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第3話 山路の暖簾

朝川町は、思っていたより変わっていた。


駅前のロータリーには、直人の記憶になかった小さな観光案内板が立っていた。

バス停の屋根も新しくなっている。


昔は古い自転車が何台も倒れかけていた駐輪場には、きれいな白線が引かれていた。


けれど、駅舎の横にある古い時計はそのままだった。


針の進みが少し遅れているように見えるところまで、昔と同じだった。


直人は、駅前でしばらく立ち止まった。


山の匂いがする。

雨上がりの土と、少し冷たい風。


東京の路地にも雨の匂いはあるが、ここではそれに草と川の匂いが混ざる。

鼻の奥がつんとして、胸の中に何かが戻ってくる。


「……変わったな」


口に出すと、すぐに別の言葉が続いた。


「でも、変わってない」


どっちだよ、と自分で思った。


ロータリーを抜けると、本町通りへ続く道がある。

昔はもっと広く見えた。


子供だったからだろう。

実際に歩いてみると、道幅はそれほどない。車が一台通ると、歩道の端に寄りたくなるくらいだ。


直人は鞄を肩に掛け直し、ゆっくり歩き出した。


俊介からは、夕方に一度メッセージが来ていた。


『十九時に山路で』


たったそれだけ。


らしい、と直人は思った。


余計な飾りがない。

久しぶりなのに、妙にいつも通り。


昔から俊介はそうだった。

大事なことほど、普通の顔で言う。


直人は、山路へ向かうまでの時間を、町を歩いて過ごした。


駄菓子屋のまるやは、まだあった。


看板の赤い文字は薄くなっていて、店先のガラスケースも古い。

けれど、中には今も棒アイスが並んでいた。


直人は店の前で足を止めた。

中から、知らない年配の女性が顔を出す。


「何かお探しですか」

「いえ、昔ここに来てたので」


「あら、そう」


直人は少し迷って、ソーダアイスを一本買った。


袋を開けると、子供の頃と同じ甘い匂いがした。

俊介がいつも口の周りを青くしていたアイス。


直人は店先で少しだけかじり、冷たさに目を細めた。


昔と同じ味かどうかは、正直分からない。


でも、舌より先に胸が覚えていた。


本町通りを歩きながら、直人は何度も鞄の中を確かめた。

中には「日なたの小箱」のショップカードが入っている。

俊介に渡すために持ってきた。


住所、営業時間、店名。

小さな紙なのに、妙に重い。


会社を辞めた。


店を始めた。


一緒にやってほしい。


何度も頭の中で繰り返す。


言える。


言えるはずだ。


成人した男が、幼馴染に仕事の話をするだけだ。

別に変なことではない。


大人同士なら、将来の話だってする。

共同経営の話なら、なおさらちゃんと伝えるべきだ。


ただ、直人の中では、それは仕事の話だけではなかった。


俊介と一緒に店をやりたい。


それは、ずっと胸に抱えてきた夢の続きだった。


****


夕方になり、町の空気が少し冷えてきた。

川沿いから風が吹く。


直人は一度宿に荷物を置き、シャツの上に薄手の上着を羽織ってから外へ出た。


居酒屋「山路」は、本町通りの外れにあった。


木の引き戸。


白い暖簾。


小さな看板に、手書き風の文字で「山路」とある。

派手ではない。


地元の人が仕事帰りにふらっと寄るような店だ。

中からは、焼き物の匂いと、低い話し声が漏れていた。


直人は店の前で足を止めた。


スマホを見る。


十八時五十七分。


三分前。


早く入りすぎても変かもしれない。

いや、三分前なら普通だ。


むしろ店の前で突っ立っている方が変だ。そう思って、直人は暖簾に手を伸ばした。


その時、背後から声がした。


「直人?」


息が止まった。


声は、低かった。


記憶の中より少し大人びている。

けれど、確かに俊介の声だった。


直人は振り返った。


そこにいた人を見て、言葉を失った。


高森俊介だった。


そう分かる。


分かるのに、すぐには繋がらない。


背は昔より少し高く見えた。

肩幅もある。


男の骨格はそのままだ。


雨上がりの夜気の中、黒い薄手のコートを羽織り、首元には落ち着いた色のストールを巻いている。


髪は昔より少し長く、無造作ではなく、顔の横に自然に流れていた。


浅黒かった肌は、昔の名残を残しながらも、妙に艶がある。


目元はくっきりしている。


