黄金の都
第九十二話 黄金の都
⸻
義経は朝から元気だった。
⸻
昨夜あれだけ飲んで、兄上がどうのと言って、机に沈んだ男と同じ人物とは思えない。
顔色は良い。
足取りも軽い。
もう笑っている。
⸻
(切り替え早すぎる……)
⸻
「いつもああ」
⸻
ユウガオがシンの横で言った。
髪はまだ少し湿っているように見えた。
朝の光を受けると、黒い髪の端だけが青く光る。
昨日の川辺を思い出しそうになり、シンはすぐ前を向いた。
⸻
「酒だけ弱い」
⸻
タダが後ろで言った。
干した魚を串から外しながら、当然のような顔をしている。
⸻
「お? 悪口か?」
⸻
義経が前から言った。
聞こえていた。
振り返らない。
笑っている。
⸻
「事実だ」
⸻
「事実なら仕方ないな!」
⸻
「開き直るな」
⸻
タダの声は低い。
だが、怒ってはいなかった。
呆れている。
慣れている。
その二つが混ざっていた。
⸻
タダは館の入口まで見送った。
それ以上は来ない。
⸻
「帰りが遅いと飯ないぞ」
⸻
それだけ言った。
中へ戻る。
⸻
(家族かよ)
⸻
シンは後ろを見た。
閉まった戸を見る。
温かかった。
乱暴な温かさだった。
⸻
この時代にも、こういう場所がある。
火があって、飯があって、帰りを待つ大きな背中がある。
それだけで、人は少し生きられる。
⸻
⸻
山道を下った。
⸻
朝の山は冷えていた。
木の根元には、まだ雪が残っている。
けれど、道の上の雪は細くなっていた。
人の足と馬の蹄が踏み、朝の陽で少し溶け、夜にまた固まった道だ。
土の上に、薄い氷が割れた跡がある。
⸻
義経は先を歩く。
速い。
けれど時々止まる。
理由もなく止まる。
少しの間だけ静止して、また歩き出す。
⸻
突然止まった。
⸻
「鹿いるな」
⸻
左の木立を見ていた。
⸻
シンも見る。
何もない。
草。
木。
影。
湿った落ち葉。
古い雪。
⸻
しばらくして。
⸻
草が揺れた。
⸻
鹿が一頭、木の間を横切る。
まだ冬毛が少し残っていた。
こちらを見ない。
軽く跳ねるように斜面を抜け、すぐ消える。
⸻
(いた)
⸻
義経は既に歩いていた。
⸻
また止まる。
⸻
「あと人来る」
⸻
「どこに」
⸻
「あそこの木陰」
⸻
シンは見た。
やはり何もない。
枝が重なって、影が濃いだけだった。
⸻
少ししてから、山民が一人出てきた。
背に荷を負っている。
皮の紐で縛った束だ。
毛皮か、干した山菜か、木の実か。
シンには分からない。
男は義経を見ると、頭を下げて道を譲った。
⸻
(いた)
⸻
「どうやって分かる」
⸻
シンは聞いた。
⸻
「音で分かる!」
⸻
「嘘」
⸻
ユウガオが言った。
即答だった。
⸻
「……におい!」
⸻
義経が言った。
⸻
シンは少し黙った。
⸻
(やっぱり犬かな?)
