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春の終わり

第九十九話 春の終わり


⸻


 朝に飯があった。


⸻


 魚だった。


 汁があった。


 山菜が少し入っていた。


 タダが作った。


 それだけで充分だった。


 湯気の向こうで、義経が箸を持ったまま言った。


⸻


「今日は何も無い!」


⸻


 宣言だった。


 根拠はなかった。


 だが、義経が言うと妙にそれらしく聞こえる。


⸻


「何を根拠に」


⸻


 シンが聞いた。


 義経は魚の身をむしりながら、当然のように答えた。


⸻


「朝飯がうまい」


⸻


「それは根拠か」


⸻


「根拠だ。飯がうまい日は、だいたい良い日だ」


⸻


 タダが無言で汁をよそった。


 否定しなかった。


 義経が少し得意そうな顔をする。


⸻


「ほら見ろ。タダもそう思っている」


⸻


「タダは何も言ってない」


⸻


「言わぬ時ほど深く思っている」


⸻


 タダは黙って、義経の椀に山菜を足した。


 義経が嬉しそうに食べた。


⸻


 シンは汁を飲んだ。


 温かかった。


 腹の奥に落ちると、少しだけ体が戻る気がした。


⸻


(何も無い日か)


⸻


 久々だった。


 黒い影は消えた。


 義経は神託を追い返す方法を、妙な形で覚えた。


 土佐坊は姿を見せていない。


 泰衡からの使者も、今朝は来ていなかった。


 モモは山の奥へ消えたままだった。


⸻


(モモ)


⸻


 白い袖。


 冷えた桃の香り。


 クマノゴンゲンと名乗った声。


 見ないで、というモモの声。


 忘れたわけではない。


 それでも飯は温かかった。


 目の前で義経が食べていて、タダが黙っていて、ユウガオが隣に来た。


⸻


 肩が触れた。


 夜花の香りがする。


⸻


「ねえ、今日どこか行く?」


⸻


「平泉にでもぃk」


⸻


「一緒に行くっ」


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 断る間がなかった。


 シンは箸を止めた。


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「まだ最後まで言ってない」


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「行くって言った」


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「言い切ってない」


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「心では言ってた」


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「心を勝手に読むな」


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 義経が笑った。


⸻


「仲良いな!」


⸻


「べ、別に」


⸻


 シンが言った。


 ユウガオは否定しなかった。


 シンはもう一度箸を止めた。


⸻


「否定しないのか」


⸻


「何を?」


⸻


 涼しい顔だった。


 ずるい顔だった。


 タダが無言で汁を混ぜていた。


 口元が少し動いた気がした。


 たぶん笑っていなかった。


⸻


(何だこの家……)


