第4話 ひばり公園の滑り台
朝川町の夜は思っていたより冷えていた。
本町通りの店はほとんど閉まり、古い薬局の看板だけがぼんやり明るい。
東京の夜なら、ここからが本番みたいに人の声が増える時間だ。
けれど朝川町では、店の引き戸が閉まる音も、遠くの車の音も、すぐ山の方へ吸われていく。
直人は、隣を歩く俊介をちらっと見た。
黒いコートの裾が、歩くたびに揺れる。
首元のストールは落ち着いた色で、居酒屋の暖簾をくぐる前に見た時よりも、夜の中で少し柔らかく見えた。
街灯に照らされた横顔は、やっぱり綺麗だった。
綺麗、という言葉が、何度も頭に浮かぶ。
そのたびに直人は、少し困る。
昔の俊介を思い出す時、直人の中に浮かぶのは、土と汗と日焼けの匂いだった。
走るのが早くて、膝に傷があって、棒アイスを乱暴にかじって、何でもできるみたいな顔で笑う男の子。
でも今、隣にいる俊介は違う。
低い声も、大きな手も、肩幅も、確かに男のものだ。
それなのに、手をポケットに入れる仕草や、足音の静かさや、ふと視線を落とす時の間が、直人の知らない俊介だった。
「何」
俊介が前を向いたまま言った。
直人は肩を揺らした。
「何が」
「また見てただろ」
「見てない」
「見てた」
「夜道だから」
「夜道だから俺を見るのかよ」
「前を見てたら、横に俊介がいた」
「苦しい言い訳だな」
俊介は小さく笑った。
その笑い方は、さっき山路で見た柔らかいものだった。
直人は、少しだけ胸の奥が沈むのを感じる。
嫌ではない。
本当に、嫌ではない。
むしろ、今の俊介が笑うたびに目が離せない。
綺麗で、落ち着いていて、知らない大人の余裕があって、見ているだけで落ち着かなくなる。
だから余計に、困る。
昔の俊介に会いたかった。
けれど、今の俊介にも惹かれている。
それが、直人の中でうまく並ばない。
「ひばり公園、こっちだっけ」
直人が聞くと、俊介はすぐに曲がり角を指した。
「こっち。忘れたのか」
「五年どころじゃないからな、ちゃんと来るのは」
「俺は覚えてる」
「俊介は町の道、昔から全部覚えてた」
「お前が覚えなさすぎたんだよ。初日から迷子だったし」
「それ、今日二回目」
「何回でも言う」
「やめてくれ」
俊介は、ふっと笑った。
「でも、あの日に拾ってなかったら、今こうして歩いてなかったかもな」
直人は、言葉に詰まった。
拾った。
俊介らしい言い方だった。
迷子になっていた直人を見つけて、スーパーまで連れて行った日。
あの日から、直人の朝川町には俊介がいた。
「拾われた覚えはない」
「あるだろ」
「案内してもらっただけ」
「泣きそうな顔で?」
「泣いてない」
「泣きそうだった」
「俊介、そればっかり」
「事実だから」
このやり取りは、昔と変わらない。
なのに、俊介の声は少し低く、語尾は少し穏やかだった。
昔なら、もっと雑に笑って、肩を小突いてきた気がする。
今の俊介は、直人が半歩遅れると自然に歩幅を落とす。
道の端を歩く時は、さりげなく車道側へ寄る。
居酒屋で料理を取り分けた時もそうだった。
昔よりずっと、触れ方が丁寧だ。
優しい。
大人になった。
それはいいことのはずだ。
直人は、鞄の肩紐を握った。
中には、渡せなかったショップカードが入っている。
雑貨と珈琲「日なたの小箱」。自分が作った店。
俊介と一緒に立つ未来を、勝手に夢見ていた場所。
言えなかった。
山路で、俊介に仕事のことを聞かれたのに、言えなかった。
怖かった。
目の前の俊介があまりにも綺麗で、知らない大人になっていて、自分の小さな店のカウンターに立つ姿をうまく重ねられなかった。
昔の俊介なら、あのエプロンを雑に着て、カップを割りそうになって、常連にすぐ馴染んで、笑ってくれる気がした。
今の俊介はどうだろう。