⸻
義経が振り返った。
⸻
「今、失礼なこと考えたな」
⸻
「考えてない」
⸻
「嘘の匂いがする」
⸻
「便利すぎる」
⸻
ユウガオが笑った。
肩を揺らすだけの笑いだった。
朝の山に、その笑いは妙に柔らかく響いた。
⸻
道は少しずつ広くなる。
獣道ではなく、人の道になっていく。
踏み固められた土。
脇に寄せられた石。
ところどころに木の板が渡してある。
ぬかるみを避けるための板だ。
荷を引いた跡もある。
馬だけではない。
牛かもしれない。
あるいは人が押した車の跡かもしれない。
⸻
山を下るにつれて、匂いが増えた。
水。
煙。
馬。
人。
魚を干した匂い。
濡れた麻。
木を削った匂い。
それから、金属を打つ遠い音。
⸻
(街が近い)
⸻
シンにも分かった。
⸻
⸻
丘を越えた。
⸻
視界が開ける。
⸻
シンは止まった。
⸻
川があった。
大きな川だ。
春の水で満ちている。
灰色の空を映し、ところどころで白く泡立っていた。
流れは速い。
雪解けの水を含んでいるのだろう。
岸辺の草はまだ低く、泥の色がよく見えた。
⸻
橋がかかっていた。
木造だった。
だが、細い橋ではない。
太い柱を組み、横木を重ね、両脇に低い柵がある。
川の力を受ける場所には、石が積まれていた。
人が渡るだけの橋ではない。
荷も渡る。
馬も渡る。
この先へ物を運ぶための橋だった。
⸻
橋の上に人がいた。
⸻
荷馬が渡っている。
商人が渡る。
山から来た者がいる。
海の匂いを持った者もいる。
東国の衣の者もいた。
北の毛皮を積んだ荷がある。
木箱を背負った男の隣を、布の包みを抱えた女が歩く。
馬の尻に、鈴が小さく鳴った。
⸻
川の向こうに街があった。
⸻
ただ家が集まっているだけではない。
道が見えた。
人の流れが見えた。
屋根の高さが揃っている場所と、急に高くなる場所がある。
柵。
土塁。
門のようなもの。
水を引いた溝。
それらが重なり、街の輪郭を作っていた。
⸻
寺があった。
金だった。
朝の光を受けて、屋根の先が光る。
炎のようだった。
でも炎ではない。
冷たい黄金だった。
冬にも溶けない金だった。
⸻
その近くに、別の伽藍の屋根が見える。
白い壁。
朱の柱。
長い回廊らしき影。
池の面が、少しだけ光を返していた。
水の向こうに堂があり、堂の向こうに山がある。
建物だけではない。
山ごと、川ごと、空ごと、何かの形にしようとしている。
⸻
(何だ、これ)
⸻
シンは息を呑んだ。
⸻
都を真似ただけではない。
寺を建てただけでもない。
人が死んだ後に行きたい場所を、ここに作ろうとしたような街だった。
死んだ者のため。
生きている者のため。
たぶん、その両方。
⸻
煙が上がっていた。
炊事の煙だ。
複数箇所から上がっている。
朝の飯の時間だった。
⸻
市場がある。
声が届いた。
笑い声。
値段を張る声。
馬をなだめる声。
子供の声もある。
⸻
魚の匂いがした。
山菜の匂いがした。
味噌のような、発酵したものの匂いもある。
木炭。
鉄。
濡れた革。
馬の汗。
その全部が、川の風に混じって流れてきた。
⸻
(でかい)
⸻
シンは立ったまま見ていた。
⸻
(都じゃない)
⸻
(国だ)
⸻
頭の中で比べる。
胆沢を思い出した。
アテルイたちが守ろうとしたものを思い出す。
炉の煙。
タダの飯。
スズリの紙。
モレの静かな目。
アテルイの、朗らかな笑み。
⸻
あれから、たぶん数百年以上が経っている。
⸻
燃えたはずだった。
消えたはずだった。
鬼と呼ばれて、追われて、奪われて。
それでもここにあった。
川がある。
市場がある。
飯の煙がある。
人が笑っている。
⸻
(残ったのか)
⸻
(ここまで)
⸻
(火が)
⸻
「良い感じだろ?」
⸻
義経が隣に来ていた。
⸻
川を見ている。
街を見ている。
金の屋根を見ている。
自分の庭を眺めるような顔だった。
⸻
「鎌倉はもう嫌いだけど」
⸻
少し間があった。
⸻
「奥州は好きだ」
⸻
短かった。
それだけだった。
説明はない。
⸻
ユウガオが黙っていた。
空気が少し変わる。
この男がこういう顔をする時を知っているらしかった。
だから笑わない。
⸻
「ここにいるとさ」
⸻
義経が続けた。
珍しく、声が少し低い。
⸻
「俺が何者でもいい気がする」
⸻
シンは義経を見た。
⸻
「源九郎でも」
「伊予守でも」