⸻


 温かかった。


 腹が立つほど温かかった。


 こういう朝が、当たり前に続けばいいと思ってしまう。


⸻


⸻


 昼前に館を出た。


⸻


 平泉は明るかった。


 春の光が、金の屋根を返していた。


 遠くに中尊寺の影が見える。


 道には人が出ていた。


 子供の声があった。


 馬の蹄の音があった。


 売り物を呼ぶ声があった。


 奥州の春は、まだ寒さを残している。


 それでも、人の声だけはもう冬ではなかった。


⸻


 義経は機嫌が良かった。


 馬を見れば足運びを語る。


 子供を見れば何かを渡す。


 屋台を見れば匂いにつられる。


 ユウガオが袖を引く。


 義経がまた止まる。


⸻


「大将、歩く」


⸻


「見ろ、あの馬。足がいい」


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「馬は逃げないよ」


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「良い馬は見ているうちに誰かに買われる」


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「買う気なの?」


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「金ない!」


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「じゃあ見るだけだね」


⸻


 義経は素直に頷いた。


 それから別の屋台へ吸い寄せられた。


⸻


「忙しい人だね全く」


⸻


 ユウガオが言った。


 シンは少し笑った。


 笑えたことに、自分で少し驚いた。


⸻


 ユウガオは、その隙を逃さなかった。


⸻


「ねえ」


⸻


「何だ」


⸻


「あれ、可愛い」


⸻


 指した先に、小さな露店があった。


 木の台の上に、組紐や貝の飾り、細い金具の付いた紐飾りが並んでいる。


 高価なものではない。


 けれど色はきれいだった。


 藍。


 薄紅。


 白。


 緑。


 春の市らしい、軽い品ばかりだった。


⸻


「買えばいいだろ」


⸻


「そういう言い方、情緒がない」


⸻


「情緒」


⸻


「一緒に選ぶとか、似合うとか、そういうの」


⸻


 ユウガオは当たり前のように言った。


 シンは少し後ずさった。


⸻


「俺にそういう技能はない」


⸻


「技能じゃないよ。気持ち」


⸻


「気持ちならもっと無理だ」


⸻


 ユウガオがふくれた。


 露店の女も笑った。


 義経まで、いつの間にか後ろにいた。


⸻


「何を買うのだ」


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「大将は向こう見てて」


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「なぜだ!」


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「邪魔だから」


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「俺は邪魔か……」


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「すごく」


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 義経はなぜか満足そうに頷いた。


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「そうか!」


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「何で嬉しそうなんだ」


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 シンが言うと、義経は胸を張った。


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「邪魔できるほど近くにいるということだ!」


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「良い話みたいにするな」


⸻


 ユウガオは薄紅の紐飾りを手に取った。


 桃に近い色だった。


 少しだけ、シンの胸が痛む。


 ユウガオはそれに気づいたのか、すぐ藍色の方へ持ち替えた。


⸻


「こっち」


⸻


「それがいいのか」


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「アンタにはこっち」


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「俺?」


⸻


 シンが聞き返す前に、ユウガオは同じ柄の紐を二つ取った。


 一つは藍。


 一つは薄い紫。


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「お揃い」


⸻


「お揃い」


⸻


 シンはその言葉をそのまま繰り返した。


 理解が遅れた。


⸻


「いらない?」


⸻


 ユウガオの声が少しだけ軽くなる。


 軽くしたのだと分かった。


 断られても平気な顔を、先に作っている。


⸻


「……いらなくはない」


⸻


 シンが言うと、ユウガオはすぐ笑った。


 ずるい。


 今のはずるい。


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「じゃあ買って」


⸻


「結局俺が買うのか」


⸻


「当たり前でしょ」


⸻


 露店の女が笑いをこらえていた。


 義経は満面の笑みだった。


⸻


「仲良いな!」


⸻


「二回目だ」


⸻


「何度でも言える!」


⸻


 何故か義経は嬉しそうだった。


 本当に嬉しそうだった。


 その顔を見ると、シンは余計に困った。


 自分がからかわれていることより、義経がそんな顔をする理由の方が分からなかった。


⸻


 結局、紐飾りは二つ買った。


 ユウガオは薄紫の方を自分の手首に巻き、藍色の方をシンに渡した。


