黒い影
第九十七話 黒い影
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朝に飯があった。
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タダが作った。
米と、干した魚だった。
汁には山菜が少し入っていた。
苦みがある。
春の味だった。
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義経は箸を止めずに喋った。
昨日、土佐坊が現れた男とは思えない顔で、平泉の馬の話をしていた。
ユウガオが返す。
タダが黙って飯をよそう。
笑い声があった。
それだけで、館の朝だった。
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シンは食べていた。
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(とりあえず平和だ)
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昨夜の火と煙と桃の香りは、まだ頭にあった。
土佐坊の声もあった。
庭に引きずられた死体の跡も、義経の頬に残った細い傷も、見えている。
それでも今この瞬間は、米があった。
干し魚があった。
汁があった。
ユウガオの髪から、夜花の匂いがした。
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(これでいい)
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そう思おうとした。
思おうとしたところで、義経が箸を置いた。
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「山行くぞ」
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タダが顔を上げた。
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「鹿か」
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「違う」
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義経が立ち上がった。
頬の傷が、朝の光で少し赤く見えた。
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「面白い匂いする」
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説明はそれだけだった。
タダは少しだけ義経を見た。
それから「ならいい」と言って、飯に戻った。
どういう判断基準なのか、シンには分からなかった。
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「私は」
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ユウガオが言いかけた。
義経はもう外へ向かっていた。
ユウガオはその背を見て、肩をすくめる。
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「留守番する。誰かさんがまた酒蔵を空けないように見張る役」
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「俺は空けぬ」
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義経が振り返らずに言った。
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「空けるよ」
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ユウガオは即答した。
タダが小さく頷いた。
義経は笑った。
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シンは箸を置いた。
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(行かなきゃいけない気がする)
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理由は分からない。
ただ、昨日の土佐坊の言葉が残っていた。
神託は逃がさん。
お前に自由は無い。
あれは義経へ向けられた言葉だった。
けれど、聞いていたシンの胸にも刺さっていた。
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「俺も行く」
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「来い」
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義経は、当然のように言った。
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山に入った。
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春だった。
雪がまだ木の根元に残っていた。
土は湿っている。
踏むたび、足の下で柔らかく沈んだ。
鳥が鳴いていた。
遠くの沢から水の音がした。
義経は迷わず歩いた。
道ではない。
獣が通る線を、そのまま人が借りているような場所だった。
シンは枝を避けながらついていった。
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静かだった。
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「義経」
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「ん」
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「最近、変なことはなかったか」
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「変なことだらけだろ」
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「そうじゃなくて」
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シンは少し考えた。
どう聞けばいいのか分からなかった。
神託。
土佐坊。
白桃。
これまでの時代で聞いた、神の名を借りる声。
それを全部つなげて義経に聞ける言葉が、まだなかった。
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「頭の中で、何か聞こえるとか」
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義経は笑った。
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「頭の中はいつもうるさい」
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「そういう軽い話じゃなくて」
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「軽いぞ。大抵、腹が減ったとか、酒が飲みたいとか、兄上に会いたいとかだ」
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シンは言葉に詰まった。
軽い。
軽いのに、最後だけ重かった。
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「……いや、いい」
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「変な奴だな」
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「お前に言われたくない」
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義経は前を向いたまま歩いた。
枝を手で払う。
雪の残る石を踏む。
足音がほとんどしなかった。
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そこで、止まった。
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「あ」
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それだけだった。
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風が止まった。
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シンは気づいた。
鳥の声が消えていた。
さっきまで鳴いていた。
今は何もない。
沢の音も遠い。
木が動かない。
空気が止まっている。
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(何だ)
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振り向いた。
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遠くに何かがいた。
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人の形だった。
木々の間に立っていた。
輪郭だけがある。
顔が見えない。
黒かった。
黒すぎた。
影というより、そこだけ光が欠けているようだった。
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(な)
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義経を呼ぼうとした。
声が出なかった。
喉が動く前に、視界の中心が白く裂けた。
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白。
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朝だった。
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布団だった。
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シンは天井を見ていた。
しばらく、瞬きの仕方を忘れていた。
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(……死んだ?)
