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第2話 朝川行きの切符

翌朝、直人はいつもより早く目が覚めた。


目覚ましが鳴る前だった。

窓の外はまだ薄く、ビルの輪郭が青っぽく沈んでいる。


昨日の雨は上がっていたが、ベランダの手すりには水滴が残っていた。

空気だけが少し湿っていて、遠くの車の音がいつもより静かに聞こえる。


直人は布団の中で一度だけ目を閉じた。


今日、俊介に会う。


そう思った瞬間、眠気は完全に消えた。


「……無理だな」


誰に言うでもなく呟いて、直人は起き上がった。


旅支度は、前の晩にほとんど終わらせてある。

替えの服、財布、スマホの充電器、店の鍵、朝川駅までの切符。


何度も確認したせいで、鞄の中身は自分でも嫌になるほど把握していた。

それでも直人は、洗面所で顔を洗った後、もう一度だけ財布を開いて切符を確認した。


朝川駅。


印字されたその三文字を見るだけで、胸の奥がくすぐったくなる。


東京から電車を乗り継ぎ、山の方へ向かう。

朝川町は、長野と岐阜の境にあるような山あいの町だった。


実際には県境から少し外れているのかもしれないが、子供の頃の直人には、山と川と空しかない場所に思えていた。


小学校に上がる前後の数年、直人は公務員だった父の仕事の都合で朝川町に住んでいた。


そこで、高森俊介と出会った。


直人は朝の支度を済ませると、小さなテーブルの上に置いていたスマホを手に取った。

俊介とのメッセージ画面を開く。


昨日の夜、俊介から届いていた。


『明日、朝川着いたら連絡しろよ。俺、夕方には実家戻ってる』


その下に、直人の返信。


『分かった。夜は山路でいい?』


俊介の返事。


『いい。久しぶりに飲むか』


文字だけ見れば、普通の幼馴染同士の約束だった。


成人した男二人が、久しぶりに地元で飲む。


ただそれだけ。


それなのに直人は、メッセージ画面を見ているだけで、口元が勝手にゆるんでしまう。


「飲むか、じゃないんだよ」


直人は小さく言った。


酒を飲みに行くだけなら、こんなに緊張しない。

俊介に会う。直接会って、自分の店のことを話す。


会社を辞めたことも、雑貨と珈琲「日なたの小箱」を始めたことも、ずっと俊介の分のエプロンとマグを用意していたことも。


全部言う。


言うつもりだ。


たぶん。


直人は鞄を持って部屋を出た。


****


駅へ向かう朝の道は、まだ人が少なかった。

店へ向かう時とは違う方向へ歩くだけで、少し落ち着かなくなる。


角を曲がれば「日なたの小箱」がある路地へ行けるのに、今日はそのまま駅へ向かう。


自分の店を一日空けることにも、少しだけそわそわした。


けれど、村瀬と森さんに任せてある。

二人とも頼れる。

レジ締めも仕込みも、念入りにメモを残した。心配はあるが、店は大丈夫だ。


直人の問題は、店ではなく自分の心臓だった。


改札を抜け、ホームに立つ。

朝の電車はそれなりに混んでいたが、直人は乗り換えの駅で座ることができた。


鞄を膝に置き、スマホを開きかけて、やめる。


外を見る。


ビルが流れていく。


線路沿いのマンション、コンビニ、駐車場、看板、川。

東京の景色は、いつも通り忙しない。


けれど、電車が進むにつれて建物の高さが少しずつ低くなっていく。

空が広がり、田んぼが見え、遠くに山の線が近づいてくる。


直人は、窓に映った自分の顔を見た。


二十代半ばの、ちゃんと成人した男の顔。

髪も整えた。服も、少しだけちゃんとしたものを選んだ。


白いシャツに、薄いグレーのカーディガン。

旅行というより、誰かに会いに行く服装だ。


俊介は、どんな顔をしているだろう。


最後に直接会ったのは五年前だ。

あの時の俊介は、もう背も伸びきっていて、肩幅も広くて、笑うと子供の頃のままだった。


浅黒い肌に、少し日に焼けた首筋。乱暴に髪をかき上げる癖。

歩くのが早くて、直人はいつも半歩遅れた。


その後、俊介はヨーロッパへ留学した。


写真は送ってくれた。