この落ち着いた美しい人が、直人の店の奥に置いた二つ目のマグを見て、何と言うだろう。
「直人」
俊介が名前を呼ぶ。
直人は、はっと顔を上げた。
「何」
「考えすぎて、電柱にぶつかるぞ」
「ぶつからない」
「危なかった」
「危なくない」
「ほら、こっち」
俊介はそう言って、直人の袖を軽く引いた。
ほんの少しだけだった。
子供の頃のように、手首を掴んで強引に引っ張るのではない。
袖口に指をかけ、道の端に寄せるくらいの、控えめな力。
それなのに直人の胸は、大きく跳ねた。
昔と違う。
でも、引かれる感覚は知っている。
直人は袖口を見た。
俊介の指が離れていく。
整った爪。昔より綺麗な手。
でも、その手の大きさは知っている。
滑り台の下で広げられていた手。
犬の前に立った時、直人の前を遮った腕。
川で転びそうになった直人を引き上げた手。
知っている。
知らない。
直人は、呼吸が少し浅くなった。
****
ひばり公園は、本町通りから少し外れた住宅街の奥にあった。
入口の看板は新しくなっていた。
けれど、公園の形はほとんど変わっていない。
ブランコ、鉄棒、砂場、古いベンチ。
そして、奥に滑り台がある。
直人は足を止めた。
「まだある」
声が、自分でも驚くほど小さくなった。
俊介は隣で笑った。
「あるって言っただろ」
「本当にあると思わなかった」
「勝手だな」
滑り台は、昔より低く見えた。
もちろん、同じものかどうかは分からない。
塗り直されているし、手すりも少し新しい。
でも、形は記憶に近かった。
子供の頃には山みたいに見えた階段も、今は数歩で上れそうだ。
滑る部分も、拍子抜けするほど短い。
直人は、ゆっくり近づいた。
砂場の端に、雨の名残がある。
地面は少し湿っていて、靴底に細かい砂がついた。
街灯は公園の端に一本だけで、滑り台の影が薄く伸びている。
俊介は滑り台の下に立った。
昔みたいに。
直人は、胸が詰まる。
「お前、ここで固まってたよな」
俊介が言った。
声に笑いが混ざっている。
直人は、滑り台を見上げた。
「……高かったんだよ」
「今見ると低いな」
「子供だったから」
「それにしたって、お前、ずっと手すり握ってた」
「覚えすぎ」
「面白かったからな」
「ひどい」
俊介は、昔のように歯を見せて笑った。
ほんの一瞬、街灯の下に、子供の頃の俊介が重なった。
浅黒い肌。傷だらけの膝。
両手を広げて、自信満々に笑う顔。
落ちてこい。
俺が受け止める。
直人の目の奥が熱くなる。
「あれ、痛かったんだぞ」
俊介が続けた。
「受け止めた後、俺、背中打ったし」
「ごめん」
「今さら謝るなよ」
「だって」
「まあ、泣かれるよりはよかったけど」
「泣いてない」
「泣きそうだった」
「またそれ」
直人は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
俊介がそこにいる。
昔の話を覚えている。
直人のことも、滑り台のことも、約束のように残っている。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのか分からなかった。
俊介は、滑り台の階段に手をかけた。
「上ってみる?」
「今?」
「今」
「大人二人で?」
「誰もいねぇし」
「いや、そういう問題じゃ」
「お前、まだ怖い?」
その言い方に、直人は一瞬むっとした。
「怖くない」
「じゃあ上れるな」
「そういう煽り、昔から変わらない」
「効くだろ」
「効かない」
「今、上る顔した」
俊介が楽しそうに笑う。
直人は、負けた気がして滑り台の階段へ向かった。
金属の手すりは少し冷たい。
階段を一段上がる。
二段、三段。あっという間に上まで着いた。
低い。
当たり前だ。
子供用の滑り台なのだから。
