義経神託事件
第九十八話 義経神託事件
⸻
モモが消えた。
⸻
シンは、ほとんど考える前に走り出していた。
春の光が庭に差している。
遠くで義経の声がした。
笑っていた。
タダが火を動かす音も聞こえた。
ユウガオが何か文句を言っている声も、かすかに混じった。
その全部を背に置いて、シンは館の外へ出た。
足元の土が湿っている。
朝露が草を濡らしている。
桃の香りがあった。
薄い。
けれど、確かに残っていた。
⸻
黒は、見ないで。
⸻
モモの声が、耳の奥に残っていた。
黒い影。
止まる風。
消える鳥の声。
白く裂ける視界。
四度目の朝。
まだ続いている同じ朝。
このまま山へ行けば、また死ぬ。
それが分かっているのに、足は止まらなかった。
⸻
(黒は見るな)
⸻
(じゃあ、どうすればいい)
⸻
聞くしかなかった。
モモから。
あの短い言葉の続きを。
⸻
山の方だった。
朝露と土の匂いの中に、細く混じっている。
甘いのに、どこか冷えていた。
⸻
(まだ近くにいる)
⸻
シンは桃の香りを追った。
⸻
⸻
山に入った。
⸻
春だった。
雪がまだ木の根元に残っていた。
鳥の声があった。
あの死の前と同じ山だった。
同じ湿った土。
同じ枝の影。
同じ静けさ。
それなのに、黒い影はどこにもいなかった。
⸻
見ないで。
⸻
そう言われると、余計に探してしまう。
探している自分に気づいて、シンは奥歯を噛んだ。
⸻
(見るな)
⸻
(見るなと言われて見るの、馬鹿すぎる)
⸻
息を吸った。
冷たい山の空気が、喉を通った。
少しだけ落ち着いた。
⸻
奥にモモがいた。
⸻
白桃ではなかった。
薄桃の衣だった。
黒髪。
桃の飾り。
朝の光を小さく返している。
ただ立っていた。
木を見ていた。
山を見ているようでもあり、山の向こうの見えない何かを見ているようでもあった。
⸻
シンは近づいた。
⸻
「知ってるだろ」
⸻
モモは振り向かなかった。
⸻
「あの黒い影。義経の周りに出るやつ。三回死んだ。お前は知ってる」
⸻
モモの指が、袖の端を少し握った。
⸻
「教えてくれ、モモ」
⸻
少し間があった。
鳥が鳴いた。
木の上で雪解けの水が落ちた。
モモが、ゆっくり振り向いた。
シンを見た。
その目が、どこか遠い場所を確認するように動いた。
言っていい言葉と、言えない言葉を分けている。
そんな顔だった。
⸻
「……りょ」
⸻
小さかった。
でも、確かに承諾だった。
⸻
「神託には、力がある」
⸻
モモは言った。
いつもより遅い。
機械的な報告ではない。
言葉を選んでいる。
シンにも分かるように、噛み砕こうとしている。
⸻
「声だけではない。命令。誘導。恐怖。願望。受信者の中で循環する」
⸻
「循環」
⸻
「聞いた者が、信じる。怖がる。望む。従う。疑う。抵抗する。どれでもよい。反応があれば、流れる」
⸻
シンは眉を寄せた。
⸻
「つまり、相手の中を通るのか」
⸻
モモが小さく頷いた。
⸻
「神託は、ひとりで完結しない。人の中で形を得る。信仰、恐怖、欲、責任、愛着。通路は、それぞれ異なる」
⸻
シンは、少しずつ理解した。
ミサネ。
薬子。
狂化兵たち。
神の名を聞いた者たちは、それぞれ違うものを抱えていた。
だから声は、同じように見えて、少しずつ違う形で入った。
⸻
「じゃあ義経は」
⸻
「完全に無視をしている」
⸻
即答だった。
少しだけ、モモの声に困惑が混じった。
⸻
「聞こえている。認識もしている。でも価値判定をしない。怖がらない。信じない。祈らない。欲にも結ばない。面倒な音として処理している」
⸻
「……それ、できるものなのか」
⸻
「通常、不能」
⸻
モモは言った。
⸻
「変。異常。面倒」
⸻
シンは少し笑いそうになった。
⸻
「お前が言うな」
⸻
モモが目を細めた。