古い街並み、石畳の道、広い広場、カフェのテラス。


俊介はたいてい風景だけ送ってきて、自分の写真は少なかった。たまに写っていても、帽子をかぶっていたり、横顔だったり、少し遠かったりした。


直人は、そのたびに思った。


変わっているのだろうか。


そして、変わっていても、俊介は俊介だと思おうとした。


電車がトンネルに入る。


窓の外が暗くなった瞬間、直人の頭に、子供の頃の俊介がぱっと浮かんだ。


****


初めて会った日のことを、直人ははっきり覚えている。


朝川町に引っ越してきて、まだ近所の道もよく分からなかった頃だった。

母に頼まれて、直人は一人で小さなスーパーまで行こうとしていた。


けれど、同じような家と細い道が続いて、途中で完全に迷った。


泣きそうになっていた時、背後から声がした。


「お前、迷子?」


振り向くと、同い年くらいの男の子が立っていた。


浅黒くて、膝に絆創膏を貼っていて、半袖の腕には細かい擦り傷があった。

虫取り網を肩に担いで、口には棒アイスをくわえている。


直人が黙っていると、その子は近づいてきて、顔を覗き込んだ。


「泣くの?」

「泣かない」


「泣きそうじゃん」

「泣かない」


「じゃあ来いよ。スーパーならこっち」


それが、俊介だった。


俊介は、直人の返事を待たずに歩き出した。

直人は慌てて後を追った。


歩くのが早くて、道を曲がるのも迷いがなくて、まるで町全体が自分の庭みたいだった。


「お前、名前は?」

「三浦直人」


「ふうん。俺、高森俊介」

「知ってる」


「なんで」

「お母さんが、近所に高森さんって家があるって言ってた」


「じゃあ俺、そこの俊介」

「うん」


「直人って呼ぶ」

「え」


「長いから」


三浦でも、直人くんでもなく、いきなり直人。


直人は少し驚いたが、不思議と嫌ではなかった。


スーパーに着いた時、俊介は自分の食べかけの棒アイスを見て、少し考えた後、直人に聞いた。


「アイス食う?」

「食べかけじゃん」


「うまいぞ」

「いらない」


「じゃあ今度な」


俊介はそう言って笑った。


その笑い方は、妙にまぶしかった。


****


トンネルを抜け、車内に光が戻る。


直人は膝の上の鞄を軽く握った。


俊介は、最初からそういうやつだった。


距離が近い。

遠慮がない。

勝手に決める。


だけど、誰かが困っていると、真っ先に手を伸ばす。


犬に吠えられた時もそうだった。


あれは、引っ越して少し経った頃だ。

直人は本町通りから一本外れた道で、大きな犬に吠えられて動けなくなった。


鎖につながれていると分かっていても、怖いものは怖い。

犬が吠えるたびに、足が固まった。


そこへ、俊介が走ってきた。


「何してんだよ」


「犬」

「犬?」


「怖い」


俊介は犬と直人の間に立った。


「大丈夫だって。こいつ、吠えるだけ」

「でも」


「俺いるだろ」


その言い方が、あまりにも当然だった。


俺いるだろ。


だから怖くない。


俊介の中では、それで話が終わっている。


直人は、その背中を見て、少し息ができるようになった。


俊介は犬に向かって「うるさい」と言い、犬はさらに吠えた。

何も解決していないのに、俊介がいるだけで直人は少し笑ってしまった。


俊介は振り返って、得意そうに言った。


「ほら、行くぞ」


直人は、俊介の後ろを歩いた。


それから、ずっとそうだった。


川遊びでも、俊介は先に入る。

冷たい水に足を入れて、「ここ浅い」と教える。


直人が濡れるのを嫌がると、わざと水を跳ね上げてくる。

怒ると笑う。


むかつくのに、俊介が笑うと、直人もつられて笑ってしまう。


星を見に行った夜もあった。


朝川町の空は、東京よりずっと暗くて、星が多かった。

俊介は毛布を一枚持ってきて、神社の石段に座った。

直人が寒がると、自分の上着を乱暴に投げてよこした。


「着ろよ」

「俊介は?」


「俺、寒くない」

「嘘だ」


「うるせぇな。いいから着ろ」


