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土佐坊

第九十六話 土佐坊


⸻


 朝の光が薄かった。


⸻


 泰衡は書机の前に座っていた。


 書状が積まれている。


 昨日より増えていた。昨日も多かった。一昨日も多かった。


 南から来るもの。


 鎌倉から来るもの。


 京から来るもの。


 そのどれもが、同じところへ向かっていた。


⸻


 義経をどうする。


⸻


 一番上を開いた。


 頼朝からの使者が持ってきたものだった。


 読んだ。


 閉じた。


 また開いた。


 内容は変わらなかった。


⸻


 義経を引き渡せ。


⸻


(分かっている)


⸻


 泰衡は書状を置いた。


 目を閉じる。


 額に指を当てた。


 眠れていなかった。


 昨夜も。


 一昨夜も。


 目を閉じると、声がした。


 闇の奥から来る声だった。


 北の地の、さらに深い底から響いてくるような声だった。


⸻


 守れ。


⸻


 初めは、そう聞こえた。


 次には、断て、と聞こえた。


 さらに次には、捨てよ、と聞こえた。


 声は名を名乗った。


 古い名だった。


 都の人間なら、記録の中でしか知らぬ名。


 この土地の者なら、土の下にまだ熱を持っている名。


⸻


 その名は、声の中にだけあった。


⸻


 そう言った。


 いや、そう聞こえた。


 泰衡には、それが本当に声だったのかも分からない。


 夢の中で見た文字だったのか。


 眠りの底で聞いた祈りだったのか。


 己の血が勝手に作った幻だったのか。


 分からない。


 分からないのに、胸の奥だけが先に膝をついた。


⸻


(なぜ、私に)


⸻


 泰衡は息を吐いた。


 奥州藤原氏は、都の藤原を名乗る。


 だが、この北の地で生きてきた家でもあった。


 清衡公の母には安倍の血がある。


 安倍も清原も、都の姓を持ちながら、この土地の民と婚を重ね、山と川と雪の中で力を蓄えた一族だった。


 都から見れば、彼らはしばしば異なる名で呼ばれた。


 夷。


 俘囚。


 境の者。


 だが、奥州に住む者にとってそれは蔑みだけではない。


 古くからこの地を守った者たちの記憶でもあった。


 泰衡もそれを知らぬわけではない。


 知らぬわけではないが。


⸻


(それでも、なぜ私に)


