Last Love Letter
第八十九話 Last Love Letter
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記録者・硯私記
延暦二十一年 秋
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アテルイとモレは、処されました。
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河内国において。
共に。
詳細を書く気にはなれません。
ただ事実として、ここに記します。
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目撃した者の話を、後で聞きました。
二人は最後まで乱れなかった。
声を荒げなかった。
顔は静かだった。
その日は晴れていたと、言う者がいました。
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晴れていた。
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その言葉が、しばらく紙の上で止まりました。
処刑の日の空が晴れていたことに、何の意味があるのでしょう。
雨ならよかったのでしょうか。
曇っていれば、少しは正しかったのでしょうか。
分かりません。
でも、聞いた瞬間、私は腹が冷えました。
都も空も、何も変わらなかったのだと思ったからです。
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私は記録者です。
だから書きます。
でも今日は難しい。
何度も筆が止まります。
手が止まるのではありません。
胸の奥が何かを嫌がっています。
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公の記録には、きっと別の形で残るでしょう。
帰服。
処断。
夷。
鬼。
乱。
禍根。
そういう言葉は、墨にするととても軽い。
紙の上では、誰も息をしません。
誰も震えません。
誰も笑いません。
人の名は、都に入ると、役に変わります。
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でも私は見ました。
私は聞きました。
胆沢の火を。
炉の煙を。
子供たちの声を。
アテルイ殿の笑い方を。
モレ殿の怒り方を。
腹が減れば動けない、と言った声を。
死んでも残る火がある、と言った声を。
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だから、ここに書きます。
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アテルイ。
モレ。
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二人は人でした。
鬼ではありませんでした。
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これだけのことを書くのに、なぜこれほど息が苦しいのか、私には分かりません。
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坂上田村麻呂殿は悔恨されているようです。
助命を訴え続けた方です。
届かなかった。
でも、その後の話を聞けば、この方は諦めない方です。
後に人がどう呼ぶかは分かりません。
ですが私は思います。
あの二人の名と誉を、誰より重んじたのが、敵方の将軍でした。
それが何より残るだろうと、私は思います。
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敵と味方。
都と胆沢。
そう分ければ、書くのは簡単です。
けれど、簡単な書き方は、ときどき人を消します。
田村麻呂殿は征する側の将軍でした。
それは事実です。
そして、あの二人の死を最後まで惜しんだ人でもありました。
それも事実です。
私は両方を書きます。
片方だけを書けば、たぶん嘘になります。
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神野様のことも書きます。
といっても、私には分かりません。
あの方が何を考えているかは、いつも半分程しか見えない。
ただ、処刑の後から、また忙しくなりました。
何か決意されたことがあるようです。
私の仕事も増えそうで困ります。
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困ります。
そう書くと、少しだけいつもの私に戻れます。
神野様は、言葉にすると妙な方です。
皇子でありながら、道端の石や橋の裏や、地方の古い文に目を止める。
人の話を聞きすぎる。
聞いたことを忘れない。
忘れないくせに、忘れたふりをする。
私の筆を見て、きれいな字ではなく、残す字だと言いました。
あの時から、私はこの仕事をしています。
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胆沢から戻って、神野様はよく黙るようになりました。
黙って、遠くを見ます。
都の中で、山を見るような顔をします。
きっと、あの方も運んでいるのだと思います。
何を、と問われれば、うまく書けません。
でも、火に近いものです。
燃やす火ではありません。
道を照らす火です。
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彼について。
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処刑のあった日を境に、別宅から姿が消えました。
行先は言いませんでした。
戻っていません。
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もう会えない気がします。
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そう書くと、胸の奥が嫌な音を立てます。
会えない、と書けば、会えないことが決まってしまう気がします。
でも、書かずにいると、もっと怖い。
彼はいつも、どこかへ行く人でした。
目の前に座っていても、少し遠い。
飯を食べていても、火を見ていても、笑っていても、何か別の時のことを一緒に見ているようでした。
それなのに、ときどきとても近かった。
上着を貸す時。
柱ばかり見ている時。
私の字を見て、何も分からないくせに黙ってうなずく時。
おかえりなさい、と言った時の顔。
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私は記録者です。
だから、これも書きます。
書くべきではないことかもしれません。
公の文には、決して残せないことです。
でも、これは私記です。
誰にも見せないための記録です。
あるいは、いつか誰かに見つけられるための記録です。
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シンさん。
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あなたは何者だったのでしょう。
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ヤマトでもなく、エミシでもなく。
都の者でも、山の者でもなく。
けれど、都にも山にも、妙に深く傷ついていた。
何も知らない子供のようで、時々、遠い老人のようでした。
食べ物のことで子供みたいに顔を明るくして。
人が消える話になると、急に息ができない顔をして。
何度も死んだと言いながら、生きている人を誰より諦めなかった。
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私は、あなたを記録できたのでしょうか。
見たものを、残す形にできたのでしょうか。
それとも、私はあなたの背中ばかり見ていたのでしょうか。
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秋が来ました。
胆沢の秋は赤かった。
炉の煙が細く上がって、山が全部燃えているみたいでした。
今年も綺麗でしょうか。
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山は赤いでしょうか。
炉の煙は上がっているでしょうか。
子供たちは、火のそばで笑っているでしょうか。
誰かが飯を食えと言っているでしょうか。
誰かが腹が減れば動けないと言っているでしょうか。
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シンさんも、どこかで同じ景色を見ているでしょうか。
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もし見ているなら。
