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酒と大将

第九十一話 酒と大将


⸻


 道を外れた。


⸻


 獣道だった。


 草を踏み、枝をかわし、少し登る。


 山の斜面に沿って、細い道が続いていた。


 義経は迷わない。


 どこに足を置けば土が崩れないか、どの枝が顔に当たるか、初めから知っているみたいだった。


 ユウガオも慣れた足取りで続いた。


 シンだけが枝に引っかかった。


⸻


「痛っ」


⸻


 頬をかすった枝を押さえる。


 義経が振り返った。


⸻


「山、苦手か」


⸻


「得意そうに見えますか」


⸻


「見えん!」


⸻


 即答だった。


 義経は笑って、また前を向いた。


 ユウガオが肩越しにこちらを見る。


⸻


「転ばないだけ偉いよ」


⸻


「ありがとうございます」


⸻


「褒めてるかは微妙だけどね」


⸻


 からかう声だった。


 川で見たユウガオの肢体が、目の奥にまだ焼き付いている。


 シンはなるべく前だけを見た。


 足元。


 土。


 石。


 枝。


 ユウガオではなく、足元。


⸻


 やがて、開けた場所に出た。


⸻


 柵があった。


 馬が二頭、鼻を鳴らしている。


 薪が積まれ、物干しには衣が下がっていた。


 煙も見えた。


 飯の匂いがする。


⸻


 建物は小さい。


 御所でも屋敷でもなかった。


 板壁に茅葺き。


 増築した跡が二か所あり、壁の色がそこだけ少し違う。


 人が暮らしている場所だった。


 武家の拠点というより、山の中に作った居場所に近い。


⸻


(これが義経の家か)


⸻


 シンは眺めた。


⸻


(質素だな)


⸻


 丸太を組んだだけの門があった。


 門と言うには低い。


 その前に、人がいた。


⸻


 大きかった。


⸻


 まず体が大きい。


 肩が広い。


 太い腕で荷を担いでいる。


 背負った荷の中には、長物らしき影も見えた。


 振り返る。


⸻


 顔が見えた。


⸻


 シンは止まった。


⸻


(タダだ)


⸻


 見間違いようがなかった。


 同じ顔。


 同じ声の出方をしそうな喉。


 大きく、厚く、どこか飯の匂いが似合う身体。


 けれど、違う。


 格好が違う。


 目の色も少し違う。


 こちらのタダは、腹の奥に火を詰めているみたいな目をしていた。


 誰かを守る目。


 同時に、すぐ殴れる目。


⸻


(タダ)


⸻


 もう一つ、別の名前が頭の隅で動いた。


 義経。


 大きな家来。


 山伏。


 橋。


 長い得物。


 それらしい断片だけが浮かぶ。


⸻


(弁慶……?)


⸻


 確信はなかった。


 シンの知識は、いつも肝心なところで霧みたいになる。


 名前は知っている。


 話も少しは知っている。


 でも目の前の人間と、知識の中の人物が、どこまで同じなのか分からない。


 ウロオボエ様はいまだ健在だった。


⸻


「面倒な顔の奴連れて来たな、大将」


⸻


 低い声だった。


 底から来る。


 やっぱり、知っている声に似ていた。


⸻


「落ちてた」


⸻


 義経が言った。


 前を向いたまま、平然と門をくぐる。


⸻


「犬猫みたいに拾うな」


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「犬猫は覗かん」


⸻


「何を覗いた」


⸻


 大男の目がシンへ戻った。


 重い。


 シンは背筋を伸ばした。


⸻


「事故です」


⸻


 ユウガオが口元に手を当てて笑った。


 こういう展開を、最初から待っていた顔だった。


⸻


「名は」


⸻


 大男が聞いた。


⸻


「シン」


⸻


「どこから来た」


⸻


 シンは少し考えた。


 いつもの答えしかなかった。


⸻


「遠いとこ」


⸻


 大男は眉を少し動かした。


 ただ、それ以上は聞かない。


 荷を担ぎ直し、中へ入っていった。


⸻


「タダって言うんだよ」


⸻


 ユウガオが、シンの耳に近く言った。


⸻


「大将の古くからの家来、みたいなもの」


「無愛想だけど悪い人じゃないから」


⸻


(タダ)


