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Last Love Letter

第八十九話 Last Love Letter


⸻


 記録者・硯私記

 延暦二十一年 秋


⸻


 アテルイとモレは、処されました。


⸻


 河内国において。


 共に。


 詳細を書く気にはなれません。


 ただ事実として、ここに記します。


⸻


 目撃した者の話を、後で聞きました。


 二人は最後まで乱れなかった。


 声を荒げなかった。


 顔は静かだった。


 その日は晴れていたと、言う者がいました。


⸻


 晴れていた。


⸻


 その言葉が、しばらく紙の上で止まりました。


 処刑の日の空が晴れていたことに、何の意味があるのでしょう。


 雨ならよかったのでしょうか。


 曇っていれば、少しは正しかったのでしょうか。


 分かりません。


 でも、聞いた瞬間、私は腹が冷えました。


 都も空も、何も変わらなかったのだと思ったからです。


⸻


 私は記録者です。


 だから書きます。


 でも今日は難しい。


 何度も筆が止まります。


 手が止まるのではありません。


 胸の奥が何かを嫌がっています。


⸻


 公の記録には、きっと別の形で残るでしょう。


 帰服。


 処断。


 夷。


 鬼。


 乱。


 禍根。


 そういう言葉は、墨にするととても軽い。


 紙の上では、誰も息をしません。


 誰も震えません。


 誰も笑いません。


 人の名は、都に入ると、役に変わります。


⸻


 でも私は見ました。


 私は聞きました。


 胆沢の火を。


 炉の煙を。


 子供たちの声を。


 アテルイ殿の笑い方を。


 モレ殿の怒り方を。


 腹が減れば動けない、と言った声を。


 死んでも残る火がある、と言った声を。


⸻


 だから、ここに書きます。


⸻


 アテルイ。


 モレ。


⸻


 二人は人でした。


 鬼ではありませんでした。


⸻


 これだけのことを書くのに、なぜこれほど息が苦しいのか、私には分かりません。


⸻


 坂上田村麻呂殿は悔恨されているようです。


 助命を訴え続けた方です。


 届かなかった。


 でも、その後の話を聞けば、この方は諦めない方です。


 後に人がどう呼ぶかは分かりません。


 ですが私は思います。


 あの二人の名と誉を、誰より重んじたのが、敵方の将軍でした。


 それが何より残るだろうと、私は思います。


⸻


 敵と味方。


 都と胆沢。


 そう分ければ、書くのは簡単です。


 けれど、簡単な書き方は、ときどき人を消します。


 田村麻呂殿は征する側の将軍でした。


 それは事実です。


 そして、あの二人の死を最後まで惜しんだ人でもありました。


 それも事実です。


 私は両方を書きます。


 片方だけを書けば、たぶん嘘になります。


⸻


 神野様のことも書きます。


 といっても、私には分かりません。


 あの方が何を考えているかは、いつも半分程しか見えない。


 ただ、処刑の後から、また忙しくなりました。


 何か決意されたことがあるようです。


 私の仕事も増えそうで困ります。


⸻


 困ります。


 そう書くと、少しだけいつもの私に戻れます。


 神野様は、言葉にすると妙な方です。


 皇子でありながら、道端の石や橋の裏や、地方の古い文に目を止める。


 人の話を聞きすぎる。


 聞いたことを忘れない。


 忘れないくせに、忘れたふりをする。


 私の筆を見て、きれいな字ではなく、残す字だと言いました。


 あの時から、私はこの仕事をしています。


⸻


 胆沢から戻って、神野様はよく黙るようになりました。


 黙って、遠くを見ます。


 都の中で、山を見るような顔をします。


 きっと、あの方も運んでいるのだと思います。


 何を、と問われれば、うまく書けません。


 でも、火に近いものです。


 燃やす火ではありません。


 道を照らす火です。


⸻


 彼について。


⸻


 処刑のあった日を境に、別宅から姿が消えました。


 行先は言いませんでした。


 戻っていません。


⸻


 もう会えない気がします。


⸻


 そう書くと、胸の奥が嫌な音を立てます。


 会えない、と書けば、会えないことが決まってしまう気がします。