⸻


 北の地を守れ。


 その意思だけは分かった。


 それは父、秀衡の意思とも重なる。


 鎌倉にも京にも飲まれず、奥州を奥州として立たせる。


 米も、馬も、金も、人も、山も、川も、ここに生きる者のために使う。


 そこまでは同じだった。


 違うのは、一点だけだった。


⸻


 義経を、どうするか。


⸻


 父は守れと言った。


 声は切れと言った。


 そこだけが、どうしても重ならない。


 その一点だけが、泰衡の眠りを削っていた。


⸻


 廊下で足音がした。


 国衡だった。


 泰衡は顔を上げなかった。


 国衡は部屋に入り、書状の山を見た。


 それから、弟を見た。


⸻


「眠れたか」


⸻


「少し」


⸻


 嘘だった。


 国衡には分かったと思う。


 それでも、兄は責めなかった。


 ただ脇に立った。


⸻


「また、あの声か」


⸻


 泰衡の指が止まった。


 国衡には、すでに話してあった。


 名も。


 言葉も。


 父の遺言と食い違う一点も。


 泰衡一人で抱えるには、その名は重すぎた。


⸻


「兄上は、どう思う」


⸻


「分からん」


⸻


 国衡は即答した。


 泰衡が顔を上げる。


 兄は、いつものように武骨な顔で立っていた。


 だが目だけは、少し遠いところを見ていた。


⸻


「俺は、あの名を軽く扱いたくない」


⸻


 国衡が言った。


⸻


「北上の川も、祖父どもが語った昔話も、みなあの名に続いている。都の者がどう書こうと、俺たちの土地では違う重みを持つ。英雄だ。少なくとも、俺はそう思っている」


⸻


 泰衡は黙って聞いた。


⸻


「だからこそ、疑う」


⸻


「疑う?」


⸻


「英雄が、人の眠りに忍び込んで、捨てよ、切れ、とだけ言うか」


⸻


 国衡の声は低かった。


⸻


「北を守れというなら分かる。鎌倉に屈するなというなら分かる。だが、義経殿をどう扱うかまで、かの英雄がそのように命じるのか。俺には分からん」


⸻


 泰衡は目を伏せた。


 それは、泰衡自身が一番聞きたかった言葉だった。


 同時に、一番聞きたくなかった言葉でもあった。


⸻


「では、偽りだと?」


⸻


「そこまでは言わん」


⸻


 国衡は首を振った。


⸻


「ただ、神の名を借りる者はいる。都にも、鎌倉にも、寺にも、社にも」


⸻


 泰衡の喉が鳴った。


 神の名。


 声。


 命令。


 そのすべてが、昨夜の闇と重なる。


⸻


 外から声がした。


 来客を告げる声だった。


 国衡の手が、わずかに腰へ寄った。


 泰衡は立ち上がった。


⸻


⸻


 男は、僧兵の姿をしていた。


 黒と白の衣。


 使い込まれた念珠。


 顔に古い傷がある。


 体は大きい。


 だが、大きさよりも先に静けさが来た。


 人が一人入ってきたというより、音が一つ消えたようだった。


 泰衡は男を見た。


 国衡も見た。


 どちらも、すぐには名を思い浮かべられなかった。


 見知らぬ男だった。


⸻


「名を」


⸻


 国衡が言った。


 男は泰衡ではなく、国衡を見た。


 それから、ゆっくりと名乗った。


⸻


「土佐坊昌俊」


⸻


 空気が、少しだけ凍った。


 泰衡の背に冷たいものが走る。


 国衡の指が、今度こそ太刀の柄に触れた。


⸻


「死んだと聞いた」


⸻


 泰衡が言った。


 声が、自分のものではないように乾いていた。


⸻


「生き死には、縁によって変わる」


⸻


 土佐坊は答えた。


 低い声だった。


 感情がない。


 誇りも、怒りも、恥もない。


 死んだと言われた者が返す言葉としては、あまりにも平らだった。


⸻


「院は、義経殿をまだ望んでおられる」


⸻


 土佐坊が続けた。


⸻


「熊野権現の御神託だ」


⸻


 泰衡の胸の奥が、嫌な音を立てた。


 国衡が横目で弟を見る。


 土佐坊は、そのわずかな動きも見逃さなかった。


⸻


「お前にも届いているはずだ。声は」


⸻


 泰衡は答えなかった。


 答えられなかった。


 届いている。


 だが、同じではない。


 自分に届いた声は、熊野ではなかった。


 もっと北の名を名乗っていた。


 だが、それをこの男に言っていいのか。


 言えば、何が起きるのか。


 分からなかった。


⸻


「白桃を動かす勅も得た」


⸻


 土佐坊は言った。


 まるで天気を告げるような声だった。


⸻


「時が来れば使う。義経殿は京へ戻す。戻らぬなら削る。削ってなお戻らぬなら、奥州ごと処理する」


⸻


「処理」


⸻


 国衡が低く繰り返した。


 その一語に、怒りが混じった。


 土佐坊は見なかった。


 怒りに意味を認めていない顔だった。


⸻


「神託に従え。それだけだ」


⸻


「法皇の意思か」