直人が上着を羽織ると、俊介は満足そうに空を見上げた。


「星って、落ちてきそうじゃね?」

「落ちてこないよ」


「分かんねぇだろ」

「落ちてきたら怖い」


「じゃあ俺が蹴る」

「星を?」


「うん」


無茶苦茶だった。


でも、直人は笑った。


俊介は何でもできると思っていた。

犬から守ることも、川の深い場所を見つけることも、木に登ることも、星を蹴ることも。


本当にできるかどうかではなく、俊介が言うとできそうに思えた。


そして、ひばり公園の滑り台。


直人にとって、一番強く残っている記憶。


その日は、夕方だった。

ひばり公園には、滑り台とブランコと鉄棒があった。


今思えば、どこにでもある小さな公園だ。

けれど子供の頃の直人には、滑り台が妙に高く見えた。


俊介は何度も滑っていた。


階段を駆け上がり、上で一瞬立ち、勢いよく滑ってくる。

砂に足を突っ込んで止まり、また走って上る。


「直人もやれよ」

「見てる」


「見てるだけじゃつまんねぇだろ」

「つまんなくない」


「嘘だ」


俊介は直人の手を掴んで、階段の下まで連れていった。


「ほら」

「無理」


「俺が先に上るから」

「それ意味ある?」


「ある」


意味はなかった。


でも、俊介が先に上り、上から手を差し出した。

直人はその手を掴んで、なんとか上まで登った。


登った瞬間、足元が急に遠くなった気がした。


下が怖い。


風が強い。


滑るところが急に長く見える。


直人は座ることもできず、手すりを握ったまま固まった。


「直人、滑れよ」

「無理」


「何が」

「高い」


「高くねぇよ」

「高い」


俊介は少し考えた。


それから、自分だけ先に滑って下へ行った。

直人が置いていかれたと思って焦った時、俊介は滑り台の下で振り返った。


両手を広げていた。


「落ちてこい」

「え」


「俺が受け止める」


直人は、手すりを握ったまま俊介を見た。


俊介は笑っていた。

自信満々で、少しも疑っていない顔だった。


直人が落ちてきても、自分なら受け止められる。

そう本気で思っている顔。


「無理」

「できる」


「怖い」

「俺いるだろ」


その言葉に、直人の胸がきゅっとなった。


俺いるだろ。


何度も聞いた言葉だった。

犬の時も、川の時も、暗い道の時も。


俊介が言うと、なぜか少しだけ大丈夫になる。


直人は座った。


滑ったというより、ほとんど目をつぶって落ちた。


風が頬に当たる。


足が浮く。


怖い。


でも、下に俊介がいる。


次の瞬間、直人は俊介にぶつかった。

俊介は本当に受け止めた。


勢いを殺しきれず、二人で砂の上に転がった。

俊介は背中を打ったらしく「いって」と言ったが、すぐに笑い出した。


「ほらな。受け止めただろ」


直人は泣きそうで、笑いそうで、どうしていいか分からなかった。


「痛くない?」

「痛い」


「ごめん」


「いい。もう一回やるか」

「やらない」


「なんでだよ」

「怖い」


「でも落ちたじゃん」

「俊介がいたから」


そう言うと、俊介は一瞬黙った。


それから、照れたように鼻の下をこすった。


「じゃあ、次も俺がいる」


直人は、その言葉をずっと覚えている。


****


電車が小さな駅に停まった。


乗っていた人が何人か降り、車内が少し静かになる。

直人は窓の外を見た。


山が近い。

川が線路と並んで流れている。

水面が朝の光を受けて、白くちらちら光っていた。


俊介と川で遊んだ日のことも、鮮やかに思い出せる。


夏の朝、俊介は駄菓子屋の「まるや」でソーダアイスを買った。

まるやは、本町通りの端にあった小さな店だ。


ガラスケースにはアイスが入っていて、壁にはくじ付きの菓子がぶら下がっていた。

店番のおばあさんは、俊介を見るといつも「また川かい」と笑った。


「また川」


俊介はそう答えて、アイスを二本買った。


一本を直人に渡す。


「俺、お金」

「いい。今度なんか奢れ」


「何を」

「分かんねぇ。店でも出せば?」