 でも、書かずにいると、もっと怖い。


 彼はいつも、どこかへ行く人でした。


 目の前に座っていても、少し遠い。


 飯を食べていても、火を見ていても、笑っていても、何か別の時のことを一緒に見ているようでした。


 それなのに、ときどきとても近かった。


 上着を貸す時。


 柱ばかり見ている時。


 私の字を見て、何も分からないくせに黙ってうなずく時。


 おかえりなさい、と言った時の顔。


⸻


 私は記録者です。


 だから、これも書きます。


 書くべきではないことかもしれません。


 公の文には、決して残せないことです。


 でも、これは私記です。


 誰にも見せないための記録です。


 あるいは、いつか誰かに見つけられるための記録です。


⸻


 シンさん。


⸻


 あなたは何者だったのでしょう。


⸻


 ヤマトでもなく、エミシでもなく。


 都の者でも、山の者でもなく。


 けれど、都にも山にも、妙に深く傷ついていた。


 何も知らない子供のようで、時々、遠い老人のようでした。


 食べ物のことで子供みたいに顔を明るくして。


 人が消える話になると、急に息ができない顔をして。


 何度も死んだと言いながら、生きている人を誰より諦めなかった。


⸻


 私は、あなたを記録できたのでしょうか。


 見たものを、残す形にできたのでしょうか。


 それとも、私はあなたの背中ばかり見ていたのでしょうか。


⸻


 秋が来ました。


 胆沢の秋は赤かった。


 炉の煙が細く上がって、山が全部燃えているみたいでした。


 今年も綺麗でしょうか。


⸻


 山は赤いでしょうか。


 炉の煙は上がっているでしょうか。


 子供たちは、火のそばで笑っているでしょうか。


 誰かが飯を食えと言っているでしょうか。


 誰かが腹が減れば動けないと言っているでしょうか。


⸻


 シンさんも、どこかで同じ景色を見ているでしょうか。


⸻


 もし見ているなら。


 もしまだ、どこかを歩いているなら。


 どうか、ちゃんと食べてください。


 どうか、火を忘れないでください。


 どうか、帰る場所があるうちは、帰ってください。


⸻


 私はここで書きます。


 消えないように。


 消されないように。


 あの二人が人だったことを。


 あなたが見届けたことを。


 あなたが泣かなかったことを。


 それでも、泣いているように見えたことを。


⸻


 これは記録です。


 たぶん。


⸻


 でも、もし違う名を付けるなら。


 これは、手紙です。


 届かない人へ書く、最後の手紙です。


 いと、恋しき貴方へ。


⸻


⸻


 そこで筆が止まった。


⸻


 気付けば長く書いていた。


 硯の墨は少し乾き始めていた。


 筆先にも黒が残っている。


⸻


 スズリは静かに筆を置いた。


⸻


 窓が少し開いていた。


 秋風が入った。


⸻


 さらり、と音がした。


⸻


 一枚だった。


⸻


 紅葉だった。


 赤かった。


 燃えているみたいな赤だった。


⸻


 葉は風に押されて部屋へ入り、机の上へ落ちた。


 開いた書の上だった。


 まだ乾いていない墨の近くへ落ちた。


⸻


 黒と赤が並んだ。


⸻


 黒い文字。


 紅い葉。


⸻


 まるで炭と火のようだった。


⸻


 胆沢の炉に少し似ていた。


 秋の山にも似ていた。


 消えたはずなのに、まだ残っている火だった。


⸻


 スズリは立ち上がった。


⸻


 窓の外を見た。


⸻


 山が見えた。


 遠かった。


 都から見る山だった。


 胆沢ではなかった。


 でも、赤く染まり始めていた。


⸻


 秋が来ていた。


⸻


 胆沢の秋は今年も綺麗でしょうか。


⸻


 山は赤いでしょうか。


 炉の煙は上がっているでしょうか。


⸻


 そして。


⸻


 シンさんも。


⸻


 どこかで同じ色を見ているでしょうか。


⸻


 風がもう一度吹いた。


⸻


 紅葉が揺れた。


 書の上に小さな火が灯っているようだった。


⸻


⸻


 シンが別宅を出たのは、夜明け前だった。


⸻


 誰にも告げなかった。


 戸を開ける音を小さくした。


 荷を少なくした。


 足音を殺した。


 作業棟の灯は落ちていた。


 スズリは眠っているはずだった。


 そう思うことにした。


⸻


