第三十七話 一歩
「よろしいんですか?」そっと『悪魔』が小声で話しかけてくる。
「いいかげんフェリクスって呼んでくださいませんか?」心の中を除いたらしい。
「わかったよ。で、何がだ?」
「彼女のことですよ。彼女は一人だったんです。ずっと。一人くらい傍にいてくれる人がいないと彼女、いつか壊れてしまうと思いますよ」
「あいにくと、俺は人間じゃないんでね」視点はノアに固定させたままに答える。
「ふ。そんなことが重要ですか? 初めてあの『扉』の前で会ったあなたは目的のためには手段を選ばなかった。……彼が亡くなって、あなたはすっかり臆病になった。臆病になったことは別に悪いことではありません。あなたは人の痛みに気付くことができるようになったのですから。でも傷つけ、傷つくことによってしか得られないこともあります。彼女と共にいて君は傷つき、彼女を傷つけては苦しむでしょう。ですが、それさえも愛おしく思える日が来るはずです」
「キャラ変わったな、あんた」
「愛しい、と思える女性に出会えたので」そっとフェリクスは微笑んだ。
……何歳差だよ。
「聞こえてますよ」
「あっそ」なんだかバカバカしくなってきた。
「じゃ、帰るか」
「私の話聞いてましたか?」
「……。考える時間くらいくれたっていいだろ」
「そうですね」フェリクスは安心したように笑った。
一人で『扉』を抜け、家に戻った。ノブを握り、回す。
「おかえり」玄関に入った途端、紅さんの声がした。
「紅さん。来てたんですね」俺は右足の靴を脱いでそろえた。
「ああ、あいつらは向こうに住むのか?」紅さんの入れる冷茶がグラスの中で氷を揺らし、小気味良い音が部屋に響く。
「そうみたいです。そのほうが居心地いいでしょうしね」俺は目の前のグラスを見つめた。
「明日、学校に行ってきます」紅さんが席に着くのを待って、入れてもらったお茶に口をつけると自分の考えを伝える。
「そうか」紅さんは少し眉を動かしただけだった。
「学校、やめようと思います」反応が怖くて、唾を飲み込んだ。
「そうか」今度は表情に変化はなかった。
「止めないんですね」安心半分、肩透かしを食らった気分半分だ。
「他人に振り回された人生がやっと終わったんだ。これからお前は自分の意志で生きるんだ。その最初の一歩を俺は阻んだりしないよ。でも、なんかあれば俺を頼れよ」
「はい。ありがとうございます」紅さんの控えめな気遣いがうれしかった。嬉しくて涙が出そうだった。




