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鞍馬の天狗

第九十三話 鞍馬の天狗


⸻


 平泉の内部は、外から見るより更に広かった。


⸻


 国衡が先を歩き、義経がその隣を歩いた。


 ユウガオはシンの横についていた。


 四人で石畳を渡った。


⸻


 鍛冶の音がした。どこかで金を打っている音もあった。馬市の声が風に乗ってきた。


 荷を担いだ者が行き交い、山民と海民が同じ道を歩いていた。


 毛皮の束を背負った男の隣を、琥珀を首から下げた女が通り過ぎた。どちらも普通の顔をしていた。


⸻


 シンは歩きながら見ていた。


⸻


 鉄器を売る店があった。


 琥珀があった。

 奥には磨かれていないヒスイも置かれていた。


 蝦夷の装いをした者が商人と話していた。


 笑っていた。揉めていなかった。


⸻


 (残ってる)


⸻


 足が少し遅くなった。


⸻


 (アテルイの時代より前から、ずっと)


⸻


 胆沢を思い出した。炉の集落を思い出した。澄んだ川を思い出した。


 あの火が、数百年以上をかけて、ここへ流れ着いていた。


 形は変わっていた。でも匂いは同じだった。


 北の土の匂いだった。


⸻


「遅れてるぞ〜?」


⸻


 義経が振り返らずに言った。シンは足を早めた。


⸻


⸻


 案内されたのは、通りから少し入った場所にある建物だった。


 豪華ではなかった。


 書状と木簡が積まれていた。地図が広げてあった。


 炭の匂いがした。人がいた。


⸻


 男が立ち上がった。


⸻


 若かった。国衡より少し下に見えた。


 衣はきちんとしていたが、目の下に影があった。


 頬が少し落ちていた。寝ていない顔だった。


 でも所作は丁寧で、声は穏やかだった。


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 (真面目な人だ)


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 シンは思った。


⸻


 (顔色が悪い。この人、全然寝てない)


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「義経殿」


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 男が言った。声は静かだったが、疲れている静かさだった。


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「また外へ出ていたのですか」


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「良いだろ、近くだし」


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「近い遠い以前の話です。お願いですから、平泉の外へ無断で出るのはやめてください」


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「嫌だ。見たいものがあったら見に行く」


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 即答だった。男は目を閉じた。一瞬だけ閉じた。それから開けた。


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「せめて山へは」


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「鹿がいる。うまいぞ」


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「そういう話ではありません」


⸻


 国衡が小さく苦笑した。ユウガオが口元に手を当てた。シンは横で聞いていた。


⸻


 (この人、苦労人だ……)