それでも、上から公園を見ると、直人の中で昔の景色がひらいた。
夕方の空。
俊介の笑い声。
砂場。
手すりを握る自分の小さな手。
下で両手を広げていた俊介。
直人は、滑り台の上で立ち止まった。
俊介が下から見上げる。
「固まった?」
「固まってない」
「じゃあ滑れよ」
「大人が滑るには狭い」
「言い訳」
「事実」
俊介は楽しそうに笑った。
それから、両手を軽く広げた。
本当に、軽く。
冗談みたいに。
「落ちてこい。受け止める」
直人の胸が、音を立てて崩れた。
やめてくれ、と思った。
その言い方はずるい。
その姿は、昔の俊介そのものだった。
でも、今の俊介でもあった。
綺麗で、低い声で、穏やかに笑う大人の俊介が、子供の頃と同じ言葉を言う。
直人は、手すりを握ったまま動けなくなった。
俊介の笑顔が、少しずつ変わる。
「直人?」
直人は返事をしようとした。
できなかった。
喉が詰まる。
目の奥が熱い。
違う。
泣く場面じゃない。
俊介は何も悪くない。
今の俊介は綺麗で、優しくて、直人のことをちゃんと覚えてくれている。
昔のことも笑ってくれる。
滑り台の言葉も覚えている。
だからこそ、つらかった。
自分だけが、あの言葉を宝物みたいに抱えていたわけではなかった。
それは嬉しい。
嬉しいのに、苦しい。
俊介は変わった。
自分も変わった。
でも直人だけが、ずっと同じ夢を見ていた気がする。
俊介と店をやる。
俊介と並ぶ。
俊介に受け止めてもらう。
子供の頃の言葉を、大人になっても勝手に信じ続けていた。
その重さが、急に自分の胸に戻ってきた。
「……ごめん」
直人は、やっとそれだけ言った。
俊介が階段の方へ回ろうとする。
「直人、降りられるか」
その声が、やさしい。
やさしすぎる。
直人は首を振った。
「降りられる」
言ったくせに、しばらく動けなかった。
結局、直人は滑らずに階段を降りた。
俊介は下で待っていた。
手を貸すわけでも、笑うわけでもなく、ただ見ていた。
その大人の距離が、また胸に刺さる。
昔なら、俊介は強引に手を掴んだかもしれない。
「何やってんだよ」と笑って、引っ張ったかもしれない。
今の俊介は、直人が自分で降りるのを待ってくれる。
それは優しさだ。
分かっている。
分かっているのに、直人は勝手に置いていかれたような気持ちになる。
地面に降りると、俊介が少し身をかがめて顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
直人はうなずいた。
「うん」
声が震えた。
俊介の表情が変わる。
「直人」
呼ばれた瞬間、涙がこぼれた。
自分でも驚いた。
本当に、一滴だけ落ちるみたいに。
それなのに、一度こぼれたら止まらなかった。
直人は慌てて顔を背ける。
「ごめん、違う」
「何が違うんだよ」
「違うんだ。俊介が悪いとかじゃなくて」
俊介は黙った。
直人は、袖で目元を拭いた。
情けない。
成人した男が、昔の滑り台の前で泣いている。
しかも、相手は五年ぶりに会った幼馴染だ。
直人は本当なら、店の話をするべきだった。
ショップカードを渡して、笑って、久しぶりの再会を楽しいものにするべきだった。
なのに、泣いている。
「直人」
俊介の声が、低くなる。
「何があった」
「何もない」
「何もない泣き方じゃねぇだろ」
その言い方は、少し昔に近かった。
直人は、余計に涙が出そうになる。
「ほんとに、何かされたとか、嫌だったとかじゃない」
「うん」
「今の俊介が嫌とかでもない」
言ってから、直人ははっとした。
こんなことを言うと、逆に変だ。
俊介の顔が、わずかに動いた。
けれど俊介は、すぐには何も言わなかった。
直人は、必死に言葉を探した。
「綺麗になったなって思った」
俊介が少し目を見開く。
直人は、もう止められなかった。
