【幕間・居酒屋 前編】「嵐の後の予感と、小さな迷い子」
職員室の給湯室は、古いステンレスのシンクと、お茶の匂いが薄く漂う小さな空間だ。
先ほどまでの風雨が嘘のように西日が斜めに差し込み、床に長い影を落としている。マグカップに湯を注いでいると、背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「渡辺先生、また生徒と遊んでいたんですか? 台風が来ていたのに危ないでしょう」
振り返ると、1年2組担任の佐々先生が、呆れたような、けれどどこか楽しそうな笑顔を浮かべて立っていた。彼女は体育大学出身らしく、いつも背筋がピンと伸びていて明るく、校内でも生徒たちから人気がある同僚だ。
「いやぁ、陸上部のやつらが『すごい風でカーブがかかる!』ってグラウンドで大はしゃぎしてたんで、ちょっと仲間に入れてもらったんですよ。めちゃくちゃ曲がって面白かったです」
俺は首にかけたタオルで濡れた髪を拭きながら、悪びれもせずに笑った。
「もう、無邪気なんだから。うちのバレー部の子たち、陸上部から戻ってきたボールがびしょ濡れになったって怒っていましたよ?」
「ありゃー、ごめん。バレー部の子たちには、今度アイスでも買ってお詫びしとくよ」
「これがバレたら、また学年主任の田伏先生に雷を落とされますよ? ……それで? 顧問の私には何か謝罪の一言もないんですか?」
佐々先生はマグカップを両手で抱え、悪戯っぽく首をかしげて見せる。その仕草にはどこか甘えるようなニュアンスが含まれていて、一瞬だけ返答に詰まったが、いつものノリで返した。
「佐々先生、そこはどうかご内密に……」
「ハーゲンダッツで手を打ちましょう」
「ははーっ、仰せのままに、いつものストロベリーでよろしいでしょうか」
「うむ、そちはよくわかっておるな」
「ありがとうございます、お代官様」
すっかりと定番となった、お決まりの寸劇を始めた。
「ふふっ、同期の渡辺先生だから許すんですよ? ……あ、そういえば夏休み終わりの学年飲み会、ちゃんと来ますよね? ただでさえ人数が少ないんですから、絶対参加でお願いしますね」
「あー、すっかり忘れていました。いつでしたっけ?」
「再来週の水曜日ですよ」
(しまった……! 前の週末も、大学時代の友人である石川に誘われた飲み会だったな……。まあ、2週連続になるけれど大丈夫か)
「分かりました。行きます、行きます」
「よしっ。じゃあ主任に伝えておきますね」
佐々先生は満足そうに微笑むと、書類の山が載った自分のデスクへと戻っていった。その背中を見送りながら、俺は冷めかけたお茶を飲み干した。
夏休みの終わり、1年生担当の教員たちによる懇親会が開かれた。
と言っても、うちの中学校は小規模なため、参加者は学年主任兼1組担任の田伏先生、2組担任の佐々先生、副担任の小川先生、今回特別ゲストとして参加したALTのニュービル先生、そして俺の5人だけだ。
駅前の賑やかな居酒屋で、コース料理とビールが次々と運ばれてくる。
「渡辺先生も佐々先生も、新任で担任だから今年は本当に大変でしょう」
ビールグラスを傾けながら、ベテランの田伏先生が労いの言葉をかけてくれる。
「いえ! 私は体育大学の出なので、体力と気合には自信があります!」
佐々先生が元気よく答えると、田伏先生は目を細めて笑った。
「それに比べて渡辺先生は、なんだかいつもゆるいですよねぇ」
「まあ、それが俺の唯一の取り柄みたいなものですから」
そんな冗談を言い合いながら、和やかな時間はあっという間に過ぎていった。時計の針が十時を回った頃、田伏先生が立ち上がった。
「もうこんな時間ですか。明日もありますし、この辺でお開きにしますか。皆さんはどうされます? 私は家族が車で迎えに来るので、ここで失礼しますが」
「僕はニュービル先生が近くのバーに行ってみたいとのことなんで、そっちにお付き合いしてきます。佐々先生と渡辺先生はどうされます? 一緒に行きますか?」
小川先生の問いかけに、俺はすまなそうに肩をすぼめて返した。
「俺は先週末も飲み会で2週連続なんで、今日はおとなしく帰ろうかなって思ってます」
「じゃあ、私も帰ります。渡辺先生、駅まで一緒に行きましょう」
「いいですよ」
(……先週、奇跡みたいに再会して、勢いで連絡先を交換したけれど……まだ、かえでちゃんと付き合ったわけじゃない。他の同僚の女性と駅まで歩くくらい、大丈夫……だよね?)