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体に何もなかった。
傷もない。
痛みもない。
外からタダの音がした。
膳を置く音。
火を動かす音。
義経の声がした。
昨日と同じ声だった。
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(義経は生きている)
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(俺だけ死んだ)
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(あれは何だった)
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山の中の影だったのか。
木と木の間の見間違いだったのか。
寝不足の頭が、勝手に形を作ったのか。
そう思おうとした。
だが、違った。
鳥の声が消えていた。
風が止まっていた。
義経が「あ」と言った。
あれは自分の目だけの問題ではなかった。
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起き上がった。
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廊下にユウガオがいた。
こちらを見る。
目が細くなる。
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「顔色悪い」
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「眠れなかった」
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「嘘」
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即答だった。
ユウガオはシンの顔を見た。
何かを言いかけて、止める。
昨夜のことを聞くつもりだったのかもしれない。
モモのことか。
土佐坊のことか。
それとも、もっと別のことか。
シンには分からなかった。
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「……山へ行く」
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シンが言った。
ユウガオは少しだけ黙った。
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「一人で?」
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「義経と」
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「大将と二人だと、危ない方へ行くよ」
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「知ってる」
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「じゃあ私も行く」
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シンは止めようとした。
だが、ユウガオの顔を見て、言葉を飲んだ。
置いていかれる顔ではなかった。
置いていかせない顔だった。
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三人で山に入った。
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義経。
シン。
ユウガオ。
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前回より明るかった。
花が一輪、雪の脇に出ていた。
鳥が複数鳴いていた。
ユウガオが義経に何かを聞いている。
義経が笑っている。
話している内容は、どうでもよかった。
どうでもよい話ができることが、怖かった。
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シンは後ろを歩きながら、木々を見ていた。
枝の影。
岩の影。
残雪の穴。
どれも黒く見えた。
どれも違うように見えた。
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ユウガオが隣に来た。
香りが来た。
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「緊張してる」
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「してない」
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「絶対してる」
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腕が触れた。
自然な動きだった。
シンは避けなかった。
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(こんな時にっ)
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(でも嬉しくもある……!)
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少しだけ気が緩んだ。
その一瞬だった。
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義経が止まった。
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「あ」
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シンは固まった。
振り向く。
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いた。
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今度は近かった。
前回の倍は近い。
人の形が、はっきりしていた。
背丈がある。
肩がある。
腕のようなものがある。
顔だけがなかった。
顔の場所が黒かった。
穴のように黒かった。
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ユウガオを見た。
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ユウガオは義経と話していた。
何も見えていない。
全く気づいていない。
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(俺だけか)
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(何で俺だけ)
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逃げようとした。
足が動かなかった。
黒い顔が、こちらを向いた気がした。
見えないのに、見られていると分かった。
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白。
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布団だった。
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三回目だった。
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シンは天井を見なかった。
すぐ起き上がった。
息は荒くない。
手も震えていない。
それが逆に嫌だった。
死ぬことに慣れるな、とどこかで思った。
思ったのに、体はもう動いていた。
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(整理する)
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山。
義経。
「あ」。
黒い影。
死。
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毎回同じ流れだった。
義経が止まる直前に出る。
ユウガオには見えなかった。
タダは同行していない。
シンだけが見えて、シンだけが死んだ。
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(義経が関係している)
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(でも義経が殺しているわけじゃない)
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(あの「あ」は、義経も何かに気づいていた)
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(何に気づいた?)
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もう一度行くしかなかった。
それ以外の選択肢を、シンの頭は作れなかった。
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三度目だった。
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今度はユウガオを置いて行った。
タダは何も言わなかった。
ただ、出がけに握り飯を二つ渡してきた。
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「食え」
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「今?」
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「歩くなら食え」
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反論できなかった。
シンは一つを懐に入れ、一つをその場で食べた。
塩が効いていた。
腹に入ると、少しだけ自分が人間に戻った気がした。
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山の奥へ入った。
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前回より深かった。
残雪が厚い。
人の気配がない。
獣の足跡だけが、斜面を横切っていた。
シンは義経の後ろを歩きながら、義経だけを見ていた。
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背中。
首。
足運び。
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異常はなかった。
普通に歩いていた。
枝を払った。
獣の跡を見た。
立ち止まって空気を嗅いだ。
また歩いた。
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(どこで止まる)
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(何を感じて止まる)
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そこで義経が、少し足を緩めた。
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「あー」
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今度は違った。
「あ」ではなく「あー」だった。
少し伸びた。
少し面倒そうだった。
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シンは前へ出た。
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「何だ」
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「ん」
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義経は立ち止まらずに歩いた。
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「最近、頭の中がうるさいんだよな」
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シンは止まった。