もしまだ、どこかを歩いているなら。
どうか、ちゃんと食べてください。
どうか、火を忘れないでください。
どうか、帰る場所があるうちは、帰ってください。
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私はここで書きます。
消えないように。
消されないように。
あの二人が人だったことを。
あなたが見届けたことを。
あなたが泣かなかったことを。
それでも、泣いているように見えたことを。
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これは記録です。
たぶん。
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でも、もし違う名を付けるなら。
これは、手紙です。
届かない人へ書く、最後の手紙です。
いと、恋しき貴方へ。
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そこで筆が止まった。
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気付けば長く書いていた。
硯の墨は少し乾き始めていた。
筆先にも黒が残っている。
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スズリは静かに筆を置いた。
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窓が少し開いていた。
秋風が入った。
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さらり、と音がした。
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一枚だった。
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紅葉だった。
赤かった。
燃えているみたいな赤だった。
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葉は風に押されて部屋へ入り、机の上へ落ちた。
開いた書の上だった。
まだ乾いていない墨の近くへ落ちた。
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黒と赤が並んだ。
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黒い文字。
紅い葉。
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まるで炭と火のようだった。
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胆沢の炉に少し似ていた。
秋の山にも似ていた。
消えたはずなのに、まだ残っている火だった。
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スズリは立ち上がった。
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窓の外を見た。
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山が見えた。
遠かった。
都から見る山だった。
胆沢ではなかった。
でも、赤く染まり始めていた。
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秋が来ていた。
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胆沢の秋は今年も綺麗でしょうか。
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山は赤いでしょうか。
炉の煙は上がっているでしょうか。
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そして。
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シンさんも。
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どこかで同じ色を見ているでしょうか。
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風がもう一度吹いた。
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紅葉が揺れた。
書の上に小さな火が灯っているようだった。
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シンが別宅を出たのは、夜明け前だった。
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誰にも告げなかった。
戸を開ける音を小さくした。
荷を少なくした。
足音を殺した。
作業棟の灯は落ちていた。
スズリは眠っているはずだった。
そう思うことにした。
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言えば、止められる。
止められなくても、見送られる。
見送られれば、足が止まる。
それが分かっていた。
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門のところに人影があった。
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タダだった。
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小さな包みを持っていた。
眠そうな顔をしていた。
でも、目は覚めていた。
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「早いな」
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シンが言った。
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「お前が遅い」
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タダは言った。
それだけ言って、包みを押し付けた。
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「干した飯」
「干し肉」
「塩」
「それと炭」
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「炭?」
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「火が要るだろ」
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短かった。
それ以上、説明しなかった。
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シンは包みを見た。
軽かった。
でも手の中に重さが残った。
炉の火の重さだった。
胆沢で何度も見た、朝の火だった。
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「スズリには」
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言いかけた。
続かなかった。
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タダは少しだけ目を細めた。
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「言わない」
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シンは顔を上げた。
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「言わないのか」
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「言うなら自分で言え」
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正しかった。
正しすぎて、何も返せなかった。
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タダは門にもたれた。
都の空はまだ暗かった。
遠くで、朝の鳥が一声だけ鳴いた。
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「行くのか」
