episode.14「水面の糸電話と、新しい未来の入口」
「別に無理して毎年帰ってこなくてもいいのよ。あんたも忙しいんでしょ」
実家の母からかかってきた電話口の向こうで、相変わらずサバサバとした声が響く。いつもと変わらない、少し早口で歯切れのいいトーンが、不思議と関西での張り詰めた日常の疲れを溶かしていく。
「今回はちょっとね」
「そんなんだからいつまで経っても彼氏の1人もできないんじゃない?」
「ちょっと失礼ね! 私だって――」
「あら、それはいいこと聞いたわ。お父さーん! かえでが彼氏つれて帰省するって!」
受話器の向こうから、突然「なに!!!!」という父親の盛大な断末魔の叫びが響き渡る。あまりの剣幕に、私は思わず噴き出しそうになるのを必死でこらえながら、スマホを少し耳から離した。
「まこと、今度のお盆、お父さんにちゃんと紹介しなきゃいけないかしら?」
「えっ!? お父さんに? まだ早くない……かな?」
「まだってことは、いつかは会ってくれるってこと?」
「そりゃあ……まぁ……近いうちにはとは思っているよ」
私の横でしどろもどろになっている彼の様子を見ているとと、私まで急に顔が熱くなっていくのを感じた。普段は頼りになる大人の彼なのに、実家の母や父という強烈な存在を前にすると、途端にタジタジになってしまうそのギャップが、どこか愛おしい。
付き合い始めて、もうすぐ1年。
今回の私の夏休みに彼が仕事のスケジュールを無理やり合わせてくれて、「せっかくなら、地元に一緒に帰ろうよ」と言ってくれたのだ。まさか、あの夏にすれ違った彼と、こうして故郷に彼氏として一緒に帰省することになるなんて、人生は何が起こるか本当に分からない。あの頃、美術館の片隅で名前すら満足に呼べなかった私たちが、今ではこうして互いの家族に紹介するステップを踏もうとしているなんて、当時の私に教えてあげたらきっと気絶してしまうだろう。
地元の駅に到着し、特急列車の扉が開くと、夏の強い日差しとどこか懐かしい空気がふわりと私たちを包み込んだ。
「変わらないな……」
ホームに降り立った彼は、大きく伸びをしながらそう呟く。その横顔には、久しぶりにこの街を訪れたときの懐かしさと、少しだけ大人びた落ち着きが同居している。
「そうだね」
私は隣に立つ彼の横顔を見つめながら、「本当は、あなたがいるっていう人生最大の大きな変化があるんだけどね」と心の中でこっそりツッコミを入れる。――って、なんて恥ずかしいことを考えているんだ私は。思わず顔が赤くなり、慌てて視線を足元に落とした。アスファルトに映る二人の影が、寄り添うように長く伸びている。
「どうかした? 顔が赤いけど、暑かった?」
彼は不思議そうに私の顔をのぞき込んでくる。その心配そうな、優しい瞳で見つめられると、余計に心臓の音がうるさくなってしまう。
「何でもない!」
私は慌てて窓の外へと目を向けた。隠しごとなんてできない彼の前では、私の小さな動揺はいつもこうしてすぐにバレてしまう。
「そういえばさ、あの研修に通った美術館、新しくなったの見た?」
「いや、あれ以来まともにこっちに帰ってこなかったからなぁ」
「それなら、帰る前にちょっと見に行こうよ!」
あの場所は、私たちの原点であり、どうしても最初に立ち寄らなければならない大切な場所だった。
私たちは改札を出てすぐのコインロッカーに大きなキャリーケースを預けると、見違えるように綺麗になった街並みを並んで歩き始めた。駅周辺は昔の面影を残しつつも、綺麗に整備されていて、歩いているだけでワクワクする。
「うっわ、結構変わってるな……。昔はもっと廃れてた気がしたけど、めちゃくちゃ賑わってるじゃん」
