夜の花と面倒な夜
第九十五話 夜の花と面倒な夜
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外からタダの薪割りの音がした。
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規則正しい。
一定の間隔で、斧が丸太へ落ちる。
昨日と同じ音だった。
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義経の笑い声が聞こえた。
ユウガオが何か返す。
また義経が笑う。
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これも昨日と同じだった。
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シンは布団の上に座っていた。
腹に手を当てる。
何もない。
傷はない。
痛みもない。
血の匂いも、腹の中から抜けていく熱も、全部どこにも残っていなかった。
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(一度目)
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(義経は死んでない)
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(俺が先に死んだ)
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外の声は続いている。
笑い声も、薪の音も、春の鳥の声も、昨日と何一つ変わらない。
昨日の夕方、山道で何が起きたか。
義経がどんな顔で笑っていたか。
シンの腹に刃が入ったことも。
義経が「あ」と声を漏らしたことも。
誰も知らないまま、朝が来ていた。
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(あれで終わりなら、笑えない)
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シンは立ち上がった。
衣を整え、戸の前で一度だけ息を吐く。
手が少し震えていた。
死んだことへの恐怖ではない。
同じ音が、同じ朝に戻っていることへの気持ち悪さだった。
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外へ出る。
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タダが薪を割っていた。
斧を振り下ろす手が止まる。
シンを見た。
何も言わない。
それから、また斧を振り上げた。
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ぱかん、と丸太が割れる。
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「飯あるぞ」
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それだけ言った。
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「……あとで食う」
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タダは頷きもしなかった。
ただ、次の丸太を置く。
シンがどこへ行こうとしているのか、聞かない。
止めもしない。
でも見ていないわけではない。
その背中だけで、何かあれば戻ってこいと言っているようだった。
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(本当に死ぬのか、義経が)
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庭を抜けながら考える。
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(あの鬼より強い怪獣が)
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あの山道での戦闘を思い出した。
低く沈む体。
矢より先に動く足。
倒れた相手へ、なお踏み込もうとする顔。
笑っていた。
戦っていたのではない。
遊んでいた。
終わった後も、止まらなかった。
周りを見ていなかった。
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(あれを守る?)
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(無理だろ)
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館を出る。
人の声が遠くなる。
山の方へ向かった。
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山は静かだった。
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木の根元には、まだ雪が少し残っている。
解けた水が土へ染み込み、黒く湿っていた。
鳥が鳴く。
風が通ると、枝が鳴る。
それだけだった。
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倒木があった。
苔がつき、半分ほど土に沈んでいる。
シンはそこへ腰を下ろした。
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義経の動きを思い出す。
低かった。
速かった。
説明できなかった。
人の動きではない。
刺客が四人いて、四人全員が十数秒で終わっていた。
その中で、義経は一度も本気で困っていない。
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(強すぎる)
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(人じゃない)
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そう思った瞬間、声がした。
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「また戻ったか」
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シンは跳ねるように立ち上がった。
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「わ!」
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岩の上に、最初からいた。
山伏の姿。
白髪交じりの髪。
年を取った顔なのに、目だけが妙に若い。
ミチヌシだった。
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「アンタまだいたのか」
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「俺はすべての道の上にいる」
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「相変わらず分からん」
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「分からぬものは、分からぬまま持て。急いで名をつけると、目が濁る」
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また分からないことを言う。
ただ、不思議と腹は立たなかった。
シンは倒木へ座り直す。
ミチヌシは岩の上で膝を立て、遠くの木々を見ていた。
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「……義経が強すぎる」
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シンは言った。
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「俺が守るより先に、俺が死ぬ」
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ミチヌシはすぐには答えない。
風が通った。
袖の端が揺れる。
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「あれは、人の理から少し外にいる」
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静かな声だった。
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「故に人と共に在れん。いずれ人とぶつかる。道を退くのは人か」
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少し間がある。
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「あれか」
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シンは黙っていた。
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「最初から、ああだったのか」
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ミチヌシの目が、少しだけ細くなる。
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「牛若とも、遮那王とも呼ばれていた頃がある」
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「子供の頃?」
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「子供だった。だが、子供の道を歩いてはいなかった」
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ミチヌシは懐かしむように、空ではなく、山の奥を見た。
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「鞍馬の山に来たばかりの頃、あれはよく迷子になった」
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「義経が?」
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「迷子になるために歩いていた。寺の者が探す。僧が怒る。山の者が笑う。あれは木の上からそれを見ていた」
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「……性格悪くない?」
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「悪かった」
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ミチヌシは真顔で言った。
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「だが、ただの悪戯ではない。道を見ていた。人がどの道を選ぶか。どこで焦るか。どこで諦めるか。誰が上を見るか。誰が足元しか見ぬか。子供の目で、それをずっと数えていた」
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シンは黙った。
義経が人の間を抜ける姿を思い出す。
市場で。
山道で。
戦の中で。
義経は、いつも誰より早く道を見つけていた。
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「俺が初めて会った時、あれは崖の上に立っていた」