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「行く」
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「どこへ」
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「分からない」
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「そうか」
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タダはうなずいた。
分からない、という答えをそのまま受け取った。
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「じゃあ食え」
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シンは少し笑った。
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「そればっかりだな」
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「生きてる奴に言うことは、それで十分だ」
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タダは静かに言った。
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「腹が減れば動けない」
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アテルイと同じ言葉だった。
同じではないのに、同じところから来た言葉だった。
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シンは包みを持ち直した。
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「ありがとう」
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タダは返事をしなかった。
ただ、少しだけ顎を上げた。
行け、という仕草だった。
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シンは歩き出した。
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振り返らなかった。
振り返れば、タダがまだそこにいると分かった。
分かっていたから、振り返らなかった。
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門を離れると、墨の匂いが遠くなった。
代わりに、包みの中から炭の匂いがした。
消えた火の匂いだった。
また灯せる火の匂いだった。
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都から北へ出ると、山が戻ってくる。
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一日二日も歩けば、道が細くなって、空気が変わる。
人の数が減って、川の音が増えて、土の匂いが深くなる。
シンはただ歩いた。
どこへ向かうとも決めていなかった。
北へ向かいたかった。
終わった場所を見たかった。
火がまだあるか確かめたかった。
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背中に、まだ声が残っていた。
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ちゃんと帰れ。
帰る場所があるうちは、帰れ。
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帰る場所。
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考えると、胸の奥が苦しくなった。
自分にそんなものがあるのか分からなかった。
胆沢。
スズリの作業棟。
タダの荷の匂い。
カミノの別宅。
どれも帰る場所のようで、もう戻れない場所のようだった。
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アテルイとモレは死んだ。
それでも、帰れと言った。
死に向かう人間が、生きている自分に帰れと言った。
その理不尽さが、ずっと胸の中にあった。
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後ろから馬の足音がした。
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振り返らなかった。
気配で分かった。
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カミノだった。
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護衛がいない。
一人だった。
息が少し上がっていた。
急いで追いかけてきたらしかった。
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カミノは適当な場所に馬を繋いだ。
そのまましばらく二人で歩いた。
長い間、何も言わなかった。
道が細くなった。
鳥の声が増えた。
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カミノが先に口を開いた。
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「父とはぶつかるだろう」
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シンは歩きながら聞いた。
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「兄とも多分ぶつかる」
「今の朝廷のやり方と、私の目指す政は合わない部分がある」
「どこかで衝突する」
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少し間があった。
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「それでも」
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カミノが続けた。
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「自分が見たものを、無駄にしたくない」
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道の傍に川があった。
秋の水だった。
透明で、石の底が見えた。
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「胆沢で見た」
「アテルイを見た」
「モレを見た」
「あの山を見た」
「人が生きていた」
「火があった」
「全部が」
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少し黙った。
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「あれを入れた国を作りたい」
「争いを減らしたい」
「都の外を知らないまま治める国は嫌だ」
「まだ形は分からない」
「でも上辺だけの国は嫌だ」
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シンは横を歩いていた。
何も言わなかった。
聞いていた。
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「都の道はまっすぐだ」
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カミノは言った。
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「まっすぐで、広い」
「誰が見ても分かる」
「どこに門があり、どこに役所があり、誰がどこへ行くべきか、すぐに分かる」
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少し間があった。
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「あれは強い」
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シンは都の大路を思い出した。
人の流れ。
門。
築地。
文の行き先。
名前と身分が先に立つ場所。