怒ってはいなかった。
少しだけ、拗ねたようにも見えた。
空気が緩んだ。
⸻
「でも、無視できてるならいいんじゃないのか」
⸻
シンが聞いた。
⸻
「よくない」
⸻
モモの声がまた低くなった。
⸻
「命令が入らない。入らないまま残る。残った命令は、受信者の外へ漏れる」
⸻
「それが黒い影?」
⸻
「余剰。残滓。弾かれた神託の影」
⸻
モモは少し黙った。
それから、シンの目を見る。
⸻
「シンは見る。観測者だから」
⸻
シンの背中が冷えた。
⸻
「見たら、触れる。触れたら、弾かれる。だから死ぬ」
⸻
「……見ないでって、そういう意味か」
⸻
モモは頷かなかった。
ただ、目を伏せた。
⸻
「じゃあどうする。義経に、ちゃんと神託を聞かせるのか」
⸻
「違う」
⸻
「違うのか」
⸻
「受け入れる必要はない。入口を作る。聞いた、と認識する。その上で拒否する」
⸻
モモは、手を胸の前に少し上げた。
説明のための仕草だった。
珍しかった。
⸻
「無視では、命令が宙に浮く。従えば、命令が通る。拒否すれば、受信者の意志として閉じる」
⸻
「聞くだけ聞いて、断る」
⸻
「そう」
⸻
シンは息を吐いた。
分かったような、分からないような。
ただ、やることは分かった。
⸻
「つまり、義経に話を聞かせて、ちゃんと断らせる」
⸻
「そう」
⸻
「一番苦手そうな作業だな」
⸻
「同意」
⸻
モモは即答した。
シンは今度こそ笑った。
⸻
⸻
後ろで枝が折れた。
⸻
「俺が山行きたかったのに!」
⸻
義経だった。
木の間から出てきた。
息は全く切れていない。
少し不満そうな顔だった。
寝癖がついていた。
髪の一部が、ありえない方向に跳ねている。
⸻
「なんで置いていった!」
⸻
「起きてたのか」
⸻
「寝てた!」
⸻
「じゃあ何で来た」
⸻
「山が呼んだ」
⸻
「神託より雑な理由を出すな」
⸻
義経は胸を張った。
⸻
「山は信用できる」
⸻
「頭の中の声は」
⸻
「うるさい」
⸻
シンは諦めた。
ため息を一つ吐く。
モモを見る。
モモは義経を見ていた。
かなり珍しいものを見る目だった。
⸻
「何だ、桃女」
⸻
義経が言った。
⸻
「俺を見て変な顔をしている」
⸻
「変な対象を見ている」
⸻
モモが答えた。
⸻
「失礼な女だな」
⸻
「事実」
⸻
「事実なら失礼ではないと思うなよ」
⸻
シンは、思わず口元を押さえた。
笑っている場合ではない。
笑っている場合ではないが、義経とモモが普通に口喧嘩をしている光景は、あまりにも変だった。
⸻
「義経」
⸻
「ん」
⸻
「お前、頭の中の声」
⸻
「ああ。言ったっけか」
⸻
義経は普通の顔だった。
⸻
「最近うるさい。ザオウゴンゲンとか名乗る。山の神っぽい。しつこい」
⸻
「困ってないのか」
⸻
「困ってる。うるさい」
⸻
「それを困ってるとは言わない」
⸻
「では何と言う」
⸻
「分からん」
⸻
シンはモモを見た。
⸻
「どうすればいい」
⸻
モモは少し迷った。
それから、義経へ向き直る。
⸻
「無視をしない」
⸻
「嫌だ」
⸻
義経が即答した。
⸻
「一旦、聞く」
⸻
「面倒だ」
⸻
「聞くだけ聞く」
⸻
「聞いたら長いかもしれん」
⸻
「その上で拒否する」
⸻
義経は腕を組んだ。
かなり真剣な顔をした。
してから、シンを見た。
⸻
「つまり、嫌な客の話を一応聞いてから帰れと言う」
⸻
「たぶん近い」
⸻
「それならできるかもな!」
⸻
何が決め手だったのか、シンには分からなかった。
⸻
「たのむ」
⸻
シンが言った。
⸻
「俺が死ぬ」
⸻
義経の顔が、そこで少し変わった。
ふざけた色が引いた。
目だけが、静かになる。
⸻
「お前、これで死んでいたのか」
⸻
「三回」
⸻
「そうか」
⸻
義経は頷いた。
軽くはなかった。
でも重くしすぎもしなかった。