「兄上の弟でも」
「朝敵でも」
⸻
義経は川の方を見たまま言う。
⸻
「ここでは、飯が出る」
⸻
最後がそれだった。
シンは少し笑いそうになった。
でも笑えなかった。
たぶん、かなり大事なことだった。
⸻
「飯は大事だからな」
⸻
「だろ!」
⸻
義経は急に明るくなった。
さっきの顔が、風で飛ばされたように消える。
⸻
「タダみたいなこと言うな、お前」
⸻
「タダは真理しか言わないから」
⸻
義経は声を出して笑った。
⸻
⸻
橋を渡った。
⸻
川の上は風が強い。
板が足の下で低く鳴った。
馬の蹄が木を叩く。
荷を引く縄が軋む。
橋の半ばで振り返ると、山が見えた。
まだ白いものを抱えた北の山だ。
その下に川があり、橋があり、人が流れている。
⸻
川の向こうへ入ると、人の数が増えた。
声も増える。
家々は板壁と土壁が混じっていた。
屋根は板葺きもあれば、草葺きもある。
大きな建物の周囲には柵があり、門番らしき者が立っている。
溝には水が流れていた。
泥を避けるため、道の端には板や石が置かれている。
⸻
市場の端を通る。
⸻
干した魚。
鹿の皮。
熊の毛皮。
麻布。
木椀。
鉄の刃。
鍋。
馬具。
小さな琥珀。
磨かれていない青い石。
そして、砂を入れた小袋。
⸻
砂だ。
ただの砂ではない。
光っている。
日を受けて、細かく金色に光る。
⸻
(金砂)
⸻
アテルイの時代にもあった。
山の奥から出る、光る砂。
川底に沈み、岩の隙間に残り、人の手で掬われるもの。
あの時代にも、それはたぶん誰かの目を引いていた。
都が北を欲しがった理由の一つだったのかもしれない。
鬼と呼ばれた人たちの土地から、こうして光るものが運ばれていく。
人の命より、山の光の方が重く数えられた日もあったはずだ。
奥州。
金。
中尊寺。
そんな断片だけが、霧の中から浮かぶ。
⸻
(ここから来たのか)
⸻
違う。
それだけでは足りない。
⸻
(ここから、持っていかれたのか)
⸻
金の屋根。
金の堂。
朝の光。
それだけではない。
人の手。
川の砂。
山の水。
掘る者。
運ぶ者。
数える者。
祈る者。
⸻
金は、ただ光っているだけではなかった。
この街の中で、ちゃんと重かった。
きれいだと思った。
同時に、少し苦かった。
⸻
義経を見て頭を下げる者がいた。
義経は手を上げる。
小さく「九郎殿」と呼ぶ者がいた。
義経は笑った。
顔を知っている者が多い。
この街に馴染んでいた。
ただ、誰も大きな声では呼ばなかった。
⸻
「九郎殿、今日は山へ?」
⸻
「今日は街!」
⸻
「珍しい」
⸻
「俺もたまには街を見る」
⸻
「昨日も山だったでしょう」
⸻
「細かいな!」
⸻
通りの女が笑った。
義経も笑う。
ユウガオは慣れた顔でその横を歩いていた。
シンは、二人の少し後ろを歩く。
人の目が、自分にも来る。
見ない顔。
義経の後ろにいる知らない男。
そういう目だった。
⸻
ただ、強い警戒ではない。
義経が連れているなら、まあそういうこともある。
そんな空気があった。
⸻
(信用されてるんだな)
⸻
義経が、ではない。
いや、義経もそうなのだろう。
だが、それ以上に、義経を置いているこの街が、義経を知っている。
危ない男だと知っている。
勝手に山へ行く男だと知っている。
酒に弱いことも、たぶん知っている。
それでもここに置いている。
⸻
(居場所か)
⸻
シンは思った。
⸻
⸻
平泉の入口に差しかかった頃。
⸻
馬蹄の音がした。
⸻
馬が来る。
二頭だった。
兵を二人連れている。
先頭の男が馬を止めた。
降りる。
⸻
若かった。
義経と歳が近い。
体は義経より大きかった。
肩が広い。
衣は武家のものだったが、飾りは少ない。
土と鉄と、山の匂いがした。
手綱を握る指が太い。
足の置き方が、街の人間とは違う。
石の上でも、土の上でも、同じように立てる足だった。
⸻
シンは止まった。
⸻
(似てる)
⸻
誰に似ているか、すぐには分からなかった。
少し考える。
⸻
アサメ。
⸻
アテルイ。
⸻
山に生きた顔だ。
土の上に立って、そこから動かない顔だった。
北の火を持っている目だった。
⸻
「義経殿」
⸻
「国」
⸻
義経が言った。
短い。
愛称のようだ。
それで通じた。
⸻
「探しました」
⸻
「逃げた」
⸻
「知っております」
⸻
男が笑った。
怒ってはいない。
