美女と美獣
第九十話 美女と美獣
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白だった。
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最初は白しかなかった。
音もない。熱もない。
ただ白が続いていた。
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それが少しずつ溶けた。
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土の匂いと、湿った草の匂い。
冷えた空気が鼻に入ってきた。
肺の奥まで刺さる冷気。
痛かった。
痛みがあった。
つまり生きていた。
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シンはゆっくり目を開けた。
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灰色の空が見えた。
雲が薄く広がっていた。
その下に木の枝があった。
まだ葉が出ていなかった。
春の手前らしい。
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背中の下に草があった。
それと石まじりの固い土。
道の端に倒れているらしかった。
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(生きてる)
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しばらく天を見ていた。
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(殺されてない)
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それが少し不思議だった。
毎回ではない。
大半は、飛ぶ前に死ぬ。
目が覚めると既に次の時代にいる。
ただ今回は違った。
最後に見たのは山だった。
赤い山だった。
モモがいた。
白い光が来た。
それだけだった。
痛みも衝撃も何もなかった。
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(アテルイは死んだ)
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思った。
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(モレも死んだ)
(胆沢は終わった)
(カミノは都へ戻った)
(スズリは書き続けるだろう)
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それだけは残った気がした。
何が変わったかは分からない。
変わったかどうかも分からない。
でも火は残った。
炉の煙は残った。
あれは消えていないと、なぜか確信があった。
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起き上がる。
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頭が少し重かった。
全身に土がついていた。
道の脇の溝へ、半分転がり込んでいたらしかった。
季節は春に近かった。
木の根元にまだ雪が残っていた。
北の地だと感覚で分かる。
山の形と土の色がそう言っていた。
胆沢の山より低い。
でも同じ北の山だった。
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(どこだ)
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立ち上がった。
膝に土がついている。
払った。
手足は動いた。
衣は変わっていた。
この時代の衣らしい。
色は地味な青だった。
旅人の衣に見える。
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道を観察する。
人が歩いた跡。
荷を運んだ跡もあった。
村が近いのかもしれなかった。
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まだ方角は分からない。
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(何年だ)
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それが最初の問題だった。
胆沢からどれだけ飛んだか。
百年か。
数百年か。
見当もつかなかった。
山の形は分かる。
土の色は分かる。
でも時代は、会話しないと分からない。
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そこで水の音がした。
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小さな川の様な音だった。
近かった。
喉が渇いていることに、そこで気づいた。
口の中が乾いていた。
唇も少し切れていた。
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(水)
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シンは道を外れた。
草を踏む。
枯れた枝が足元で折れた。
木々の間を抜けると、斜面の下に川があった。
川というより、山から落ちてきた湧水が少し広く集まった様な場所だった。
石が多かったが、水は澄んでいた。
冷たそうだ。
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そこで香りがした。
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止まった。
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桃ではなかった。
野薔薇でもなかった。
墨と薄い香でもなかった。
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甘かった。
柔らかかった。
何か花に近かったが、花より重かった。
頭の奥に直接入ってくる様な匂いだった。
艶のある匂いだった。
夜に咲く花の様なイメージ。
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(何だ)
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水音がした。
人の動く音だった。
布を絞る音。
濡れた髪から水が落ちる音。
白い息が流れに混じる音。
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シンは、木の陰から川辺を見た。
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女がいた。
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川の中にいた。
膝の少し上まで水に入っていた。
衣は岸の石にかけられていた。
身にまとった薄い薄い布をはだけて、身体を拭いている様だ。
肩が白い。背も白かった。
濡れた髪が、首筋から背中へ貼りついていた。
水を掬い、腕にかけ、軽く息を吐いた。
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シンは止まった。
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(女)
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思った。
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(綺麗だ)
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思った。
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(風呂かな)
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違った。
水浴びだった。
艶やかな女性の身体。
とにかく違った。
何か色々と違った。
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シンは目を逸らそうとした。
逸らした。
一瞬だけ。
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すぐ戻った。
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(いや、駄目だろ!)