唇は薄く、笑う前から少し柔らかい。


そして、立ち姿が綺麗だった。


女のよう、という言葉では足りない。


男なのに、妙に美しい。


低い声も、首筋も、手の大きさも、直人の知っている俊介のままだ。

けれど、指先の動きや、視線の落とし方、笑う直前の間に、昔の俊介にはなかった柔らかさがあった。


直人は、ただ見ていた。


見すぎている自覚はあった。


でも、目を逸らせなかった。


俊介は少し眉を上げた。


それから、口元をゆるめた。


「お前、固まりすぎ」


その言い方だけは、少し昔に近かった。


直人の喉がやっと動く。


「……俊介?」

「他に誰がいるんだよ」


「いや、いるけど」

「いるのかよ」


俊介は笑った。


その笑顔に、直人の胸が跳ねた。


昔の笑顔が、確かにそこにあった。


でも、昔よりずっと綺麗だった。


直人は、反応の置き場を完全に失った。


「久しぶり」


俊介が言った。


その声は、さっきより少し柔らかかった。


直人は、ぎこちなく頷いた。


「久しぶり」


言えた。


たったそれだけなのに、胸の中で何かが暴れている。


俊介は直人の顔を覗き込んだ。


「元気だったか」

「うん。俊介は」


「見ての通り」


見ての通り。


その言葉が、直人には少し難しかった。


どこまで見ればいいのか分からない。


顔。服。立ち方。声。昔の面影。知らない艶。大人になった輪郭。

柔らかい笑い方。


見ての通り、変わっている。


見ての通り、俊介だ。


直人が答えに迷っていると、俊介はふっと笑った。


「とりあえず入るか。店の前で見つめ合ってんの、変だろ」

「見つめ合ってない」


「お前が見てた」

「……久しぶりだから」


「そういうことにしとく」


俊介は引き戸を開けた。


その仕草が、また綺麗だった。


直人は一瞬、胸の奥がざわついた。


綺麗だ。


そう思ってしまった。


子供の頃、俊介に対して思っていた「格好いい」とは違う。

もちろん、今も格好いい。


肩も、声も、昔から残る雑な言い方も、間違いなく男前だ。

けれどそこに、直人の知らない美しさが重なっている。


直人は、そのことに戸惑っていた。


嫌なわけではない。


むしろ、目が吸い寄せられる。


だから余計に、困る。


店内に入ると、カウンター席と座敷が三つあるだけの小さな店だった。

壁には手書きの品書きが貼られ、奥から焼き鳥の匂いがする。


店主らしき中年の男性が、俊介を見るなり目を細めた。


「おお、俊介か。帰ってきたのか」

「昨日な」


「えらい綺麗になってまあ」

「おっちゃん、それ毎回言うつもり?」


「言うだろ。昔は猿みたいに走ってたのに」


俊介は肩をすくめた。


「猿は余計」


店主は笑いながら、奥の座敷を指した。


「二人ならそっち使いな」

「ありがと」


俊介の返しが、自然だった。


直人は、そのやり取りを見て少しだけ息をつく。


俊介は、この町に受け入れられている。


変わった姿を、隠しているわけではない。

少なくとも、この店主はそれを普通に見て、普通にからかっている。

俊介も、過剰に気にしていない。


それなのに、直人だけがうまく受け止められていない気がした。


座敷に上がると、俊介はコートを脱いだ。


中は白いシャツだった。

シンプルなのに、妙に目を引く。

首元の開き方も、袖をまくる指先も、昔の雑さとは違って見えた。


直人はメニューを見るふりをした。


見ているふりだけで、文字は頭に入ってこない。


俊介が向かいに座る。


近い。


五年ぶりの距離だ。


俊介は肘をつき、直人を見た。


「で、なんでそんな顔してんの」

「そんな顔って」


「飲む前から酔ったみたいな顔」

「してない」


「してる」

「久しぶりだから」


「それ二回目」

「便利なんだよ」


「お前、昔から言い訳下手だな」


その言い方に、直人は思わず顔を上げた。


俊介の目が、少しだけ意地悪く細められている。


昔の俊介だ。


直人が転びそうになった時、アイスを買うのに迷った時、滑り台の上で固まった時、いつもこんな目で見てきた。


胸がぎゅっとなった。


「……変わってないところもあるんだな」


直人が言うと、俊介は少しだけ黙った。


それから、ゆっくり笑った。


「そりゃあるだろ」

「うん」


「全部変わってたら怖いわ」


俊介はそう言った。


軽い言葉だった。


けれど、直人には妙に残った。