その頃の直人は、店をやりたいとよく言っていた。

可愛いものや、きれいな小物や、甘い匂いのする場所が好きだった。


まるやの狭い棚も、朝川駅前の小さな喫茶店も、直人には宝箱みたいに見えた。


アイスを食べながら、直人は俊介に聞いた。


「俺がいつかお店屋さんを開いたら、俊介は買いに来てくれる?」


俊介は、口の周りを青くしながら、何を当たり前のことを聞くんだという顔をした。


「行く」

「ほんと?」


「うん」


直人は嬉しくなった。


けれど、俊介はそこで終わらなかった。


「だったら俺も一緒にやる」

「え」


「その方がいつでも食えるだろ」


俊介はソーダアイスをかじりながら、いい笑顔で言った。


直人は、その顔を見て、胸が変になった。


それはたぶん、恋という言葉を知る前の恋だった。


好きな人が、自分の夢の中に当たり前みたいに入ってきた。

その瞬間、自分の夢が急に大きくなった。


自分一人のものではなく、俊介と二人で持つものになった。


直人は小さく聞いた。


「一緒にやってくれるの?」

「やるって言ってんじゃん」


「でも、俊介、飽きそう」

「飽きねぇよ。直人がいるし」


俊介は、何でもない顔でそう言った。


直人は、アイスの冷たさよりも、顔の熱さの方が気になった。


それから、直人にとって「いつか店を開く」は「いつか俊介と店をやる」になった。


ただの子供の夢だった。


けれど、その夢があったから、東京に出ても頑張れた。

会社でうまくいかない日も、帰り道に小さなカフェを見つけては、いつか自分もと思えた。


雑貨店をのぞいて、棚の並べ方を覚えた。

コーヒーの淹れ方を習った。

開業の資金を貯めた。


俊介に話したら、どんな顔をするだろう。


直人は何度も想像した。


呆れるか。


笑うか。


怒るか。


それとも、あの時と同じように「やる」と言うか。


****


電車がまたトンネルに入る。


暗い窓に、自分の顔が映った。


直人は、その顔に向かって小さく息を吐いた。


「言えるかな」


答えは返ってこない。


言うしかない。


今日の夜、居酒屋「山路」で俊介に会う。

酒を飲んで、近況を話して、頃合いを見て切り出す。


会社を辞めた。

店を始めた。


お前に見せたかった。

できれば、一緒にやってほしい。


頭の中で何度も練習しているのに、実際に俊介の顔を見たら、全部飛ぶ気がした。


それくらい、直人の中の俊介は強い。


ただの幼馴染では済まない。


初恋という言葉でも足りない。


俊介は、直人が外へ出る時、いつも先に手を伸ばしていた人だった。


けれど、思春期になると、その手の意味は少しずつ変わった。


夏祭りの夜。


朝川神社の境内には、屋台の匂いと人の声が詰まっていた。

綿あめ、焼きそば、金魚すくい。


俊介は射的で変なキーホルダーを取って、直人に押し付けた。


「いらない」

「取ったからやる」


「なんで俺」

「持ってろ」


「命令?」

「うん」


直人は文句を言いながら、そのキーホルダーをポケットに入れた。


祭りの終わりかけ、人の少ない裏手を二人で歩いた。

そこで、木陰に隠れるように抱き合っている恋人たちを見てしまった。


何かがはっきり見えたわけではない。ただ、近すぎる距離と、触れ方と、声を潜める空気が、子供だった直人には強すぎた。


直人は慌てて目を逸らした。


俊介も見ていた。


二人とも、しばらく黙った。


やがて俊介が、少し背伸びしたような顔で言った。


「ああいうのって、大人になって、好きな奴同士でするんだろ」


直人は、胸がどきどきして返事ができなかった。


俊介は直人の手を握った。


いつものように乱暴ではなかった。

少しだけぎこちない握り方だった。


「じゃあ俺は、大人になったらお前を一番大事にする」


直人は、俊介を見た。


俊介の耳が少し赤かった。


「他の奴には渡さねぇ」


子供っぽい独占だった。


意味を全部分かって言っていたわけではないと思う。

直人だって分かっていなかった。