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もう一度逸らした。
今度は木の幹を見た。
木の皮だった。
黒く湿っていた。
見ていても何も面白くなかった。
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水音がした。
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見た。
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(駄目だって)
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分かっていた。
分かっていたのに、目が勝手に戻った。
人間の体は不便だった。
いや、これは人間の体のせいにしていいものではなかった。
普通に自分が悪かった。
不便な男すぎた。
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女が振り返った。
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目が合った。
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シンは固まった。
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女は驚いた顔をした。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間には、目が細くなった。
怒った顔ではなかった。
おかしそうな顔だった。
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「見物料、取るよ?」
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低めで少し掠れた声だった。
耳がくすぐられるような声だった。
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シンは口を開けた。
声が出なかった。
もう一度口を開けた。
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「すみませんでした!!!」
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思ったよりはっきり出た。
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女は笑った。
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「早いね」
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「本当にすみません!」
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「どこから見てたの」
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「今です!」
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「本当?」
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「いや、その、少し前です!」
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「少し?」
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「かなり短めの少しです!」
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女は声を出して笑った。
水面が揺れた。
肩から水が落ちた。
シンは反射的にまた見てしまった。
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「見てる」
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「見てません!」
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「目がこっち」
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「目の使い方を間違えました!」
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「変な言い訳」
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女は笑ったまま、岸へ上がった。
シンは慌てて背を向けた。
今度は本気で向けた。
木を見た。
石を見た。
空を見た。
どこを見ても落ち着かなかった。
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背後で布が擦れる音がした。
濡れた髪を絞る音がした。
帯を結ぶ音がした。
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「もういいよ」
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言われて、シンは恐る恐る振り返った。
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女は着物を羽織っていた。
藍地に真紅の花。
帯は少し崩れていた。
乱れているのではなかった。
そういう崩し方をしていた。
着衣しても色々見えそうだった。
いかん。
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顔を見た。
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美しかった。
胆沢で見た誰とも違う美しさだった。
研いだ刃みたいな美しさではなかった。
川の流れみたいな美しさでもなかった。
女性が女性であることを突き詰めたような、
見ている方が少し危ない気がした。
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女がシンを上から下まで眺めた。
土だらけの衣。
濡れかけた裾。
困りきった顔。
それから、にっこり笑った。
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「見ない顔だね」
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その笑い方は、先ほどまでの水浴びの気配をまだ残していた。
甘い匂いも残っていた。
シンは目の置き場に困った。
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「行き倒れかい?」
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シンは少し口を開けた。
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(行き倒れ)
(否定できない)
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「……今、何年だ?」
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言ってしまってから少し後悔した。
初対面でいきなり年号を聞くのは変だった。
しかも今は、さっき覗いたばかりだった。
どの時代でも大体変だった。
今は特に変だった。
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女は眉を少し上げた。
不審そうにはならなかった。
おかしそうだった。
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「覗きの次は妙な質問」
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「覗きではなく事故です」
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「じゃあ事故料も取るよ」
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「払うものがありません」
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「身体で払う?」
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シンは固まった。
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女はまた笑った。
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「冗談だよ。半分」
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「は、半分」
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「面白い顔するね」
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女は石の上に腰かけ、濡れた髪を手櫛で梳いた。
仕草は雑なのに、妙に様になっていた。
自分がどう見えるかを知っている人の動きだった。
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「文治に入って四、五年かな」
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女は少し考えてから言った。
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「アタシもちゃんと数えてないから自信ないけどね」
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シンは頷いた。
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(ブンジ)
(聞いても分からん)
(でもだいぶ飛んだ気はする)
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ただ、言葉の奥に何か引っかかった。
文治。
どこかで聞いた気がした。
でも正確な年も、細かな事情も、シンには分からない。
ただ、かなり後の時代へ来たことだけは分かった。
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「ねえ、どこから来たの」
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女が言った。
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「そんな目してる人、久しぶりに見た」
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「……どんな目?」
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「遠いとこから来た目」
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シンは何も言わなかった。
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女は笑った。
さっきの笑いとは少し違った。
探るような笑いだった。
でも嫌な感じはしなかった。
この女は人を脅かすより、笑わせる方が好きらしかった。
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「名前は?」
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「シン」
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「シン」