⸻


 シンは後ろ姿を見る。


⸻


(やっぱりタダなのか)


(それとも、弁慶なのか)


⸻


 否定も肯定もできない。


 名前が違う。


 でも、これまでもそうだった。


 タダはいつもタダだった。


 どの時代でも、別の何かに似ていて、それでも結局タダだった。


⸻


(まあいいか)


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


(聞いても分からん)


⸻


⸻


 酒が出た。


⸻


 館の中には囲炉裏があった。


 火が起きている。


 炭ではなく薪だった。


 煙は天井の隙間から上へ抜けていた。


 四人が火を囲む。


 義経は、座るなり盃を持った。


 ユウガオは、当たり前のようにシンの隣へ腰を下ろす。


 近い。


 少し近い。


 シンは膝の位置を直した。


⸻


「よし」


⸻


 義経が盃を掲げた。


⸻


「知らん奴が混じったから、名乗りからだな!」


⸻


 タダが魚を串に刺しながら言った。


⸻


「大将、先に食わせろ」


⸻


「名乗りながら食えばいい」


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「器用なことを言う」


⸻


 義経は笑った。


 それから、シンを見る。


⸻


「俺は源九郎義経。大将だ」


⸻


「自分で大将って言うんですね」


⸻


「俺が言わないと誰が言う」


⸻


 タダが低く答えた。


⸻


「俺は言わん」


⸻


「ほらな」


⸻


 義経は満足げだった。


 次に、ユウガオを指す。


⸻


「こっちは夕顔。歌って踊れて、酒が飲めて、たまに俺より怖い」


⸻


「余計なこと言わない」


⸻


 ユウガオは笑っていた。


 否定はしないらしい。


⸻


「で、こいつがタダ」


⸻


 義経が大男を指す。


⸻


「飯を作る。荷を持つ。殴ると強い。俺を叱る時うるさい」


⸻


「叱られることをするな」


⸻


「無理だ!」


⸻


 即答だった。


 タダは諦めた顔で魚を火にかざす。


 シンは、二人のやり取りを見ていた。


 距離が近い。


 長い時間の積み重なった近さだった。


⸻


「最後」


⸻


 義経がシンを見る。


⸻


「覗きで、死に慣れていて、俺を知っているらしい、妙な匂いの男。名はシン」


⸻


「紹介がひどい」


⸻


「違うのか」


⸻


「違うと言い切れないのが嫌です」


⸻


 義経が笑う。


 ユウガオも笑った。


 タダだけは、少し長くシンを見ていた。


 その目に笑いはない。


 怪しんでいる。


 当然だった。


⸻


「まあ、食え」


⸻


 タダが皿を置いた。


⸻


「腹が空いてる顔だ」


⸻


 その言葉だけは、知っているタダとよく似ていた。


 シンの胸の奥が、少しだけ緩む。


⸻


「いただきます」


⸻


「変な言い方だな」


⸻


 タダが言った。


⸻


「でも悪くない」


⸻


 料理が並んだ。


 干した魚。


 山菜を煮たもの。


 鹿肉を焼いたもの。


 川魚が一尾、丸ごとある。


 豪勢ではない。


 けれど、全部ちゃんとした匂いがした。


 火を通したものの匂い。


 塩。


 脂。


 山の苦み。


 生きている人間の食事だった。


⸻


 シンは鹿肉を取った。


 噛む。


 獣の味がした。


 塩が効いている。


 少し焦げていて、そこが旨い。


⸻


(旨い)


⸻


 腹の奥が、ようやく落ち着いた。


⸻


(生きてる感じがする)