⸻
「なら、やる」
⸻
短く言った。
⸻
⸻
その時、風が止まった。
⸻
鳥の声が消えた。
木が動かなくなった。
前回と同じだった。
前々回と同じだった。
朝の山が、急に絵のように止まった。
⸻
黒い影がいた。
⸻
今回は三人の前だった。
遠くではなかった。
十歩先。
人の形だった。
顔の場所が黒い。
穴のように。
墨を塗ったように。
そこだけ、朝がない。
⸻
シンは動けなかった。
見ない。
見てはいけない。
分かっているのに、目が吸われる。
⸻
モモが少し前へ出た。
袖が揺れる。
刀には触れない。
ただ、シンと黒い影の間に立った。
⸻
義経は空を見た。
少し考えるような間があった。
それから、声に出した。
⸻
「分かった分かった!」
⸻
普通の声だった。
誰かに返事をする声だった。
⸻
「話くらい聞く!」
⸻
少し間があった。
義経は眉をひそめる。
⸻
「長い!」
⸻
シンは思わず義経を見た。
モモも見た。
⸻
「いや、聞く。聞くと言ったから聞く。だが長い! 山の神ならもう少し山らしく簡潔に言え!」
⸻
黒い影が、わずかに揺れた。
⸻
「うむ。聞いた」
⸻
義経は頷いた。
⸻
「で、断る!」
⸻
さらに間があった。
⸻
「俺は俺だ。京にも鎌倉にも、山の声にも、勝手に使われん」
⸻
義経の声が、少し低くなった。
⸻
「兄上の声で来ても、半分しか聞かん。お前の声ならなおさらだ」
⸻
黒い影の輪郭がぼやけた。
人の形が崩れる。
風もないのに、煙のように揺れる。
⸻
「しつこいぞ」
⸻
義経は笑った。
⸻
「俺は行かん」
⸻
影が薄くなった。
黒がほどける。
木の幹の影に混じる。
それから、消えた。
⸻
風が戻った。
鳥が鳴いた。
木が揺れた。
沢の音が、急に近くなった。
⸻
シンは立ったまま動けなかった。
生きていた。
死ななかった。
⸻
「おお!」
⸻
義経が声を上げた。
子供みたいな顔だった。
⸻
「できた!」
⸻
「……助かった」
⸻
シンが言った。
本当に、それだけだった。
膝から力が抜けそうだった。
⸻
「これからは追い払う」
⸻
義経は嬉しそうだった。
新しい遊びを覚えた顔だった。
⸻
「山の声を聞いて、帰れと言う。よし。覚えた」
⸻
「変な覚え方をするな」
⸻
「合っているだろ」
⸻
だいたい合っている気もした。
嫌だった。
⸻
シンはモモを見た。
⸻
「モモ、ありがとう」
⸻
⸻
モモは止まっていた。
⸻
固まっていた。
体が。
シンはすぐに気づいた。
おかしかった。
固まり方が、人のものではない。
目が揺れている。
口が少し開いている。
息が浅い。
まるで、今この瞬間だけ、内側から別の手で止められているようだった。
⸻
「モモ」
⸻
声が変わった。
⸻
「……我は、クマノ、ゴンゲン」
⸻
空気が変わった。
桃の香りがした。
いつもの香りだった。
でも次の瞬間、甘さが消えた。
香りが冷える。
霜のような。
月のような。
温度のない香りになった。
⸻
モモの体が震えた。
⸻
「違、う」
⸻
自分の声だった。
かすれていた。
苦しそうだった。
⸻
「わ、たしは」
⸻
シンは一歩出た。
モモが一歩退いた。
その動きだけは、モモ自身のものだった。
近づくな。
そう言っているようだった。
⸻
「モモ」
⸻
「まだ」
⸻
モモは言った。
⸻
「まだ、だめ」
⸻
言葉が崩れた。
唇が震える。
目が、シンを見ている。
見ているのに、焦点が合わない。
モモの奥で、白桃が目を開けようとしている。
そんな気配があった。
⸻
「シン」
⸻
名前だった。
かすかな声だった。
それだけで、シンの胸が痛くなった。
⸻
「見ないで」
⸻
モモは踵を返した。
山の奥へ向かう。
走ってはいなかった。
でも速かった。
木の間をすり抜ける。
白い袖が一度だけ枝に触れた。