⸻


「義経殿」


⸻


 男は続けた。


⸻


「頼朝公はまだ諦めておりません。今は静かにしていてください。後生ですから」


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「無理! 兄上が悪いんだい!」


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 男は頭を抱えた。


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「当主……」


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 国衡が哀しげな表情で言った。


 それだけだった。


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 男がシンを見た。表情が少し変わった。


 疲れたままだったが、怪しむ顔ではなかった。


 ただ確認している顔だった。


⸻


「こちらは」


⸻


「シンです。義経殿に拾われました」


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 シン自身が答えた。男は少し間を置いた。


⸻


「藤原泰衡です。ご不便があれば申し付けください」


⸻


 丁寧だった。本当に丁寧だった。


 この状況で、見知らぬ者にこれだけ丁寧にできる人間は、素直に良い人だと思った。


⸻


⸻


 政務所を出た。帰路は四人で、来た道を戻った。


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「国は真面目すぎるぞ」


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 義経が言った。


⸻


「義経殿が不真面目すぎるのです」


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 国衡が答えた。


⸻


「それはそうかもしれない!」


⸻


「開き直らないでください」


⸻


 義経は笑った。国衡も笑った。


 怒っていなかった。


 これが普通の調子らしかった。


 二人の間に長い時間が積まれているのが分かった。


⸻


 ユウガオがシンの耳へ囁いた。


⸻


「良い人たちでしょ」


⸻


 シンは頷いた。良い人たちだと思った。


 それだけに、何かが胸の奥に引っかかった。


 義経の結末を知っていた。


 知っているから、笑っている顔を見るのが少し辛かった。


⸻


⸻


 風が来た。


⸻


 シンは足を止めた。


⸻


 桃だった。


 風の中に桃の香りがあった。


 甘い果実の匂いだった。


 前の時代で最後に嗅いだのと、同じ匂いだった。


⸻


 通りの向こうに人影があった。


 薄桃色の衣だった。


 黒髪だった。


 桃の果実を模した飾りが、春の光を返していた。


⸻


「……シン」


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 声がした。


⸻


 モモだった。


⸻


 白桃でもなかった。かといって、シンが知っていたモモとも少し違った。


 その間のどこかにいた。静かで、揺れていなくて、ただ在った。


⸻


「……141149日経過した」


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 シンは止まった。


⸻


「最後に会ったとき、何があった」


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「……不明。記録断絶。白色化。」


「現状はおそらく、観測再開」


⸻


 要領を得なかった。


 モモも分からないようだった。


 それだけ時間が空いていたのかもしれなかった。


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 少し間があった。


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「でも、お前がいてくれて良かった」


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 シンが言った。


 モモは何も言わなかった。


 ただ少しだけ、目が揺れた。


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「……会話がサッパリ分からんが」


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 義経の声がした。


 いつの間にかすぐ後ろにいた。


 モモをまじまじと見ていた。鼻を動かしていた。


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「とりあえずお前、桃だな!」


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 モモが止まった。


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「あと変!」


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 シンは頭を抱えた。


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 (終わった)


⸻


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 ユウガオは自分と、現れた女を見比べていた。


 何かを確かめるように少し首を傾けた。


 目が細くなった。


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(この娘)


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 ユウガオは思った。


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(危ないね)


