【幕間・居酒屋 後編】「夜の静寂と、名前のない抱擁」
「またまた飲み過ぎですよ、佐々先生」
俺は努めて穏やかに、けれど逃げ場を作らない声で呼びかけた。
「酔ってます! ……酔ってますが! 酔いの力を借りないと、言えないこともあるんです……」
佐々先生は感情を爆発させるように声を張り上げ、すがりつくような眼差しで俺に迫る。
「ずっと……好きでした……もう一度聞きます。私じゃ、ダメですか?」
俺は手にしていたグラスをカウンターに静かに置いた。深く息を吐き出し、覚悟を決めて彼女の瞳を正面から見つめ返した。
「まず、謝らなければいけないです。佐々先生が俺に好意を寄せてくれていることに、全然気がつきませんでした。すみません!」
佐々先生は目を見開き、それから弾かれたように悲しげに視線を落とした。
「……謝らなくていいですよ……」
「もう一つ……。さっき佐々先生が『偶然の重なりが運命』と言ってくれた時、俺は佐々先生ではなく、別の人のことを考えてしまっていました」
彼女の肩がぴくりと跳ねた。俯いたまま、震える声で尋ねてくる。
「その人とは……付き合ってるんですか? 彼女はいないって言ってましたよね?」
「先週……先週末、再会したんです。2年前に、もう二度と会えないと思っていた人に。あの時、自分が勇気を出せなくて不甲斐なかったけれど、奇跡みたいにまた会うことができた。俺は……それを運命だと思ったんです。だから……すみません……」
店内に再び、耐えがたい沈黙が降ってきた。壁に飾られた古い掛け時計のチクタクという音が、残酷なほど正確に時間を刻んでいく。
佐々先生は前髪で顔を隠すように俯いたまま、絞り出すような声でぽつりと漏らした。
「そっか……。もう少し、私の決意が、早かったら……私にもチャンス、あったのかな……」
その短い一言に含まれた切なさと悔しさに、俺の胸は痛んだ。だが次の瞬間、彼女はまるで強固な仮面をかぶり直すかのように、勢いよく顔を上げた。
「嫌だなぁ、渡辺先生! いつも私に負担をかけてるから仕返しですよ! ひっかかったなー!」
カラカラと大きめの声で笑ってみせる佐々先生。けれど、その瞳の奥は少しも笑っていなかった。溢れ出そうになる涙を必死に目元に溜め、傷ついた自分を必死に隠そうとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「本当に、すみません……」
「嫌だなぁ、渡辺先生! 本気にしちゃダメですよ、ただの冗談なんですから……さ、帰りますか!」
彼女は残っていたチューハイを一気に飲み干すと、逃げるように席を立ち上がった。
居酒屋を出ると、夜の冷気があっという間に二人の体を包み込んだ。
駅へと続く一本道を並んで歩く。行きとは違い、二人の間には重く不自然な沈黙が横たわっていた。街灯の光が照らし出す彼女の横顔はどこか遠く、靴音だけが寂しく響く。
「それじゃあ、ここで」
改札の手前、薄暗い街灯の下で立ち止まり、彼女が背を向けて走り去ろうとしたその時――。
不意に、背中に柔らかい温もりが押し当てられた。
「っ……佐々先生……」
「ちょっとだけ……ちょっとだけです……」
背中に回された彼女の細い腕に、ぎゅっと力が込められる。上着越しにも伝わってくる彼女の身体の小さな震え。俺は……何も出来なかった。抱き返すこともできず、けれど拒絶するように突き放すこともできず、ただ冷たい夜風の中で立ち尽くすことしかできなかった。
「一回だけ……一回だけでいいので……『理央乃』って、下の名前で呼んでくれませんか……?」
背中越しに届いたのは、消え入りそうなほど小さく、震える声だった。
名前を呼ぶだけなら、優しさとして許されるのかもしれない。一瞬、そんな甘い考えが頭をよぎった。けれど、俺の脳裏に浮かんだのは、昨日の夜、街灯の下で照れくさそうに微笑んでいたかえでちゃんの顔だった。ここで他の女性を名前で呼んでしまったら、自分の覚悟も、かえでちゃんへの想いも嘘になってしまう。
俺はぎゅっと両拳を握りしめ、胸を刺すような痛みに耐えながら、静かに首を横に振った。
「……ごめん……」
背中に回されていた腕から、すっと力が抜けた。
「……っ! はい! なんでもないです! 酔っ払いは帰ります!」
背中の温もりが消え、彼女が素早く距離を取る。振り返ると、佐々先生は無理に作った満面の笑顔でこちらを見つめていた。涙で濡れた瞳が、街灯の光を反射してキラキラと揺れている。
「渡辺先生、彼女とうまく行くといいですね」
「ありがとう……」
「私が……リードしてたと思ってたのに……。もっと強く惹かれている人がいたんですね。……私も運命の人、どこかに落ちてないかな……」
「おやすみなさい。彼女と……幸せにならなきゃダメですよ!」
佐々先生はくるりと背を向けると、今度こそ一度も振り返ることなく、駅の改札の中へと走っていってしまった。その小さな後ろ姿が人波に消えていくのを、俺はただ見送るしかできなかった。
一人残された夜の駅前。冷たい風が通り抜ける中、俺は深く深く溜息をついた。
「俺は、ダメだなぁ……女心がちっともわかってない……」
断ってしまった罪悪感と、自分の鈍感さに対する失望。けれど、佐々先生の涙に触れたことで、俺の心からは一切の迷いが消え去っていた。
もう曖昧な態度のまま誰かを傷つけるのも、大切な人を再び失うのも嫌だ。
ポケットの中で、スマートフォンがブブッと震えた。画面を見ると、待ち望んでいた名前が表示されていた。
『今日もお疲れ様でした! あいさんと美味しいご飯を食べて帰るところです』
素朴で温かいメッセージ。それを見た瞬間、冷え切っていた胸の奥に灯りが点ったような温かさが広がっていった。
(もう、絶対にすれ違いたくない。あの夏みたいに、何もできずに見送るだけの自分には絶対に戻らない)
俺は指先に力を込め、彼女への返信を打ち始めた。
『今度の週末に2人で出かけない? 金魚ミュージアムってのがあってさ』
送信ボタンを押す。
秋の静かな夜空の下、俺はスマートフォンを握りしめ、祈るような気持ちで彼女からの返事を待っていた。
今度こそ、二度目の運命をこの手からもう手放さないために。