諦めと呆れと愛情が混ざった笑いだった。
⸻
「当主が、朝から三度ほど人を出しています」
⸻
「三度も?」
⸻
「三度です」
⸻
「暇なのかな」
⸻
「忙しいからです」
⸻
義経は少し考えた。
⸻
「それはそうか」
⸻
「分かっていただけて何よりです」
⸻
ユウガオが袖で口元を隠した。
笑っている。
シンも少し笑った。
⸻
「シン」
⸻
義経がシンを指す。
⸻
「落ちてた」
⸻
「また拾ったのですか」
⸻
「落ちてたんだ」
⸻
「同じことです」
⸻
男がシンを見た。
一度だけ。
それだけだった。
怪しまない。
値踏みもしない。
ただ受け入れる。
⸻
「藤原国衡」
⸻
男が言った。
⸻
「シン」
⸻
シンも名乗る。
⸻
「ご無事で何よりです」
⸻
国衡はそう言った。
初対面の相手に向けるには、少し変な言葉だった。
だが、この街では、落ちていた者でも、生きて着いたならまず無事なのかもしれない。
⸻
「当主が呼んでいます」
⸻
国衡が義経へ向いた。
⸻
「機嫌悪い?」
⸻
「今日は少し」
⸻
「何で?」
⸻
国衡は答えなかった。
代わりに遠くを見る。
街の奥を見た。
金の屋根の向こうを見た。
何かを考えている目だった。
重いものを考えている目だった。
⸻
その視線を追うと、御所らしき場所が見えた。
広い敷地。
土を固めた塀。
木の柵。
水の気配。
川に挟まれたような、低い土地。
そこへ人が出入りしている。
武士だけではない。
僧もいる。
文を持つ者。
荷を運ぶ者。
庭の方へ回る者。
⸻
ここは寺の街であり、商いの街であり、政の街でもある。
その全部が、同じ川辺に置かれていた。
⸻
(すごいな)
⸻
シンは素直に思った。
⸻
(でも)
⸻
大きければ大きいほど、倒れた時の音も大きい。
それも、どこかで知っている気がした。
平泉。
奥州藤原氏。
⸻
細かいことは分からない。
だが、この街がもうすぐ壊れることだけは、腹の底で分かってしまう。
⸻
風が来た。
⸻
川から来る。
北の風だった。
春の匂いが混じっている。
雪解けの水。
馬の汗。
飯の煙。
金属。
濡れた木。
⸻
その中に。
⸻
別の匂いがあった。
⸻
シンは止まった。
⸻
(モモ)
⸻
風の中に桃があった。
確かにあった。
春の果実の匂いだった。
⸻
義経も止まっている。
鼻を動かしていた。
何かを読んでいる。
⸻
「今の」
⸻
シンが言いかける。
⸻
「桃だな」
⸻
義経が先に言った。
⸻
街の奥に人影があった。
遠い。
薄桃色の衣だった。
こちらへは向いていない。
向こうを向いている。
ただ立っていた。
⸻
「また変なのいるな」
⸻
義経が言った。
⸻
シンは黙っていた。
⸻
(居た)
⸻
桃の香りが風に乗る。
消える。
また来る。
⸻
白い人影が、遠くでゆっくり振り返った。
⸻
顔は見えない。
距離がある。
でも分かった。
⸻
モモだ。
⸻
何百年も離れた。
数えられないほどの時間があった。
それでも、匂いだけで体が反応した。
胸の奥が、少し痛む。
⸻
ユウガオがシンを見た。
それから、遠くの人影を見た。
目が細くなる。
笑っていない。
⸻
「知り合い?」
⸻
低い声だった。
⸻
シンは少し迷った。
何と答えればいいのか分からない。
知り合い。
敵。
味方。
片割れ。
全部違う。
全部少し合っている。
⸻
「たぶん」
⸻
結局、そう言った。
⸻
ユウガオは小さく笑った。
けれど、その笑いは柔らかくなかった。
⸻
「たぶん、ね」
⸻
義経が、遠くの人影へ向かって一歩出ようとした。
⸻
国衡が止めた。
何も言わず、義経の袖を掴む。
⸻
「当主が呼んでいます」
⸻
「分かってる」
⸻
「分かっていない時の返事です」
⸻
「よく知ってるな」
⸻
「よく知っています」
⸻
義経は不満そうにした。
だが、逆らわない。
珍しい。
それだけ国衡の手に重さがあった。
⸻
シンはもう一度、街の奥を見た。
⸻
薄桃色の人影は、そこにいる。
まだいる。
けれど、近づいてこない。
手も振らない。
声もない。
⸻
ただ、見ている。
⸻
(モモ)
⸻
呼んでも、届かない距離だった。
でも、匂いだけは届いている。
⸻
春が、北の街に来ていた。
飯の煙と、金の屋根と、川の風の中に。
桃の香りが、ほんの少しだけ混じっていた。
⸻
道は、黄金の都の奥へ続いていた。
⸻
⸻
(第九十三話へ)