⸻


 泰衡が聞いた。


 土佐坊は少しだけ目を動かした。


⸻


「院は、お望みの時に望まれる。望まぬ時には聞き流される」


⸻


 妙な言い方だった。


 それなのに、なぜか分かりやすかった。


 あの法皇なら、そうなのだろう。


 神託を受けても、遊ぶように聞く。


 使える時だけ使う。


 飽きれば捨てる。


 操られているのではない。


 もっと厄介なことに、己の気分で神の声さえ道具にする。


⸻


「鎌倉は」


⸻


 国衡が言った。


⸻


「頼朝殿は、これを知っているのか」


⸻


「知るべきだけを知っておられる」


⸻


 土佐坊は答えた。


⸻


「神託は、鎌倉にも届く」


⸻


 泰衡は息を止めた。


 得体の知れぬ意思が、同じ方向へ人を押している。


 そう思った瞬間、部屋の広さが一気に狭くなった。


⸻


「使者として来たのか」


⸻


 泰衡が聞いた。


⸻


「確認に来た」


⸻


「何の」


⸻


「お前が、まだ迷うかどうか」


⸻


 泰衡は何も言えなかった。


 土佐坊は一礼もしなかった。


 踵を返す。


 廊下へ出る。


 足音は小さかった。


 やがて消えた。


⸻


 部屋が静かになった。


 静かすぎた。


 泰衡は座り込んだ。


 頭を抱える。


⸻


(違う)


⸻


(私の声は熊野権現ではない)


⸻


(だが、違うなら何だ)


⸻


(我々に何をさせたいのだ)


⸻


 国衡がそばにいた。


 声をかけなかった。


 弟を見ていた。


 その顔は怒っていた。


 同時に、悲しそうでもあった。


⸻


「当主」


⸻


「分かっている」


⸻


 泰衡は言った。


 何が分かっているのか、自分でも分からなかった。


⸻


⸻


 土佐坊は歩いた。


 廊下の木が鳴る。


 庭の砂利が鳴る。


 門を出る。


 人の視線が背に触れる。


 すべて記録した。


 敵意。


 恐怖。


 疑念。


 有用。


 無用。


 分類は速かった。


 感情は遅かった。


 だから捨てた。


⸻


 任務。


⸻


 義経を京へ誘導。


 白桃の運用権限を確認。


 奥州藤原氏の反応を観測。


 泰衡の迷いを維持。


 国衡の反発を記録。


 必要時、分断。


⸻


 それだけでよかった。


 それ以外は邪魔だった。


 だが、邪魔なものは時折浮かんだ。


 御簾。


 香。


 細い笑い声。


 京の夜。


 法皇の指が、盃の縁を軽く叩く音。


⸻


「面白い」


⸻


 後白河院はそう言った。


 信じているようにも、馬鹿にしているようにも聞こえた。


 そばにいた者たちは笑わなかった。


 常世衆は、笑わない。


 御簾の陰。


 灯りの届かない柱の脇。


 人の姿をした影がいた。


 彼らは、土佐坊の傷を見た。


 死にかけた体を見た。


 常世へ向かうはずだった命を拾い上げた。


 名を残し、中身を削った。


 土佐坊昌俊という形だけを、もう一度立たせた。


⸻


「白桃を使うなら、勅が要るのぅ」


⸻


 誰かが言った。


 誰の声だったかは、もう要らなかった。


⸻


「ならば出そう。院宣でも、別当の沙汰でも、何でも形は作れる」


⸻


 後白河院は楽しそうだった。


 神託を受けた者の顔ではない。


 盤上の駒を増やす者の顔だった。


 この大天狗は操られるようなタマではない。


 少なくとも、土佐坊はそう判断していた。


 操られている者は、命令を聞く。


 この男は、命令を眺める。


 眺めて、気分のよいところだけを拾う。


 それが、もっとも面倒だった。


⸻


 頼朝の名もあった。


 鎌倉は沈黙している。


 頼朝は測っていた。


 冷たく、正しく、必要な距離で。


 事を成す為に。


 土佐坊には、その方が分かりやすかった。


⸻


 義経だけが、分かりにくい。


⸻


 あれは戻らない。


 戻るように命じられても、戻らない。


 削っても、曲がらない。


 折れるまで進む。


 だから任務は、単純ではなかった。


⸻


 単純でなくとも、従うだけだった。


⸻


⸻


 数日が経っていた。


 義経の館は、相変わらずだった。


 朝に飯があり、昼に遊び。


 夜に酒があった。


 義経が笑い、夕顔が返し、タダが黙って飯を出した。


 平和に見えた。


 見えるだけだった。


⸻


 シンは縁側に座っていた。


 夕顔が隣に来る。


 腕が触れた。


 何やら柔らかくて温かいものが当たる。


 昼なのに、夜花の匂いがした。


⸻


「また難しい顔してる」


⸻


「してない」


⸻


「してる」


⸻


 夕顔は近かった。


 昨日より近かった。


 一昨日より近かった。


⸻


(この人の距離感は困る)