ただ、俊介が自分を特別だと言ったことだけは分かった。


直人は、小さく答えた。


「俺も、俊介が好き」


俊介は、ほっとしたように笑った。


「じゃあ決まり」

「何が」


「決まりは決まり」

「適当」


「指切りしろ」


二人は朝川神社の裏で指切りをした。


屋台の音が遠くから聞こえていた。


夏の匂いがした。


その約束は、幼いものだった。

大人の恋の形を分かっていたわけではない。


けれど直人にとっては、忘れられない初恋の原点になった。


中学に上がる頃、直人は東京へ引っ越した。


別れの日、朝川駅のホームで、俊介はいつも通り偉そうに立っていた。


「泣くなよ」

「泣いてない」


「泣きそう」

「俊介こそ」


「俺は泣かねぇよ」


俊介はそう言いながら、少しだけ目を逸らした。


直人は、何か言いたかった。


好きだと言いたかったのかもしれない。

忘れないでと言いたかったのかもしれない。

待っていてと言いたかったのかもしれない。


でも、言えなかった。


電車のドアが開く。


直人が乗り込むと、俊介は窓の外から言った。


「連絡しろよ」

「うん」


「絶対な」

「うん」


「あと、店やるなら言えよ」


直人は驚いた。


俊介は照れたように眉を寄せた。


「俺もやるから」


電車が動き出した。


直人は窓に張りついた。

俊介はホームを少しだけ走った。


すぐに追いつけなくなって、立ち止まる。

けれど、最後まで手を振っていた。


直人も、見えなくなるまで手を振った。


その日から、直人はずっと俊介に連絡を取り続けた。


学校が変わったこと。


東京の人の多さ。


初めて一人で入った喫茶店。


会社に入ったこと。


仕事がきついこと。


俊介も返してくれた。


地元のこと。


進学のこと。


留学のこと。


ヨーロッパの街のこと。


知らない言葉のこと。


石畳で転びかけたこと。


直人は、俊介の送ってくる写真を見るのが好きだった。

遠い場所にいる俊介が、同じ画面の中にいる。

それだけで、会えなくてもつながっている気がした。


けれど、写真の中の俊介は少しずつ大人になっていった。


直人の知らない友人。


直人の知らない街。


直人の知らない時間。


それは当然のことなのに、時々、胸がちくりとした。


それでも直人は、俊介に店のことを言わなかった。


言わなかったというより、言えなかった。


自分の店を開くまでは言えない。

形になってから見せたい。

俊介が「すげぇ」と笑う顔を、画面越しではなく、目の前で見たかった。


そのために頑張った。


会社を辞めるのは怖かった。

開業準備は想像よりずっと面倒だった。


資金は減るし、物件は決まらないし、メニューは迷うし、仕入れ先とのやり取りは慣れない。

開店してからも、客が来ない日は胃が冷えた。


それでも、俊介に見せたい場所があると思うと、踏ん張れた。


直人は、鞄の中に入れた店の小さなショップカードを思い出した。


雑貨と珈琲「日なたの小箱」。


住所と営業時間だけが入った、シンプルなカード。


俊介に渡すつもりだった。


****


電車内のアナウンスが、次の乗り換え駅を告げた。


直人は鞄を持ち直して立ち上がった。

車内の揺れに合わせて、吊り革が小さく揺れている。


乗り換えのホームは、東京よりずっと空いていた。売店の前に地元の菓子が並び、窓の外には山が見える。


次の電車は、もっと本数が少ない。


直人はホームのベンチに座り、スマホを開いた。


俊介にメッセージを送る。


『今、乗り換えた。昼過ぎには朝川着く』


すぐに既読はつかなかった。


俊介は移動中かもしれない。

実家の手伝いをしているのかもしれない。


あるいは、まだ寝ているのかもしれない。

子供の頃の俊介は朝が強かったが、大人になってからは分からない。


直人はスマホをしまいかけた。


その時、返信が来た。


『了解。迷子になんなよ』


直人はホームで一人、声を出しそうになった。


「ならないよ」


