誕生
小指を握られていた。
暖かい眠りから目覚めた弘明は、視線の先にある自分の右手の小指を握りしめる人形の様な可愛い指の温もりに戸惑う。
まだぼんやりと夢見心地の弘明は、自由な左手を顔の前に差し出し、自分が正気で有る事を確かめ、手を下ろす。
下ろした左手が暖かいものに触れる。朧げな頭でまさぐれば、少し柔らかく丸いすべすべした物体。気が付けば右耳が柔らかく暖かいものに触れている。
「気持ちはわかるけどさ」
頭の上から降って来る、含み笑いを交えた女性の声に弘明の理性が跳ね起きる。
跳ね起きた拍子に赤子の手を振りほどいてしまい、泣き出す乳児。
跳ね起きた弘明の頭から見覚えの有るハンカチが膝に落ちる。
順子のハンカチだ。
「彼女なら行っちゃったわよ」
声の主を振り向けば、順子の隣に居た若い母親。
「彼女、誰かを探してたみたいね」
そう言って正座していた足を崩し、弘明の小指を握りしめていた赤子を抱き上げる。
母親の行動に、今の今まで彼女の膝枕に頭を預け、赤子に指を握られ左手が撫でていたのは彼女の膝だと自覚し、頭に血が上る。。
だが不思議に身体が温まるばかりで、先程感じていた羞恥も、眩暈も感じない。
「すみません、みっともない所をお見せしました」
頭を下げる弘明に、余裕の笑みを返してみせる母親。
「気にしない気にしない」
屈託なく笑って母親は赤子を横抱きにする。
「あたし明美、新藤明美。よろしくね」
言って明美はカーディガンの前を開く。
明美の動きに、察した弘明が大慌てて顔を背ける。
「ごめんごめん」
姿勢を少しずらし僅かに弘明に背を向ける。
「あたしもまだまだ母親としての自覚が足りないのね」
苦笑する明美の、うなじから背中への曲線が美しいと見惚れて、弘明は自分のその感覚に驚く。
これまで女性をそんな感覚で見た事は覚えが無い。
何故今、そんな感覚が自分の中に産まれたのか。
順子は行ってしまった。
彼女を足掛かりに霧の正体を探ろうと、疚しさ満載で居たはずの弘明は、不思議とその事実に無念さも無く、残念だとも思わなかった。
改めて周囲を見回して、自分達が半壊したスーパーマーケットの倉庫の屋根の下の荷置き用の木製パレットの上に居た事に今更のように気付く。
不意に立ち上がって弘明は自分のその行動に驚きつつも歩み出しかけて明美を振り向く。
「飲み物取ってこようと思うんですけど、何か入用の物有ります?」
「う~ん」
考えあぐねる明美に、弘明が水を向ける。
「流石にアルコールはまずいですよね?」
「君が呑むの?」
明美の問いに弘明は肩を竦めてみせる。
「僕まだ未成年なんで」
「僕?」
弘明の答えに、明美の笑顔が弾ける。
倉庫から店内に通じる通路を歩きながら、弘明は今しがた明美と交わした会話の内容に驚いていた。
いつの間にあんな軽口を覚えたんだろう俺は。
乳児を抱える母親にアルコールが御法度なのは、保体で女子向け授業を受けていない男子の弘明でもわかる。
分かっていてそれを口に出し、相手の嘲笑を誘う。
家族を除けば校内で生徒、教諭ぐらいしか女性と話すことの無かった自分。
何処であんな手管を覚えたのか自分でもわからない。
店内は当然の如く無人。
霧の晴れた表通りには人影も覗くが、まだ惨状にうろたえるばかりで、壊れたスーパーになぞ見向きもしない。
もう少し落ち着けば日常物資の調達にも気が回り、無人のマーケットなど不届きな輩の溜まり場にもなりかねないが、弘明たちにとって幸いに、明美親子と自分の他には誰も居ない事に取り敢えず弘明は胸を撫でおろす。
だが、外の人々は何処へ行ったのだろう。
霧が濃くて、あの場にどれほどの人が居たのか定かではないが、弘明の周囲を行き来する人影だけでも結構居た気がする。
陳列棚を眺めるうち、トイレットペーパーの並ぶコーナーの奥に紙おむつや粉ミルクの並ぶ一角が有る事に気付く。
思い起こせば何度も来た事のある店だが、こんなコーナーがあるなど今の今まで気づかなかった。
何度も訪れていながら何故覚えていない。
これまで気にも留めなかった乳幼児製品に目が行く自分。
胸に起こる見知らぬ感覚。
小指が小さな感覚を呼び起こす。
「母乳与えていたし、粉ミルクはいらないな…」
ひとりごちてショッピングカートを押してカゴにバナナの房を放り込む。
弘明は、まだ自分の内に産まれた新たな弘明の存在を自覚出来ていない。




