episode.07「夕暮れのベンチと、言えなかった言葉」
あれから、ほんの少しだけ彼と言葉を交わせるようになった。授業の合間に階段や廊下ですれ違えば、恥ずかしそうに軽く会釈をしたり、重たい課題のプリントを後ろの席へ回すついでに「今回のレポート、めちゃくちゃ難しいよね」と小さく笑い合ったり。そんなあまりにもささやかで小さなやり取りさえも、当時の私にとっては砂漠で冷たい水を見つけたかのようにあまりにも貴重で、胸が激しく跳ねるような眩しい出来事だった。
けれど、時間は残酷なほどに驚くべき早さで過ぎ去っていく。あんなにも窮屈で、終わらないように長く感じられた一週間の研修は、瞬く間に最終日を迎えてしまっていた。
全てのプログラムが慌ただしく終わり、受講生たちはそれぞれの荷物をまとめて、早くも帰路の支度を始めている。
「ねえ、かえで。連絡先、本当に聞かなくて良いの? このまま何もしないで終わったら、絶対後悔するよ」
隣の席で自分の荷物を手際よくカバンに詰め込んでいたゆうちゃんが、私の耳元で心配そうにそっと囁く。その真っ直ぐな言葉に、胸の奥が激しく揺さぶられた。
頭では分かっている。今ここで勇気を出して連絡先を聞かなければ、二度と彼とは会えなくなるかもしれないということも。どうしよう、と迷い、足がすくんで動けないでいるうちに、彼はすでにいくつかの荷物を片手で持ち、足早に部屋を出ていこうとしていた。
――あぁ、このままじゃ、終わってしまう。
このまま彼を逃してしまえば、私の初めての恋は、あの最悪な「彼女、かわいいもんね」という嫉妬に満ちた言葉と、トゲのある可愛げのない態度だけを残して、不完全燃焼のまま終わってしまう。
言いようのない名残惜しさと焦りを何とか飲み込み、私も慌てて自分のバッグを掴んで部屋の外へと追いかけた。
美術館の緑豊かな庭に出ると、古い大木の木陰になったベンチに、彼がぽつんと一人で座っていた。スマートフォンをどこか退屈そうにいじりながら、誰かを待っている様子だ。
「……あ、あそこにいるじゃん。行ってきたら? 私、ちょっと忘れ物したかもしれないから、先に帰ってて」
私の後ろをついてきていたゆうちゃんが、私の背中を「いってこい!」とばかりにそっと優しく押し、それから空気を読むように鮮やかな手際でその場を去っていった。一人きりであとに残された私の心臓は、もうちぎれんばかりに激しく、うるさく鳴り響いている。
夕暮れ前の庭には、ヒグラシの「カナカナカナ……」という、どこか切なさを誘う寂しげな鳴き声が、そっと吹き抜ける初夏の風に乗って響き渡っていた。
私は震える足を必死に戒め、気づかれないように大きく息を整えながら、彼の元へと一歩一歩、芝生を踏みしめて歩み寄る。
「……あの、誰か、待ってるの?」
突然かけられた声に、彼はびくっと肩を大きく揺らして驚いたように顔を上げた。それが私だと確認すると、ふっと強張っていた肩の力が抜けたように、それからあの緩やかな目を細めて優しく微笑んだ。
「……うん、このあと、友達とここで待ち合わせして、一緒に飲みに行くことになってさ」
もしかして、あの大学の彫刻の女の子と一緒に、またどこかへ行ってしまうのではないか。そんな言い知れない不安が胸の奥をよぎり、私は思わず、慌てて口走っていた。
「あの、もしかして……同じ大学の、あの子と一緒に?」
「ううん、違うよ。そうじゃなくて、地元の中学からの昔からの友達と出かけるんだ」
――その言葉を聞いた瞬間、胸につかえていた重たい石が、ふっとどこかへ軽やかに降りていくのが分かった。自然と、自分の顔に安堵の色が浮かんでしまったかもしれない。
「そっか……。じゃあ、その友達が来るまで……少しだけ、話してもいい?」
私はこれ以上ないほど不自然になっていないか内心気にしながら、精一杯の笑顔を作って彼にそう提案した。
初夏の爽やかな風が、青々とした木々の隙間からきらきらと木漏れ日を地面に降り注ぎさせる。私たちは並んで古いベンチに腰掛け、お互いの通う大学のこと、課題の理不尽さ、そして今抱えている荒削りな将来への不安や、しょうもない愚痴をとりとめもなく語り合った。
腕時計の針を見れば、たった三十分ほどの短い時間だった。それでも、ずっと話し相手が欲しかった私にとって、彼とこうして何気ない言葉を交わせる時間は驚くほど心地よくて、このまま時が止まってしまえばいいのにと、本気で心の底から願った。西の空からゆっくりと傾いてきた夏の夕日が、私たちの影を芝生の上に長く、長く引き伸ばしていく。
「そういえば週末、近くの河川敷で大きな花火大会あるね」
「あー、そういえば、あるね」
「……渡辺くんは、見に行くの?」
「うーん、どうだろ……しばらく行ってないな。人もすごく多そうだし、わざわざ一人で行くのもね……」
本当は、自分から「もしよかったら、一緒に見に行かない?」と誘えばいいだけの話なのだ。そんな勇気をほんの少しだけ出せばいいことくらい、頭では分かっている。でも、私にはどうしても、プライドや恥ずかしさが邪魔をして、その一歩を踏み出すだけの勇気がどうしても持ち合わせなかった。
もし……もし彼から、「じゃあ、一緒にどう?」って誘ってくれるなら――。そんな淡い期待を、私は心のどこかで必死にすがり続けていた。
しかし、無情にも、その心地よい沈黙を切り裂くように、彼のポケットの中でスマートフォンが短く、鋭くブルッと震えた。
「……あ、もう着いたって連絡来たわ」
彼が画面を確認して顔を上げたその視線の先、美術館の敷地の入口あたりから、こちらに向かって大きく手を振る男性の姿が見えた。あつやだった。
「そっか。じゃあ、友達来たみたいだから……行かなきゃね」
「うん、一緒に待ってくれてありがとう」
私はこれ以上引き止めてはいけないと、必死に作り笑いを浮かべてその場に別れを告げた。彼もどこか気まずそうに、けれど同じくらい名残惜しそうな目をしながら「じゃあね」と手を振り返すと、待ち合わせる友人のもとへと駆け足で去っていく。
夏の終わりを告げるような、どこか涼しい風が、熱を持った私のほほを冷たく撫でた。
だんだんと小さくなっていく彼の後ろ姿を見送りながら、「じゃあね」――誰に届けるわけでもない、最後まで言えなかったその本当の言葉をぐっと飲み込んで、私は再び心の中で静かにつぶやいた。