⸻


「つけて」


⸻


「今?」


⸻


「今」


⸻


 シンは諦めて手首に巻いた。


 慣れない。


 小さな飾りなのに、妙に重い。


⸻


「似合う」


⸻


「そうか」


⸻


「うん。逃げる男の手首っぽい」


⸻


「褒めてないだろ」


⸻


「半分は褒めてる」


⸻


「半分」


⸻


 その後、ユウガオは串に刺した焼き餅を買った。


 甘い味噌が塗ってある。


 一口食べて、目を細める。


⸻


「おいしい」


⸻


「良かったな」


⸻


「はい」


⸻


 焼き餅が、シンの口元に来た。


⸻


「何」


⸻


「あーん」


⸻


「しない」


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「何で」


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「道の真ん中だぞ」


⸻


「山の中ならいいの?」


⸻


「そういう意味じゃない」


⸻


 ユウガオは引かなかった。


 義経が横で目を輝かせていた。


⸻


「食え、シン」


⸻


「なぜお前が乗る」


⸻


「面白い!」


⸻


「最悪の理由だ」


⸻


 結局、食べた。


 甘かった。


 味噌の香ばしさがあった。


 悔しいことにうまかった。


⸻


「おいしい?」


⸻


「……うまい」


⸻


 ユウガオが嬉しそうに笑った。


 それだけで、口の中の甘さが変な場所に残った。


⸻


「やっぱり仲良いな!」


⸻


 義経が言った。


 もう三回目だった。


 シンは言い返す気力を失った。


⸻


 その時、道の端に国衡が見えた。


⸻


 一人だった。


 いつも通りの武骨な顔だった。


 けれど目の奥に、薄い疲れがある。


 シンたちを見て、軽く頭を下げた。


⸻


「賑やかだな」


⸻


「大将がいると賑やかになる」


⸻


 ユウガオが言った。


 義経は焼き餅の残りを見ていた。


⸻


「義経殿」


⸻


 国衡が呼ぶ。


 義経は振り向いた。


⸻


「何だ、国衡。食うか」


⸻


「人の食いかけを勧めないでください」


⸻


「俺のではない」


⸻


「なお悪い」


⸻


 国衡が苦笑した。


 だが、その笑みはすぐに薄くなった。


 シンは気づいた。


 ユウガオも気づいた。


⸻


「最近、当主の様子がおかしいのです」


⸻


 国衡の声は低かった。


 人の往来に紛れるように、短く落とされた。


⸻


「前から真面目だったろ」


⸻


 義経が言った。


 聞こえていた。


 国衡がまた苦笑する。


⸻


「真面目はおかしい話とは別です」


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「なら疲れている」


⸻


「それもある」


⸻


 国衡は、そこで一度言葉を切った。


 視線だけを政務所の方へ向ける。


⸻


「だが、それだけではないのです」


「何処かからの声に苛まれている」


「何か妖が憑いているようにみえる」


⸻


「何処からの声だ」


⸻


 シンが聞いた。


 国衡はすぐには答えなかった。


⸻


「分からん」


⸻


 短い答えだった。


 分からないと言いながら、何かを知っている声だった。


 あるいは、言葉にしたくない声だった。


⸻


(泰衡が)


⸻


 シンの中で、いくつものものが繋がりかける。


 鎌倉からの書状。


 土佐坊。


 神託。


 義経。


⸻


 義経が焼き餅から目を離した。


 珍しく、少しだけ真面目な顔になった。


⸻


「見に行くか」


⸻


 国衡は止めなかった。


⸻


⸻


 政務所の外から見えた。


⸻


 泰衡が書机に座っていた。


 窓の向こうだった。


 遠かった。


 書状が積まれている。


 紙の山。


 言葉の山。


 命令の山。


 その前で、泰衡は筆を持ったまま止まっていた。


⸻


 目は書状を見ていない。


 窓の外でもない。


 どこか遠い声を聞いている顔だった。


⸻


 シンは足を止めた。


⸻


(まさか)


⸻


 泰衡の唇が、わずかに動いた。


 何かを返したように見えた。


 だが声は聞こえない。


 その顔は、信じたいものと疑いたいものの間で、立ち尽くしているようだった。


⸻


 国衡が横に立った。


 声をかけなかった。


 兄の顔だった。


 臣下の顔でもあった。


 どちらでもあるから、苦しそうだった。


⸻


 義経が来た。


 泰衡を見た。


 少しだけ笑みが消えた。


 すぐ戻った。


⸻


「帰るか」


⸻


 それだけ言った。


 義経は踏み込まなかった。


 何も考えていないようで、急に人の傷口の手前で止まる。


 そういうところがある。


⸻


 シンはもう一度、泰衡を見た。


 何らかの意思に、少しずつ眠りを削られている顔だった。


⸻


⸻


 夕方になった。


⸻


 山道を戻った。


 春だった。


 木の葉が光を通している。


 夕陽はまだ柔らかい。


 鳥が鳴いていた。


 沢の音が遠くにあった。


 平泉の町の声は、少しずつ背後へ沈んでいく。


⸻


 義経が歌の断片みたいなものを口ずさんでいた。


 調子はずれだった。


 本人は気持ちよさそうだった。


 ユウガオが笑った。


⸻


「大将、それ何の歌」


⸻


「知らん」


⸻


「知らない歌を歌うの」


⸻


「今できた」


「今様だ」


⸻


「じゃあ下手でも仕方ないね」


⸻


「下手ではない。新しいだけだ」


⸻


 義経が胸を張る。


 ユウガオが笑う。


 その笑い声が、木々の間にほどけていった。


⸻


 シンは後ろを歩いていた。


 手首には、藍色の紐飾りがある。


 歩くたび、小さく揺れた。


⸻


(今日は何もなかった)


⸻


 本当に何もなかった。


 黒い影もなかった。


 神託も来なかった。


 平穏に生き延びた。


 泰衡の顔だけが胸に残ったが、それでも今日一日は壊れなかった。


⸻


(これが普通の日か)