 言えば、止められる。


 止められなくても、見送られる。


 見送られれば、足が止まる。


 それが分かっていた。


⸻


 門のところに人影があった。


⸻


 タダだった。


⸻


 小さな包みを持っていた。


 眠そうな顔をしていた。


 でも、目は覚めていた。


⸻


「早いな」


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 シンが言った。


⸻


「お前が遅い」


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 タダは言った。


 それだけ言って、包みを押し付けた。


⸻


「干した飯」


「干し肉」


「塩」


「それと炭」


⸻


「炭?」


⸻


「火が要るだろ」


⸻


 短かった。


 それ以上、説明しなかった。


⸻


 シンは包みを見た。


 軽かった。


 でも手の中に重さが残った。


 炉の火の重さだった。


 胆沢で何度も見た、朝の火だった。


⸻


「スズリには」


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 言いかけた。


 続かなかった。


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 タダは少しだけ目を細めた。


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「言わない」


⸻


 シンは顔を上げた。


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「言わないのか」


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「言うなら自分で言え」


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 正しかった。


 正しすぎて、何も返せなかった。


⸻


 タダは門にもたれた。


 都の空はまだ暗かった。


 遠くで、朝の鳥が一声だけ鳴いた。


⸻


「行くのか」


⸻


「行く」


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「どこへ」


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「分からない」


⸻


「そうか」


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 タダはうなずいた。


 分からない、という答えをそのまま受け取った。


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「じゃあ食え」


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 シンは少し笑った。


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「そればっかりだな」


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「生きてる奴に言うことは、それで十分だ」


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 タダは静かに言った。


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「腹が減れば動けない」


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 アテルイと同じ言葉だった。


 同じではないのに、同じところから来た言葉だった。


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 シンは包みを持ち直した。


⸻


「ありがとう」


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 タダは返事をしなかった。


 ただ、少しだけ顎を上げた。


 行け、という仕草だった。


⸻


 シンは歩き出した。


⸻


 振り返らなかった。


 振り返れば、タダがまだそこにいると分かった。


 分かっていたから、振り返らなかった。


