episode.06「背伸びした嫉妬と、手ぶらのタオル」
ある日の午後。彼が女の子が話しかけられていた。
普段はいつもどこか気だるげで、周囲との間に見えない壁を築くように一人で静かに過ごしていた彼が、誰かと楽しそうに、あんなふうに柔らかい笑顔を浮かべて言葉を交わしている姿を、私はその時初めて見た。
――いったい、二人はあんなに楽しそうに何を話しているのだろう。
胸の奥で名前のつけられない黒い感情が、じわじわと気泡を上げてふつふつと泡立つ。気になって、気になって、頭がどうにかなりそうだった。
彼がふと見せた、見知らぬ女の子に向ける柔らかくて少し照れくさそうな笑顔が、妙に目に焼き付いて離れない。
もしも私も、勇気を出して彼に話しかけたら、彼は私にもあんなふうに優しい顔を見せてくれるのだろうか。そんな、ありもしない「もしも」の仮定を頭の中で何度もぐるぐると巡らせては、勝手に一人でどん底まで落ち込んでいく。
そして、翌日。お昼の休憩時間が始まると、彼は例の女の子に声をかけられ、並んで研修室から出て行ってしまった。
「ねえ、どうする? ちょっとこっそり後をつけてみる?」
隣で私の落ち着かない様子をずっと窺っていたゆうちゃんが、面白がるような、でもどこか心配そうな目を向けて小声で尋ねる。
「えっ……? そんなの悪いよ……」
「だって、昨日からずっと気になって仕方なかったんでしょ?」
図星を真っ向から突かれて言葉に詰まったけれど、抑えきれない好奇心と、胸の奥を引っかき回すような嫉妬心に背中を押されるように、私は少しだけ迷った末に、観念したように黙って小さくうなずいた。
私たちは足音を極限まで殺して二人の後ろをそっと追いかけ、彼らが近くのこぢんまりとしたレストランへと入っていくのを確認した。
少し離れた物陰から中の様子を恐る恐る覗き見ると、二人は並んで席につき、楽しそうに同じメニュー表をめくっている。その距離感はあまりにも自然で、気負いのない雰囲気が漂っていた。
「……なんか、あんなに仲良さそうだし、もしかして付き合ってるのかな……」
ゆうちゃんがぽつりと言ったその残酷な予測が、鋭い針のように胸の奥でチクリと痛んだ。私はこれ以上その光景を見ているのが怖くなって、「もう帰ろ、見つかったら最悪だし……」とゆうちゃんの袖をぎゅっと引っ張り、その場から逃げ出すように足早に立ち去った。
そして、さらにその翌日も。
彼はまた、あの女の子に話しかけられていた。
私たちの席が少し離れていたから、彼が何を言ったのか細かい言葉までは聞こえなかったけれど、女の子が「うそー! そんなことあるわけないやろ!」と、ひときわ高い声を弾ませて驚いているのだけは、はっきりと耳に届いた。いったい二人はどんな話をすれば、そんな楽しそうな反応を引き出せるのだろう。
「ねえ、昨日に続いて今日もすごく気になってるんでしょ?」
「別に……そんなんじゃ……ないってば」
「もー、素直じゃないなぁ、顔に出てるよ」
そう言って、ゆうちゃんは「ちょっと、二人がなに話してたか直接聞いてくるわ!」と、私の必死の制止も聞かずに悪戯っぽく笑いながら、彼女のほうへと軽やかな足取りで歩いいていってしまった。
あとからゆうちゃんがこっそり教えてくれた話によると、彼女は彼と同じ大阪の芸術大学に通っていて、彫刻を専攻している子らしい。そういえば、最初の自己紹介のときにそんなことを言っていた気がすると思い出す。
そして、さらに私を驚かせたのは、彼と彼女が話していたというその内容だった。
彼は、今日のたった一時間の短いお昼休憩の間に、わざわざ美術館の近くにある古い銭湯へ行って、ひと汗流してきたのだという。
――研修の休憩中に、わざわざ銭湯に行く人なんてこの世にいる!?
私の常識的な予想の斜め上を、遥か彼方へと軽々と飛び越えていくような、まさかすぎるすぎる事実だった。
「なんか、想像以上に変な人だよねぇ、あの人」
「ほんとなのかな、それ……私、信じられないんだけど」
呆れ半分、面白がり半分でクスクスと笑うゆうちゃんの声を聞きながら、私の心臓は別の意味で激しく脈を打っていた。
「そんなに気になるなら、いっそのこと直接本人に話しかけてみなよ。せっかく席もすぐ隣なんだしさ、今日こそチャンスだよ」
周りから背中を押されるたび、私の心臓はうるさいくらいに早鐘を打ち、手足の先がすーっと冷たくなっていくのが分かる。
それでも、このまま何もアクションを起こさないまま、気だるい一週間がただ過ぎ去ってしまうのだけは絶対に嫌だった。
私は意を決して深く息を吸い込み、震える足を無理やり動かして、彼の席へと近づいた。
「……あのさ、今日、本当に銭湯に行ったの?」
突然声をかけられた彼は、びくっと肩を大きく揺らし、驚いたように私を見上げた。
「あー……もしかして、話し声聞こえてた? ……だって、一緒に話す友達もいないし、暇だったからさ。ただ周辺を散歩してたらちょうど銭湯があったから、せっかくだし行ってみようかと思って」
「手ぶらで?」
「うん。銭湯の受付で、適当なタオルとか諸々買ったから大丈夫だよ」
「……そうなんだ。ところで、大学が一緒のあの女の子とは、もともと授業が一緒とかで仲良かったの?」
自分でもドン引きするほど、声が強張っていたのが分かった。
「いや、違うよ。学科も違うし、多分授業で会ってたかもだけど、今回のこの研修で初めて話したんだよ」
「でも、一緒に今日もお昼食べに行ったりしてたじゃん……」
「あれは、この辺りってあまりお昼食べるところないだろ? それで、『いつもどこに行ってるん?』って聞かれて、美味しいそうなとこ探して食べに行ってるって言ったら『それなら一緒にどう?』ってなっただけで、特に深い意味はないけど……」
彼は私のただならぬ気配を察したのか、どこか気まずそうに、少し早口で言い訳を並べ立てる。
そのオドオドとした姿を見ているうちに、私の胸の奥にあったドロドロとしたモヤモヤが、もう自分でコントロールできない歪な形になって、とうとう口をついて外に出てしまった。
「……彼女、かわいいもんね……」
私の口から零れ落ちたのは、あまりにもみすぼらしく、トゲのありすぎる子供っぽい言葉だった。
「そう……なのかな? ……いや、そういうのとかは全然……」
彼は突然のことで激しく戸惑ったように目を丸くし、完全に答えに窮している。
私は自分のどうしようもない嫉妬深さと、圧倒的な余裕のなさに目の前が真っ暗になる思いだった。
――最低だ。なんて嫌な女なんだろう、私。
気になるなら、もっと素直に、普通に世間話をすればいいだけなのに。どうして私はいつも、肝心な場面でこんな風に可愛げのないトゲのある言葉を選んで、自分の首を自分で絞めてしまうのだろう。
心の底から自分の愚かさを後悔したけれど、一度口から吐き出してしまった言葉は、もう二度と取り戻せなかった。