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女は口の中で転がすように、その名を言った。
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「変わった名だね」
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「よく言われる」
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「よく言われるほど、あちこちで名乗ってるんだ」
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「……まあ」
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女は目を細めた。
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「アタシは夕顔」
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ユウガオ。
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その名は、女性に似合っていた。
夜に咲く花。
白くて、柔らかくて、どこか危ない花。
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「いい名前だな」
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シンは素直に言った。
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ユウガオは一瞬、少しだけ目を丸くした。
それから、面白がるように笑った。
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「覗きのくせに、そういうことは真っ直ぐ言うんだ」
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「本当に事故だったんです」
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「はいはい」
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全然信じていない顔だった。
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そのとき風が来た。
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山からの風だった。
冷たかった。
まだ春になりきっていない風だった。
木の枝が鳴った。
川面が細かく震えた。
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ユウガオの表情が変わった。
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笑ったままだったが、目が変わった。
シンの後ろではなく、上を見た。
川の向こうでもない。
道の方でもない。
木の上だった。
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シンもつられて見上げようとした。
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その前に。
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音が消えた。
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水の音はあった。
風の音もあった。
枝の音もあった。
なのに、何かが消えた。
人が動く前の気配。
足場を踏む重さ。
空気が押される感じ。
それがなかった。
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影が落ちた。
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上からだった。
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(え)
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シンは顔を上げた。
木の枝に、人がいた。
若い男だった。
小柄だった。
体つきは細かった。
衣は山の色に溶けていた。
顔は整っていた。
笑っていた。
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次の瞬間。
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男が消えた。
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落ちたのではなかった。
跳んだのでもなかった。
木から、風の中へほどけたように見えた。
そこにいたはずの体が、枝と枝の間を抜け、石の上に触れ、川辺の草を踏み、もうシンの前にいた。
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速い。
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そう思うより早かった。
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足が動かなかった。
腕も動かなかった。
息だけが止まった。
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冷たいものが首筋に当たった。
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刃だった。
小刀だった。
いつ抜いたのか分からなかった。
いつ回り込まれたのかも分からなかった。
⸻
「ちょっと」
⸻
ユウガオが言った。
初めて声が少し尖った。
⸻
「この子、覗きではあるけど、刺客じゃないよ」
⸻
「覗きか」
⸻
男の声が耳の近くにあった。
明るかった。
楽しそうですらあった。
⸻
「それはそれで斬る理由になるな」
⸻
「な、なりませんっ」
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シンは即答した。
声が少し裏返った。
⸻
男が笑った。
⸻
「喋れるのか」
⸻
シンは止まった。
動けなかった。
動かなかったのではなかった。
どう動くべきか分からなかった。
速いとかじゃなかった。
見えなかったのではなかった。
意味が分からなかった。
人がそう動けるという概念がなかった。
⸻
男の息が近かった。
獣みたいに静かだった。
なのに、刃を当てている手はまったく震えていなかった。
水の匂い。
草の匂い。
ユウガオの甘い匂い。
その奥に、別の匂いがあった。
鉄。
汗。
山。
獣。
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美しい、獣のような男だった。
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「変だな」
⸻
男が言った。
⸻
「知らん匂いがする」
「京でもない」
「鎌倉でもない」
⸻
少し間があった。
⸻
「平泉でもないな」
⸻
刃が、首筋でほんの少し動いた。
皮一枚の距離だった。
⸻
「死でもない」
⸻
さらに間があった。
⸻
「もっと変なやつだ」
⸻
シンは黙っていた。
動いたら切れる。
それだけは分かった。
⸻
「俺を殺しに来たんじゃないのか」
⸻
「……違う」
⸻
言った。
少し考えた。
⸻
「たぶん」
⸻
間があった。
⸻
男が吹き出した。
⸻
「たぶんか!」
⸻
刃が下りた。
⸻
シンはその場に膝をつきそうになった。
何とか耐えた。
首筋に冷たさだけが残っていた。
まだ刃があるような気がした。
⸻
男がシンの前に回った。
自然だった。
今の全部が何でもなかったみたいな顔だった。
もう興味が別の方向を向いていた。
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「夕顔」
⸻
「何」
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「こいつ、本当に覗いたのか」
⸻
「見てたよ。しっかり」
⸻
「おお」
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男はシンを見た。
目が輝いた。
⸻
「度胸あるな」
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「ありません」
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「ないのに見たのか」
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「事故です」
⸻
「事故で女を見る奴は大体また見るぞ」
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「見ません!!」
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ユウガオが笑った。
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「今も見ないように頑張ってるね」
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「それは見てるのと同じだ」
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「違います!」
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シンは疲れてきた。
目覚めてすぐ水を飲もうとしただけなのに、何かひどいことになっていた。
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男はシンの周りを一回歩いた。
犬みたいだった。
いや、犬よりずっと鋭かった。
目で見るだけではなかった。
匂いで、息で、足の置き方で、シンを読んでいた。
やはり獣だ。
⸻
「武士じゃないな」
⸻
男が言った。
⸻
「山の者でもない」
「商人でもない」
「坊主でもない」
「盗人にしては目が悪い」
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「目が悪い?」
⸻
「逃げる場所を見てない」
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シンは息を呑んだ。
⸻
確かに見ていなかった。
川。
石。
ユウガオ。
木。
男。
それしか見ていなかった。
逃げ道を探すという発想が遅れていた。
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「でも、死に慣れてる」
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男が言った。
⸻
シンの背中が冷えた。
⸻
ユウガオの笑みも、少し薄くなった。
⸻
「変なやつ」
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男は笑った。
⸻
「面白い」
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その笑みは、子供のようだった。
同時に、刃物のようだった。
目の前のものを壊すか、懐へ入れるか。
その二つの間に、あまり差がないように見えた。
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「お詫びに酒を飲もう!」
⸻
男が言った。
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シンは瞬きをした。
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「お詫び?」
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「俺が急に斬りかけた」
