episode.08「夏の終わりと、小さくない未練」
自宅へと帰り、リビングのふかふかとした柔らかいソファにばたりと全身を倒れ込むと同時に、手の中でスマートフォンがピリリと短く慌ただしく震えた。画面を確認しなくても、受話器の向こうからゆうちゃんのせきたてるような勢いのある声がもう聞こえてくる気がする。案の定、通話をつなぐと開口一番に、大きな声で容赦なく尋ねられた。
「で、どうだった?ちゃんと彼と、ちゃんとしっかりお話できたわけ?」
「うん……なんだかんだで、三十分くらい、あの木陰のベンチでいろいろ話したよ」
「いい感じじゃん! 肝心の連絡先はちゃんと聞いたの?」
「それがさ、聞くタイミングがなくて……」
「なんでよ!? せっかくの最後のチャンスだったのに、連絡先くらいどうしてしっかり交換してこなかったのよ!」
「だって、地元の友達と飲みに行くって言って、相手からの連絡が来たらもうすぐに行っちゃったんだもん……」
「そこはさぁ、『私も一緒に行っていいですか?』って、少しぐらい厚かましくグイッと行くところでしょーが!!!」
電話の向こうでゆうちゃんが地団駄を踏んで頭を抱えている様子が、ありありと目に浮かぶようだった。大きくため息をついたあと、彼女は少しだけ声のトーンを優しくして、励ますように言った。
「……もう、終わっちゃったことはしゃあない! よしよし、そんなにいつまでも落ち込まないの。じゃあ、今度の週末は女二人で、盛大にパーッと花火大会に繰り出すよ!」
「うん……でも、なんか美味しいものでも奢ってよね……」
「もー贅沢言わないの! 私だって今年の夏も彼氏いない歴を順調に更新中なんだからねー!」
こんな風に落ち込んでいる私を気遣って、いつもふざけながらも温かく寄り添ってくれるゆうちゃんの優しさに、私は胸が熱くなって、本当に泣きそうになった。
「ありがとね、ゆうちゃん。本当に救われるよ」
「ん。じゃあ、週末は気合入れて楽しみにしてるから、可愛い浴衣でも準備しといてね」
他愛のない電話を終えると、私はスマートフォンをベッドの上へ放り投げ、白い天井のシミをぼんやりと見上げた。部屋の中に静けさが戻ると、さっきまで彼と木陰で交わした言葉や笑顔の断片が、まるで波のように次から次へと頭の中に押し寄せてくる。
翌日。頭では「もう研修も終わったし、終わったことなんだ」と分かっているのに、もしかしたらという小さな、あまりにも虫のいい期待を捨てきれずに、私はなぜか美術館の周りをふらふらと歩いてしまった。開館前の誰もいない庭園、あの日の二人並んだ木陰のベンチ。誰もいない静まり返った空間を眺めては、大きいため息をつく。
――なんであの時、あと一歩だけ勇気を出せなかったのだろう。
――なんであの時、自分から「花火、一緒に行きたい」って言葉にできなかったんだろう。
――もしあの時、私が違う言葉を選んでいたら、今の私たちは少し変わっていただろうか。
「なんで」「もしも」という後悔の言葉が頭の中をぐるぐるとなんども回り続け、私の心をどこまでも重く沈めていった。
そして、あっという間に迎えた、祭り当日。
私たちは色鮮やかな浴衣に身を包み、提灯の明かりが灯る夕暮れの街を並んで歩いていた。
「いいじゃんかえで、その浴衣。すごく似合ってるよ、可愛い!」
「ほんと? ありがとう。ゆうちゃんのその浴衣も、すごく華やかですごくかわいいよ」
お互いの姿を褒め合いながら、私たちは祭りの熱気と活気に包まれた人ごみの中へと足を踏み入れた。次から次へと押し寄せる人波の勢いに、もう抵抗する気力もなく、ただ周囲の流されるままに歩を進める。
「ねえ、なんか歩きすぎて疲れたし、あそこの屋台のかき氷がすごく美味しそうだから食べたい!」
「はいはい。何味が食べたいの?」
「私はブルーハワイ!」
「おーおー、今のかえでの心のどんよりした青さと一緒かな?」
相変わらずの冗談交じりの調子で茶化してくるけれど、これが彼女なりの不器用な気遣いなのだと分かっているから、なんだか救われる思いだった。
私は無理やり作った笑顔を精一杯貼り付け、「そうよ! 私はこれを一気に冷たいまま飲み込んで、あの夏の思い出と一緒に何もかも忘れ去るの!」と、精一杯の強がりを言ってみせた。
二人でケラケラと笑いながら屋台の並ぶ通りを抜けていたときだった。ふと、数歩先にあるたこ焼き屋の長い行列に並ぶ、見覚えのある「彼」によく似た後ろ姿を、私の視界の端がふと捉えた。
すれ違いざまに、思わず首がそちらへと引っ張られそうになる。
――彼、花火なんて興味ないって言ってたもんね。そんなわけないわ。これはきっと、私の未練が作り出した幻覚だ。
そう自分に強く言い聞かせ、私は目をそらして、わざと前だけを真っ直ぐ向いて歩いた。
「おーい、かえで、こっちなら人も少なくてすごく見やすいんじゃない?」
ゆうちゃんに手を引かれてたどり着いた河川敷の土手に腰掛け、私たちは夜空を見上げる。
ドーン、と腹の底に重く響くような音とともに、夏の夜空に大輪の花火が次々と鮮やかに咲き誇る。そのきらびやかな光が周りの景色や人々の顔を照らし出すたび、私は――彼も今、このどこかの空の下で、同じ花火を見上げていてくれたらいいのにと、誰にも聞こえない小さな声で密かに祈っていた。
あれはもう遠い日の、未完成なまま終わってしまった記憶。
それでも、夏の終わりの夕暮れ時にふとした涼しい風が吹いたりすると、私の時間は決まってあの夏の一瞬へと引き戻される。まるで、昨日のことのように鮮やかに、切なく、今でも胸を優しく締め付けながら。