「山路で会った時、びっくりした。でも、嫌じゃなかった。嫌どころか、見ちゃって、困った。昔の俊介とは違うのに、俊介で、でも知らない俊介で、どうしたらいいか分からなくて」
俊介は静かに聞いていた。
直人は、視線を落とす。
「俺、勝手に昔のままの俊介を想像してた。浅黒くて、雑で、すぐ人の手を引っ張って、笑って、何でもできるみたいな顔してる俊介」
「……うん」
「でも、今の俊介は違う。優しいし、綺麗だし、歩幅も合わせてくれるし、踏み込まないで待ってくれる」
直人は、息を吸った。
胸が痛い。
でも、言葉にしないと、もっと苦しい。
「それが嫌なんじゃない。ほんとに嫌じゃない。なのに、俺だけ昔の約束とか、夢とか、ずっと握ってたみたいで、急に恥ずかしくなった」
俊介の目が、少しだけ揺れた。
直人は、滑り台を見た。
「ここで俊介が受け止めてくれたことも、まるやで一緒に店をやるって言ったことも、朝川神社で俺を一番大事にするって言ったことも、俺、ずっと覚えてた」
声が震える。
「俊介にとっては、子供の頃の話かもしれないのに」
言った瞬間、直人は後悔した。
重い。
重すぎる。
こんなことを、再会した日に言うつもりではなかった。
店の話もできないまま、過去の話ばかり握りしめて泣いている。
俊介が困るに決まっている。
今の俊介には、今の生活がある。
留学先での時間がある。
美しく変わった自分がある。
直人は、俊介から目を逸らした。
「ごめん。ほんと、忘れて。酒も飲んだから、変になっただけで」
「直人」
「大丈夫。ちょっと懐かしくなっただけだから」
「直人」
俊介が一歩近づいた。
直人は反射的に下がりかけた。
その時、ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
直人は空を見上げた。
雨だった。
さっきまで雲の隙間に薄く月が見えていたのに、いつの間にか空は暗く重くなっていた。
ぽつ、ぽつ、と滑り台の金属に雨粒が落ちる音がする。
俊介が空を見た。
「降ってきたな」
直人は慌てて目元を拭いた。
「ごめん、俺、宿戻る」
「傘は」
「折り畳み、鞄に」
直人が鞄を探ろうとした瞬間、雨が急に強くなった。
細かい雨粒が、公園の砂に一斉に落ちる。
滑り台の上に小さな音が弾け、ベンチの背もたれが濡れていく。
風も出てきて、木の葉がざわっと鳴った。
俊介が直人の腕を掴んだ。
今度は、袖ではなかった。
手首に近いところを、しっかり掴む。
直人の息が止まる。
昔の力だった。
「走るぞ」
「え」
「宿、駅前のビジネスホテルだろ」
「うん」
「こっちの方が近い」
俊介はそう言うと、直人の返事を待たずに走り出した。
直人は引っ張られる。
雨が顔に当たる。
靴が濡れた道を叩く。
さっきまでの柔らかく歩幅を合わせる俊介ではなかった。
強く、迷いなく、直人の腕を引いて走る。
道を知っている足取り。
振り返らず、でも直人が転ばないように、力だけはちゃんと加減している。
直人の胸が、どうしようもなく跳ねる。
俊介だ。
昔の俊介だ。
いや、今の俊介だ。
どっちでもいい。
今、直人を引っ張っている手が、確かに俊介だった。
「速い、俊介」
「転ぶなよ」
「引っ張ってるの俊介だろ」
「だから転ぶなって言ってんだよ」
雨の中で、俊介が笑った気がした。
直人は、泣いていたのか、雨に濡れているだけなのか分からなくなる。
公園を抜け、細い道を曲がり、本町通りへ戻る。
雨はさらに強くなった。
店の軒下に逃げる人の姿がちらほら見える。
俊介は迷わず駅前の方へ向かう。
直人が泊まる予定のビジネスホテルは、朝川駅の近くにある。
町に一つしかない、古いが清潔なホテルだ。
直人はチェックインだけ済ませて荷物を置いていた。
俊介は、その場所を覚えていたらしい。