全部変わっていたら怖い。


それは、まさに今、直人が感じていることだった。


店員が注文を取りに来て、二人はビールといくつかの料理を頼んだ。

直人は酒に強い方ではない。


俊介は昔から何でも強そうな顔をしていたが、実際の酒の強さは知らない。

成人してから一緒に飲むのは、これが初めてだった。


グラスが運ばれてくる。


俊介がそれを持ち上げた。


「成人してから、ちゃんと飲むの初めてだな」

「ああ、そうか」


「何それ。忘れてた?」

「いや、変な感じがして」


「何が」

「俊介と酒飲むの」


俊介は少し笑った。


「俺らも大人だからな」


その言葉に、直人はまた胸の奥を押された。


大人。


そうだ。


二人とも、もう大人だ。


子供の頃の約束にいつまでも縋っているだけではいられない。

今の俊介を見て、今の自分の言葉で話さなければならない。


直人はグラスを持った。


「帰国おめでとう」

「ありがと。直人も、わざわざ来てくれてありがとな」


「うん」


二人で軽くグラスを合わせる。


音が小さく鳴った。


ビールを一口飲む。苦味が喉を通って、少しだけ緊張がほどけた。


俊介は昔話を始めた。


「朝川駅、変わっただろ」

「ロータリーがきれいになってた」


「あれ、去年工事したらしい。俺も写真でしか見てなかったけど」

「時計はそのままだった」


「あれな。ずっと遅れてんのに誰も直さねぇの」


直人は笑った。


「昔からだよな」

「そう。待ち合わせに使えねぇ時計」


「俊介、あそこで待ち合わせして遅れてきたことあった」

「直人が時計信じたのが悪い」


「ひどい」

「俺は悪くない」


「そういうところ、ほんと変わらない」


俊介はビールを飲み、少し得意そうに笑った。


その顔は、直人の記憶と重なる。


少しだけ、安心する。


話してみると、俊介は俊介だった。


朝川神社の祭りの話。


まるやのソーダアイスの話。


ひばり公園の滑り台の話。


川で直人が片足だけ水に落ちて、俊介が笑いすぎて転んだ話。


俊介は細かいことまで覚えていた。

直人が忘れかけていたことも、平気な顔で掘り起こしてくる。


「お前、まるやで十円足りなくて固まってたことあったよな」

「そんなことあった?」


「あった。俺が出した」

「返した?」


「返してねぇ」

「ごめん」


「利子つけて返せ」

「今?」


「今」

「いくら」


「ソーダアイス一本分」

「安いな」


俊介は笑った。


その笑顔を見て、直人も笑った。


笑えた。


自然に。


五年ぶりなのに、話すと距離が戻る。

俊介の言い方も、間の取り方も、からかい方も、昔と同じ部分がある。


直人が少し黙ると、俊介はすぐに突っ込む。

直人が言い返すと、楽しそうに笑う。


けれど、ふとした瞬間に、直人は現実へ戻される。


俊介がグラスを持つ手。


昔は傷だらけで、爪も雑に切っていた。

今の手は大きさこそ変わらないのに、指先が整っている。


所作が落ち着いている。

皿を少しこちらへ寄せる動きが、妙に柔らかい。


俊介が店員に礼を言う声。


昔なら「ども」くらいで済ませていた気がする。

今は低い声のまま、穏やかに「ありがとうございます」と言う。


直人はそのたびに、少しだけ戸惑う。


知らない俊介がいる。


それは当たり前だ。


五年も会っていない。

留学していた。


知らない時間がある。

知らない人たちがいた。

知らない場所で、俊介は大人になった。


それが寂しいと思うことは、わがままだろうか。


俊介が嫌なわけではない。


今の俊介は、綺麗だ。


目が離せない。


直人は、そんな自分にも戸惑う。


昔の俊介に会いたかった。


でも、目の前の俊介にも惹かれている。


その二つが同時に存在して、胸の中が落ち着かない。


「直人」


名前を呼ばれて、直人ははっとした。


俊介がこちらを見ている。


「また固まってる」

「ごめん」


「謝るほどじゃねぇけど」


俊介は少し首を傾げた。


その動きが、柔らかい。


直人は、思わず視線を逸らした。


「疲れてる?」

「いや、大丈夫」


「東京から来たしな」

「それもあるけど」


「けど?」


直人は、鞄の中のショップカードを思い出した。


言うなら、今かもしれない。


近況の話になっている。

仕事の話を切り出す流れはある。俊介に驚かれるかもしれないが、それは想定通りだ。