⸻


 門を離れると、墨の匂いが遠くなった。


 代わりに、包みの中から炭の匂いがした。


 消えた火の匂いだった。


 また灯せる火の匂いだった。


⸻


⸻


 都から北へ出ると、山が戻ってくる。


⸻


 一日二日も歩けば、道が細くなって、空気が変わる。


 人の数が減って、川の音が増えて、土の匂いが深くなる。


 シンはただ歩いた。


 どこへ向かうとも決めていなかった。


 北へ向かいたかった。


 終わった場所を見たかった。


 火がまだあるか確かめたかった。


⸻


 背中に、まだ声が残っていた。


⸻


 ちゃんと帰れ。


 帰る場所があるうちは、帰れ。


⸻


 帰る場所。


⸻


 考えると、胸の奥が苦しくなった。


 自分にそんなものがあるのか分からなかった。


 胆沢。


 スズリの作業棟。


 タダの荷の匂い。


 カミノの別宅。


 どれも帰る場所のようで、もう戻れない場所のようだった。


⸻


 アテルイとモレは死んだ。


 それでも、帰れと言った。


 死に向かう人間が、生きている自分に帰れと言った。


 その理不尽さが、ずっと胸の中にあった。


⸻


 後ろから馬の足音がした。


⸻


 振り返らなかった。


 気配で分かった。


⸻


 カミノだった。


⸻


 護衛がいない。


 一人だった。


 息が少し上がっていた。


 急いで追いかけてきたらしかった。


⸻


 カミノは適当な場所に馬を繋いだ。


 そのまましばらく二人で歩いた。


 長い間、何も言わなかった。


 道が細くなった。


 鳥の声が増えた。


⸻


 カミノが先に口を開いた。


⸻


「父とはぶつかるだろう」


⸻


 シンは歩きながら聞いた。


⸻


「兄とも多分ぶつかる」


「今の朝廷のやり方と、私の目指す政は合わない部分がある」


「どこかで衝突する」


⸻


 少し間があった。


⸻


「それでも」


⸻


 カミノが続けた。


⸻


「自分が見たものを、無駄にしたくない」


⸻


 道の傍に川があった。


 秋の水だった。


 透明で、石の底が見えた。


⸻


「胆沢で見た」


「アテルイを見た」


「モレを見た」


「あの山を見た」


「人が生きていた」


「火があった」


「全部が」


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 少し黙った。


⸻


「あれを入れた国を作りたい」


「争いを減らしたい」


「都の外を知らないまま治める国は嫌だ」


「まだ形は分からない」


「でも上辺だけの国は嫌だ」


⸻


 シンは横を歩いていた。


 何も言わなかった。


 聞いていた。


⸻


「都の道はまっすぐだ」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「まっすぐで、広い」


「誰が見ても分かる」


「どこに門があり、どこに役所があり、誰がどこへ行くべきか、すぐに分かる」


⸻


 少し間があった。


⸻


「あれは強い」


⸻


 シンは都の大路を思い出した。


 人の流れ。


 門。


 築地。


 文の行き先。


 名前と身分が先に立つ場所。


⸻


「でも、まっすぐな道だけでは、人は歩けない」


⸻


 カミノは足元を見た。


 細い道だった。


 木の根が出ていた。


 水で少し削れていた。


 獣の足跡もあった。


 誰かが毎日踏んだから残った道だった。


⸻


「曲がった道がある」


「水を避ける道がある」


「木を残すための道がある」


「荷を軽くするための道がある」


「年寄りが遠回りでも選ぶ道がある」


⸻


 カミノは、そこで少しだけ笑った。


⸻


「私は、そういう道を知らなかった」


⸻


 シンは何も言わなかった。


 ワカレの背中を思い出した。


 水路沿いの細道。


 人が忘れた導線。


 都の下を流れる土と水の通り道。


⸻


「知らないまま、国を語るところだった」


⸻


 カミノの声は小さかった。


 でも、逃げていなかった。


⸻


「父上は大きい」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「あの方は国を作っている。都を作っている。道を引き、税を集め、軍を動かし、寺を移し、人を動かす」