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「斬りかけた自覚はあるんですね」
⸻
「ある」
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「じゃあ、まず謝るとか……」
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「酒の方がいいだろ?」
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「どんな理屈だ」
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男は聞いていなかった。
もう歩き出していた。
ユウガオは岸の石から荷を取って、肩にかけた。
髪はまだ少し濡れていた。
甘い匂いと水の匂いが混じっていた。
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「来なよ」
⸻
ユウガオが言った。
⸻
「この人、こうなったら止まらないから」
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「誰ですか」
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シンが聞いた。
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ユウガオは少し笑った。
男も、少し歩いてから振り返った。
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「俺は源九郎」
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間があった。
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「義経だ」
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シンは止まった。
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(マジか)
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心の中で、声が出た。
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(流石に知ってるわ)
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源義経。
名前だけなら知っている。
物語の人間だった。
教科書か、芝居か、昔話か、何で知ったのかは分からない。
でも知っていた。
兄に追われる弟。
戦の天才。
悲劇の英雄。
源平合戦。
奥州、衣川。
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そこまで浮かんで、シンは息を止めた。
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目の前の男は、悲劇の英雄という言葉から一番遠く見えた。
小柄で、軽くて、笑っていて、
今にも木の上へ戻りそうだった。
美しかった。
怖かった。
人間というより、自然そのものが間違えて人の形をしたみたいだった。
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義経は首を傾げた。
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「何だ、その顔」
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「いや」
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「俺を知ってる顔だ」
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シンは返事に詰まった。
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義経の目が細くなった。
笑っているのに、笑っていなかった。
⸻
「どこで聞いた」
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空気が変わった。
さっきまでの軽さが、すっと消えた。
ユウガオも黙った。
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シンは、義経を見た。
見てしまった。
この男は、冗談の中に刃を隠しているのではなかった。
刃が本体で、冗談が鞘だった。
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「名前だけ」
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シンは言った。
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「どこかで聞いた気がするだけだ」
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「どこか」
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「思い出せない」
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義経はしばらくシンを見ていた。
鼻を少し動かした。
匂いを嗅いでいた。
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「嘘は少ないな」
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言った。
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「全部本当でもなさそうだけど」
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シンは何も言えなかった。
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義経はすぐに笑った。
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「まあいいや」
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軽かった。
怖いくらい軽かった。
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「面白そうだ」
「来い」
「酒飲もう!」
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歩き始めた。
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ユウガオが隣に来た。
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「拾ったねぇ」
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義経が前を向いたまま言った。
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「違う」
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少し考えた。
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「落ちてた」
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歩きながら続けた。
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「妙な匂いのやつが」
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「あと、覗き」
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ユウガオが言った。
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「事故です」
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シンは言った。
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義経が振り返った。
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「覗きで、死に慣れてて、俺を知ってる」
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笑った。
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「やっぱり面白いな」
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シンは全然面白くなかった。
首筋がまだ冷たかった。
喉も渇いていた。
結局、水も飲んでいなかった。
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ユウガオが腰の小さな竹筒を差し出した。
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「水」
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シンは受け取った。
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「ありがとう」
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「見物料、まけてあげる」
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「本当にすみませんでした」
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ユウガオは笑った。
怒ってはいないらしかった。
それどころか、少し楽しんでいるようだった。
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シンは水を飲んだ。
冷たかった。
喉を通るたびに、ようやく体がこの時代へ戻ってくる感じがした。
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風が来た。
山から来た。
冷たかった。
でも少し春の匂いがした。
雪解けの匂いだった。
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遠く、山の上にまだ白いものがあった。
春になりきれていない山だった。
胆沢よりも低い山だった。
でも同じ北の山だった。
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(また飛んだなぁ)
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前を歩く小柄な背中を見た。
軽かった。
怖かった。
横を歩くユウガオは、甘い匂いを纏っていた。
柔らかく笑っているのに、どこか底が見えなかった。
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(しかも今回は)
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シンは首筋を押さえた。
そこに刃はもうなかった。
でも感触だけが残っていた。
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(……面倒そうだ)
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白い息が出た。
消えた。
また出た。
⸻
道は続いていた。
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(第九十一話へ)