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「でも、まっすぐな道だけでは、人は歩けない」
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カミノは足元を見た。
細い道だった。
木の根が出ていた。
水で少し削れていた。
獣の足跡もあった。
誰かが毎日踏んだから残った道だった。
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「曲がった道がある」
「水を避ける道がある」
「木を残すための道がある」
「荷を軽くするための道がある」
「年寄りが遠回りでも選ぶ道がある」
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カミノは、そこで少しだけ笑った。
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「私は、そういう道を知らなかった」
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シンは何も言わなかった。
ワカレの背中を思い出した。
水路沿いの細道。
人が忘れた導線。
都の下を流れる土と水の通り道。
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「知らないまま、国を語るところだった」
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カミノの声は小さかった。
でも、逃げていなかった。
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「父上は大きい」
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カミノは言った。
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「あの方は国を作っている。都を作っている。道を引き、税を集め、軍を動かし、寺を移し、人を動かす」
「大きすぎるくらい、大きい」
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シンは川を見た。
水の中で、小さな魚が影のように動いた。
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「でも、大きいものほど、小さいものを踏む」
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カミノの声は、静かだった。
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「踏むつもりがなくても、踏む」
「見えないからだ」
「書かれていないからだ」
「名が小さいからだ」
「遠いからだ」
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シンは黙っていた。
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「私は、それが嫌になった」
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カミノは少し笑った。
笑っていい話ではなかった。
でも、笑わなければ言えない顔だった。
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「お前に言っても仕方ない話だが」
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カミノが続けた。
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「言いたかった」
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道が少し開けた。
向こうに山が見えた。
紅葉が始まっていた。
赤と緑が混ざっていた。
胆沢で見た山よりも南だったが、同じ赤だった。
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カミノが立ち止まった。
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シンも止まった。
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「最後まで分からなかった」
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カミノが言った。
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「お前が何者か」
「どこから来て、どこへ行くのか」
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少し間があった。
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カミノが笑った。
疲れた笑いではなかった。
胆沢で初めてアテルイを見た時の顔に似ていた。
好奇心が残っている笑いだった。
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「でも楽しかった」
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「旅は本当に楽しかった」
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さらに少し間があった。
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「友よ」
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カミノが言った。
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「また来い」
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「今より居心地の良い国にしておく」
「約束はできないが」
「必ずやる」
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シンは少し黙った。
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「アンタならできる」
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言った。
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「予言じゃないが」
「確信だ」
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カミノは少し目を細めた。
照れているのか、笑っているのか、その両方なのか、判別できなかった。
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それから頷いた。
一度だけ、深く頷いた。
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「硯に何か言うことは」
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カミノが聞いた。
⸻
シンは止まった。
⸻
おかえりなさい。
死んでも残る火があるって。
筆の音。
墨の匂い。
上着を返す相手。
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いくつも浮かんだ。
でも、どれも言葉にならなかった。
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「ない」
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シンは言った。
⸻
「言ったら、戻れなくなる」
⸻
カミノはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ息を吐いた。
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「そうか」
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責めなかった。
慰めもしなかった。
ただ、そのまま受け取った。
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「では、私が困っておく」