「大きすぎるくらい、大きい」


⸻


 シンは川を見た。


 水の中で、小さな魚が影のように動いた。


⸻


「でも、大きいものほど、小さいものを踏む」


⸻


 カミノの声は、静かだった。


⸻


「踏むつもりがなくても、踏む」


「見えないからだ」


「書かれていないからだ」


「名が小さいからだ」


「遠いからだ」


⸻


 シンは黙っていた。


⸻


「私は、それが嫌になった」


⸻


 カミノは少し笑った。


 笑っていい話ではなかった。


 でも、笑わなければ言えない顔だった。


⸻


「お前に言っても仕方ない話だが」


⸻


 カミノが続けた。


⸻


「言いたかった」


⸻


 道が少し開けた。


 向こうに山が見えた。


 紅葉が始まっていた。


 赤と緑が混ざっていた。


 胆沢で見た山よりも南だったが、同じ赤だった。


⸻


 カミノが立ち止まった。


⸻


 シンも止まった。


⸻


「最後まで分からなかった」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「お前が何者か」


「どこから来て、どこへ行くのか」


⸻


 少し間があった。


⸻


 カミノが笑った。


 疲れた笑いではなかった。


 胆沢で初めてアテルイを見た時の顔に似ていた。


 好奇心が残っている笑いだった。


⸻


「でも楽しかった」


⸻


「旅は本当に楽しかった」


⸻


 さらに少し間があった。


⸻


「友よ」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「また来い」


⸻


「今より居心地の良い国にしておく」


「約束はできないが」


「必ずやる」


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


「アンタならできる」


⸻


 言った。


⸻


「予言じゃないが」


「確信だ」


⸻


 カミノは少し目を細めた。


 照れているのか、笑っているのか、その両方なのか、判別できなかった。


⸻


 それから頷いた。


 一度だけ、深く頷いた。


⸻


「硯に何か言うことは」


⸻


 カミノが聞いた。


⸻


 シンは止まった。


⸻


 おかえりなさい。


 死んでも残る火があるって。


 筆の音。


 墨の匂い。


 上着を返す相手。


⸻


 いくつも浮かんだ。


 でも、どれも言葉にならなかった。


⸻


「ない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「言ったら、戻れなくなる」


⸻


 カミノはしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ息を吐いた。


⸻


「そうか」


⸻


 責めなかった。


 慰めもしなかった。


 ただ、そのまま受け取った。


⸻


「では、私が困っておく」


⸻


「何で」


⸻


「硯に怒られる」


⸻


 シンは、少しだけ笑った。


 笑ってしまった。


 それが余計に苦しかった。


⸻


「悪い」


⸻


「本当に悪い」


⸻


 カミノも笑った。


⸻


「ではな」


⸻


 踵を返した。


 都の方へ歩いた。


 振り返らなかった。


 でも手を一度だけ上げた。


 それだけだった。


⸻


 足音が遠くなった。


 消えた。


⸻


 シンは一人になった。


⸻


⸻


 道を続けた。


⸻


 山が近くなった。


 秋の山だった。


 赤かった。


 燃えているみたいに赤かった。


 炎ではない。


 でも火に見えた。


⸻


 風が来た。


 都の風ではなかった。


 土と水と、落ち葉の匂いがした。


 遠くの川が細く光っていた。


⸻


 シンは道の脇に座った。


 足が重かった。


 腹は減っていた。


 でも食べるものを出す気になれなかった。


 そう思った瞬間、アテルイに怒られる気がした。


⸻


 ちゃんと食え。


 腹が減れば動けない。


⸻


 シンは荷の中から干した飯を少し出した。


 硬かった。


 うまくはなかった。


 でも噛んだ。


 噛んで、飲み込んだ。


⸻


「食ったぞ」


⸻


 誰にともなく言った。


 返事はなかった。


 山だけが赤かった。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 シンは止まった。


⸻


 木の間にいた。


 薄桃色の衣だった。


 黒髪だった。


 桃の飾りが秋の光を返していた。


⸻