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「変なのが喋る。ザオウゴンゲンとか名乗る」
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「は」
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「昔から、たまにある」
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義経が続けた。
何気なかった。
川の水が冷たいとか、馬の毛並みがいいとか、その程度の調子だった。
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「でも無視してる」
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シンは義経の顔を見た。
困っていなかった。
悩んでいなかった。
本当に面倒臭そうなだけだった。
それだけだった。
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(無視している)
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(おそらく、例の神託を)
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(無視できるのか……コイツは)
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タケミカヅチの声で、集落は消された。
ビシャモンテンの名で、白い光が降った。
神の名を借りた何かは、人の恐れや祈りや立場に入り込む。
ミサネも、薬子も、声の外側に立つことはできなかった。
だが義経は、面倒だから無視している。
そういう顔をしていた。
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「お前、それ怖くないのか」
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「怖い?」
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義経は不思議そうに首を傾けた。
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「声だろ。斬れぬものは怖がっても仕方ない」
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「そういう話か?」
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「そういう話だ」
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義経は笑った。
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「それに、俺に命じるなら、兄上の声で来ればいいんだ」
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シンは黙った。
義経は笑っている。
でも、その一言だけは笑っていなかった。
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その瞬間。
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真横にいた。
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シンの視界の端だった。
一歩もなかった。
前回は遠かった。
今は手が届く距離だった。
人の形だった。
顔の場所が黒かった。
顔が見えそうだった。
あと少しで見えそうだった。
黒の奥に、白いものがある気がした。
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白。
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布団だった。
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四回目だった。
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シンはすぐ起き上がった。
頭が落ち着いていた。
泣きそうでもなかった。
混乱でもなかった。
それが、ますます嫌だった。
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(義経の頭に声が届いている)
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(そして、あの黒いものが来る)
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(タケミカヅチ。ビシャモンテン。ザオウゴンゲン)
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(毎回、形を変えてくる何かが、今度は義経に向いている)
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ただし、今回は少し違う。
義経は従っていない。
聞こえているのに、従っていない。
だから黒い影が出るのか。
それとも、黒い影のせいで義経だけがあの声を無視できているのか。
分からなかった。
分からないことが、また一つ増えた。
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外へ出た。
⸻
庭だった。
春の朝だった。
前と同じ朝だった。
義経の笑い声が遠くでする。
タダが火を動かしている。
ユウガオが何か文句を言っている。
何も壊れていない。
壊れたのは、シンの中の時間だけだった。
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モモがいた。
⸻
垣根の端だった。
ただ立っていた。
どこかを見ていた。
白から薄桃の衣。
黒い髪。
桃の飾り。
朝の光の中にいるのに、そこだけ夜が残っているようだった。
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シンは近づいた。
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「……お前、知ってるな」
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モモは動かなかった。
少し間があった。
目が動く。
シンを見た。
それだけだった。
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「あの影。義経に来てるやつ。お前は知ってる」
⸻
モモは何も言わなかった。
視線が一度揺れた。
ほんの少しだった。
それでも、シンには分かった。
知らない目ではなかった。
言えない目だった。
⸻
「モモ」
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名前を呼んだ。
モモの指が動いた。
袖の端を、少し握る。
刀には触れなかった。
⸻
「俺、また死んだ」
⸻
モモの目が、わずかに開いた。
それは驚きだったのか。
記録との差異だったのか。
それとも、もっと別のものだったのか。
シンには分からない。
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「見えたのは俺だけだ。ユウガオには見えてない。義経は声だけ聞いてる。ザオウゴンゲンとか言ってた。あれ、何だ」
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モモは沈黙した。
長い沈黙だった。
鳥が鳴いた。
タダの足音が遠くでした。
義経の笑い声が混じった。
その全部が、モモの沈黙の外側にあった。
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「回答不能」
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モモが言った。
小さな声だった。
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「不能じゃなくて、言いたくないんだろ」
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「……誤差」
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また、その言葉だった。
シンの胸の奥で何かが熱くなる。
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「何でも誤差で済ますな」
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モモの睫毛が震えた。
怒ったのかもしれない。
悲しんだのかもしれない。
それすら分類しきれないように見えた。
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「誤差、増加」
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モモは言った。
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「対象、源義経。観測干渉、拡大。接近、非推奨」
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「非推奨ってことは、行くなってことか」
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「非推奨」
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「止めたいなら、止めろよ」
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言ってから、シンは息を呑んだ。
モモがこちらを見ていた。
何も言わない。
何も言えない。
その顔が、昨夜の火の向こうにいたモモと重なった。
動かされる白桃。
戻りかけるモモ。
その境にいる女。
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「……不同意」
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モモは、かすかに言った。
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「何に」
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モモは答えなかった。
踵を返す。
白い袖が揺れる。
桃の香りが引いた。
垣根の角を曲がる直前、モモは一度だけ止まった。
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「黒は、見ないで」
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それだけ言った。
次の瞬間、消えた。
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シンは庭に一人だった。
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(誤差)
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(また誤差だ)
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意味は分からなかった。
だが確信だけが残った。
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(次はあいつだ)
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(モモから聞く)
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春の光が庭に差していた。
遠くで義経の声がした。
笑っていた。
昨日と同じ声だった。
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シンは庭を見た。
黒い影はなかった。
今は何もなかった。
⸻
(今は)
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(第九十八話へ)