⸻


 シンは少しずれた。


 夕顔がまた寄ってきた。


⸻


(当たってるのよ)


⸻


(何なのよもう)


⸻


 その時、義経が表に出た。


 笑っていなかった。


 珍しかった。


 本当に珍しかった。


 シンは目を細める。


 遠くの木の上に何かがいた。


 人の形。


 弓。


⸻


(刺客だ)


⸻


 立ち上がろうとした。


 その前に矢が来た。


 義経は振り向いていなかった。


 ただ、体だけが動いた。


 頭が一寸下がる。


 矢が頬をかすめた。


 血が出た。


 義経は笑った。


⸻


「へえ」


⸻


 次が来た。


 死角からだった。


 石礫だった。


 義経は見ていなかった。


 肩が半歩動いた。


 礫が空を切る。


 足が跳ねた。


 庭石を踏んだ。


 体が消えたように見えた。


 次の瞬間、木の上から人が落ちた。


 一人。


 続けて、庭の端からもう一人。


 どちらも声を出せなかった。


 数秒だった。


 それで終わった。


 義経は頬の血を指で拭いた。


 舐めた。


 もう笑っていた。


⸻


 シンは縁側に立ったまま、何もできていなかった。


⸻


「……俺、やることないな」


⸻


 小声で言った。


 夕顔がシンの袖を引く。


⸻


「大将って、おかしいよね。普通に」


⸻


「おかしい」


⸻


 二人で黙った。


 義経は倒れた刺客のそばにしゃがみ、顔を覗き込んでいた。


 興味はありそうだった。


 怒ってはいなかった。


 そこがまた怖かった。


⸻


 空気が変わった。


⸻


 タダが台所の前で手を止めた。


 夕顔の指が、シンの袖をつかんだまま固まった。


 義経が顔を上げる。


 門の前に、男が立っていた。


 黒白の僧兵装束。


 顔の古傷。


 大きな体。


 いつ来たのか分からなかった。


 最初からそこにいたようでもあり、今この瞬間に置かれたようでもあった。


 男は庭の二つの体を見た。


 それから、義経を見た。


⸻


「この程度の手駒では、いかにもならんようだな」


⸻


 義経は目を細めた。


 笑みが消える。


 シンは初めて見る顔だった。


 怒りではない。


 驚きでもない。


 もっと古い場所から、何かを掘り起こした顔だった。


⸻


「土佐坊」


⸻


 義経が言った。


 声は静かだった。


 静かすぎた。


⸻


「おかしいな」


⸻


 義経は首を少し傾ける。


⸻


「殺したはずだ」


⸻


 男は答えなかった。


 シンは息を呑んだ。


 殺したはず。


 その言葉が軽く出たことも怖かった。


 それを聞いた男が、眉一つ動かさないことも怖かった。


⸻


「それに」


⸻


 義経が鼻を鳴らした。


⸻


「匂いが違う」


⸻


 土佐坊の目が、わずかに動いた。


 初めて反応らしい反応だった。


 義経は立ち上がる。


 頬の血が、顎の方へ細く落ちていた。


⸻


「まあ、いい」


⸻


 義経は笑った。


 いつもの笑いに戻りかけていた。


 だが、目だけが戻っていなかった。


⸻


「とにかく俺は従わん」


⸻


 土佐坊は義経を見た。


 その視線に、再会の情はなかった。


 ただ、対象を測る目だった。


⸻


「義経殿」


⸻


 土佐坊が言った。


⸻


「京へ戻られよ。法皇猊下が待っておられる。御身はまだ必要だ」


⸻


「院が?」


⸻


 義経が笑った。


⸻


「あの爺様が俺を必要にする時は、大抵、俺以外のものも一緒に欲しがっている」


⸻


「世はまだ乱れる」


⸻


 土佐坊は続けた。


 義経の言葉を受けたというより、決められた順に言葉を置いているようだった。


⸻


「いずれ鎌倉にも誅を下す。今は京で力を蓄えられよ」


⸻


「……兄上は分からず屋だ」


⸻


 義経は言った。


 静かな声だった。


⸻


「でも敵じゃない。いつか分かり合える。兄弟だからな。俺はここで待つ」


⸻


 シンは義経を見た。