 白桃でもなかった。


 モモでもなかった。


 その間にいた。


 静かだった。


 揺れていなかった。


 ただ、いた。


⸻


「モモ」


⸻


 シンが言った。


⸻


「……シン」


⸻


 返ってきた。


 モモの声だった。


⸻


 少し間があった。


⸻


「……改変、失敗」


⸻


 言葉は短かった。


 淡々としていた。


 でも完全に機械でもなかった。


⸻


「分かってる」


⸻


 シンは言った。


⸻


「でも」


⸻


 風が来た。


 山の風だった。


 赤い葉が一枚、空を渡った。


⸻


「火は残った」


「人は残った」


「胆沢は残った」


「全部消えたわけじゃない」


⸻


 モモは何も言わなかった。


 見ていた。


 ただ、見ていた。


⸻


 その目が少しだけ揺れていた。


⸻


「アテルイは死んだ」


⸻


 シンは言った。


 言わなければならない気がした。


⸻


「モレも死んだ」


「助けられなかった」


「歴史は変わらなかった」


⸻


 喉が少し詰まった。


⸻


「でも、あいつらは鬼じゃなかった」


「それは残った」


「スズリが書いた」


「カミノが見た」


「タダが運んだ」


「俺も見た」


⸻


 モモは黙っていた。


 桃の匂いだけが、秋の空気に混じっていた。


⸻


「……記録、確認不能」


⸻


 モモが言った。


⸻


「うん」


⸻


「確認できなくてもいい」


⸻


 シンは言った。


 自分でも、少し乱暴なことを言っていると思った。


 記録者が聞けば怒るかもしれない。


 スズリなら、確認できないものを残す難しさをよく知っている。


 カミノなら、確認できないものを政に入れる危うさを考える。


 タダなら、確認できなくても飯は出す。


⸻


 それでも言った。


⸻


「確認できないから、なかったことにはならない」


⸻


 モモは動かなかった。


 桃の飾りだけが、風に小さく揺れた。


⸻


「俺は見た」


「スズリは書いた」


「カミノは覚えてる」


「タダは火を持たせた」


⸻


 シンは自分の荷を見た。


 包みの中に、炭があった。


 消えた火の残り。


 まだ灯せるかもしれないもの。


⸻


「これも記録じゃないのか」


⸻


 モモは包みを見た。


 見ているのに、そこにあるものを測りきれないような顔だった。


⸻


「……物質情報」


⸻


「炭だ」


⸻


「……燃焼後の炭素塊」


⸻


「炭だよ」


⸻


 シンは少しだけ笑った。


 笑える場面ではなかった。


 でも笑ってしまった。


 タダなら、同じ顔をした気がした。


⸻


 モモは黙っていた。


 否定しなかった。


 肯定もしなかった。


 ただ、炭を見ていた。


⸻


「……熱源、消失済み」


⸻


「消えてない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「また火になる」


⸻


 モモの目が、わずかに動いた。


⸻


「……再燃可能性」


⸻


「そういう言い方でもいい」


⸻


 風が通った。


 赤い葉が一枚落ちた。


 地面に落ちて、すぐに動かなくなった。


⸻


「モモ」


⸻


 シンは言った。


⸻


「お前は、何を見た」


⸻


 モモは答えなかった。


 長い沈黙だった。


 機械なら、沈黙ではなく処理だったのかもしれない。


 でも今のそれは、シンには沈黙に見えた。


⸻


「……対象シンの行動」


⸻


 モモが言った。


⸻


「死亡回避失敗」


「歴史改変失敗」


「目的達成率、規定値未満」


⸻


 淡々としていた。


 いつもの声だった。


⸻


「それだけか」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 モモはすぐには答えなかった。


⸻


「……対象アテルイ」


⸻


 その名が、モモの口から出た。


 シンは息を止めた。


⸻


「対象モレ」


⸻


 続いた。


 短い音だった。


 でも確かに名前だった。


⸻


「会話ログ、残存」


「感情反応、解析不能」


「対象スズリの記述、未取得」


「対象カミノの行動変化、継続観測不能」


⸻


 モモはそこで止まった。


 それから、ほんの少しだけ眉を寄せた。


⸻


「……でも」


⸻


 そこで、言葉が止まった。


 止まったことに、モモ自身が少し驚いたように見えた。


⸻


「でも?」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 モモは目を伏せなかった。