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ミチヌシが続ける。
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「下には谷がある。足を滑らせれば死ぬ。寺の者は青ざめていた。俺が何をしていると聞くと、あれはこう言った」
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ミチヌシの声が、少し幼い調子を帯びた。
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「空にも道はあるか」
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シンは思わず顔を上げた。
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「それで?」
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「俺は、ないと答えた」
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「ないんだ」
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「人にはない」
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ミチヌシは淡々と言う。
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「するとあれは笑った。では、人でなければあるのだな、と」
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シンは言葉を失った。
子供の言葉のはずなのに、どこかぞっとする。
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「それからだ。俺はあれに、道を教えた」
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「剣じゃなくて?」
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「剣は後からついてくる。足の置き場。息の隠し方。木の根を踏まぬ歩き方。転ぶ時に死なぬ落ち方。相手を見る前に、相手が見ていないものを見ること」
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ミチヌシは岩から降りた。
音がしなかった。
枯れ枝が落ちているのに、踏んだ気配すらない。
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「教えたのは勝ち方ではない。戻り方だ」
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「戻り方?」
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「道の外は楽しい。人が作った柵を越えれば、見えるものが増える。だが、戻る橋を持たぬ者は、外へ出たまま帰れなくなる」
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シンは義経の顔を思い出した。
笑っていた顔。
倒れた敵を見ていた目。
シンが刺された瞬間に、ようやく戻ってきた「あ」の声。
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「義経は、帰れないのか」
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「帰る道を忘れやすい」
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ミチヌシは言った。
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「悪ではない。残酷を好むわけでもない。ただ、あれにとっては人が遅すぎる。恐れも、迷いも、ためらいも、あれの中ではすぐ通り過ぎる。人が足を止めて震える場所を、あれは笑って跳ぶ」
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「だから、周りが見えない」
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「見えぬのではない。見る必要がないと思ってしまう」
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シンの喉が詰まった。
それは強さだった。
同時に、どうしようもない弱さでもあった。
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「守りたいのか」
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ミチヌシが聞いた。
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「守りたい」
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シンはすぐ答えた。
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「でも方法が分からない。あんなの、俺が何をしても先に動く。俺が声を出す前に終わってる」
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「強すぎる。だが裏返せば弱い」
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「どこが弱い」
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「道だ」
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ミチヌシは、足元の土を指した。
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「あれは一人で歩く。一人で歩けすぎる。だから道を独り占めする。置いてやれ。呼んでやれ。たまに袖を引いてやれ。それだけでいい」
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「それだけ?」
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「それだけが難しい」
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シンは少し考えた。
昨夜の「あ」という声を思い出す。
たった一文字。
驚いていた。
あの時だけ、義経は人間に戻った。
強すぎる鬼ではなく、何かを失いかけた若い男の声だった。
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「俺は、義経の前に立てばいいのか」
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「違う」
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ミチヌシは首を振る。
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「前に立てば踏まれる。後ろにいれば置いていかれる。横だ」
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「横」
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「横を歩く者は、前も後ろも見える」
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シンは息を吐いた。
守るという言葉の形が、少しだけ変わる。
義経の盾になるのではない。
義経の刃になるのでもない。
義経が見ていないものを見る。
義経が戻る道を、ぎりぎりまで消さない。
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「……できるかな」
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「できるかではない。おまえは戻る。ならば見るまで戻れ」
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「雑だな」
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「道とは雑なものだ。人が綺麗にしたがるだけでな」
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ミチヌシは少し笑った。
それから、シンの方を見る。
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「あれは天狗に育てられたと言われる」
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「アンタのことだろ」
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「人は分からぬものに名をつける。山で消える者を天狗と呼び、強すぎる者を鬼と呼ぶ。だが名をつけても、その者が分かるわけではない」
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ミチヌシの目が、深くなる。
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「義経は鬼ではない。天狗でもない。人であるには遠く、神であるには近すぎる。そういう面倒な男だ」
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「面倒なのばっかりだな、この時代」
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「おまえも含めてな」
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「俺は普通だろ」
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「何度も死んで同じ朝に戻る者を、普通とは言わぬ」
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それはそうだった。
シンは黙る。
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ミチヌシは満足したように頷いた。
次の瞬間、姿が薄れる。
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「おい、待て。いつも急に消えるな」
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「道は待たぬ」
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「会話は待てよ」
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返事はなかった。
音もなく、跡もなく、ただ消える。
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山が静かになった。
鳥が鳴いた。
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しばらくして、足音がした。
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「やっぱり居た」
