↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
95/149

夜の花と面倒な夜


第九十五話 夜の花と面倒な夜


⸻


 外からタダの薪割りの音がした。


⸻


 規則正しい。


 一定の間隔で、斧が丸太へ落ちる。


 昨日と同じ音だった。


⸻


 義経の笑い声が聞こえた。


 ユウガオが何か返す。


 また義経が笑う。


⸻


 これも昨日と同じだった。


⸻


 シンは布団の上に座っていた。


 腹に手を当てる。


 何もない。


 傷はない。


 痛みもない。


 血の匂いも、腹の中から抜けていく熱も、全部どこにも残っていなかった。


⸻


(一度目)


⸻


(義経は死んでない)


⸻


(俺が先に死んだ)


⸻


 外の声は続いている。


 笑い声も、薪の音も、春の鳥の声も、昨日と何一つ変わらない。


 昨日の夕方、山道で何が起きたか。


 義経がどんな顔で笑っていたか。


 シンの腹に刃が入ったことも。


 義経が「あ」と声を漏らしたことも。


 誰も知らないまま、朝が来ていた。


⸻


(あれで終わりなら、笑えない)


⸻


 シンは立ち上がった。


 衣を整え、戸の前で一度だけ息を吐く。


 手が少し震えていた。


 死んだことへの恐怖ではない。


 同じ音が、同じ朝に戻っていることへの気持ち悪さだった。


⸻


 外へ出る。


⸻


 タダが薪を割っていた。


 斧を振り下ろす手が止まる。


 シンを見た。


 何も言わない。


 それから、また斧を振り上げた。


⸻


 ぱかん、と丸太が割れる。


⸻


「飯あるぞ」


⸻


 それだけ言った。


⸻


「……あとで食う」


⸻


 タダは頷きもしなかった。


 ただ、次の丸太を置く。


 シンがどこへ行こうとしているのか、聞かない。


 止めもしない。


 でも見ていないわけではない。


 その背中だけで、何かあれば戻ってこいと言っているようだった。


⸻


(本当に死ぬのか、義経が)


⸻


 庭を抜けながら考える。


⸻


(あの鬼より強い怪獣が)


⸻


 あの山道での戦闘を思い出した。


 低く沈む体。


 矢より先に動く足。


 倒れた相手へ、なお踏み込もうとする顔。


 笑っていた。


 戦っていたのではない。


 遊んでいた。


 終わった後も、止まらなかった。


 周りを見ていなかった。


⸻


(あれを守る?)


⸻


(無理だろ)


⸻


 館を出る。


 人の声が遠くなる。


 山の方へ向かった。


⸻


⸻


 山は静かだった。


⸻


 木の根元には、まだ雪が少し残っている。


 解けた水が土へ染み込み、黒く湿っていた。


 鳥が鳴く。


 風が通ると、枝が鳴る。


 それだけだった。


⸻


 倒木があった。


 苔がつき、半分ほど土に沈んでいる。


 シンはそこへ腰を下ろした。


⸻


 義経の動きを思い出す。


 低かった。


 速かった。


 説明できなかった。


 人の動きではない。


 刺客が四人いて、四人全員が十数秒で終わっていた。


 その中で、義経は一度も本気で困っていない。


⸻


(強すぎる)


⸻


(人じゃない)


