寄り添いて
病院のガラス張りの正面玄関は当然の如く固く閉ざされているが、病院の奥深く、外からではそれとは容易にそれと分からぬ遺体搬送口の扉には誰の姿も無い。
「今の俺に似合いのシチュエーションだな……」
弘明は自分でも驚くほどの冷静さで事態を傍観していた。
(死地に赴く俺が、自らの足で自らの遺体を運び出す)
弘明はこの期に及んで自分の身を笑いの種にする己に苦笑した。
扉を開いた深夜の病院裏は驚くほど静かで、通路を照らす外灯が暗闇に丸い輪を描き出してそこだけ結界を張ったような光景を産み出している。
気温は低くも無いのに。
感じる肌寒さに、カッターシャツの襟を立てた弘明はおもむろに学校に向かって歩を運び出した。
夜の闇か霧の闇か、一面の闇の中では見える筈も無い懐かしい校舎のシルエットが、浮かび上がって来た。点在する街灯の、僅かな光の空間を辿るように向かう校庭側の頭上に蠢く邪悪な気配に、弘明の肩甲骨が反応を示す。
感じたのは痛みだった。
誰の痛みだろう?
何の痛みだろう?
導かれるように校庭に足を運びながら、弘明は不思議なビジョンを見ていた。
「どうしたの?」
弘明の脳裏は見慣れぬ女性の姿を捉えていた。
「息子さんの事が心配なの?」
親指と中指でグラスをつまみ、流し目でこちらを見やる女性の姿に弘明は思う。
「父さんには似合わないな……」
思いながら、弘明は今自分は父の眼を通して父の世界を見ているのだと気付いた。
「街を出ると言っていた」
喋っているのが自分ではなく父の口だと感じて弘明は複雑な心情に囚われる。
「此処に来るの?」
格別心配する風でも無く軽い口ぶりで呟く女性に。
「やっぱり父さんには似合わないよ」
口に出して弘明は、父にか、自分にか問いかける。
父さんの隣に似合うのは……。
脳裏の端に垣間見えた後姿の母の陰影に弘明は胸の痛みを感じる。
(だったらなんで……)
校庭に続く校舎の角に手を掛けて、今度は意識して母の顔を思い出す。
刹那、青い空の下に無数のビル群を敷き詰めた高層ビルからの眺めが父の見ていたビジョンに立ち替わった。
(どうせあの人は今頃……)
胸に染みる寂寥感が、今母の感じているそれだと思い当たって。弘明の胸の痛みがいや増す。
(だったらなんで……)
角を曲がった校庭に、渦巻く漆黒の霧と、それに抗って巨体を振り回す銀龍の姿を視界に捉えながら弘明はまるで別の事を考えていた。
父さんも母さんも生きるのがヘタだったんだ……。
今更のように思い至って弘明は満足げに微笑みを浮かべた。
生きるのがヘタな父と生きるのがヘタな母。
成程自分が生きるのがヘタなのは理にかなっている。
腹の底から込みあげる充足感に弘明はひきつけを起こしたように微笑む。
間違いない。
俺はあの父と母の子供。
眼前に聳える銀の死神に向かって歩を進めながら、弘明は今になって、生きる意味を、そして死の意味を噛みしめていた。