胸の奥で、この間交換したばかりの彼女の連絡先を思い浮かべながら、自分に言い訳をする。
夜風が少し冷たく感じる道を、佐々先生と並んで駅へと向かって歩く。街灯の下を通り過ぎるたび、彼女の影と俺の影が伸びては縮んだ。居酒屋の喧騒から離れると、周囲は驚くほど静かで、カツカツという二人の靴音だけが夜の街に響いていた。
すると突然、佐々先生が足を止めた。
「渡辺先生、もう一軒行きましょう!」
「えっ!? でも、さっき帰るって……」
「まあ、いいじゃないですか! 渡辺先生には、ちゃんと言っておかなきゃいけないことがあるんですよ!」
(うっ……! この間の件だろうか? それとも、前に生徒とやったイタズラがバレただろうか? 正直、心当たりが多すぎて怖い……)
「分かりましたよ……。すぐ帰るなら、付き合います」
降参して手を挙げると、彼女は満足そうに頷いた。
案内されたのは、駅前のメインストリートから一本外れた、路地裏にある小さな居酒屋だった。赤提灯がぽつりと灯り、年配の親父さんが一人で包丁を握っているような、こぢんまりとした落ち着いた店だ。ガラガラと引き戸を開け、カウンターの端に並んで腰を下ろす。
「で、言っておかなきゃいけない話ってなんですか?」
「まあまあ、もうちょっと飲みましょうよ。飲まなきゃやってられない気分なんですよ」
佐々先生は届いたばかりのチューハイを一口あおり、溜息をついた。いつも明るく振る舞っている彼女だが、やっぱり新任担任としてのプレッシャーや悩みを一人で抱え込んでいるのだろうか。同僚として、話を聞いてあげるくらいはしなければという思いが芽生えた。
「渡辺先生!」
急に名前を呼ばれ、俺は背筋を伸ばした。
「はい、なんでしょう?」
「私達、新人研修を共にし、同じ中学校に赴任して、しかも! 同じ学年の担任! どう思いますか!?」
「まぁ……すごい偶然の重なりですよね」
「偶然が続くと、何になると思いますか?」
「なんですかね……?」
「運命です! そう思いませんか!?」
(運命……)
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に浮かんだのは、目の前にいる佐々先生の顔ではなかった。先週の夜、暗がりの中で照れくさそうに微笑んでいた、あのかえでちゃんの顔だった。
数年前のあの夏、美術館の研修で出会い、どうしても名前と連絡先を聞けなかった女の子。
この間、職場の博物館で奇跡的に再会し、夜の静かな道で「ずっとかわいいと思っていました」と、自分でも信じられないくらい直球の言葉をぶつけてしまった、あのかえでちゃんの姿。
あの奇跡のような再会こそが、俺にとっての本当の「運命」だった。
「そうなのかもしれませんね……」
俺が思わずぽつりと漏らすと、佐々先生は「そうなんです!」と声を弾ませた。
彼女はかなりお酒が回っているのか、カウンターに突伏するように体をもたせかけ、上目遣いで俺の目をじっと見つめてくる。距離がやけに近く感じる。
「渡辺先生……彼女、いないんですよね……?」
「そう…ですね……」
「私じゃ……ダメ……ですか……?」
「え!?!?」
店内が一瞬、静まり返ったように感じた。親父さんがグラスを洗う水の音だけが遠くで聞こえる。
佐々先生の瞳はどこまでも真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。俺の心は驚きとともに、一瞬で冷や水をかけられたように冴え渡っていた。




