episode.15「あの日の銭湯と、甘い秘密のパフェ」
新しく生まれ変わったモダンな美術館のなかへ足を踏み入れると、天井が高く開放的な展示室に穏やかな空気が流れていた。
「うわぁ、本当に綺麗になったんだな……」
彼は感嘆の声を漏らしながら、ガラスケースに並ぶ展示物を一つひとつ、まるで新しい発見をする子どものような真剣な目で食い入るように見つめている。
その横顔を盗み見ながら、私は思わずふっと吹き出してしまった。
――あの夏は、研修のレポートに追われて焦りながら、ただ必死でついていくだけだった。あの時とは全然違う、こんな風にリラックスして笑いながら隣で美術品を眺めている私たちがいる。
「どうかした? そんなに俺の顔に何かついてる?」
不思議そうに首をかしげる彼に、私は「ううん、何でもない!」と首を横に振る。
――本当は、美術館の展示品なんてそっちのけで、あなたのことばっかり見つめているところは、あの時から全然変わっていないんだけどね。
そう心の中でこっそりツッコミを入れつつ、見違えるほど綺麗になった館内をゆっくりと巡ったあと、私たちは心地よい秋の風を感じながら、再び街へと繰り出した。
「ねえ、美術館のまわりもすっかり変わったみたいだし、せっかくだからもう少し周辺を散歩してみない?」
「いいね、歩こうか」
手を繋ぎ、のんびりと並んで歩きながら街の景色を楽しんでいると、ふと、見覚えのある懐かしい建物が視界に飛び込んできた。
そこは、あの夏、彼が研修中に通ったという銭湯の前だった。
「あれっ……? かえでちゃんじゃない!」
聞き覚えのある威勢のいい声に振り返ると、玄関前を掃除していたおかみさんが、目を丸くしてこちらを見つめていた。
「わぁ、久しぶりじゃない! すっかり大人っぽくなって……って、あら、その隣の男の人、もしかして……!」
おかみさんは私の顔と、隣に立つ彼の顔を交互にじっと見比べ、何かを察したようにパッと満面の笑みを浮かべた。
私は瞬間的に顔がカッと真っ赤に沸騰するのを感じ、「ちょっと、おばさん!」と慌てて人差し指を自分の口にピッと当てて、頼むからそれ以上言わないでと必死にジェスチャーで訴えた。
「あはは、そうかね、内緒だね。はいはい、わかったよ」
おかみさんは楽しそうにクスクスと笑いながら、「若いっていいねぇ」とつぶやいて、一度奥へと引っ込んでいった。
隣でポカンとキネマのように固まっていた彼は、目を丸くして私を見つめる。
「……今のって、どういうこと? なんでかえでがこの銭湯のおかみさんとそんなに親しげなわけ? しかも、俺を見て何か含みのある顔してたけど……」
「べ、別に! 何でもないの! 気のせいでしょ!」
必死にごまかそうとする私を、彼は「怪しすぎるだろ」とますます不思議そうに見つめてくる。
そこへ、先ほどのおかみさんが戻ってきた。手に持っていたのは、お風呂上がりの定番である、キンキンに冷えたガラス瓶の牛乳がふたつ。
「はい、これお二人にサービス! 仲良く飲みなさいね」
おかみさんは私にだけこっそりとウインクを送り、「よかったねぇ、あのときは必死だったもんねぇ」と小声で耳打ちして去っていく。
――あぁ、もう穴があったら入りたい! 完全に見抜かれているじゃないか!
外に出てからも、彼は「ねえ、いったいどういうことか詳しく説明してよ。おかみさん、かえでのこと何か知ってたよね?」と、からかうような、でもどこか嬉しそうな笑顔でしつこく追及の手を緩めない。
「うう……。そんなににしつこく追求するなら、後で美味しいパフェを奢ってくれるっていう条件なら、全部教えてあげる!」
渋々そう折れた私を見て、彼は「よし、分かった。じゃあ特大のやつをご馳走するから、包み隠さず教えてよ」と降参した。
私たちはそのまま、近くにあるあの夏に行った老夫婦の営む喫茶店へと向かった。
窓際の席に並んで腰を下ろし、注文したフルーツたっぷりの特大パフェが運ばれてくると、私は観念したように小さく息をついた。
「……実はさ、あの夏の日。あなたが地元の友達と飲みに行くって言って行ってしまったあと、私、どうしても諦めきれなくて……。あなたがもしかしたらこの近くにいるかもって思って美術館に行ってそれでも会えなかったから、この銭湯にも通って必死に探しに来てたんだよね。結局会えなかったんだけどさ」
恥ずかしさで顔を隠しながらポツリポツリと打ち明けると、彼はしばらくぽかんとしたあと、声を上げて盛大に笑った。
「まじで、そんなことあったの!?でもさ、銭湯って男女別々だから、もし万が一俺が来てたって会えなかったでしょ」
「うっ……! 言われてみれば確かにそうだけど! そういう問題じゃなくて私の必死な乙女心でしょ!」
本当にこの人は、全く乙女心の分からない鈍感なやつだ。私はむっと頬を膨らませ、目の前にあるパフェの生クリームをスプーンで勢いよくすくってほおばった。
「はい、約束どおりパフェ、美味しくいただきます!」
「はいはい、どうぞ召し上がれ。教えてくれてありがとう、かえで」
彼は呆れたような、けれど底抜けに愛おしそうな優しい目を私に向けて、そっと自分のスプーンを手にした。
目の前で談笑しながら、同じ甘いパフェを美味しそうにほおばる彼を見つめながら、私は心の中で密かに満足感を噛み締める。
あの時は、彼を見ていた思い出の場所として遠くから想像するしかなかったこの席に、今こうして「彼の隣」として座っている。
あの頃の彼と友人たちの思い出に少しだけ嫉妬していた私は、今、そのすべての記憶を私との新しい思い出で上書きしていくような、そんな満たされた幸福感に包まれていた。
自分でも少し嫉妬深い性格だなとは思うけれど、これは私だけの、最高に愛おしい満足なのだ。
喫茶店を出たあと、私たちは夕暮れに染まり始めた街を歩き、再びあの美術館の前の木陰のベンチへとたどり着いた。
腰を下ろすと、彼は少し改まったような、それでいてワクワクとした声で切り出した。
「そういえばさ、今度の週末は、もちろん花火大会に行くんだろ?」
「うん、もちろん! 浴衣もちゃんと準備してあるもん」
「そっか。じゃあ、かえでの可愛い浴衣姿を見るのを、今からめちゃくちゃ楽しみにしてるよ」
「もう、からかわないでよ……。あ、そういえばまことだって、ちゃんとこの間買ったあの浴衣、着てきてよね。似合ってたんだから」
「分かったよ、ちゃんと着るって」
彼はふっと柔らかく微笑むと、「ちょっと喉が渇いたな。向こうの自販機でジュース買ってこようか。かえでも何か飲む?」と立ち上がった。
「じゃあ、お茶をお願いしようかな」
「お茶ね、了解!」
彼は軽い足取りで、少し離れた自動販売機の方へと小走りで駆けていく。
夕暮れのオレンジ色の光が街を包み込み、彼の影が地面に長く伸びていく。その頼もしい後ろ姿を目で追いながら、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えていた。
あの時はもう二度と会えないかもしれないと涙をこらえたこの場所で、今はこうして彼が私のために走り、そして必ずまた私のところへ戻ってきてくれるという確かな安心感がある。
待っている間の数秒さえも愛おしくて、私はそっと両手を膝の上で重ね合わせながら、戻ってくる彼の姿を笑顔で待ち続けた。