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「何で」
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「硯に怒られる」
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シンは、少しだけ笑った。
笑ってしまった。
それが余計に苦しかった。
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「悪い」
⸻
「本当に悪い」
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カミノも笑った。
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「ではな」
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踵を返した。
都の方へ歩いた。
振り返らなかった。
でも手を一度だけ上げた。
それだけだった。
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足音が遠くなった。
消えた。
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シンは一人になった。
⸻
⸻
道を続けた。
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山が近くなった。
秋の山だった。
赤かった。
燃えているみたいに赤かった。
炎ではない。
でも火に見えた。
⸻
風が来た。
都の風ではなかった。
土と水と、落ち葉の匂いがした。
遠くの川が細く光っていた。
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シンは道の脇に座った。
足が重かった。
腹は減っていた。
でも食べるものを出す気になれなかった。
そう思った瞬間、アテルイに怒られる気がした。
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ちゃんと食え。
腹が減れば動けない。
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シンは荷の中から干した飯を少し出した。
硬かった。
うまくはなかった。
でも噛んだ。
噛んで、飲み込んだ。
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「食ったぞ」
⸻
誰にともなく言った。
返事はなかった。
山だけが赤かった。
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桃の香りがした。
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シンは止まった。
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木の間にいた。
薄桃色の衣だった。
黒髪だった。
桃の飾りが秋の光を返していた。
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白桃でもなかった。
モモでもなかった。
その間にいた。
静かだった。
揺れていなかった。
ただ、いた。
⸻
「モモ」
⸻
シンが言った。
⸻
「……シン」
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返ってきた。
モモの声だった。
⸻
少し間があった。
⸻
「……改変、失敗」
⸻
言葉は短かった。
淡々としていた。
でも完全に機械でもなかった。
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「分かってる」
⸻
シンは言った。
⸻
「でも」
⸻
風が来た。
山の風だった。
赤い葉が一枚、空を渡った。
⸻
「火は残った」
「人は残った」
「胆沢は残った」
「全部消えたわけじゃない」
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モモは何も言わなかった。
見ていた。
ただ、見ていた。
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その目が少しだけ揺れていた。
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「アテルイは死んだ」
⸻
シンは言った。
言わなければならない気がした。
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「モレも死んだ」
「助けられなかった」
「歴史は変わらなかった」
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喉が少し詰まった。
⸻
「でも、あいつらは鬼じゃなかった」
「それは残った」
「スズリが書いた」
「カミノが見た」
「タダが運んだ」
「俺も見た」
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モモは黙っていた。
桃の匂いだけが、秋の空気に混じっていた。
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「……記録、確認不能」
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モモが言った。
⸻
「うん」
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「確認できなくてもいい」
⸻
シンは言った。
自分でも、少し乱暴なことを言っていると思った。
記録者が聞けば怒るかもしれない。
スズリなら、確認できないものを残す難しさをよく知っている。
カミノなら、確認できないものを政に入れる危うさを考える。
タダなら、確認できなくても飯は出す。
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それでも言った。
⸻
「確認できないから、なかったことにはならない」
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モモは動かなかった。
桃の飾りだけが、風に小さく揺れた。
⸻
「俺は見た」
「スズリは書いた」
「カミノは覚えてる」
「タダは火を持たせた」
⸻
シンは自分の荷を見た。
包みの中に、炭があった。
消えた火の残り。
まだ灯せるかもしれないもの。
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「これも記録じゃないのか」
⸻
モモは包みを見た。
見ているのに、そこにあるものを測りきれないような顔だった。
⸻
「……物質情報」
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「炭だ」
⸻
「……燃焼後の炭素塊」
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「炭だよ」
⸻
シンは少しだけ笑った。
笑える場面ではなかった。
でも笑ってしまった。
タダなら、同じ顔をした気がした。
⸻
モモは黙っていた。
否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、炭を見ていた。
⸻
「……熱源、消失済み」
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「消えてない」
⸻
シンは言った。
⸻
「また火になる」
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モモの目が、わずかに動いた。
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「……再燃可能性」
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「そういう言い方でもいい」
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風が通った。
赤い葉が一枚落ちた。
地面に落ちて、すぐに動かなくなった。
⸻
「モモ」
⸻
シンは言った。
⸻
「お前は、何を見た」
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モモは答えなかった。
長い沈黙だった。
機械なら、沈黙ではなく処理だったのかもしれない。
でも今のそれは、シンには沈黙に見えた。
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「……対象シンの行動」
⸻
モモが言った。