 横顔だけだった。


 それでも分かった。


 義経は、頼朝の影を見ている。


 この土佐坊の背後に。


 鎌倉の冷たい意思を。


 かつて自分を殺そうとした命令を。


 それでも義経は、兄を敵と言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。


⸻


「神託は逃がさん」


⸻


 土佐坊が言った。


⸻


「お前に自由は無い」


⸻


 義経の笑みが薄くなった。


 タダが一歩出ようとした。


 シンも動きかけた。


 だが、土佐坊の動きの方が早かった。


 戦うためではない。


 庭に倒れた刺客の襟を片手でつかむ。


 もう一人の帯をつかむ。


 大きな体が、二つの死体を荷のように持ち上げた。


⸻


「記録は回収する」


⸻


 土佐坊は言った。


⸻


「次は、別の手段を用いる」


⸻


 踵を返す。


 死体を引きずる音がした。


 砂利が鳴る。


 血の跡が細く伸びる。


 門の外へ消えた。


 誰も追わなかった。


 追えなかった。


⸻


 しばらくして、義経が盃を取りに戻った。


 何もなかったような顔だった。


 頬の傷だけが赤い。


⸻


「大将」


⸻


 夕顔が呼んだ。


⸻


「ん?」


⸻


「今の、放っておいていいの」


⸻


「よくはない」


⸻


 義経は酒を飲んだ。


⸻


「でも、俺は行かん」


⸻


 短く言った。


 それで終わりだった。


 タダが火の支度に戻る。


 夕顔が台所へ入る。


 義経が縁側に座る。


 何もなかったように、館の日常が戻っていく。


 戻っていくように見えた。


⸻


 シンだけが、動けなかった。


⸻


⸻


 夜になった。


 火が落ち着いていた。


 義経は早めに眠った。


 眠ったというより、タダに寝かされた。


 夕顔は酒を少し飲み、奥へ入った。


 タダは片付けを終えると、火のそばにしばらく座っていた。


 何も言わなかった。


 その沈黙だけで、何かが近づいていることが分かった。


 やがてタダも立った。


 奥へ消えた。


⸻


 シンは一人になった。


 囲炉裏の火を見ていた。


⸻


(神託)


⸻


 頭の中で、その言葉だけが残っていた。


 タケミカヅチの声で、集落は消された。


 アサメを貫いた白雷。


 北の英雄たちを呑み込んだ、あの白い光。


 神の名。


 人の声。


 その奥にいる、何か。


⸻


(毎回ある)


⸻


(毎回、声がある)


⸻


(そしてその声に引きずられて、何かが壊れる)


⸻


 シンは火から目を上げた。


 庭の端に白い衣があった。


 暗い中でも分かった。


 薄桃色だった。


 黒髪だった。


 桃の飾りが、火の光を小さく返していた。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 モモが立っていた。


 こちらを見ていた。


 何も言わなかった。


 目が合った。


 それだけだった。


 何かを言おうとして、言わなかった。


 シンも言えなかった。


⸻


「モモ」


⸻


 名前だけが出た。


 モモの指が、わずかに動いた。


 刀の柄ではない。


 袖の端を、少しだけ握った。


⸻


「……誤差、増加」


⸻


 小さな声だった。


 それが警告なのか、報告なのか、助けを求める言葉なのか、シンには分からなかった。


 次の瞬間、モモは踵を返した。


 夜闇の向こうへ消える。


 音もなく。


 桃の香りだけが残った。


⸻


 シンは火を見た。


⸻


(また始まる)


⸻


(また何かが動き出す)


⸻


 火が揺れた。


 煙が上がる。


 闇に溶ける。


 外では春の夜風が木の葉を鳴らしていた。


 平泉はまだ静かだった。


 その静けさが、重かった。


⸻


⸻


(第九十七話へ)


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