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ユウガオだった。
木の間から来る。
息は切れていない。
最初から居場所を知っていたような顔だった。
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「探したのか」
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「少しだけね」
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「少しでここまで来るのか」
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「白拍子を甘く見ないでよ。逃げる男を追うのは慣れてる」
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「何その物騒な慣れ」
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ユウガオは笑わなかった。
倒木の隣に座る。
近い。
香りがした。
夜に咲く花の匂いだった。
まだ明るいのに、夜の気配だけが先に来ている。
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「ねぇ」
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ユウガオが言った。
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「何か抱えてるでしょ」
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「……別に」
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「嘘」
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即答だった。
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ユウガオがさらに身を寄せる。
シンは少し横へずれた。
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「気になっちゃうんだよ」
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ユウガオの声は、いつもの艶を少しだけ失っていた。
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「抱えてる人を放っておけない性分でさ」
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「優しいんだな」
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「違うよ」
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ユウガオは木々の向こうを見る。
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「置いていかれる顔を、知ってるだけ」
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シンは何も言えなかった。
風が来る。
枝が鳴る。
ユウガオの髪が頬にかかった。
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「京にいた頃さ」
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彼女はぽつりと言った。
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「大きな屋敷って、外から見ると華やかなんだよ。門は広いし、灯りは多いし、絹の擦れる音まで上等に聞こえる。でも中にいる人間が、みんな帰る場所を持ってるとは限らない」
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「ユウガオも?」
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「さあね」
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笑う。
だが、目は笑っていない。
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「偉い人のそばにいると、着るものには困らない。食べるものにも困らない。歌えば褒められるし、舞えば盃が増える。でも、旗の色が変わると全部変わる」
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赤い旗と白い旗。
海へ向かう都落ち。
シンの中に、知識とも記憶ともつかないものが揺れた。
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「連れていかれなかったのか」
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「いい女は荷になるんだって」
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ユウガオは軽く言った。
軽く言ったからこそ、重かった。
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「捨てられた、って言えば分かりやすいかな。でも、それを可哀想って顔で見られるのは嫌い」
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「……しない」
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「うん。アンタはしなさそう」
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ユウガオが、そこで初めて少し笑った。
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「そのあと、静に会った。昔から知ってる子。あの子も、まあ、いろいろ抱えるのが上手な子でね」
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「シズカ?」
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「静御前。大将の想い人」
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ユウガオは倒木に手を置く。
指先が白い。
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「あの子に頼まれたんだよ。最後まで見届けてって。自分が行けないところまで、大将を見ていてって」
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「だから奥州まで?」
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「半分はね」
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「もう半分は」
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「意地」
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ユウガオは短く言った。
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「置いていかれた女が、今度は自分の足でどこまで行けるか。試してみたくなった」
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シンは、少しだけユウガオを見る目が変わった。
艶っぽい女。
からかってくる女。
それだけではない。
この人も、自分の道を探してここまで来たのだ。
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そこで。
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桃の香りがした。
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シンは凍った。
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木の間に白い衣がある。
薄桃色の衣。
黒髪。
桃の飾りが、春の光を小さく返していた。
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モモが立っていた。
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無言。
こちらを見ている。
ユウガオを見る。
シンを見る。
またユウガオを見る。
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ユウガオもモモを見る。
細い目で、静かに見返す。
両者無言だった。
空気が凍る。
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(コ、コアイ……)
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シンは思った。
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少し間があった。
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「……誤差」
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モモが言った。
それだけだった。
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踵を返す。
桃の香りが、木々の奥へ引いていく。
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「……どういうこと?」
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ユウガオが言った。
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「知らん」
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シンは正直に答えた。
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「本当に?」
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「本当に。今のは俺も分からん」
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二人で顔を見合わせる。
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(何だったんだ)
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(でも明らかに何かだった)
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ユウガオが立ち上がった。
帰るらしい。
シンも続く。
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来た道を戻る間、ユウガオは少し静かだった。
からかわない。
笑わない。