⸻


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 そこへ気配があった。


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 突然だった。


 声も足音も先触れもなかった。


 ただ居た。


 山伏のような姿だった。


 白髪交じりで、目だけが妙に若かった。


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 「あれ?」と義経が言った。


⸻


「師匠じゃん」


⸻


 その一言だけが、妙に嬉しそうだった。


 戦場で名を上げた武将の顔ではなかった。


 もっと幼い。


 何か面白いものを見つけた子供の顔だった。


⸻


⸻


 まだ、義経という名を持つ前。


 鞍馬では、遮那王と呼ばれていた。


⸻


 鞍馬の山は、夜になると別の山になった。


 昼には僧の声が響く道も、日が落ちれば木々の間へ沈んだ。湿った土の匂い。苔。獣の糞。古い杉の皮。沢から上がる冷たい水の気配。


 月のない夜には、自分の手さえ見えない。


 だから遮那王は、よく山へ入った。


⸻


 見えない方が面白かった。


⸻


 足で根を探し、手で幹を探し、風の向きで崖を知る。鹿が逃げた方角を聞き、鳥が急に黙った場所を避ける。


 寺の中では叱られることばかりだったが、山は何も言わなかった。


 遮那王は、自分が誰の子かを知っていた。


 源義朝。


 平治の乱で敗れ、死んだ父。


 自分が、その子であることも知っていた。


 だから自分が普通の寺童ではないことも、ここで僧になるよう求められている理由も、幼いなりには分かっていた。


 けれど、父の名をどう背負えばいいのかまでは分からなかった。


 源氏の子として生きるとは、何をすることなのか。


 父の仇を討つことなのか。


 一族を立て直すことなのか。


 それとも、全部忘れて僧になることなのか。


 答えはなかった。


 山も、それを聞かなかった。


 源義朝の子だとも、いずれ僧になる身だとも言わない。杉は杉で、岩は岩で、遮那王が何者でも同じ場所に立っていた。


 だから山の中だけは、何者にもならなくてよかった。


 落ちれば死ぬ。


 それだけだった。


⸻


 その夜も、遮那王は一人だった。


 沢を越え、斜面を登り、太い杉の根を蹴って上へ飛んだ。


 そこで、初めてその男を見た。


⸻


 山伏のような姿で、岩の上に座っていた。


 ずっと前からそこにいたようにも見えたし、今しがた現れたようにも見えた。


 白髪が少し混じっている。


 なのに目だけが若かった。


⸻


「誰だ」


⸻


 遮那王が聞いた。


 男は答えなかった。


⸻


「天狗か」


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「違う」


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「じゃあ何だ」


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「通る者だ」


⸻


「ここ、道じゃないぞ」


⸻


 男が少しだけ笑った。


⸻


「道だ」


⸻


 遮那王は腹が立った。


 意味が分からなかったからだ。


 落ちていた枝を拾い、そのまま岩へ飛び乗った。


 枝を振る。


 男の頭へ届くはずだった。


⸻


 届かなかった。


⸻


 男は一歩も下がっていない。


 遮那王の方が、いつの間にか岩の下にいた。


 何をされたのか分からなかった。


 転ばされたわけでもない。


 殴られたわけでもない。


 ただ、自分から何もない場所へ足を置き、滑り落ちていた。


⸻


「もう一回」


⸻


 遮那王は立ち上がった。


⸻


「帰れ」


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「嫌だ」


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「暗い」


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「見えなくても分かる」


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「分かっていないから落ちた」


⸻


 また腹が立った。


 遮那王はもう一度向かった。


 また落ちた。


 三度目も落ちた。


 四度目は枝を折られた。


 五度目には、男へ近づくことさえできなかった。


⸻


 夜が明けた。


 遮那王は泥だらけになっていた。


 男は最初と同じ岩にいた。


⸻


「明日も来る」


⸻


「来るな」


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「勝ってない」


⸻


「勝つ必要がない」


⸻


「俺にはある」


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 男は少し黙った。


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「では、足元を見ろ」


⸻


「見えない」


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「目で見るな」


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 それが最初だった。


⸻


⸻


 次の夜も、遮那王は来た。


 その次も来た。


 雨でも来た。


 雪が残る夜にも来た。


 男はいる時もあり、いない時もあった。


 いない日は探した。


 足跡はほとんど残らなかった。


 だから匂いを覚えた。


 濡れた木。土。古い布。煙でも香でもない、山の道そのものみたいな匂い。


⸻


「足音を消したつもりか」


⸻


「消してる」


⸻


「枝を踏んだ。草を揺らした。鳥も逃げた」


⸻


 遮那王が眉を寄せた。


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「……じゃあ、丸見えじゃん」