 ただ、少しだけ、声が小さくなった。


⸻


「……残っている気がする」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「気がする、って言ったか」


⸻


「誤差」


⸻


 いつもの言葉だった。


 でも、逃げる言葉ではなかった。


 抱えきれないものに付けた、小さな名みたいだった。


⸻


 空気が変わった。


⸻


 白い光が来た。


 雷でも斬撃でもなかった。


 温度のない、静かな白だった。


 初めて見る光だった。


 でもどこか懐かしい。


⸻


「……観測終了」


⸻


 モモの声だった。


 モモの声だが、モモだけの声ではなかった。


 何かが混ざっていた。


 タケミカヅチやビシャモンテンではない。


 また別の何かが、モモを通して発している音だった。


 無機質だが、優しい声だった。


⸻


 シンは手を見た。


⸻


 薄くなっていた。


⸻


 手の向こうに草が透けていた。


 透けているのに感覚はあった。


 痛みがなかった。


 熱もなかった。


 死ではなかった。


 でも消えていた。


⸻


 止まれなかった。


⸻


「待ってくれ」


⸻


 言った。


⸻


「まだ終わってない」


「見ていないものがある」


「残っているものがある」


「俺はまだ」


⸻


 でも止まらなかった。


⸻


 輪郭が消えていった。


 足元の土が透けた。


 木が透けた。


 山が遠くなった。


⸻


 モモを見た。


⸻


 モモが見ていた。


 泣いていなかった。


 でも、いつかこうなると知っていたみたいな顔をしていた。


 諦めでもなかった。


 ただ見ていた。


 最後まで、目を背けずに見ていた。


⸻


「モモ」


⸻


 シンは言った。


⸻


「また会えるか」


⸻


 モモは、ほんの少しだけ黙った。


 白い光の中で、桃の飾りが揺れた。


⸻


「……不明」


⸻


 いつもの答えだった。


 いつもの答えのはずだった。


 でも、その後に、小さな声が続いた。


⸻


「でも」


⸻


 モモは言った。


⸻


「探す」


⸻


 それが最後に聞こえた。


⸻


(アテルイ)


⸻


 思った。


⸻


(モレ)


(胆沢)


(炉の火)


(タダの汁)


(スズリの筆の音)


(カミノの好奇心)


(山が赤かった)


(火が残った)


(人が残った)


⸻


 全部残っていた。


⸻


 消えなかった。


⸻


(運べるか)


⸻


 思った。


⸻


(俺は)


(運べるか)


(次の時代へ)


(この火を)


⸻


 包みの重さが、まだ手にあった。


⸻


 干した飯。


 干し肉。


 塩。


 炭。


⸻


 持っていけるはずがなかった。


 時代を越えれば、荷は消える。


 服も、土も、血も、たぶん何も残らない。


 それでも、手は覚えていた。


 炭の軽さを。


 飯の硬さを。


 タダの無愛想な優しさを。


⸻


 耳も覚えていた。


 筆の音を。


 スズリが紙を押さえる小さな音を。


 おかえりなさい、という声を。


⸻


 目も覚えていた。


 アテルイの笑い方を。


 モレの横顔を。


 カミノが山を見た時の顔を。


 モモが最後まで目を逸らさなかったことを。


⸻


 誰かが書いている。


 誰かが覚えている。


 誰かが火を分けた。


 誰かが道を変えようとしている。


⸻


 それは勝利ではなかった。


 救済でもなかった。


 歴史の改変でもなかった。


⸻


 でも、無ではなかった。


⸻


 たぶん。


⸻


 手紙も同じだ。


⸻


 届くか分からない。


 読まれるか分からない。


 返事が来るか分からない。


 それでも書く。


 届かない人へ書く。


 もういない人へ書く。


 まだどこかにいるかもしれない人へ書く。


⸻


 スズリが書いたものを、シンは知らなかった。


 でも、その筆の音だけは知っていた。


 だから思った。


⸻


(俺も)


⸻


(運ぶ)


⸻


(届かなくても)


⸻


(運ぶ)


⸻


 世界が白くなった。


⸻


 山が消えた。


 道が消えた。


 秋が消えた。


 モモが消えた。


⸻


 ただ白かった。


⸻


 ただ白かった。


⸻


⸻ Starting Over


⸻


(第五章 了 第九十話へ)


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