彼は驚いたようにキョロキョロと周囲を見回している。都会の喧騒とはまた違う、のんびりとした活気に満ちた地元の空気感に、彼も自然と笑顔になっている。
「でしょ? 駅前の公園もすごくきれいになって、大きな噴水ができたり、両岸に展望台も新しくできたんだよ」
「へー、すごいな。なんだか見違えたみたいだ」
しばらく歩くと、お目当ての場所――運河環水公園の、両端にそびえ立つ美しい展望台の前に着いた。美しい水面を挟んで立つ二つの塔が、青空に向かってまっすぐ伸びている。
「ねえ、私とここで別れて、まことはこっちの展望台に登ってね」
「ん? なんで? 一緒に行かないの?」
不思議そうに首をかしげる彼に、「いいから、登ればわかるから!」と私は笑顔で押し切り、走ってもう一つの展望台の階段へと向かった。
息を切らしながら展望台の最上階にたどり着いた私は、すぐにスマートフォンを取り出して彼にメッセージを送る。
『そこに糸電話があるでしょ。私が今から話しかけるから、耳を当てて!』
少し待つと、向かいの展望台の彼から『了解、準備OKだよ』と返事が届いた。
私はカップをしっかりと耳に当て、少しドキドキしながら声を張る。
「聞こえるー?」
向こうから、彼の嬉しそうな声がクリアに返ってきた。
「おー、すげえ! ちゃんと聞こえるよ!」
彼は知らないだろうけれど、実はこの両岸を結ぶ日本一長いとされる糸電話には、「糸電話で大切な人にまっすぐ愛を伝えると、二人はどんな困難も乗り越えて永遠に結ばれる」という、地元で密かなジンクスがあるのだ。あの日、すれ違ってばかりだった私たちが、今こうしてこの長い糸を挟んで繋がっていることが、なんだか奇跡のように思えて胸が熱くなる。
周囲に人がいないことを確認して、私はカップに向かってそっと呟いた。
「ずっと、一緒にいようね」
「えっ? なんか風の音かな? ごめん、ちょっと今聞こえにくくなっちゃった」
彼の戸惑う声が返ってきて、私はと小さく笑いながら、「ううん、何でもない! それより、早くそっち側から降りてきて、一緒に美術館に行こう!」と声を弾ませた。照れくさくて、本当の言葉はまだ胸の奥にしまっておく。
「わかった、今そっちに行くよ!」
待ち合わせ場所で合流した彼は、「いや、離れてるのにあんなにはっきり聞こえるなんて、意外と楽しいもんだね」と楽しそうに笑っている。その無邪気な笑顔を見ているだけで、旅の疲れなんてどこかへ吹き飛んでいってしまう。
「なんでも、ここの糸電話は日本一長いらしいよ」
「へー! 今度、学校の生徒たちに授業でやってみても盛り上がりそうだな。今度さっそくやってみようかな」
すっかり教師らしい顔に戻った彼と並んで歩きながら、いよいよ目的の場所へと近づく。
「あれ……? 美術館って、あそこだよね?」
目の前に現れたのは、かつての面影を残しつつも、見違えるほどにモダンで、ガラス張りが美しく、そして何倍にも大きくなった新しい美術館の姿だった。水辺に溶け込むようなその美しい建築は、訪れる人々の心を穏やかに包み込んでくれるようだった。
「わぁ……めちゃくちゃ綺麗に、しかもでっかくなってる!」
彼は感動のあまり声を上げると、私の手をしっかりと握り締め、小走りでその入り口へと向かった。
あの夏、切ない後悔とすれ違いだけを残して去っていったこの場所が、今ではこんなにも眩しい未来の入口に変わっている。過去の痛みが優しく昇華され、新しい思い出へと塗り替わっていく瞬間を肌で感じる。
彼の温もりを感じながら進むその一歩一歩が、私たちの新しい物語の確かな始まりだった。