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「最初からそう言っている」


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「俺、そんなに隠れるの下手か?」


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「下手だ」


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「くそう!」


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 遮那王は少し腹を立てた。


 そして翌日から、足音だけではなく、踏む枝と、揺れる草と、逃げる鳥まで見るようになった。


⸻


 教え方は、教えるというものではなかった。


 木刀の振り方を直すことはなかった。


 構えも教えなかった。


 技の名も言わなかった。


 ただ、山の中へ連れていった。


⸻


 最初は、濡れた岩を三つ渡るだけで落ちた。


 次は五つまで行った。


 やがて沢の上に並ぶ石を、足元を見ずに渡れるようになった。


⸻


 最初は、細い枝へ乗れば枝が大きく揺れた。


 次第に揺れなくなった。


 木から木へ移る時も、着地の音が消えた。


⸻


 落ち葉の積もった斜面では、何度背後へ回ろうとしても、男は振り返りもしなかった。


 遮那王は速く走った。


 もっと速く走った。


 それでも駄目だった。


⸻


「速いだけだ」


⸻


 男が言った。


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「速ければ勝てる」


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「お前より速い者には負ける」


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「じゃあ、もっと速くなる」


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「馬鹿だな」


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「知ってる!」


⸻


 遮那王は笑った。


 だが、その夜から走り方を変えた。


⸻


 ただ速く進むのをやめた。


 自分の足元だけではなく、男の足元も見るようになった。


 土が沈む場所。


 苔が滑る岩。


 枝が低く張り出す場所。


 獣道が二つに分かれる場所。


 男がどこで踏み込み、どこで身体を軽くするのか。


 相手の動きと、山の形を一緒に見るようになった。


⸻


 季節が一つ巡る頃には、遮那王はもう同じ場所では転ばなかった。


 転んでも、次の夜には転ばなかった。


 崖際で押されても足を残した。


 濡れた根を踏んでも滑らなくなった。


 木の上から落ちても、枝を掴み、体を振り、別の幹へ移った。


 山の中で、遮那王の身体だけが少しずつ軽くなっていった。


⸻


 それから、いくつも季節が巡った。


⸻


 遮那王の背は伸びた。


 最初の夜に拾った枝は、いつしか木太刀に変わっていた。


 足は速くなり、息は長くなり、暗い山の中でも迷わなくなった。


 それでも、男には勝てなかった。


⸻


 遮那王が前へ出れば、男は横にいた。


 横を取れば、後ろにいた。


 待てば、もういなかった。


 追えば、自分から悪い足場へ入っていた。


⸻


 ある夜。


 遮那王は男を追わなかった。


⸻


 立ち止まった。


 目を閉じた。


⸻


 沢の音。


 風。


 杉の葉。


 遠くの獣。


 その全部の中に、一つだけ不自然に静かな場所があった。


⸻


 遮那王はそちらを見なかった。


 反対へ走った。


 倒木を越え、斜面を下り、獣道の先へ回った。


⸻


 男が現れた。


⸻


 初めてだった。


 追いついたのではない。


 待ち伏せたのでもない。


 男がそこへ来ると読んで、先に回った。


⸻


 遮那王の木太刀が振られた。


 男の肩を狙う。


 男が避ける。


⸻


 一歩。


⸻


 たった一歩だった。


 それまで一度も動かなかった男が、初めて遮那王から離れた。


⸻


 遮那王は止まった。


⸻


「今、退いたな」


⸻


「一歩だ」


⸻


「退いた!」


⸻


「一歩だ」


⸻


「俺の勝ち!」


⸻


「違う」


⸻


「じゃあ、もう一回!」


⸻


 遮那王は飛びかかった。


 次の瞬間には沢へ落ちた。


⸻


 それでも笑っていた。


 水の中から顔を出し、大声で笑った。


⸻


 そこから、また変わった。


⸻


 遮那王は、ただ後ろを追いかけることをやめた。


 男が右へ避ければ、その次に来る場所へ回った。


 倒木があれば、その向こうを取った。


 狭い獣道では、先へ抜けるより横へ出る方を選んだ。


 少しずつ、男より先に動ける瞬間が増えていった。


⸻


 男は何も褒めなかった。


 ただ、少しずつ動くようになった。


⸻


 一歩。


 二歩。


 三歩。


⸻


 遮那王が届く距離が、夜ごとに伸びた。


⸻


 ある時は袖の端を木太刀でかすめた。


 ある時は男の持っていた枝を叩き落とした。


 だが、身体へまともに一撃を届かせることはできなかった。


⸻


 最後には必ず負けた。


⸻


 それでも、最初の夜とは違った。


⸻


 もう一方的には落ちなかった。


 男に歩かせた。


 走らせた。


 時には、ほんの一瞬だけ本気で避けさせた。


⸻


 遮那王自身にも、それが分かった。


 強くなっている。


 速くなったからだけではない。


 山を見るようになったからだ。


 人が立つ場所。


 逃げる場所。


 踏める場所。


 踏めない場所。


 戦う前から、戦いは始まっている。


⸻


 ある夜、二人は尾根の上で休んだ。


 遠くに京の灯が見えた。


⸻


「お前は、山を下りたら何になる」


⸻


 男が不意に聞いた。


 遮那王は寝転んだまま空を見た。


⸻


「知らん」


⸻


「源氏の子だろう」


⸻


 遮那王の目が少しだけ動いた。


⸻


「知ってるのか」


⸻


「道を歩けば、名は残る」


⸻


