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鬼より鬼

第九十四話 鬼より鬼


⸻


 数日が過ぎた。


⸻


 気がつけば、義経の館に定着していた。


 部屋が割り当てられる。


 寝る場所ができる。


 タダが何も言わずに布団を置いた。


 それだけで決まった。


⸻


 朝はタダが飯を作る。


 米。


 干した魚。


 山菜の汁。


 量が多い。


 でも残すと少し怖い顔をされる。


 シンは全部食った。


⸻


 義経は朝から外へ出る。


 理由を言わないことが多い。


 昼過ぎに帰ってくる。


 土がついていることもある。


 血がついていることもある。


 タダは何も言わずに拭いた。


 ユウガオは何も言わずに茶を出した。


⸻


(慣れてる)


⸻


 シンはそれを見ていた。


⸻


(みんな慣れすぎてる)


⸻


 一度だけ、義経が鹿を担いで帰ってきた。


 朝に出て、昼前には戻っていた。


 肩に血がついている。


 でも息は乱れていない。


 散歩のついでに拾ってきたような顔だった。


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「山にいた」


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「山にしかいない」


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 タダが言った。


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「いたから獲った!」


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「衣に染み込む前に血を落とせ」


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「む、俺は武士だ。気にせん!」


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「夕顔が洗濯する時に怒る」


⸻


 タダはそう言いながら、もう解体の準備をしていた。


 慣れている。


 やはり慣れすぎている。


⸻


 タダは何でもやった。


 薪を割る。


 鍛錬をする。


 馬の世話をする。


 料理をする。


 繕いものをする。


 荷を運ぶ。


 全部うまかった。


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(弁慶では?)


⸻


(やっぱり弁慶なのでは?)


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「何だ」


⸻


 薪を割りながらタダが言った。


 見ていたのがばれていた。


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「いや、何でもない」


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 シンは逃げた。


 タダは何も言わない。


 薪割りを続ける。


 斧が丸太へ入る音だけが、庭に響いた。


⸻


 ユウガオは昼間に洗濯をして、夕方になると舞を踊った。


 歌うこともある。


 白拍子の歌とのことだ。


 京の歌だった。


 手の動きがきれいだった。


 足の運びは軽い。


 だが、軽いだけではない。


 人の目をどこへ置かせるかを、知っている動きだった。


⸻


 夜は酒を飲む。


 たまにシンの隣へ来る。


 香りが近くなる。


 シンが反応して逃げると笑う。


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 三日目には笑われなくなった。


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 四日目には、ユウガオが少し不満そうな顔をした。


 五日目にはさらに距離が近くなる。


 六日目にはシンが逃げた。


 ユウガオは笑わなかった。


 何も言わない。


 でも目が語っている。


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(これは)


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 シンは困り果てた。


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(どないしたらええんや……)


⸻


 義経は、たまに庭で動いた。


 稽古と呼んでいいのか分からない。


 刀を抜く。


 枝を踏む。


 跳ぶ。


 止まる。


 それだけだった。


 それだけなのに、目が追いつかない。


⸻


 タダが木刀を持って相手をしたこともある。


 タダは大きい。


 腕も長い。


 普通ならそれだけで間合いを支配できる。


 だが義経は、その間合いの内側へ平気で入った。


 水が石の間を抜けるように。


 鳥が枝の隙間を抜けるように。


⸻


 タダの木刀が止まる。


 義経の刃は、もう喉元にあった。


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「今のは死んだな!」


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「うるさい」


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 タダは木刀を下ろす。


 怒ってはいない。


 悔しそうでもない。


 ただ、当たり前のものを見た顔だった。


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(何なんだ)


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 シンは庭の端で見ていた。


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(人間の動きじゃない)


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⸻


 とある日の昼、義経と平泉へ出た。


 国衡が途中で合流した。


⸻


 市場は相変わらず賑やかだった。


 鍛冶の音がする。


 馬が鼻を鳴らす。


 山民が荷を下ろす。


 蝦夷の装いをした者が、商人と値を張り合っていた。


⸻


 義経は当然のように人の間を抜ける。


 国衡はその半歩後ろを歩いた。


 シンとユウガオは、さらに後ろにつく。


 これがいつもの並びらしかった。


⸻


「あれは北の山から来た荷です」


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 国衡が言った。


 声は低いが、硬くない。


 商人の荷を見ている。


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「毛皮と、乾かした草と、鉱石。あと、たぶん薬」


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「薬?」


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「山でしか採れないものがあります」


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 国衡は遠くの山を見た。


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「山は、なくならない」


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 それだけ言った。


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 説教ではなかった。


 自慢でもなかった。


 そこにあるものを、そのまま言っただけだった。


⸻


「人が焼けても、村が移っても、雪が全部隠しても、春になるとまた出てくる」


⸻


 国衡は少しだけ笑った。


⸻


「だから、山の者はしつこい」


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「しつこい?」


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「死ににくい、という意味です」


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 アテルイを思い出した。


 アサメの炉を思い出した。


 ユナやコトと囲んだ火を思い出した。


 名前も形も変わった。


 でも、消えてはいない。


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(そうだな)