⸻


 そう思った瞬間、声がした。


⸻


「また戻ったか」


⸻


 シンは跳ねるように立ち上がった。


⸻


「わ!」


⸻


 岩の上に、最初からいた。


 山伏の姿。


 白髪交じりの髪。


 年を取った顔なのに、目だけが妙に若い。


 ミチヌシだった。


⸻


「アンタまだいたのか」


⸻


「俺はすべての道の上にいる」


⸻


「相変わらず分からん」


⸻


「分からぬものは、分からぬまま持て。急いで名をつけると、目が濁る」


⸻


 また分からないことを言う。


 ただ、不思議と腹は立たなかった。


 シンは倒木へ座り直す。


 ミチヌシは岩の上で膝を立て、遠くの木々を見ていた。


⸻


「……義経が強すぎる」


⸻


 シンは言った。


⸻


「俺が守るより先に、俺が死ぬ」


⸻


 ミチヌシはすぐには答えない。


 風が通った。


 袖の端が揺れる。


⸻


「あれは、人の理から少し外にいる」


⸻


 静かな声だった。


⸻


「故に人と共に在れん。いずれ人とぶつかる。道を退くのは人か」


⸻


 少し間がある。


⸻


「あれか」


⸻


 シンは黙っていた。


⸻


「最初から、ああだったのか」


⸻


 ミチヌシの目が、少しだけ細くなる。


⸻


「牛若とも、遮那王とも呼ばれていた頃がある」


⸻


「子供の頃?」


⸻


「子供だった。だが、子供の道を歩いてはいなかった」


⸻


 ミチヌシは懐かしむように、空ではなく、山の奥を見た。


⸻


「鞍馬の山に来たばかりの頃、あれはよく迷子になった」


⸻


「義経が?」


⸻


「迷子になるために歩いていた。寺の者が探す。僧が怒る。山の者が笑う。あれは木の上からそれを見ていた」


⸻


「……性格悪くない?」


⸻


「悪かった」


⸻


 ミチヌシは真顔で言った。


⸻


「だが、ただの悪戯ではない。道を見ていた。人がどの道を選ぶか。どこで焦るか。どこで諦めるか。誰が上を見るか。誰が足元しか見ぬか。子供の目で、それをずっと数えていた」


⸻


 シンは黙った。


 義経が人の間を抜ける姿を思い出す。


 市場で。


 山道で。


 戦の中で。


 義経は、いつも誰より早く道を見つけていた。


⸻


「俺が初めて会った時、あれは崖の上に立っていた」


⸻


 ミチヌシが続ける。


⸻


「下には谷がある。足を滑らせれば死ぬ。寺の者は青ざめていた。俺が何をしていると聞くと、あれはこう言った」


⸻


 ミチヌシの声が、少し幼い調子を帯びた。


⸻


「空にも道はあるか」


⸻


 シンは思わず顔を上げた。


⸻


「それで?」


⸻


「俺は、ないと答えた」


⸻


「ないんだ」


⸻


「人にはない」


⸻


 ミチヌシは淡々と言う。


⸻


「するとあれは笑った。では、人でなければあるのだな、と」


⸻


 シンは言葉を失った。


 子供の言葉のはずなのに、どこかぞっとする。


⸻


「それからだ。俺はあれに、道を教えた」


⸻


「剣じゃなくて?」


⸻


「剣は後からついてくる。足の置き場。息の隠し方。木の根を踏まぬ歩き方。転ぶ時に死なぬ落ち方。相手を見る前に、相手が見ていないものを見ること」


⸻


 ミチヌシは岩から降りた。


 音がしなかった。


 枯れ枝が落ちているのに、踏んだ気配すらない。


⸻


「教えたのは勝ち方ではない。戻り方だ」


⸻


「戻り方?」


⸻


「道の外は楽しい。人が作った柵を越えれば、見えるものが増える。だが、戻る橋を持たぬ者は、外へ出たまま帰れなくなる」


⸻


 シンは義経の顔を思い出した。


 笑っていた顔。


 倒れた敵を見ていた目。


 シンが刺された瞬間に、ようやく戻ってきた「あ」の声。


⸻


「義経は、帰れないのか」


⸻


「帰る道を忘れやすい」


⸻


 ミチヌシは言った。


⸻


「悪ではない。残酷を好むわけでもない。ただ、あれにとっては人が遅すぎる。恐れも、迷いも、ためらいも、あれの中ではすぐ通り過ぎる。人が足を止めて震える場所を、あれは笑って跳ぶ」