⸻


(こういう日が続けばいい)


⸻


 そう思った瞬間だった。


⸻


 風が止まった。


⸻


 シンは足を止めた。


 鳥が鳴かなくなった。


 沢の音も遠くなる。


 春の山が、急に息を止めた。


⸻


 ユウガオが笑いを止めた。


 義経が口ずさむのを止めた。


 振り返るより先に、義経の目が細くなる。


⸻


(また来たか)


⸻


 シンは身構えた。


 黒い影を探した。


 違った。


⸻


 桃の香りだった。


⸻


 でも甘くなかった。


 花の匂いではない。


 凍った果実のようだった。


⸻


(モモ)


⸻


 前方に白い衣があった。


⸻


 道の真ん中に立っていた。


 薄桃の衣。


 黒髪。


 桃の飾りが夕光を返している。


 姿はモモだった。


 だが、立ち方が違った。


 いつものモモには、少ないながらも血の通った揺れがあった。


 今の白い衣には、それがない。


⸻


「モモ」


⸻


 シンが言った。


 反応はなかった。


 目はシンを捉えている。


 ただ、それだけだった。


⸻


 後ろで気配がした。


⸻


 土佐坊だった。


 山の木の間に立っていた。


 いつ来たのか分からなかった。


 古傷の顔が、夕陽を受けている。


 黒と白の僧兵装束。


 大きな体。


 道の出口を塞ぐ位置だった。


⸻


「勅命」


⸻


 土佐坊が言った。


 声は低かった。


 感情はなかった。


⸻


「神託執行」


⸻


 義経が笑った。


 笑ったが、目は笑っていなかった。


⸻


「またか」


⸻


「源九郎義経を回収する」


⸻


 土佐坊は続けた。


⸻


「京へ戻られよ。拒否の場合、拘束する」


⸻


「嫌だ」


⸻


 義経は即答した。


 迷いがなかった。


⸻


「話を聞いてから帰れと言え、と覚えたばかりだが」


⸻


 義経が肩を鳴らす。


⸻


「お前の話は前にも聞いた。だから断る」


⸻


 土佐坊が動いた。


⸻


 速かった。


 大きな体が、山道の影から滑り出る。


 手にしていた刃が、夕光を割った。


 狙いは義経だった。


 真っ直ぐだった。


 迷いも、怒りもない。


 ただ、決められた動線をなぞるような斬撃だった。


⸻


 義経は一歩だけ前へ出た。


 抜くより先に、体が動いていた。


 刃を半身でかわし、土佐坊の腕を外へ流す。


 足が土を蹴る。


 義経の肘が、土佐坊の胸に入った。


⸻


 鈍い音がした。


 普通なら、それで終わる。


 人なら息が止まる。


 だが土佐坊は止まらなかった。


 痛みを記録していない顔だった。


⸻


「しつこいな」


⸻


 義経が言った。


 その声が終わる前に、土佐坊の二撃目が来た。


 義経はまた受け流す。


 簡単だった。


 簡単すぎた。


⸻


 シンは気づいた。


⸻


(違う)


⸻


(これは本命じゃない)


⸻


 土佐坊の刃は義経に届かない。


 届かないのに、義経をそこに釘付けにしている。


 義経が動けば、土佐坊がまた塞ぐ。


 勝つためではない。


 足を止めるための戦いだった。


⸻


 義経も気づいた。


 目が一瞬だけシンへ向く。


⸻


「シン!」


⸻


 その声と同時に、白桃が動いた。


⸻


 足音はなかった。


 衣擦れもなかった。


 道の真ん中にいたはずの白い衣が、シンの視界の端まで来ていた。


⸻


 義経が踏み込む。


 土佐坊が割り込む。


 刃と刃が鳴った。


 義経は土佐坊を弾く。


 だが、追えない。


 追おうとすれば、次の刃が来る。


 土佐坊は勝とうとしていない。


 義経を一歩遅らせることだけに徹していた。


⸻


 その一歩が、致命的だった。


⸻


 白桃はシンだけを見ていた。


 義経ではない。


 土佐坊でもない。


 ユウガオでもない。


 最初から、目的はそこだった。


⸻


「優先対象、変更」


⸻


 白桃の声が落ちた。


 土佐坊の目が、ほんの少し細くなる。


 予定と違う。


 そう思ったのかもしれない。


 だが止めなかった。


⸻


「義経回収、優先度低下」


⸻


 白桃が続けた。


⸻


「観測者、排除、最優先」


⸻


 早かった。


 判断ではない。


 決定でもない。


 命令が、上から落ちてきたようだった。


 義経を連れ戻すことも。


 奥州を揺らすことも。


 土佐坊が持ってきた言葉も。


 今この瞬間、すべて後ろへ追いやられた。


⸻


(俺が)