ただ一度だけ、シンの横顔を見た。
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「面倒な娘だね」
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「否定できない」
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「でも、嫌いじゃない」
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「それは意外」
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「置いていかれそうな顔、してたから」
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ユウガオはそれ以上言わなかった。
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夜になった。
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囲炉裏を囲む。
義経がまた飲む。
また喋る。
また笑う。
平泉の市で見た馬の話。
国衡が真面目すぎる話。
泰衡が書状を抱えたまま寝そうになっていた話。
どれも楽しそうに語るのに、ふとした瞬間だけ目が遠くなる。
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タダは黙って飯を出した。
義経が食う。
飲む。
また笑う。
やがて、笑い声が少しずつ重くなった。
いつもの、酔い潰れる直前の義経だ。
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「大将、もう寝な」
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ユウガオが言う。
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「まだ寝ぬぅ!」
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「寝る」
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「俺はまだぁ」
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義経の言葉が終わる前に、タダが立った。
義経を担ぐ。
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「おい、タダ。俺は武士らぞ」
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「武士は寝る」
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「そうなのか……?」
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「そうだ」
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「ならば寝る!」
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義経は妙に納得して、担がれていった。
奥へ消える。
しばらくして、何かが倒れる音がした。
タダの低い声が聞こえる。
義経の笑い声も、少しだけ聞こえた。
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また二人になった。
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火が揺れる。
ユウガオは盃を持ったまま、囲炉裏の火を見ていた。
昼間とは少し違う顔だった。
酒のせいだけではない。
昔のことを少し話したせいで、戻りきれていない顔だった。
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「ねえ」
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ユウガオが言った。
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「あの娘、綺麗だね」
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シンは何も言わなかった。
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「都なら、法皇の側女にだってなれそう」
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少し間がある。
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「少し気に食わないけど」
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「気に食わないんだ」
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「そりゃあね。あんな顔でアンタを見られたら、気に食わないくらいは思うよ」
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「俺、そんな見られ方されてた?」
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「されてた」
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ユウガオは即答する。
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「目じゃない。もっと奥。あの娘は、アンタを見てるというより、アンタが消えないか確かめてる」
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シンの胸が少し痛んだ。
モモの「誤差」という一言が残っている。
あれは何を指したのか。
ユウガオなのか。
シンなのか。
それとも、この夜そのものなのか。
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「でも」
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ユウガオが盃を置く。
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「静に似てる」
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「静御前が?」
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「うん。顔じゃないよ。もっと面倒なところ」
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「面倒」
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「好きな男の前で、綺麗に黙れるところ」
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シンは言葉に詰まった。
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「あの子はね、泣く時も綺麗だった。怒る時も綺麗だった。だから困る。こっちは汚く泣いて、汚く怒って、やっと立ってるのにさ」
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火が一度大きくなり、また落ち着く。
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「白拍子ってのはさ」
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ユウガオが言う。
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「どこにも属せない代わり、どこにでも行ける。そういうもん」
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「だから奥州まで来た」
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「そう。どこにも属せない女が、どこにもいられない男を見に来た」
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ユウガオは少し笑った。
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「ずるい娘たちだよ、まったく」
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「静御前と、モモ?」
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「そう。静も。あの桃の娘も」
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それから、ユウガオはシンにもたれた。
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重い。
寝ていた。
割と酔っていたらしい。
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「え、ちょ」
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シンは動けなかった。
ユウガオの髪が肩にかかる。
香りが近い。
夜の花の匂い。
酒と、火と、春の湿った空気が混ざっている。
頭の奥が蕩けそうになる。
女の匂いだった。
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(……面倒な時代だ)
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酒があった。
苦手だった。
でも飲んだ。
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苦い。
熱い。
喉を落ちていく。
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泣きそうだった。
理由は分からない。
義経の「あ」という声。
ミチヌシが語った、崖の上の子供。
置いていかれたユウガオ。
綺麗に黙る静。
桃の香りだけ残して消えたモモ。
全部が火の中で混ざって、形をなくしていく。
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シンは目を閉じた。
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外は春の夜だった。
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夜花の香りがする。
風に乗って、桃の香りが混じった。
二つは混ざり、また別れる。
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平泉の金の屋根が月光を返していた。
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道の外にいる男。
置いていかれた女。
戻ってきた少年。
戻れないかもしれない娘。
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面倒な夜は、静かに更けていった。
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(第九十六話へ)