⸻


「だから、周りが見えない」


⸻


「見えぬのではない。見る必要がないと思ってしまう」


⸻


 シンの喉が詰まった。


 それは強さだった。


 同時に、どうしようもない弱さでもあった。


⸻


「守りたいのか」


⸻


 ミチヌシが聞いた。


⸻


「守りたい」


⸻


 シンはすぐ答えた。


⸻


「でも方法が分からない。あんなの、俺が何をしても先に動く。俺が声を出す前に終わってる」


⸻


「強すぎる。だが裏返せば弱い」


⸻


「どこが弱い」


⸻


「道だ」


⸻


 ミチヌシは、足元の土を指した。


⸻


「あれは一人で歩く。一人で歩けすぎる。だから道を独り占めする。置いてやれ。呼んでやれ。たまに袖を引いてやれ。それだけでいい」


⸻


「それだけ?」


⸻


「それだけが難しい」


⸻


 シンは少し考えた。


 昨夜の「あ」という声を思い出す。


 たった一文字。


 驚いていた。


 あの時だけ、義経は人間に戻った。


 強すぎる鬼ではなく、何かを失いかけた若い男の声だった。


⸻


「俺は、義経の前に立てばいいのか」


⸻


「違う」


⸻


 ミチヌシは首を振る。


⸻


「前に立てば踏まれる。後ろにいれば置いていかれる。横だ」


⸻


「横」


⸻


「横を歩く者は、前も後ろも見える」


⸻


 シンは息を吐いた。


 守るという言葉の形が、少しだけ変わる。


 義経の盾になるのではない。


 義経の刃になるのでもない。


 義経が見ていないものを見る。


 義経が戻る道を、ぎりぎりまで消さない。


⸻


「……できるかな」


⸻


「できるかではない。おまえは戻る。ならば見るまで戻れ」


⸻


「雑だな」


⸻


「道とは雑なものだ。人が綺麗にしたがるだけでな」


⸻


 ミチヌシは少し笑った。


 それから、シンの方を見る。


⸻


「あれは天狗に育てられたと言われる」


⸻


「アンタのことだろ」


⸻


「人は分からぬものに名をつける。山で消える者を天狗と呼び、強すぎる者を鬼と呼ぶ。だが名をつけても、その者が分かるわけではない」


⸻


 ミチヌシの目が、深くなる。


⸻


「義経は鬼ではない。天狗でもない。人であるには遠く、神であるには近すぎる。そういう面倒な男だ」


⸻


「面倒なのばっかりだな、この時代」


⸻


「おまえも含めてな」


⸻


「俺は普通だろ」


⸻


「何度も死んで同じ朝に戻る者を、普通とは言わぬ」


⸻


 それはそうだった。


 シンは黙る。


⸻


 ミチヌシは満足したように頷いた。


 次の瞬間、姿が薄れる。


⸻


「おい、待て。いつも急に消えるな」


⸻


「道は待たぬ」


⸻


「会話は待てよ」


⸻


 返事はなかった。


 音もなく、跡もなく、ただ消える。


⸻


 山が静かになった。


 鳥が鳴いた。


⸻


⸻


 しばらくして、足音がした。


⸻


「やっぱり居た」


⸻


 ユウガオだった。


 木の間から来る。


 息は切れていない。


 最初から居場所を知っていたような顔だった。


⸻


「探したのか」


⸻


「少しだけね」


⸻


「少しでここまで来るのか」


⸻


「白拍子を甘く見ないでよ。逃げる男を追うのは慣れてる」


⸻


「何その物騒な慣れ」


⸻


 ユウガオは笑わなかった。


 倒木の隣に座る。


 近い。


 香りがした。


 夜に咲く花の匂いだった。


 まだ明るいのに、夜の気配だけが先に来ている。


⸻


「ねぇ」


⸻


 ユウガオが言った。


⸻


「何か抱えてるでしょ」


⸻


「……別に」


⸻


「嘘」


⸻


 即答だった。


⸻


 ユウガオがさらに身を寄せる。


 シンは少し横へずれた。


⸻


「気になっちゃうんだよ」


⸻


 ユウガオの声は、いつもの艶を少しだけ失っていた。


⸻


「抱えてる人を放っておけない性分でさ」


⸻


「優しいんだな」


⸻


「違うよ」


⸻


 ユウガオは木々の向こうを見る。


⸻


「置いていかれる顔を、知ってるだけ」


⸻


 シンは何も言えなかった。


 風が来る。


 枝が鳴る。


 ユウガオの髪が頬にかかった。


⸻


「京にいた頃さ」


⸻


 彼女はぽつりと言った。


⸻


「大きな屋敷って、外から見ると華やかなんだよ。門は広いし、灯りは多いし、絹の擦れる音まで上等に聞こえる。でも中にいる人間が、みんな帰る場所を持ってるとは限らない」