⸻


 義経はよく喋った。


 戦の話。


 旅の話。


 京の話。


 どこかの山で鹿を追った話。


 どこかの寺で叱られた話。


 話は跳ぶ。


 突然戻る。


 また跳ぶ。


 けれど不思議と聞けた。


 声が大きい。


 笑い方も大きい。


 場を全部持っていく。


⸻


 ユウガオは慣れている。


 笑うところで笑い、止めるところで袖を引く。


 タダは黙って聞きながら、器を足し、魚を返し、義経の盃が空になる前に酒を置いた。


 動きに無駄がない。


 そのたび、シンの頭に妙な疑惑が戻ってくる。


⸻


(弁慶)


⸻


 いや、違うかもしれない。


 名前はタダ。


 でも義経のそばにいる。


 大きい。


 強そう。


 世話を焼く。


 そして、たぶん無茶苦茶に強い。


⸻


(分かりやすいようで、全然分からん)


⸻


 考えていると、タダがこちらを見た。


⸻


「何だ」


⸻


「いえ」


⸻


「食え」


⸻


「はい」


⸻


 シンは山菜を口に入れた。


 苦い。


 でも旨かった。


⸻


 火が揺れた。


 酒が進む。


 川魚が骨だけになった。


 義経の話も、少しずつ間が空き始めた。


⸻


 やがて静かになる。


⸻


 義経が盃を持ったまま、火を見ていた。


 その横顔に、昼間の獣みたいな軽さはなかった。


 火を見る人間の顔だった。


⸻


「俺さぁ」


⸻


 義経が言った。


 笑っている。


 でも、少し前の笑いとは違う。


⸻


「結構、頑張ったんだけどな」


⸻


 ユウガオの手が止まった。


 タダも動かない。


 この話は、いつも聞いている。


 それが空気で分かった。


⸻


「兄上が分かってくれなくてさ」


⸻


 薪が爆ぜた。


 火の粉が一つ跳ねる。


⸻


「戦に勝った」


「殺した」


「生きた」


「帰った」


「ちゃんとやった」


⸻


 義経は盃の中を見た。


 そこに答えでも沈んでいるみたいに。


⸻


「なのに怒られた」


⸻


 シンは何も言わなかった。


 聞いていた。


⸻


「怒られる意味が分かんないんだよな」


「分かりたいんだけどな」


「顔を見たら分かる気がするんだけど」


「会えないしな」


⸻


 火が一度大きくなり、また低くなる。


⸻


(兄上)


⸻


 シンは頭の中で繋いだ。


⸻


(義経)


(奥州)


(逃亡)


(頼朝)


⸻


 近い。


 この人は、もうかなり近いところにいる。


 結末に。


⸻


(もうすぐ死ぬ)


⸻


 その認識が、急に腹の底へ落ちた。


⸻


(胆沢で)


(アテルイが死んだ)


(モレが死んだ)


(歴史は変わらなかった)


⸻


 だから飛んだのか。


 それとも、別の何かが残ったから飛んだのか。


 分からない。


 分からないが、ここにも死ぬ人間がいる。


 名前を知っている人間が、目の前で酒を飲んでいる。


⸻


 義経を見た。


⸻


 火を見ている顔だった。


 弱い顔だった。


 強い人間の弱い顔。


 こういう顔をする人間を、何度か見た気がする。


 アテルイも似た顔をした。


 モレも、ほんの一瞬だけそんな顔をした。


⸻


(なら)


⸻


 シンは膝の上で手を握った。


⸻


(今回は)


(この人を)


(死なせない)


⸻


 答えが出た感じではない。


 何かを理解したわけでもない。


 ただ、そう決めた。


 それだけだった。


⸻


 義経が盃を取り落とした。


⸻


 ころん、と軽い音がした。


 次の瞬間、義経は机に伏せていた。


 動かない。


⸻


「また」


⸻


 ユウガオが笑った。


⸻


「早いね、今日は」


⸻


 タダが立った。


 無言だった。


 義経の脇に手を入れる。


 軽々と持ち上げた。


 大の男を一本腕で担ぐ。


 自然な動作だった。


⸻


 シンは見た。


⸻


(絶対強い)