⸻


(最優先)


⸻


 シンの背筋が冷えた。


 逃げろと頭が言っている。


 体が追いつかない。


 目の前に、モモの顔があった。


 モモの顔をした何かが、シンを殺そうとしている。


⸻


 ユウガオが叫んだ。


 小刀を投げる。


 白桃の袖が揺れた。


 小刀は空を切り、木の幹に刺さった。


⸻


「シン、下がれ!」


⸻


 義経の声が飛ぶ。


 土佐坊がその前に立つ。


 義経の斬撃を受け、体を削られながらも退かない。


 血が出ている。


 だが顔色は変わらない。


 壊れた道具のように、同じ目的だけを続ける。


⸻


 白桃の手が動いた。


 シンは、反射で横へ跳んだ。


 遅かった。


 白い刃が袖を裂いた。


 熱い痛みが腕を走る。


 血が飛んだ。


⸻


 白桃の目が、一瞬だけ揺れた。


⸻


 本当に一瞬だった。


 だが、シンには分かった。


 モモだった。


 白桃の奥から、モモがこちらを見た。


⸻


「逃、げ――」


⸻


 声が漏れた。


 モモの声だった。


 苦しそうだった。


⸻


 次の瞬間、別の声が重なった。


⸻


「我はクマノゴンゲン」


⸻


 白桃の口から、冷たい声が出た。


 山の空気が一段冷える。


 桃の香りが消えかける。


 代わりに、白い霜のような匂いが立つ。


⸻


「違、う」


⸻


 モモが言った。


 いや、言おうとした。


 唇が震える。


 目に涙が浮かぶ。


⸻


「わたし、は」


⸻


 声が乱れた。


 言葉の間に、別の文字が混じる。


⸻


「繧ッ繝槭ヮ繝弱ざ繝ウ繧イ繝ウ」


⸻


 シンの耳が、その音を拒んだ。


 人の言葉ではない。


 神の言葉でもない。


 壊れた命令が、人の喉を通っている。


⸻


「繝上け繝医え、隕ウ貂ャ閠、謗帝勁」


⸻


 白桃の体が震えた。


 涙が一筋、頬を落ちる。


 その涙だけは、モモのものだった。


⸻


「や、だ」


⸻


 小さな声だった。


 シンに届いた。


 届いてしまった。


⸻


「シン」


⸻


 名前だった。


 泣いていた。


 モモが泣いていた。


 泣きながら、刃を構えていた。


⸻


「執行」


⸻


 白桃の声が、モモの声を潰した。


 瞳から光が消える。


 それでも涙は止まらなかった。


 頬を伝い、顎へ落ちる。


 白い衣に、小さな染みを作る。


⸻


 シンは動けなかった。


 モモが泣いている。


 モモが殺しに来る。


 その二つが、同時に目の前にあった。


⸻


 義経が叫んだ。


 土佐坊を真っ二つに斬り払う。


 土佐坊の体が横へ飛ぶ。


 それでも、僧兵の腕が義経の足を掴んだ。


 義経の動きが一瞬止まる。


⸻


 その一瞬で充分だった。


⸻


 白桃が踏み込む。


 刃が光る。


 シンは手首の紐飾りを見た。


 藍色の紐。


 ついさっき買ったばかりの、馬鹿みたいに平和なもの。


 それが風で揺れた。


⸻


 白桃の刃が、そこを越えてきた。


⸻


「ご、め」


⸻


 モモの声だった。


 最後まで言えなかった。


⸻


 刃がシンを斬った。


⸻


 痛みより先に、白が来た。


⸻


 春の山道が。


 義経の声が。


 ユウガオの叫ぶ声が。


 土佐坊の影が。


 泣いているモモの顔が。


⸻


 全部。


⸻


 白に呑まれた。


⸻


⸻


(第百話へ)

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