⸻


「ユウガオも?」


⸻


「さあね」


⸻


 笑う。


 だが、目は笑っていない。


⸻


「偉い人のそばにいると、着るものには困らない。食べるものにも困らない。歌えば褒められるし、舞えば盃が増える。でも、旗の色が変わると全部変わる」


⸻


 赤い旗と白い旗。


 海へ向かう都落ち。


 シンの中に、知識とも記憶ともつかないものが揺れた。


⸻


「連れていかれなかったのか」


⸻


「いい女は荷になるんだって」


⸻


 ユウガオは軽く言った。


 軽く言ったからこそ、重かった。


⸻


「捨てられた、って言えば分かりやすいかな。でも、それを可哀想って顔で見られるのは嫌い」


⸻


「……しない」


⸻


「うん。アンタはしなさそう」


⸻


 ユウガオが、そこで初めて少し笑った。


⸻


「そのあと、静に会った。昔から知ってる子。あの子も、まあ、いろいろ抱えるのが上手な子でね」


⸻


「シズカ?」


⸻


「静御前。大将の想い人」


⸻


 ユウガオは倒木に手を置く。


 指先が白い。


⸻


「あの子に頼まれたんだよ。最後まで見届けてって。自分が行けないところまで、大将を見ていてって」


⸻


「だから奥州まで?」


⸻


「半分はね」


⸻


「もう半分は」


⸻


「意地」


⸻


 ユウガオは短く言った。


⸻


「置いていかれた女が、今度は自分の足でどこまで行けるか。試してみたくなった」


⸻


 シンは、少しだけユウガオを見る目が変わった。


 艶っぽい女。


 からかってくる女。


 それだけではない。


 この人も、自分の道を探してここまで来たのだ。


⸻


 そこで。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 シンは凍った。


⸻


 木の間に白い衣がある。


 薄桃色の衣。


 黒髪。


 桃の飾りが、春の光を小さく返していた。


⸻


 モモが立っていた。


⸻


 無言。


 こちらを見ている。


 ユウガオを見る。


 シンを見る。


 またユウガオを見る。


⸻


 ユウガオもモモを見る。


 細い目で、静かに見返す。


 両者無言だった。


 空気が凍る。


⸻


(コ、コアイ……)


⸻


 シンは思った。


⸻


 少し間があった。


⸻


「……誤差」


⸻


 モモが言った。


 それだけだった。


⸻


 踵を返す。


 桃の香りが、木々の奥へ引いていく。


⸻


「……どういうこと?」


⸻


 ユウガオが言った。


⸻


「知らん」


⸻


 シンは正直に答えた。


⸻


「本当に?」


⸻


「本当に。今のは俺も分からん」


⸻


 二人で顔を見合わせる。


⸻


(何だったんだ)


⸻


(でも明らかに何かだった)


