episode.12「止まっていた夏と、動き出した針」
あーあ、社会人の短い夏休みなんて、本当に秒速で終わっちゃうな。学生時代のあの長かった夏休みが、今さらながらどうしようもなく恋しい。
私は自分のデスクの横に鞄をドンと置き、小さく深い息をつきながら、ひんやりとしたデスクの椅子にぐったりと腰掛けた。背伸びをすると、実家でエアコンの効いた涼しい部屋の特等席でアイスを食べながら、誰にも邪魔されずにダラダラと過ごしていた贅沢な時間が、まるでずっと昔の遠い過去のようにも感じられて、思わず小さいため息が漏れる。
「どう? かえでちゃん、地元での夏休みはしっかり満喫してきた?」
すぐ隣の席から、先輩のあいさんがパソコンのモニターからひょいと顔を上げて、楽しそうに明るい声をかけてくれる。
「はい、母さんの特製夏野菜カレーを限界まで食べて、高校からの友達のゆうとも久しぶりに会って……しっかりのんびりリフレッシュできましたよ」
「いいわねえ、私も実家に帰って親孝行の真似事でもしたいぐらいだわ。ずっとシフトで働き詰めの仕事だったしね」
「あっ、そうだ、これこれ」
私はカバンの奥から、帰省のときに慌てて買ってきたご当地お土産の包みを取り出し、あいさんへと差し出した。
「これ、かえでちゃんの地元出身でめちゃくちゃ有名なバスケの塁村選手がテレビでおすすめしてたお菓子? 私、ずっと食べてみたかったんだよね!」
「そうです! それが地元でもすっごく美味しいって評判で、絶対あいさんに買っていこうと思ってたんです。定番の味のほかに白エビ味に、ちょっと珍しい焼き肉味とか、色々入ってて楽しいですよ!」
「ありがとー! じゃあ、あとで午後の休憩のときにいただくわね。……って、仕事に復帰して早々なんだけどさ、実は来週の平日に、地元の中学校から団体さんの見学が入ってるのよ。だから、その対応よろしくねー」
「はーい、わかりました!」
私は自分の手帳をパタンと開き、今週の担当業務のスケジュールを確認しながら、心の中で「よし、いつまでも実家ボケしてる場合じゃない、またいつものキビキビとした社会人モードに切り替えなきゃ」と、自分自身に力強く気合を入れ直した。
戻ってきてからの日常は相変わらずで、人で混み合う電車の息苦しさや、パソコンの画面のかもしだす無機質な空気が、あの穏やかだった実家での時間をまるで遠い夢物語のように思わせる。気合を入れて今週も乗り切ろう。そう自分に言い聞かせながら、私は書類の山へと向き直った。
そして迎えた、その団体見学の日。
「よろしくお願いしまーす!」
元気いっぱいの子供らしい挨拶の声とともに、地元の中学校から1年生の生徒たちがロビーへとやってきた。全部で3クラス。うちの地方の中学校の規模としては、割とこぢんまりとした、まとまりのあるアットホームな団体さんだ。
「本日はよろしくお願いしますね」
引率の先頭に立っていたのは、少し年配で、どこか穏やかで柔らかな雰囲気を持つ学年主任らしき女性の先生だった。先生は丁寧に頭を下げると、手元の資料でスケジュールを確認しながら私たちに説明してくれる。
「まず、今来ているのが1組、施設の見学のあとに、外の広場で体験学習をさせていただきます。そのあと2組、3組と順番に時間を少しずつずらして来ますのでどうぞよろしくお願いいたします」
「かしこまりました。安全第一でしっかりご案内しますね」
子どもたちは、普段の学校の静かな教室とは違う、だだっ広い大きな展示室に目をキラキラと輝かせ、ワイワイと楽しげにはしゃぎながら見学をしている。展示ケースを食い入るように真面目な顔で覗き込む子もいれば、すでに「このあと外でやる体験っていつ始まるんだろう」と気になってしょうがないといった様子で、そわそわと落ち着きなく足を動かしている子もいた。
引率の先生たちが「コラ、走らないの!」「そこ、ちゃんとガラスに触らないで見る!」と声を枯らしながら生徒たちを注意している姿は、見ていて微笑ましい反面、学校の先生という仕事の苦労がひしひしと伝わってくる。
「はい! 皆さん、そこ静かにしてくださいねー!」
私は大きな声で子どもたちの注意を引き付けると、最初のプログラムである説明を始めた。
「それでは今から、昔の人がやっていたように、木と木を激しくすり合わせて火を起こす古代の火おこし体験を始めます!」
子どもたちから「おーっ!」と大きな歓声が上がる。私は笑顔でわかりやすく説明をしながら、危ないやり方をして怪我をする子がいないように、一人ひとりの手元を回りながら手際よく補助をしていく。研修を受けて右も左も分からなかった最初のころに比べれば、私も少しは学芸員として一人前に仕事に慣れてきたものだ。
「先生、これ全然煙出ないよー!」
「もう少し強く、上から押し付けるようにしてこすってみてね。ほら、見て、こうやって……」
子どもたちに囲まれながら汗を流しつつ、テキパキと指導をこなす自分に、少しだけ成長を感じたりもする。
無事に1組の体験が終わり、続いて2組の案内も予定通り滞りなく終わった。ここまで来ればすっかりペースをつかんだもので、緊張感もほどよく抜け、スムーズに進行できている。そして、残すは最後の3組だけとなった。
「3組です。移動にちょっと手間取って時間ギリギリになりすみません。よろしくお願いします」
担任の若い男性の先生が、元気な子どもたちを引き連れて、最後のグループを連れてやってきた。
――えっ……?
私はその場で、まるで頭を雷に打たれたように、ぴたりとすべての動きを止めてしまった。
頭の中の思考回路が真っ白になり、周囲の子供たちの賑やかな喧騒が、スッと遠くへ遠ざかっていく。時間の流れそのものが急に遅くなったかのように、視界のなかの風景がスローモーションに切り替わった。
身長は特別高いわけではないのに、どこかすらりとしていて、見つめる先にはいつも眠たげで緩やかなたれ目。髪は生まれつきなのか、懐かしいゆるやかなパーマ。
目の前に立っていたのは、2年前のあの夏の日、美術館の木陰のベンチで別れたきり、連絡先すら聞けなかったあの人だった。
ジャージ姿に身を包み、首からタオルをかけ、生徒たちをまとめながら「こら、ちゃんと並ぶぞー」と声をかけているその姿は、まさしくどこからどう見ても、現役の中学校の若い男性教師そのものだった。
あの頃、彼はまだ何をすべきか模索しているような、どこか頼りなさと眩しさが入り混じった大学生だったはずだ。それが今では、すっかり教師としての落ち着きと責任感をまとった大人の男性になって、こうして私の働く職場に、引率の先生として現れたのだ。
まさかこんな場所で、こんなふうに再会するなんて。予期せぬあまりの出来事に、私の呼吸はすっかり止まってしまっていた。
心臓がうるさいほどの音を立てて胸郭を叩き、手のひらにジワリと冷や汗がにじむ。夢を見ているのではないかと、思わず自分の頬をつねりたくなった。
まだ生徒たちの引率に気を取られていて、こちらに気づいていない。
どくどくと高鳴る鼓動を必死に抑え込みながら、私は震える足をどうにか動かし、最後のグループの前に一歩を踏み出した。