直人は鞄に手を伸ばしかけた。


その時、俊介が言った。


「そういや、仕事どうなんだ。まだITの会社?」


直人の指が止まった。


まさに、その話だった。


言えばいい。


違う。辞めた。店を始めた。


そう言えばいいだけ。


直人は口を開いた。


「仕事は……」


俊介がまっすぐ見ている。


昔より綺麗な顔で。


昔と同じ目で。


直人は言葉を探した。


胸の中で、「日なたの小箱」のドアが浮かぶ。

二つ並んだマグ。エプロン。俊介のために空けた場所。


もし、俊介が笑わなかったら。


もし、もう別の未来を持っていたら。


もし、この美しい俊介が、直人の小さな店のカウンターに立つ姿を想像できなかったら。


直人は、急に怖くなった。


「……まあ、ぼちぼち」


出てきた言葉は、ひどく曖昧だった。


俊介は眉を上げた。


「ぼちぼち?」

「うん。いろいろあるけど」


「ふうん」


俊介は少しだけ目を細めた。


昔なら、そこで「何それ」と突っ込んできただろう。

根掘り葉掘り聞いて、直人が隠そうとしても引っ張り出しただろう。


けれど、今の俊介はそれ以上踏み込まなかった。


「無理してねぇならいいけど」


その声が、優しかった。


優しすぎた。


直人は、また胸が苦しくなる。


昔の俊介なら、もっと雑に踏み込んできた。

強引に引っ張って、直人の言葉を引き出してくれた。


今の俊介は、直人を尊重するように、踏み込まないでいてくれる。


それはたぶん、いいことだ。


大人になったということだ。


なのに直人は、勝手に寂しくなっている。


自分だけ、ひばり公園の滑り台の上に置いていかれたみたいだった。


「俊介は?」


直人は、自分の話から逃げるように聞いた。


「留学、どうだった」

「長かった」


「それ感想?」

「いろいろあったけど、長かったってのが一番近い」


俊介は少し笑った。


「街はきれいだった。飯は当たり外れでかい。言葉は最後まで面倒だった。でも、悪くなかった」


「写真、あんまり自分を写さなかったよな」

「そうだっけ」


「そう」

「風景の方が面白いだろ」


「俊介も見たかった」


言ってから、直人はしまったと思った。


俊介が目を丸くする。


直人は慌ててビールを飲んだ。


「いや、元気か分かるし」

「ふうん」


俊介の声に、少し笑いが混ざる。


「俺の顔、見たかったんだ」

「そういう言い方」


「違うの?」


直人は答えられなかった。


俊介は、楽しそうに笑った。


その笑い方は、少しだけ昔に戻った気がした。


「じゃあ、見ればいいだろ。今日いるんだから」

「見てる」


「見すぎ」


直人は、顔が熱くなるのを感じた。


「久しぶりだから」

「三回目」


「今日だけ有効にして」

「何それ」


俊介は声を出して笑った。


その笑い声で、直人も少し笑えた。


料理が運ばれてきて、二人はしばらく食べながら話した。

焼き鳥、だし巻き、山菜の天ぷら。


山路の味は、家庭的で、少し濃い。

俊介は懐かしそうに食べ、直人はその横顔を盗み見た。


横顔は、特に変わったと思う。


昔はもっと雑で、日に焼けて、額に汗をかいている印象ばかりだった。

今は鼻筋の線も、睫毛の影も、唇の形も、妙に整って見える。


男の顔なのに、綺麗という言葉が先に出てくる。


でも、骨の強さは変わらない。


肩の厚みも、手の大きさも、低い声も。


綺麗になった。


でも、弱くなったわけではない。


むしろ、知らない強さが増えたようにも見える。


直人は、自分の中の感情に名前をつけられなかった。


「何」


俊介に見つかる。


直人は慌てて箸を動かした。


「何でもない」

「何でもない顔じゃない」


「顔の話ばっかりするな」

「お前が顔に出すからだろ」


「出してない」

「出てる」


俊介はそう言って、ふと柔らかく笑った。


「でも、会えてよかった」


直人は箸を止めた。


俊介は、何でもないことみたいに続けた。


「五年ぶりだし。連絡はしてたけど、やっぱ直接会うと違うな」


直人の胸が、静かに熱くなる。


「……俺も」


それだけ言うのが精一杯だった。


俊介は満足そうに頷いた。


その顔は、やっぱり綺麗だった。


直人は、この人が俊介だという事実を、何度も飲み込み直していた。


高森俊介。


迷子の直人をスーパーまで連れていった子。


犬の前に立ってくれた子。