そう返信しようとして、やめる。


代わりに、短く打った。


『ならない』


すぐにまた返ってきた。


『昔はなっただろ』


直人は、思わず笑った。


覚えている。


俊介は、初めて会った日のことを覚えている。


スーパーまで連れていってくれたことも、直人が泣きそうだったことも、たぶん全部。


直人は返信した。


『あれは昔』


俊介から返る。


『今も怪しい』


「うるさいな」


呟きながらも、直人は笑ってしまう。


文字だけなのに、少し俊介が近くなった気がした。

あの頃みたいに、勝手に距離を詰めてくる。


からかってくる。

直人のことを、迷子になりかけた子供のまま覚えている。


それが悔しくて、嬉しい。


****


次の電車がホームに入ってきた。


直人は乗り込み、窓際の席に座った。

今度の電車は二両だった。


車内には地元の高校生らしい数人と、買い物帰りの年配の女性がいるだけだ。

発車すると、電車はゆっくり山の方へ進んだ。


景色が変わっていく。


田んぼ。


低い家。


川沿いの道。


遠くの山。


古い橋。


直人の記憶の中の朝川町に、少しずつ近づいていく。


胸が苦しいほど懐かしい。


同時に、少し怖い。


変わっていたらどうしよう。


変わっていなかったら、それはそれで苦しいかもしれない。


町も、俊介も、自分も。


全部が昔のままではない。


直人はもう、滑り台の上で泣きそうになっていた子供ではない。

東京で店を持つ大人になった。

俊介だって、留学を終えて帰ってくる大人だ。


それでも、心のどこかに、あの滑り台の感覚が残っている。


落ちるのは怖い。


でも、俊介のいる方へなら落ちてもいい。


電車が朝川駅へ近づく。


アナウンスが流れた。


直人は鞄を抱え、深く息を吸った。


ホームが見えてくる。


小さな駅舎。


古い屋根。


駅前のロータリー。


その向こうに、本町通りへ続く道。


何年ぶりかの朝川町が、窓の外に広がっていた。


ドアが開く。


直人はホームに降りた。


****


空気が、東京より少し冷たい。


山の匂いがする。


雨上がりの土と、川の水と、古い木の匂い。


直人はしばらく動けなかった。


懐かしい。


その一言では足りない。


胸の奥で、子供の頃の自分が、ひばり公園の滑り台の上から町を見下ろしている気がした。


直人はスマホを取り出した。


俊介にメッセージを送る。


『朝川着いた』


すぐに既読がつく。


そして、返信。


『おかえり』


直人は、その四文字を見つめた。


おかえり。


ただそれだけで、足元が少しぐらつく。


帰ってきた。


俊介のいる町に。


直人はスマホを握りしめ、息を吐いた。


今日の夜、居酒屋「山路」で会う。


それまでに、町を少し歩こう。


まるやを見に行ってもいい。


ひばり公園にも行ける。


けれど、今はまず、この町の空気を吸いたかった。


直人は改札へ向かった。


切符を通し、駅舎を出る。


朝川町の空は、東京よりずっと広かった。


その広さの下で、直人は鞄の中のショップカードをそっと確かめた。


雑貨と珈琲「日なたの小箱」。


俊介に渡すための、小さなカード。


「言う」


直人は、小さく声に出した。


「今日、ちゃんと言う」


誰も聞いていない。


それでも、口にすると少しだけ勇気が出た。


本町通りへ続く道を、直人は歩き出した。


足取りは軽いようで、少しぎこちない。


それでも、前へ進む。


昔は俊介に引っ張られて歩いた道を、今は自分の足で歩いていく。


そして夜になったら、俊介に会う。


直人は胸の奥にしまっていた夢を、もう一度だけ確かめた。


いつか店を開いたら、俊介は買いに来てくれるか。


だったら俺も一緒にやる。


あの言葉は、子供の約束だった。


けれど直人は、その約束を抱えて大人になった。


今日、その続きを話しに行く。


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