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 シンは山を見た。


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(ずっと残ってた)


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 燃えた家もあった。


 消えた村もあった。


 死んだ人もいた。


 それでも、次の春に誰かが火を起こす。


 誰かが飯を作る。


 誰かが名前を呼ぶ。


⸻


(山が覚えてるんじゃない)


⸻


(人が、山の中で覚えてるんだ)


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 そこへ泰衡が来た。


 書状を持っていた。


 目の下の影が一層濃くなっている。


 一瞬、義経を見た。


 次の瞬間、頭を抱えた。


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「今日も外ですか」


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「今日も外だ」


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「そうですか……」


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 抵抗をやめた顔だった。


 国衡が小さく苦笑した。


 シンは横で見ていた。


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(この人、本当に苦労してる)


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「近くを見るだけだ」


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 義経が言った。


⸻


「義経殿の近くは、私の近くと違います」


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 泰衡が返す。


 声に怒りはない。


 疲れだけがあった。


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「早くお戻りください」


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「飯までには戻る」


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「それはタダ殿への約束でしょう」


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「よく分かったな」


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 泰衡は答えなかった。


 書状を抱え直し、戻っていく。


 背中が少し曲がっていた。


⸻


⸻


 戻り道に、桃の香りがした。


⸻


 モモがいた。


 通りの端に立っていた。


 薄桃色の衣だった。


 白桃でもない。


 普通のモモに近い。


 ただ立っていた。


⸻


「お、桃の女」


⸻


 義経が言った。


⸻


 モモは無言だった。


⸻


「今日も桃だな」


⸻


 また無言。


⸻


(語彙……)