桃の飾りが朝の光を返した。
⸻
「モモ!」
⸻
シンは追おうとした。
でも足が出なかった。
あの一歩退いたモモの顔が、足を止めた。
近づけば壊れる。
そう分かってしまった。
⸻
モモは木々の奥へ消えた。
白い衣が見えなくなる。
桃の香りだけが残る。
それも、少しずつ薄くなる。
朝露と土の匂いに混じって、消えた。
⸻
山は、何もなかったように静謐だった。
⸻
「何だ今の」
⸻
義経が言った。
珍しく考える顔をした。
⸻
「違うゴンゲンか?」
⸻
少し間があった。
⸻
「神も仏も、ろくなのがいないな」
⸻
シンは山の奥を見た。
もう白い衣はなかった。
⸻
「……昔からあるんだ」
⸻
声が、自分のものではないように聞こえた。
⸻
「まだ大丈夫だ」
⸻
言いながら、自分に言っている気もした。
⸻
「まだ、モモだ」
⸻
義経は黙って聞いた。
軽口を叩かなかった。
それが少し意外だった。
やがて、義経はゆっくり頷いた。
⸻
「そうか」
⸻
短かった。
それから、少しだけ笑った。
⸻
「じゃあ任せろ」
⸻
「何を」
⸻
「とりあえず今回は、お前だけでも助かって良かった」
⸻
さらりと言った。
さらりと言ったから、シンは何も返せなかった。
⸻
「これからは俺がゴンゲンを追い払う。ザオウでもクマノでも、出てきた順に帰す」
⸻
「順番待ちみたいに言うな」
⸻
「神にも順番は必要だろ」
⸻
義経は本気で言っている顔だった。
本気で、少し馬鹿なことを言っている。
でも、その奥にあるものは馬鹿ではなかった。
⸻
「桃女のやつも、そのうち追い払う。中に変なのがいるなら、そいつだけ追い出せばいい」
⸻
「そんな簡単じゃない」
⸻
「簡単じゃなくても、言うだけならただだ」
⸻
義経は山の奥を見た。
先ほどモモが消えた方角を。
⸻
「それに、あいつは嫌がっていた」
⸻
シンは義経を見た。
⸻
「嫌がってる奴を、無理やり使うのは気に食わん」
⸻
義経は笑っていた。
根拠はなかった。
策もなかった。
大した意味もなかったのかもしれない。
それでも、その言葉はまっすぐだった。
⸻
(義経……)
⸻
シンは何も言えなかった。
言葉にすると、何かがこぼれそうだった。
⸻
⸻
日が傾いた。
⸻
二人で下山した。
夕焼けが北の山を染めていた。
赤かった。
木の影が長く伸びている。
沢の音が遠ざかる。
鳥の声も少し低くなっていた。
⸻
桃の香りはなかった。
⸻
シンは歩きながら、山の奥を一度振り向いた。
白い衣はない。
誰もいない。
ただ、木々の間に夕陽が沈んでいく。
⸻
「帰ったら酒な!」
⸻
義経が言った。
⸻
「……ああ」
⸻
「あと飯」
⸻
「それはタダに言え」
⸻
「タダは言わなくても出す」
⸻
「確かに」
⸻
少しだけ、笑えた。
笑えたことに、シンは救われた。
⸻
二人の足音が、落ち葉を踏んだ。
夕風が来る。
山が鳴る。
⸻
誰もいないはずの山の奥で、一瞬だけ白いものが見えた気がした。
⸻
シンは足を止めた。
義経も止まる。
⸻
「いたか」
⸻
「分からない」
⸻
「なら、いたことにしとけ」
⸻
「何だそれ」
⸻
「いなかったことにするより、いい」
⸻
義経はそう言って、また歩き出した。
シンは少し遅れて続いた。
⸻
白いものは、もう見えなかった。
桃の香りもない。
それでも、いなかったことにはしない。
シンはそう思った。
⸻
夕焼けが濃くなった。
平泉の方から、かすかに人の声が聞こえた。
火の匂いもした。
飯の匂いもした。
戻る場所の匂いだった。
⸻
シンは山を振り向かなかった。
振り向けば、また探してしまう。
探せば、きっと痛くなる。
だから前を見た。
義経の背中を見た。
館の灯りを見た。
⸻
(モモ)
⸻
名前だけが胸に残った。
⸻
⸻
(第九十九話へ)




