奪還
今更バイク一台盗むのに大した躊躇は無い。
太一は商店街の片隅、霧に驚いて乗り捨てられたのか、キーを刺したままのカブに跨ると学校に向かう。
根拠があった訳では無い。正確には誰を狙っているのかまでは分からないが、状況から考えて霧が自分達を狙っているのは間違いない。
美咲が急を要する事態なのは確かだし。
今の自分に何が出来るか考えた太一は、潤を掴まえて言い置いた。
「俺はちょっと出て来る。お前は彼女についててやれよ」
「こんな時に外に…」
言いかける潤に太一が笑顔で答える。
「こんな時だからこそついててやれよ。お前親父になるんだろ?」
太一の言葉に今更のようにその事に思いを至らせる潤。
「状況が状況だけどよ」
僅かに悔しさを滲ませて続ける太一。
「初めての出産は心細いもんだって言うぜ」
学業にはおよそ熱心とは言えない太一だが、生活力は旺盛。
そういう知識は達者だ。
病院に到着するや入り口にワンボックスを横付けし、率先してドアに飛び込むと迷惑顧みず喚いた太一。
「産まれそうなんだ!早く!早く来てくれ!」
太一の粗雑さがこうも有り難いとは潤も意外だった。
ストレッチャーで運ばれる美咲を差して潤を促す太一。
ストレッチャーに寄り添う摩耶が向けた視線に力強く頷くと太一は踵を返して外に駆けだした。
「せめて美咲が出産を終えるまで、霧の注意を引きつけておければ」
誰に言っているのか、投げ捨てるように言って飛び出して来たのだ。
学校まであとわずか。
摩耶と一息ついたバス停に差し掛かった時。
太一の脳裏に閃光が走った。
「そこだ!」
閃光が教える。
後輪をロックさせ、バス停に前輪を向けて止まる。
太一の視線の先、バス停のベンチに腰掛ける小学生と見受けられる少年。
赤子を抱いている。
太一の右手が勝手に動いた。ありたけ手前にひねられた手首に呼応してカブの細い車輪が煙を上げた。
順子が車の中で言っていた赤ん坊と少年の話し。
どちらも太一には面識は無かったが目の前の二人がその二人だと確信する。
膝で車体を挟めぬカブではニーグリップは使えない。尻を限界まで後ろにずらし、荷台に尻をついてシートを膝で挟む。
当然上体は前に思いっきり伸ばし、右手一本でハンドルを支える。
アクセルは全開にしたまま少年の横のベンチに突っ込む。
前輪が少年横のプラスチックベンチに接触する寸前、大きく振りかざした左の拳を少年の顔面に叩きこもうとした太一の目の前で少年の口が大きく裂け太一の拳を呑み込もうと開く。
カブの前輪がベンチにめり込むのと、太一の左足が少年の腰を蹴り飛ばすのと、太一の左腕が振りかざした位置から下に潜り込み、赤子を攫うのが同時だった。
「やった!」
太一は快哉を叫んだ。
姑息な手段が霧相手に通用するとは思わなかったが。
左手に抱えた乳児がむずかっていたが、器用に抱えて病院に向かう太一。
高揚している太一はこの時自分の脇腹にわずかに血が滲んでいることに気付いていなかった。