⸻


 ユウガオが立ち上がった。


 帰るらしい。


 シンも続く。


⸻


 来た道を戻る間、ユウガオは少し静かだった。


 からかわない。


 笑わない。


 ただ一度だけ、シンの横顔を見た。


⸻


「面倒な娘だね」


⸻


「否定できない」


⸻


「でも、嫌いじゃない」


⸻


「それは意外」


⸻


「置いていかれそうな顔、してたから」


⸻


 ユウガオはそれ以上言わなかった。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 囲炉裏を囲む。


 義経がまた飲む。


 また喋る。


 また笑う。


 平泉の市で見た馬の話。


 国衡が真面目すぎる話。


 泰衡が書状を抱えたまま寝そうになっていた話。


 どれも楽しそうに語るのに、ふとした瞬間だけ目が遠くなる。


⸻


 タダは黙って飯を出した。


 義経が食う。


 飲む。


 また笑う。


 やがて、笑い声が少しずつ重くなった。


 いつもの、酔い潰れる直前の義経だ。


⸻


「大将、もう寝な」


⸻


 ユウガオが言う。


⸻


「まだ寝ぬぅ!」


⸻


「寝る」


⸻


「俺はまだぁ」


⸻


 義経の言葉が終わる前に、タダが立った。


 義経を担ぐ。


⸻


「おい、タダ。俺は武士らぞ」


⸻


「武士は寝る」


⸻


「そうなのか……?」


⸻


「そうだ」


⸻


「ならば寝る!」


⸻


 義経は妙に納得して、担がれていった。


 奥へ消える。


 しばらくして、何かが倒れる音がした。


 タダの低い声が聞こえる。


 義経の笑い声も、少しだけ聞こえた。


⸻


 また二人になった。


⸻


 火が揺れる。


 ユウガオは盃を持ったまま、囲炉裏の火を見ていた。


 昼間とは少し違う顔だった。


 酒のせいだけではない。


 昔のことを少し話したせいで、戻りきれていない顔だった。


⸻


「ねえ」


⸻


 ユウガオが言った。


⸻


「あの娘、綺麗だね」


⸻


 シンは何も言わなかった。


⸻


「都なら、法皇の側女にだってなれそう」


⸻


 少し間がある。


⸻


「少し気に食わないけど」


⸻


「気に食わないんだ」


⸻


「そりゃあね。あんな顔でアンタを見られたら、気に食わないくらいは思うよ」


⸻


「俺、そんな見られ方されてた?」


⸻


「されてた」


⸻


 ユウガオは即答する。


⸻


「目じゃない。もっと奥。あの娘は、アンタを見てるというより、アンタが消えないか確かめてる」


⸻


 シンの胸が少し痛んだ。


 モモの「誤差」という一言が残っている。


 あれは何を指したのか。


 ユウガオなのか。


 シンなのか。


 それとも、この夜そのものなのか。


⸻


「でも」


⸻


 ユウガオが盃を置く。


⸻


「静に似てる」


⸻


「静御前が?」


⸻


「うん。顔じゃないよ。もっと面倒なところ」


⸻


「面倒」


⸻


「好きな男の前で、綺麗に黙れるところ」


⸻


 シンは言葉に詰まった。


⸻


「あの子はね、泣く時も綺麗だった。怒る時も綺麗だった。だから困る。こっちは汚く泣いて、汚く怒って、やっと立ってるのにさ」


⸻


 火が一度大きくなり、また落ち着く。


⸻


「白拍子ってのはさ」


⸻


 ユウガオが言う。


⸻


「どこにも属せない代わり、どこにでも行ける。そういうもん」


⸻


「だから奥州まで来た」


⸻


「そう。どこにも属せない女が、どこにもいられない男を見に来た」


⸻


 ユウガオは少し笑った。


⸻


「ずるい娘たちだよ、まったく」


⸻


「静御前と、モモ?」


⸻


「そう。静も。あの桃の娘も」


⸻


 それから、ユウガオはシンにもたれた。


⸻


 重い。


 寝ていた。


 割と酔っていたらしい。


⸻


「え、ちょ」


⸻


 シンは動けなかった。


 ユウガオの髪が肩にかかる。


 香りが近い。


 夜の花の匂い。


 酒と、火と、春の湿った空気が混ざっている。


 頭の奥が蕩けそうになる。


 女の匂いだった。


⸻


(……面倒な時代だ)


⸻


 酒があった。


 苦手だった。


 でも飲んだ。


⸻


 苦い。


 熱い。


 喉を落ちていく。


⸻


 泣きそうだった。


 理由は分からない。


 義経の「あ」という声。


 ミチヌシが語った、崖の上の子供。


 置いていかれたユウガオ。


 綺麗に黙る静。


 桃の香りだけ残して消えたモモ。


 全部が火の中で混ざって、形をなくしていく。


⸻


 シンは目を閉じた。


⸻


⸻


 外は春の夜だった。


⸻


 夜花の香りがする。


 風に乗って、桃の香りが混じった。


 二つは混ざり、また別れる。


⸻


 平泉の金の屋根が月光を返していた。


⸻


 道の外にいる男。


 置いていかれた女。


 戻ってきた少年。


 戻れないかもしれない娘。


⸻


 面倒な夜は、静かに更けていった。


⸻


⸻


(第九十六話へ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。