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「死亡回避失敗」
「歴史改変失敗」
「目的達成率、規定値未満」
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淡々としていた。
いつもの声だった。
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「それだけか」
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シンが聞いた。
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モモはすぐには答えなかった。
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「……対象アテルイ」
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その名が、モモの口から出た。
シンは息を止めた。
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「対象モレ」
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続いた。
短い音だった。
でも確かに名前だった。
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「会話ログ、残存」
「感情反応、解析不能」
「対象スズリの記述、未取得」
「対象カミノの行動変化、継続観測不能」
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モモはそこで止まった。
それから、ほんの少しだけ眉を寄せた。
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「……でも」
⸻
そこで、言葉が止まった。
止まったことに、モモ自身が少し驚いたように見えた。
⸻
「でも?」
⸻
シンが聞いた。
⸻
モモは目を伏せなかった。
ただ、少しだけ、声が小さくなった。
⸻
「……残っている気がする」
⸻
シンは息を止めた。
⸻
「気がする、って言ったか」
⸻
「誤差」
⸻
いつもの言葉だった。
でも、逃げる言葉ではなかった。
抱えきれないものに付けた、小さな名みたいだった。
⸻
空気が変わった。
⸻
白い光が来た。
雷でも斬撃でもなかった。
温度のない、静かな白だった。
初めて見る光だった。
でもどこか懐かしい。
⸻
「……観測終了」
⸻
モモの声だった。
モモの声だが、モモだけの声ではなかった。
何かが混ざっていた。
タケミカヅチやビシャモンテンではない。
また別の何かが、モモを通して発している音だった。
無機質だが、優しい声だった。
⸻
シンは手を見た。
⸻
薄くなっていた。
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手の向こうに草が透けていた。
透けているのに感覚はあった。
痛みがなかった。
熱もなかった。
死ではなかった。
でも消えていた。
⸻
止まれなかった。
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「待ってくれ」
⸻
言った。
⸻
「まだ終わってない」
「見ていないものがある」
「残っているものがある」
「俺はまだ」
⸻
でも止まらなかった。
⸻
輪郭が消えていった。
足元の土が透けた。
木が透けた。
山が遠くなった。
⸻
モモを見た。
⸻
モモが見ていた。
泣いていなかった。
でも、いつかこうなると知っていたみたいな顔をしていた。
諦めでもなかった。
ただ見ていた。
最後まで、目を背けずに見ていた。
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「モモ」
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シンは言った。
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「また会えるか」
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モモは、ほんの少しだけ黙った。
白い光の中で、桃の飾りが揺れた。
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「……不明」
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いつもの答えだった。
いつもの答えのはずだった。
でも、その後に、小さな声が続いた。
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「でも」
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モモは言った。
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「探す」
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それが最後に聞こえた。
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(アテルイ)
⸻
思った。
⸻
(モレ)
(胆沢)
(炉の火)
(タダの汁)
(スズリの筆の音)
(カミノの好奇心)
(山が赤かった)
(火が残った)
(人が残った)
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全部残っていた。
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消えなかった。
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(運べるか)
⸻
思った。
⸻
(俺は)
(運べるか)
(次の時代へ)
(この火を)
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包みの重さが、まだ手にあった。
⸻
干した飯。
干し肉。
塩。
炭。
⸻
持っていけるはずがなかった。
時代を越えれば、荷は消える。
服も、土も、血も、たぶん何も残らない。
それでも、手は覚えていた。
炭の軽さを。
飯の硬さを。
タダの無愛想な優しさを。
⸻
耳も覚えていた。
筆の音を。
スズリが紙を押さえる小さな音を。
おかえりなさい、という声を。
⸻
目も覚えていた。
アテルイの笑い方を。
モレの横顔を。
カミノが山を見た時の顔を。
モモが最後まで目を逸らさなかったことを。
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誰かが書いている。
誰かが覚えている。
誰かが火を分けた。
誰かが道を変えようとしている。
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それは勝利ではなかった。
救済でもなかった。
歴史の改変でもなかった。
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でも、無ではなかった。
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たぶん。
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手紙も同じだ。
⸻
届くか分からない。
読まれるか分からない。
返事が来るか分からない。
それでも書く。
届かない人へ書く。
もういない人へ書く。
まだどこかにいるかもしれない人へ書く。
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スズリが書いたものを、シンは知らなかった。
でも、その筆の音だけは知っていた。
だから思った。
⸻
(俺も)
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(運ぶ)
⸻
(届かなくても)
⸻
(運ぶ)
⸻
世界が白くなった。
⸻
山が消えた。
道が消えた。
秋が消えた。
モモが消えた。
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ただ白かった。
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ただ白かった。
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⸻ Starting Over
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(第五章 了 第九十話へ)




