まで浸透した。
ネルは息を吸い込んで止める。
そして吐くと同時に矢を放った。
矢は木のそれとほぼ同じ速度で飛ぶ。
失速もせずにそれは看板の下側に見事に命中した。
その腕前にナサニエルとレギンは驚嘆する。
「お見事!」
「初めての使う矢を……大したもんじゃ」
だがネルだけは少々不満げに首を傾げた。
狙ったのは看板の中心だ。
そこに当たる感覚はあった。
だが実際はネルの狙いよりも10センチほど下にズレたのだ。
この差は大きかった。
弓兵は相手の急所を射抜いて一発で仕留めることを求められるのだ。
敵を一撃で葬らなければ、次の矢を番える前にこちらが殺されることも実戦ではあり得る。
「じいさん。あんたの矢は精巧だが、これはアタシには毒だ」
ネルのその言葉にナサニエルは不思議そうな表情を浮かべるが、レギンはさもありなんという顔で頷いた。
「そうか。やはり道具が変わればそれは使い手の感覚を狂わせる」
いくら軽く軟らかな金属で作られているといっても、鉄の矢はやはり木の矢よりは重い。
木の矢と同じ感覚で放てば、重量のある分だけ鉄の矢は物理法則に従って地面に吸い寄せられ、狙いは下にズレるのだ。
それを見越して狙った場所に命中させるには、木の矢で放つ時よりも少しだけ上に狙いを修正する必要がある。
だがネルはそれを嫌った。
弓兵の感覚は何百何千と矢を放ち続けることで磨き上げられ技術として形になっていく。
その感覚は繊細で、少しのズレでも弓矢の命中率に影響することをネルはよく知っているのだ。
レギンの作った鉄の矢の感覚は、訓練によって慣れることは出来るだろう。
だがその代償として今度は木の矢を放つ際の感覚にズレが生じてしまうかも知れない。
それはネルにとって意味のないことだった。
自分が今後も使い続けるのは木の矢だ。
持ち運ぶ際の重量や購入価格の高さ、入手のしにくさを考えれば、鉄の矢を主力武器として使うことは旅暮らしのネルには現実的ではない。
「アタシには縁のない物だな」
熱が冷めたようにそう言うと、ネルは30メートル先に落ちた鉄の矢を拾いに行くのだった。
☆☆☆☆☆☆
「くそっ!あの女……どこにもいねえ!」
デクスターは山狩りをして赤毛の弓兵を探し続ける部下たちから空振りの報告を受けて苛立った。
この山は最近になって縄張りを広げるために進入したばかりであり、まだ地形を詳しく把握し切れていない。
そのため部下50人ほどを総動員して捜しているものの、弓使いの赤毛の女も、彼女を助けたと思しきナサニエルもいまだ見つからなかった。
「もう遠くへ逃げちまったのでは?」
側近の部下が恐る恐るそう進言するが、デクスターはその部下の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「この俺の部下が何人もやられたんだぞ。このまま逃がしてたまるか」
大柄なデクスターの迫力に部下は思わず縮み上がる。
そんな部下の体を突き飛ばすと、デクスターは周囲の者たちに命じる。
「あの女、まだこの山を出ていないはずだ。山の出口を手分けして見張れ。誰も外に出すな。それから麓の街にいる協力者に、念のためナサニエルの家を張らせておけ。女を連れてそこに逃げ込むかもしれねえ。逃がしてたまるか。この俺に矢を向けたことを何としてもあの女に後悔させるんだ」
そう言うとデクスターは数名の部下たちを引き連れて、新しくこの山に開拓したアジトへと戻って行くのだった。
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次回、第10話『殺人鬼アドルフ』は
6月8日(月)21時10分に掲載予定です。
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