言い訳
少年の事を考えていた。
ふかふかの布団にくるまれて寝息を立てる我が子。
実の父親はこの子の存在を認めようとしなかった。
妊娠の兆候を伝えた時の彼の反応が蘇る。
自分達の関係がいわゆる不倫と呼ばれる関係で有る事は承知していたし、手放しで喜んでもらえると思っていた訳ではない。
それでもあの男の言葉は明美を切り捨てた。
「DNA鑑定を…」
周囲の目に怯えつつ、それでも自分達の想いは一途だと言い聞かせて来た明美の心を、あの男は躊躇もせずに切り刻んだのだ。
再び我が子の寝顔に目を落として、今頃湯に浸かっているだろう少年の顔を思い浮かべる。
路上で声を掛けられた時には何処かいかがわしさも感じさせた少年。
だがその後の人が変わったような献身的な態度。
自分にとっては見ず知らずのこの子を厭う事無くあやしてくれた。
ついこの間までは平和だった日常が、例えようもない寂莫感を伴って思い出され、明美の心を絞めつける。
無意識に己が乳房をきつく掴み、その痛さに何故か慰められる。
バスローブに身を包みダイニングに入った弘明は、テーブルに、冷蔵庫から出して来たのだろう総菜が幾つか並べられ、スーパーから持ち帰ったパンもいくつか出されているのを見つける。
「温めただけだけど」
微笑む明美がまだバスローブのままなのが驚きだったが、確かに空腹を覚えてもいた弘明は躊躇わず席に着く。
既に取り皿とナイフ、フォークは並べられており、一応のテーブルマナーは弁えているらしい明美に弘明は感心したような眼を向ける。
身繕いまでは気が回らないのかほつれ毛もそのまま。
「時間も準備も何も無いから、ほんとの有り合わせだけだね」
自嘲するように言う。
「とんでもない」
反射的に弘明は答える。
「いつもここで一人で只栄養補給の為だけの食事してるんですよ」
甲斐甲斐しく小皿を二人の前に並べる明美に苦笑を返す。
母親以外、女性の肌など見る事が無かった弘明は、バスローブの衿から覗くうなじ、裾から覗くふくらはぎに思わず視線が釘付け。
自分の視線に気付き視線をテーブル上に戻す弘明の前に明美がグラスを置く。
「咎める人も居ないんだし……」
言ってグラスに透明の液体を少量注ぐ。
「あたしは子供の事考えてミルクに垂らすだけにするけど」
悪戯っぽく笑ってボトルを置いて席に戻る。
取り皿に明美が出してくれたスモークサーモン、ローストビーフを取り、ボールに山盛りのポテトサラダを大きなスプーンで自分の取り皿に盛って弘明は気付く。
ポテトサラダなんて冷蔵庫には無かったはずだし、スーパーから持ち帰った総菜の中にも無かった。
自分が入浴している僅かの間にこれだけの食事の用意を済ませていたのか。
総菜を取る明美の姿を目で追いながら手際の良さに関心する。
一方の明美にしてみれば、あの男と付き合って居た頃、人目を忍んで自分のマンションで何度となく繰り返して来たことだ。
今となっては苦いだけの記憶の筈なのだが、今は何故か不快に感じることなく食事の準備を楽しめていた。
どうしてだろう?
耐熱ガラスのグラスに注いだホットミルクに見るからに高そうなカルーアリキュールを垂らす。
グラスに口をつけようとして少年と目が合う。
自然顔が綻び、口にしたカルーアミルクの暖かさと甘さに身体が温められる。
横目に見える少年が、恐らく初めて口にするのだろう、ウォッカにむせて明美の顔に綻びを呼ぶ。
ミルクにくるまれたリキュールが喉を通り身体に染みわたるのを感じながら、明美は自分に言い訳を始める。
男を失った。
あの子は父を失った。
平和な日常は霧に奪われた。
こんなあたしが少しぐらい取り戻すことを望んでも許されるよね。
自分に言い聞かせる。
スモークサーモンの塩気にも助けられて、明美は今夜だけは少し酔おうと決めた。




