苦悩
「疲れてるんだよ」
赤子を返そうと振り向いた摩耶は、シーツを被った美咲に戸惑っていた。
摩耶に近づいて両手を伸ばし子供を受け取る潤。
出来る事なら今暫く子供を抱かせていてやりたかったが、太一の予言?が次なる事態の展開を匂わせて潤に心の余裕を与えてくれない。
今や、校内で見せていたはすっぱな印象も無く、かといって霧の襲来から生き延びて来た時に見せた逞しさも見えず、穏やかな表情で自らの腹部をさする摩耶の姿に、潤はこの後自分が成すべき行為に思いを馳せて小さく身震いする。
「摩耶さ、太一のどこが良かったの?」
摩耶を誘い廊下へ出た潤は、廊下にしつらえられたベンチに腰掛けると隣に座った摩耶に赤子を差し出す。
一瞬戸惑った素振りを見せた摩耶だが、すぐに満面の笑みを浮かべて子供を受け取った。
傍から見れば授かった我が子を愛でる若夫婦にも見えたかもしれない。二人とも制服だったからそう見えてはそれはそれで問題の有る光景だったろうが。
室内では事の成り行きを理解した美咲が泣いているだろうに、申し訳ない気持ちもありながら、この後地獄を見なければならない摩耶にひとときでも幸せな時間を体験してもらいたかったのだ。
「何処がとか言われても上手く説明出来ないよ」
言いながら摩耶は人形の様に小さな赤子の手を愛おしそうに自分の手で包む。
背中を丸めて、己が身で赤子を包み込もうとするかのような摩耶の姿に、太一の姿が重なって潤の涙腺を責め立てる。
摩耶につまらない質問をしたが、そもそも潤も摩耶に美咲との馴れ初めを語る術も無いのだ。
文字通り降って湧いたかのような霧の出現に、それに呼応するかのように潤達の身に起きた異変。
全てが唐突で激烈。身構える余裕も与えぬ津波の様な現実に、怯え慌てふためきながら。それぞれの内に目覚めて、情け容赦なく恐れも怯みも噛み砕いて未知の怪物共に牙を剥かんと荒ぶる本能に、身体も意志も呑み込まれて、猛々しさだけが増幅する我が身に打ち震える潤。
子供の名前を考えていなかった。
赤子を抱く摩耶の姿を眺めて潤はふと思いつく。
事態の進展が急すぎて、父親になった実感も無いのだ、子供の名前を考えなくてはならないなど今の今まで思いつきもしなかったことに気付き潤は狼狽える。
意識もせずに赤子の頬に伸ばした手が子供を抱く摩耶の指先に重なる。
瞬間、静電気とも違う微かな感覚が指先を通じて潤に何かを伝える。
摩耶の指が潤の手の下に潜り込んでくる。
返した潤の手の甲は赤子の頬の温もりを、手のひらは摩耶の手を握って、さらさらした赤子の頬の感触とはまた違う湿りを帯びた温もりを手のひらに伝える。
上げた視線が摩耶の瞳と重なり潤の背中に得も言われぬ妙な感覚を呼び起こす。
一瞬の沈黙の後摩耶が悪戯っぽい笑みを浮かべて潤に問う。
「したいの?こんな時に」
慌てて大きく首を横に振る潤。
だが確かにそれに近い感覚を覚えていることも否定できない。
なんなのだこの感覚は、校舎内で霧と遭遇してからこのかた、身体の内に時折沸き起こる自分ではない何者かの感覚。
人としての理性は、死地に赴いた太一と、残された摩耶を思い苦悩しているというのに。
内なる何かはそんなことはお構いなしに本能のまま猛々しく荒ぶっている。
血が疼いている。
その事実に潤は再び戦慄する。
太一ほどではないにせよ、身体は何かを感知している。
潤の様子に摩耶が潤の手を強く握る。
「大丈夫?」
心配して潤の顔を覗き込む摩耶に潤は青ざめた笑みを返す。
「大丈夫、子供の名前考えてなかったの思い出してさ」
潤の返事に安心したように摩耶が笑みを返す。
「急だったもんね。そういえばあたし達もそうだ!」
言って弾ける摩耶の笑顔が潤には痛い。
「太一とあたしの子供かあ、ねえどんな名前がいいと思う?」
満面の笑みを浮かべながら赤子の顔を見る摩耶の意識の中では、腕の中の赤子の姿と未だ体内に芽生えたばかりの我が子が重なってみえているのかもしれない。
「太一が帰ってきたらゆっくり相談しなくちゃなあ」
顔を上げて夢見るように語る摩耶の表情が潤の心をザクザクと抉る。