⸻


 疑惑が、また濃くなる。


⸻


(何なんだこの人)


⸻


 タダが奥へ消えた。


 足音がしない。


 あの体格で、足音がほとんどない。


⸻


⸻


 ユウガオと二人になった。


⸻


 静かだった。


 火の音だけがある。


 薪が爆ぜる。


 煙が上がる。


⸻


 ユウガオが少し寄ってきた。


⸻


 香りがした。


 夜の花の匂い。


 水浴びのときより薄い。


 けれど、近い分だけ逃げ場がなかった。


⸻


「ねえ」


⸻


 低い声だった。


 耳に近い。


⸻


「アンタさ」


⸻


 笑っていた。


 さっきまでとは全然違う笑いだった。


⸻


「……結構かわいい顔するね」


⸻


 シンは固まった。


⸻


(いかん!!!)


⸻


 思考より先に体が動く。


 後退した。


 立ち上がる。


 下がる。


⸻


 足に何かが当たった。


⸻


 瓢箪だった。


⸻


 転んだ。


 酔っていた。


 思ったより、かなり酔っていた。


 後頭部が何かに当たる。


 固い。


 柱。


⸻


(あ)


⸻


 後頭部に衝撃。


 視界が暗くなる。


⸻


 落ちる前に、一瞬だけ思った。


⸻


(モモ)


⸻


(どうしてるかなぁ)


⸻


⸻


 ユウガオがシンを見下ろした。


⸻


 声を立てずに笑った。


 しゃがむ。


 黒い髪に触れた。


 一度だけ。


⸻


「かわいいねぇ」


⸻


 少し間があった。


⸻


「拾って正解かも」


⸻


 火が揺れた。


 夜が来た。


⸻


⸻


 そして、すぐに朝が来た。


⸻


「起きろ、シン」


⸻


 声がした。


 近い。


 うるさい。


⸻


 シンは目を開けた。


 頭が痛い。


 後頭部がずきずきする。


 昨夜の最後の記憶は、火と夜花の香りと瓢箪で途切れていた。


⸻


 目の前に義経がいた。


⸻


 昨日あれだけ飲んで、兄上がどうのと言って、机に沈んだ男と同じ人物とは思えない。


 顔色が良い。


 目も冴えている。


 もう笑っていた。


⸻


「平泉を見せてやる」


⸻


 言った。


⸻


「……今から?」


⸻


「今から」


⸻


 当然の声だった。


⸻


「見た方が早い」


「お前、何も知らん匂いがする」


⸻


 シンは起き上がった。


 頭が痛んだ。


 囲炉裏のそばでは、ユウガオが笑っていた。


 タダは黙って干した魚を炙っている。


⸻


「朝飯は」


⸻


 タダが言った。


⸻


「食う!」


⸻


 義経が即答した。


⸻


「それから行く」


⸻


 ユウガオが袖で口元を隠した。


⸻


「拾われた以上、諦めな」


⸻


 シンは外を見る。


 山の上にはまだ雪があった。


 けれど空は昨日より明るい。


 春が、少しだけ進んでいた。


⸻


(巻き込まれる)


⸻


 思った。


⸻


(せっかく方針を決めたのに)


⸻


 義経はもう外へ出ていた。


 ユウガオも立ち上がる。


 タダは炙った魚をシンの手に押しつけた。


⸻


「食いながら歩け」


⸻


 シンは魚を受け取った。


⸻


(トホホ……)


⸻


 外へ出ると、山道の先に光があった。


 北の春の光だった。


 その向こうに、まだ見ぬ平泉がある。


⸻


 道は、黄金の都へ続いていた。


⸻


⸻


(第九十二話へ)


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