「また分からんことを言う」


⸻


 遮那王は起き上がった。


⸻


「俺が父上の、源義朝の子だってことは知ってる」


⸻


「それで」


⸻


「それで何をするかは、まだ知らん」


⸻


 男は何も言わなかった。


 遮那王も、それ以上は言わなかった。


 ただ、京の灯ではなく、その先へ続く暗い山を見た。


⸻


 別の夜、遮那王が聞いた。


⸻


「何で俺に教える」


⸻


「教えていない」


⸻


「教えてるだろ」


⸻


「俺は道を歩いているだけだ」


⸻


「じゃあ俺は?」


⸻


「勝手について来ている」


⸻


 遮那王は少し考えた。


⸻


「じゃあ、勝手に弟子になる」


⸻


「やめろ」


⸻


「もうなった」


⸻


 男はため息をついた。


 遮那王は、それを了承だと思った。


⸻


「どうすればお前に勝てる」


⸻


 遮那王が続けて聞いた。


 男は歩きながら答えた。


⸻


「俺を見るな」


⸻


「見てるのは足元だ」


⸻


「まだ俺を見ている」


⸻


「何が違う」


⸻


 男が足を止めた。


 前には崖があった。


 右には細い獣道。


 左には倒木。


 後ろには、遮那王が歩いてきた道がある。


⸻


「人を見ると、人しか見えぬ」


⸻


 男が言った。


⸻


「道を見れば、人がどこへ来るか分かる」


⸻


 遮那王は黙った。


 前なら、分かったような顔をしていただろう。


 今は違った。


⸻


 崖を見た。


 獣道を見た。


 倒木を見た。


 自分が来た道を見た。


 最後に、男の足元を見た。


⸻


「じゃあ、お前が立てる場所を全部なくせばいい」


⸻


 男の目が、ほんの少し細くなった。


⸻


「やってみろ」


⸻


 その夜、遮那王は男を追わなかった。


⸻


 先に倒木の向こうへ回った。


 男が右へ出れば、木太刀を振って獣道を塞いだ。


 左へ退けば崖がある。


 後ろへ戻れば、さっき遮那王が落とした太い枝が道を狭めている。


⸻


 一つ。


 また一つ。


⸻


 男が立てる場所を、遮那王は少しずつ消していった。


⸻


 男が初めて、はっきりと走った。


⸻


 遮那王も走った。


 追わなかった。


 その先へ行った。


⸻


 男が最後に残った細い道へ入る。


 遮那王は、もうそこにいた。


⸻


 木太刀が止まった。


 男の首元だった。


⸻


 初めてだった。


 袖でもない。


 持っていた枝でもない。


 男が振り返るより先に、遮那王がそこへいた。


⸻


 次の瞬間、遮那王は地面へ転がされた。


⸻


 背中を打った。


 息が詰まった。


 それでも笑った。


⸻


「今のは勝ちだろ!」


⸻


「まだだ」


⸻


「首まで届いた!」


⸻


「木太刀だ」


⸻


「同じだ!」


⸻


「違う」


⸻


「じゃあ次は本当に斬る!」


⸻


「物騒だな」


⸻


 その時だけ、男も少し笑った。


⸻


⸻


 遮那王が山を下りる日。


 夜明け前の鞍馬は、まだ青かった。


 遮那王は寺へ戻る道ではなく、山の外へ続く方を見ていた。


 男は杉の下に立っていた。


⸻


「行くのか」


⸻


「行く」


⸻


「どこへ」


⸻


「奥州」


⸻


「遠いぞ」


⸻


「道は繋がってるんだろ」


⸻


 男が遮那王を見た。


 遮那王は得意そうに笑った。


⸻


「お前が言った」


⸻


 少しの沈黙のあと、男は頷いた。


⸻


「そうだ」


⸻


「じゃあ、また会うな」


⸻


「道が残れば」


⸻


「残す!」


⸻


 遮那王は即答した。


 何を残すのかも知らないまま。


 それでも、迷いはなかった。


⸻


「次は勝つからな!」


⸻


 そう言って、山を下りた。


 振り返らなかった。


 男も呼び止めなかった。


 朝の山に、足音だけが遠ざかっていった。


⸻


⸻


「師匠?」


⸻


 シンは気づいた。


 最初に会った時から、おそらく一千年以上が経過していた。


 そして一千年以上前から、変わらない男だった。


⸻


「……ミチヌシ?」


⸻


「いや、鞍馬山の天狗」


⸻


 義経が言った。


⸻


「子供の頃、唯一勝てなかった化物だから勝手に弟子入りした。今なら勝てると思うけどな!」


⸻


 子供のようにニヤリと笑い、そして疑問に気づいた。


⸻


「……何で陸奥の山にいるかは知らん」


⸻


 ミチヌシはシンを見た。義経を見た。


 それから、満足したような顔をした。


⸻


「見に来た」


⸻


 低い声だった。


⸻


「道は繋がっている。鬼の火を運ぶ者と、鬼よりはるかに鬼に相応しい男が、同じ場所に在る。面白い」


⸻


「何言ってるんだ」とシンが言った。


⸻


「何言ってるんだ」と義経が言った。


⸻


 同時だった。二人で顔を見合わせた。


⸻


 ミチヌシは笑った。


 それから消えた。


 音もなく、跡もなく、ただ消えた。


⸻


 「あれ?」とユウガオが言った。


⸻


「さっきの娘もいないよ」


⸻


 モモがいなかった。


 桃の香りだけが、まだ風の中に薄く残っていた。


⸻


⸻


 三人は取り残された。


⸻


「……わけが分からん!」


⸻


 義経が言った。


⸻


「帰って酒だ!」


⸻


「またぁ?!」


⸻


 シンとユウガオが同時に言った。


⸻


 義経は既に歩いていた。


 二人は肩を竦めて後に続いた。


⸻


 夕日が来ていた。


 北の空が橙に染まった。


 平泉の金の屋根が最後の光を受けて、遠くから燃えているように見えた。


⸻


 (モモには帰る所があるんだろうか)


⸻


 シンは空を見た。


⸻


 遠く平泉の向こうに、桃の香りがまだかすかに漂っていた。


⸻


 (面倒な時代だ)


⸻


 と思った。


⸻


 (でも)


⸻


 ユウガオが先を歩く義経の背を見て、少し笑った。


 タダの飯が待っていた。


 北の春の夜が来ようとしていた。


⸻


 道は続いていた。


⸻


⸻


 (第九十四話へ)


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