晴れ間の確信
胸に抱いた赤子は不思議と大人しい。
霧が薄れた道路を人々と歩きながら、順子は並んで歩く若い母親に目を向ける。
良平がまだ霧の残る階下へと降りて行った後、どれほどの時間が過ぎたのかは順子も定かでは無かったのだが。
「霧が引き始めてるみたいだ」声を上げたエスカレーター近くの男の声に順子も周囲の人々も動き始めたのだ。
もそもそと動き始めた人々の中から順子に近づく女性が居た。
女性は順子の前に膝をつくと、抱いていた乳児を順子に差し出し言った。
「ちょっと抱いてて」
微笑んで言う女性に促されて順子は抱いている何処の家の子かも分からぬ乳児と並べてその子を抱く。
見た所順子が抱いている子供と同じような感じ。
まだ半年も経つか経たないかに見える。
「あたしも初産でさ」
はにかむように語る女性はどう見ても30前。
「あなたも若いのに大変だね」
まだポニーテールの順子を見て、完全に勘違いをしているようだが、説明するのも大変だし。第一説明して素直に受け止めて貰えるとも思えない話なので、順子は曖昧な笑みを浮かべてその場をやり過ごした。
女性は子供を順子に渡すと、身に着けていたリュックに似たものを脱ぎ始めた。
「よく見ててね」
念を押すように言ってゆっくり脱いでみせると、脱いだばかりのそれをゆっくり着て見せる。
女性の行動に、順子も女性が何をしようとしているのか想像出来た。
ポニーテールで、見るからに学生の自分が赤子に母乳を与える姿が周囲の人間にどんな印象を与えるか。
ましてや自分が初めての子供を持ったばかりの母親ともなれば。
脱いだそれを順子の前に置くと手を拡げて順子に預けた我が子を受け取り、更に順子が抱いていた子供にも両手を差し伸べる。
「あたしが抱いてるからベビーベルトしちゃって」
明らかに大きな誤解をされていることが解りながら、遠慮すれば又説明が大変なことがわかるので言われるまま肩ベルトに手を通した。
結局順子は彼女がしていたベビーベルトを譲り受け、若い母親はバッグから取り出した抱っこ紐で器用に我が子を胸に抱いて、今二人並んで、何故か霧が薄らいでいる街の一角を霧の外目指して歩いているのだ。
若い母親は順子が抱えた子供について何も聞かなかった。
「病院裏にあるマンションに居たんだけどさー」
未曾有の事態が目の前に展開しているというのに若い母親は何処か朗らか。
若い母親の態度に違和感を覚えながらも、誰の子とも解らぬ赤子を委ねられ、この事態に唯一の拠り所だった良平にも去られて、内心途方に暮れていた順子は、新しい連れに励まされていたのも確か。
「可愛い赤ちゃんですね」
感謝の気持ちを少しでも伝えようと順子の口から言葉がついて出る。
「ありがとう」
答えた母親は笑顔で返すが、わずかに寂しさも覗かせる笑顔だ。
「その子のお父さん、どんな人なのかな」
呟いた母親が慌てて言葉を続ける。
「御免、何でもないの、忘れて」
母親の動転した様子に順子は訝しさを感じた。
正直、子供の親は恐らくもう生きてはいないのだろうし、答えようがない質問に、母親の返答はありがたかったのだが。
「この子の父親、ね」
一拍置いて母親は続ける。
「会社の上司なんだ」
言う母親の表情は決して嬉しそうでは無い。
「出来た時、彼に望まれなくてさ」
生き延びれるかもわからないこの状況で、出会ったばかりの女子高生にそんな話をする若い母親。
その言い草にいわゆる道ならぬ恋だったのだと順子にも知れた。
その若い母親の言葉に順子は運命を感じる。
何故この母親が自分に声を掛けたのか。何故彼女が見ず知らずの女子高生に優しくしたのか。勘違いしていたのは彼女ではない。自分の方だった。
怯えていたのは彼女の方。
心細かったのは彼女の方。
恐らく癒されたのは彼女の方。
自我を目覚め差す前に親を失った腕の中の乳飲み子と、生まれる前に父を失った乳飲み子。
「生き延びられますよ」
口をついて出た自分の言葉に驚く順子。
迷うことなく、自身たっぷりな己の言葉に後から確信が追いかけて来る。
何故だろう?根拠など何も思いつかず、頼るべき身よりも見当たらないこの状況で何が自分にこんな言葉を言わせているのか。
「生き延びられますよ」
繰り返して、隣の若い母親に微笑みかけ足を前に踏み出す。
乳が張る。休憩出来たらおっぱいあげなくちゃ。
何の違和感も無くそう思って、順子は自分で苦笑する。
まだ笑える。私は大丈夫だ。順子はそう思う。




