涎
不思議な光景だった。
陽は沈み月明りとあえかな星の瞬きだけが照らす街は大きく霧に覆われ、その霧の中、仄かな灯りを放つ銀の竜と化した摩耶が校庭の中央、その巨大なとぐろの隙間からかつては摩耶の恋人で会った太一が灯す燐光を帯びて銀の鱗を煌めかせる。
山頂から溢れ出た霧は音もたてず、しかし空気を圧する威容を感じさせ、校庭の摩耶ににじりよってきた。
睥睨するように摩耶が周囲を見渡したのに反応して霧の中から無数の黒い翼が飛び立ち摩耶の銀の鱗に群がった。
如何な攻撃を加えているのか、硬い鱗に守られているはずの摩耶のとぐろのそこここから滲みだす体液。
痛みとも痒みとも例えられぬ感覚に巨竜摩耶は身悶えする。
咆哮と共に咢を振り回し、群がる翼を薙ぎ払うが、払う数にも増して更に群がる黒い翼。その数は減るどころか寧ろ払う度に密度を増し、幾重にも重なる翼の波となって銀の竜をその波に呑み込まんと暴れる。
音もたてぬ霧に覆われた街の虚無の中、月明りの下で繰り広げられる死闘、黒い翼の羽音と巨竜摩耶の咆哮だけが響き渡り、遠い霧の外の住民たちの神経を逆なでる。
「不思議です」
放水車のハンドルを握った自衛官が後ろの車長に伝える。
「霧は立ち込めてはいますが、密度も薄く、怪物の姿がまるで見えません」
「ただ、霧は明らかに一定方向に向かって流れているようです」
放水ノズルを構えた砲手も、車体上部各所に据えられたサーチライトが照らす周囲の状況に得体の知れぬ不安を覚えた。
視界にある霧にこれまで見たような肌に感じる危険の匂いが感じられない。
妙な話だが、敵意がこちらを向いていない、といった感じなのだ。
「こいつらは何処を目掛けているのか、何を喰らおうとしているのか」
覗き窓から外を観察した車長は身震いする。
「どうしますか?」
操縦者の問いかけに車長が答える。
「霧の流れに乗って様子を見よう」
後方に連なる放水車を引き連れて対ミスト用特攻車両の車列は黒い街を高校の敷地に向かってのろのろと進軍を開始した。