⸻


 シンは思ったが、何も言わなかった。


 ユウガオはモモを眺めていた。


 細い目で、静かに眺めている。


 モモは義経を一度だけ見た。


 それから、シンを見る。


⸻


「経過観測中」


⸻


 短く言った。


⸻


「何を」


⸻


「不明」


⸻


「不明なものを観測してるのか」


⸻


「そう」


⸻


 シンは困った。


 モモも困っているように見えた。


 ただ、それを困っていると呼んでいいのか分からない。


⸻


「無理するなよ」


⸻


 シンが言う。


⸻


 モモの目が、少しだけ揺れた。


⸻


「無理の定義を検索中」


⸻


「そこからか」


⸻


「そこから」


⸻


 会話はそれだけだった。


 桃の香りが風に流れる。


 振り返ると、モモはもう少し遠くにいた。


 近づいているのか、離れているのか、分からない。


⸻


 ユウガオが、しばらく何も言わなかった。


 その沈黙の方が珍しかった。


⸻


「あの娘、アンタを見てるね」


⸻


「見てる?」


⸻


「うん。目じゃなくて、もっと奥で」


⸻


 ユウガオは軽く笑った。


 けれど、その目は笑っていない。


⸻


「気をつけな」


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「モモに?」


⸻


「アンタ自身に」


⸻


 意味は分からなかった。


 ただ、ユウガオはそれ以上言わない。


 義経は前で鼻歌を歌っていた。


 何も分かっていなさそうで、何かだけは感じている背中だった。


⸻


⸻


 夕方になった。


⸻


 帰路は山道を戻る。


 シン、義経、ユウガオ、国衡の四人だった。


 タダはいない。


 空は橙になっている。


 風が少し冷えた。


 春の夕暮れだった。


⸻


 静かだった。


⸻


 鳥の声がする。


 川の音がする。


 枝が擦れる。


 それだけだった。


⸻


 義経が止まった。


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 鼻を動かす。


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「来た」


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「何が」


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 国衡が言った。


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「賊だ!」


⸻


 次の瞬間、矢が来た。


⸻


 音が遅れて届いた。


 先に義経が動いている。


 矢は、さっきまで義経の顔があった場所を抜けて、背後の木へ刺さった。


 木の皮が弾ける。


 続けて二本目。


 三本目。


 木立の奥から白い線が走る。


 義経はもうそこにいない。


 首を傾ける。


 肩を落とす。


 膝を抜く。


 それだけで矢が外れる。


 避けているというより、矢の方が義経を避けているように見えた。


⸻


 国衡が抜刀した。


 ユウガオが木の影へ飛ぶ。


 シンは一歩遅れた。


⸻


 木立から人が出てきた。


 三人だった。


 衣は旅のもの。


 所属を示すものは何もない。


 目だけが冷えていた。


 探しに来た目だった。


⸻


 義経は消えていた。


⸻


 そう見えた。


 実際には、消えたわけではない。


 低く沈み、草を割り、地面を蹴っている。


 でも、シンの目には消えたようにしか見えない。


⸻


 音がした。


 短い音だった。


 金属の音ではない。


 もっと鈍い。


 人の息が、途中で折れる音だった。


⸻


 気づいたとき、一人が倒れていた。


⸻


 義経が低かった。


 地面に近い。


 片手が土につくほど低い姿勢から、もう次へ動いている。


 膝が伸びる。


 体が跳ねる。


 人間の重さを置き去りにしたみたいだった。


 草の上を走っているのに、足音がない。


 踏んだはずの土が、少し遅れて跳ねる。


 先に義経が行く。


 音と土と風が、後から追いかける。


⸻


 二人目が刀を抜いた。


 遅い。


 抜ききる前に、義経の足が男の膝へ入る。


 骨の音。


 男の体が沈む。


 そこへ肘が入った。


 顔が跳ねる。


 次の瞬間、男は宙にいた。


⸻


 投げた。


⸻


 そう理解した時には、もう地面に叩きつけられている。


 土が跳ねた。


 男の肺から空気が漏れた。


⸻


 義経は笑っていた。


 楽しそうだった。


 戦っている顔ではない。


 遊んでいる顔だった。


 それが一番怖かった。


 怖いのは、残酷だからではない。


 迷いがないからだった。


 義経の中では、もう勝ち負けが終わっている。


 残っているのは、体がどこまで動くかを確かめる時間だけだった。


⸻


 三人目が後退する。


 義経は追わない。


 追わないのに、距離が縮まった。


 意味が分からない。


 右へ行ったと思ったら、左にいる。


 前にいたと思ったら、背後に回っている。


 草が遅れて揺れる。


 人の目が、義経に追いついていない。


 国衡ですら、一瞬だけ見失った。


 剣先が空を切る。


 その空の横から義経が出る。


 獣でもない。


 鳥でもない。


 風でもない。


 それら全部を、人の形に押し込めたようだった。


⸻


 三人目の足が折れた。


 声が出る。


 倒れる。


 義経の小刀が、喉の横で止まっていた。


⸻


 終わりだった。


⸻


 十数えるかどうか。


 たぶん、それすら長い。


⸻


(鬼だ)


⸻


 シンは立ったまま見ていた。


⸻


(鬼より鬼だ)


⸻


 義経は止まらなかった。


 倒れた三人目へ追撃に入っている。


 戦が終わった後の目ではない。


 まだ遊んでいる目だった。


 周囲を見ていない。


 相手だけを見ている。


 相手を壊す手順だけを見ている。


⸻


「義経殿!」


⸻


 国衡が叫んだ。


 声が届いていない。


⸻


 シンが気づいた。


⸻


 四人目がいた。


 木陰。


 倒れた木の陰に隠れている。


 気配を消していた。


 倒れた仲間を見て、震えていた。


 それでも手を上げている。


 短刀だった。


⸻


 狙っていたのは義経だった。


⸻


(間に合わない)


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 思いながら、動いていた。


 体が先に動く。


 義経の手前へ入った。


⸻


 刺さった。


⸻


 腹だった。


⸻


 熱かった。


 熱いのに寒かった。


 足から力が消える。


 転倒した。


 地面が近くなる。


 草の匂いがした。


⸻


 義経が振り返った。


⸻


 止まった。


⸻


「あ」


⸻


 短かった。


 たった一文字だった。


 でもシンはその声を聞いた。


 義経から、初めて聞く種類の声だと思った。


 驚いている声だった。


 置いていかれた子供のような声だった。


⸻


 ユウガオが叫んだ。


 国衡が走る。


 義経の笑みが消えていた。


 そこにいたのは、さっきまでの獣ではなかった。


 何が起きたか分からない顔をした、ただの若い男だった。


⸻


 シンは空を見ていた。


 春の夕暮れだった。


 橙だった。


 雲が薄い。


⸻


(強い)


⸻


 思った。


⸻


(強すぎる)


⸻


(鬼より強い)


⸻


(だから周りを見ない)


⸻


 血が喉へ上がってきた。


 息が浅くなる。


 国衡の声が遠くで聞こえた。


 ユウガオの匂いが近づいた。


 桃の香りはなかった。


⸻


(そうか)


⸻


(そういうことか)


⸻


(義経を守るって)


⸻


(義経を強くすることじゃない)


⸻


 義経はもう強い。


 強すぎる。


 強いから、見えないものがある。


 強いから、届かない声がある。


⸻


(見ることだ)


⸻


(この人が見てないものを)


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 白くなった。


⸻


⸻


 目が覚めた。


⸻


 朝だった。


 館の中だった。


 布団の上にいた。


⸻


 外からタダの薪割りの音がする。


 義経の声がした。


 ユウガオが何か返している。


⸻


 シンは起き上がった。


 腹に手を当てる。


 何もない。


 傷はなかった。


⸻


 窓の外に春の光があった。


 山が見える。


 鳥が鳴いている。


⸻


(一度目)


⸻


(義経が死ぬ前に、俺が死んだ)


⸻


 少し考えた。


⸻


(……こりゃ厄介だ)


⸻


 外で義経の声がまた聞こえた。


 笑っていた。


⸻


 道は続いていた。


⸻


⸻


(第九十五話へ)


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