滑り台の下で両手を広げてくれた子。


駄菓子屋の前で、一緒に店をやると言った子。


朝川神社の裏で、直人を一番大事にすると言った子。


そして今、目の前で、白いシャツの袖をまくって、低い声で笑う美しい男。


全部、同じ人だ。


同じ人なのに、直人の心が追いつかない。


食事が終わりに近づく頃、俊介はふと思い出したように言った。


「この後、少し歩くか」

「歩く?」


「久しぶりだろ。ひばり公園とか」


直人の心臓が跳ねた。


「……行くの?」

「嫌ならいいけど」


「嫌じゃない」


少し早く答えすぎた。


俊介は笑う。


「じゃあ行こうぜ。滑り台、まだあるらしいぞ」


直人は、息を止めた。


滑り台。


俊介の口からその言葉が出るだけで、胸の奥が揺れる。


「覚えてるんだ」

「何を」


「滑り台」


「お前が泣きそうになってたやつ?」

「泣いてない」


「泣きそうだった」

「そればっかり」


「事実だから」


俊介は楽しそうに笑った。


その笑顔の中に、昔のわんぱくな影が一瞬だけ濃くなる。


直人は、それを見て嬉しくなった。


同時に、また苦しくなった。


いる。


昔の俊介は、確かにいる。


でも、一瞬だけだ。


すぐに、今の俊介の柔らかい微笑みに戻ってしまう。


直人は、勝手に手を伸ばしたくなった。


その一瞬を捕まえたい。


昔の俊介に戻ってほしいわけではない。


今の俊介を否定したいわけでもない。


ただ、自分がずっと大事にしてきた俊介が、今の美しい俊介の中にちゃんといると確かめたい。


確かめないと、足元が揺れる。


会計は、俊介がさっさと済ませようとした。


直人は慌てて財布を出す。


「割る」

「いい」


「よくない」

「遠くから来たんだからいいだろ」


「それ関係ない」

「ある」


「ない」

「じゃあ次な」


「次?」


俊介は財布をしまいながら、当然のように言った。


「次は直人が出せばいい」


次。


その言葉に、直人はまた一瞬止まる。


今日だけではない。


また会う前提。


それが嬉しい。


嬉しいのに、胸が痛い。


直人は小さく頷いた。


「……分かった」

「よし」


俊介は引き戸を開ける。


外の空気が流れ込んできた。


****


雨は降っていないが、道はまだ少し濡れている。

街灯の光が、アスファルトにぼんやり映っていた。


夜の朝川町は静かだった。

東京とは違う静けさだ。人の声より、川の音が近い。


俊介はコートを羽織り、直人を振り返った。


「行くぞ」


その言い方は、昔に似ていた。

直人は、思わず頷く。


「うん」


店の暖簾をくぐり、本町通りへ出る。


俊介が先に歩き出す。


直人は半歩遅れて、その隣へ並ぼうとした。


昔は、いつも後ろを追いかけていた。


今は並びたい。


そう思った。


けれど、隣に立つと、俊介の横顔が近い。


綺麗で、低い声で、昔の歩幅を少し抑えてくれている。


そのことに気づいて、直人はまた言葉を失う。


俊介は前を向いたまま言った。


「歩くの、遅くなった?」

「俊介が早いんだよ」


「昔からだろ」

「昔から」


「じゃあ変わってねぇな」


直人は返事をしようとして、できなかった。


変わっている。

変わっていない。


その両方が、今も直人の中でぶつかっている。


鞄の中には、渡せなかったショップカードが入ったままだ。


言えなかった。


店のことも。

共同経営のことも。


今日こそ言うつもりだったのに、俊介の顔を見た瞬間、全部胸の奥に沈んでしまった。


直人は、鞄の肩紐を握った。


今はまだ、言えない。


ひばり公園へ行く。


滑り台を見る。


昔の俊介と、今の俊介の間で、自分の心がどう動くのか、分からない。


俊介が隣で、少しだけ笑った。


「直人」

「何」


「また難しい顔してる」

「してない」


「してる」

「……久しぶりだから」


俊介は小さく吹き出した。


「四回目」


直人は、つられて笑った。


夜の本町通りを、二人で歩く。


街灯の下で、俊介の影が直人の影に少し重なった。


直人はそれを見て、胸の奥がまた静かに揺れるのを感じた。


昔の続きみたいで。


でも、昔とは違う。


その違いを抱えたまま、直人は俊介の隣を歩いた。


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