****
ホテルの入口のひさしの下へ駆け込むと、二人は同時に息を吐いた。
直人の髪から雨水が落ちる。
シャツも上着も濡れている。
俊介も同じだった。
コートの肩に雨が染み、髪の先から水滴が落ちている。
ストールは少し濡れて、首元に張りついていた。
俊介が直人を見た。
「大丈夫か」
直人は息を整えながら頷く。
「うん」
「風邪引くぞ」
「俊介も」
「俺は平気」
「それ、昔から言う」
「昔から平気だったし」
「嘘だ」
俊介は少し笑った。
雨の音が、ひさしを叩いている。
直人は、その音の中で俊介を見た。
濡れた髪が頬にかかっている。
いつもの柔らかい整った雰囲気が、少し崩れていた。
白いシャツの襟元も乱れ、低く息をする首筋が見える。
綺麗なのに、荒い。
上品なのに、強い。
直人の胸がまた揺れる。
さっきまで滑り台の前で泣いていたのに、今は目の前の俊介から目が離せない。
どうしようもない。
昔の俊介も、今の俊介も、全部、直人の心を勝手に持っていく。
俊介が眉を寄せた。
「直人、部屋戻れ。濡れすぎ」
「うん」
「俺も、少しタオル借りていいか。ここまで濡れると思わなかった」
直人は頷いた。
「もちろん」
言ってから、急に意識した。
部屋。
二人きり。
雨。
濡れた俊介。
直人は、自分の反応をごまかすように視線を下げた。
俊介は、そんな直人を見ていたが、何も言わなかった。
フロントを通り、エレベーターに乗る。
狭い箱の中で、雨の匂いが強くなる。
直人の濡れた服と、俊介の濡れたコートと、外の冷たい空気。
二人の距離は近い。
さっき手首を掴まれた感覚が、まだ残っている。
直人は、階数表示を見つめた。
二階。
三階。
四階。
沈黙が、妙に長い。
俊介がふと口を開いた。
「さっきの話」
直人の肩がこわばる。
「ごめん」
「謝んな」
「でも」
「部屋で話す」
低い声だった。
直人は、それ以上何も言えなくなった。
エレベーターが止まる。
廊下に出て、部屋の前まで歩く。
直人はカードキーを取り出す手が少しもたついた。
俊介が横で黙って待っている。
その静かさが、逆に落ち着かない。
ドアが開く。
ビジネスホテルの部屋は狭かった。
ベッドが一つ。
小さな机。
壁に掛かったハンガー。
奥にユニットバス。
荷物は昼に置いたままで、鞄だけが椅子の上にある。
直人は先に入り、部屋の明かりをつけた。
俊介が後から入る。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
二人きりになった。
雨の音は、窓の向こうでまだ続いている。
直人は、タオルを探そうとして、鞄の中を開けた。
手が少し震えている。
どこに入れたか分かっているのに、うまく掴めない。
その時、俊介が後ろから言った。
「直人」
直人は振り返る。
俊介は、濡れた髪をかき上げていた。
その目は、さっき山路で見た柔らかいものでも、公園で見た懐かしいものでもなかった。
少しだけ、昔のガキ大将みたいな強い光がある。
直人の喉が鳴った。
俊介は、濡れたコートを脱ぎながら、低く言った。
「タオル、貸して」
たったそれだけの言葉なのに、直人の胸は落ち着かない。
直人は慌ててタオルを差し出した。
俊介は受け取る。
指先が触れた。
一瞬だけ。
直人の身体が、びくりと跳ねる。
俊介はそれを見逃さなかった。
でも、何も言わない。
タオルで髪を拭きながら、俊介は直人を見ている。
直人は視線を逸らした。
泣いたことも、言えなかったことも、濡れた俊介に動揺していることも、全部見透かされている気がした。
雨の音が、部屋の沈黙を埋める。
直人は、自分の濡れた袖を握った。
今夜、何かが変わる。
そんな予感がしていた。
でも、それが何かまでは、まだ分からなかった。




