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アテルイとモレ

第八十八話 アテルイとモレ


⸻


 都は寝ていた。


⸻


 夜明け前の都は静かで、大路の人影もなく、灯火も一つ二つになっていた。


 犬が遠くで鳴いていた。


 鐘がどこかで一つ打った。


 それだけだった。


⸻


 昼の京は、線でできている。


 道。


 門。


 築地。


 役所。


 人の目。


 文の流れ。


 どこを歩いても、誰かが見ている。


 どこへ向かっても、名と身分が先に問われる。


⸻


 だが夜明け前だけは、都の線が少し薄くなる。


 牛車の轍に水が溜まり、土塀の影が道へ落ち、寝静まった家々の隙間に、昼には見えない細い道が浮く。


 そこを、ワカレは歩いた。


⸻


 ワカレは大路を使わなかった。


⸻


 水路沿いの細道を行った。


 崩れかけた土塀の切れ目を抜けた。


 使われなくなった搬入口を通った。


 排水路沿いに進んだ。


 寺の裏へ回った。


 人が忘れた導線を、ワカレは迷わず進んだ。


 どこを踏んでも足音がしなかった。


⸻


 シンは後ろからついていきながら、しばらく黙っていた。


⸻


 水の音がした。


 腐葉土の匂いがした。


 都の真ん中なのに、山道みたいだった。


 昨日まで何度も歩いたはずの京が、別の場所に見える。


 大きな道の裏に、小さな流れがある。


 人の作った都の下にも、土と水の通り道がある。


⸻


「いくら何でも知りすぎじゃないか」


⸻


 シンが言った。


⸻


「何が」


⸻


「この道」


⸻


 ワカレは笑った。


 前を向いたまま笑った。


⸻


「ホントはね」


⸻


 少し間があった。


⸻


「今回の道案内はカミノくんがメインで」


「キミはついで」


⸻


「ついでかよ!」


⸻


「でも面白かったよ」


⸻


 フォローになっていなかった。


 シンは黙った。


⸻


「カミノくんのお家、昔からお得意様でさ」


⸻


 ワカレが続けた。


 軽い調子だった。


⸻


「代々山越えのたびに呼ばれる」


「境越えも」


「都と地方の往来も」


「迷った時に呼ばれる」


「あの家は山に弱いから」


⸻


「それは知ってる」


⸻


 少し間があった。


⸻


「まぁ嫁さんの義理もあるし」


⸻


 シンは止まった。


⸻


「嫁さん?!」


⸻


 ワカレは振り返らなかった。


 また歩き始めた。


 答えなかった。


 答えるつもりがない歩き方だった。


⸻


 シンは追いかけた。


 聞かなかった。


 後で考えようと思った。


 後で考えることばかりが増えていく。


 後があるかも分からないのに。


⸻


⸻


 水路が終わった先に、古い石壁があった。


⸻


 湿地があった。


 苔が厚く積もっていた。


 石の合間から草が出ていた。


 排水路が壁の下を潜っていた。


 人が通れそうなぎりぎりの隙間だった。


⸻


 ワカレが止まった。


⸻


「ここまで」


⸻


 言った。


⸻


「後は見て」


「見てから、どう流れるかはキミ達の話」


「自由に」


⸻


 シンはワカレを見た。


 ワカレは笑っていた。


 古い目をしていた。


 でも笑っていた。


⸻


「助けられると思うか」


⸻


 シンは聞いた。


⸻


 ワカレはすぐには答えなかった。


 水路の暗がりを見た。


 それから、いつもの軽い声で言った。


⸻


「助けるって、いろいろあるからね」


⸻


 次の瞬間、いなかった。


 気配もなかった。


 いつもの消え方だった。


⸻


 シンは石壁を見た。


 潜った。


⸻


⸻


 暗かった。


⸻


 湿気があった。


 土の匂いがした。


 遠くで水が滴る音がした。


 灯が一つだけあった。


 小さかった。


 でもあった。


⸻


 二人がいた。


⸻


 アテルイが壁に背を預けて座っていた。


 疲労があった。


 痩せていた。


 頬の肉が落ち、髭も伸びている。


 衣も、胆沢で見た時よりずっと粗末だった。


 それでも目が死んでいなかった。


 山に立っていた時の、あの深い目が残っていた。


⸻


 モレがその横にいた。


 腕を組んでいた。


 こちらを見た瞬間、少し目を細めた。


 驚いている顔だった。


 驚きながら、呆れている顔だった。


 その奥に、ほんのわずかな安堵があった。


⸻


 アテルイが先に笑った。


 久しぶりに見た顔だった。


 胆沢で見た笑い方と同じだった。


 馬に話しかけていた時の、腹から来る自然な笑い方だった。


⸻


「また来たか」


⸻


「また来た」


⸻


 シンは言った。


 それだけ言った。


⸻


 モレが鼻を鳴らした。


⸻


「しぶとい奴だ」


「褒め言葉として受け取っておく」


「違うが」


⸻


 少しだけ、空気が緩んだ。


 牢の湿りの中に、胆沢の火の匂いが戻った気がした。


 ほんの少しだけ。


⸻


⸻


 シンは全部話した。


⸻


 抜け道を話した。


 水路と搬入口と古道を話した。


 馬を用意できる場所を話した。


 山側へ向かえば逃げ込める場所があることを話した。


 スズリが記録を持っている。


 カミノが動ける。


 タダが道中を知っている。


 全部揃っていた。


 逃げられる可能性はある。


⸻


 言いながら、自分でも荒い計画だと分かっていた。


 それでも言った。


 言わずにはいられなかった。


 もう死に戻りは使えない。


 次に死ねば、この時代から弾き出される。


 だから、ここで言葉を尽くすしかなかった。


⸻


 アテルイは最後まで聞いた。


 遮らなかった。


 うなずきもしなかった。


 ただ聞いた。


⸻


 聞き終わってから、静かに言った。


⸻


「逃げない」


⸻


 シンは黙った。


 分かっていた。


 分かっていたのに、喉の奥が熱くなった。


⸻


「俺が逃げれば、残した者が終わらない」


「山に帰れば、また兵が来る」


「今度は俺がいない」


「あいつらが死ぬ」


⸻


 淡々としていた。


 責めていなかった。


 後悔もしていなかった。


 ただ、事実として言っていた。


⸻


「戦は終わった」


「終わらせたから、ここにいる」


「降ったのは逃げたのではない」


「選んだ」


⸻


「でも」


⸻


 シンは食い下がった。


⸻


「都は、そんなふうには残さない」


⸻


 アテルイの目が少し動いた。


⸻


「俺の知ってる話では」


⸻


 そこで言葉が詰まった。


 未来のことを、どう言えばいいのか分からない。


 歴史、と言えば違う。


 記録、と言えば足りない。


 自分だけが知っている残酷な形を、この二人の前にそのまま置くことが怖かった。


⸻


「アンタたちは、ただ死ぬんじゃない」


「殺されて、都に都合のいい形にされる」


「鬼にされる」


「従わなかった者として、見せしめにされる」


「人だったことが、削られる」


⸻


 シンは唇を噛んだ。


 本当はもっと言えた。


 後の世で、名前だけが残ること。


 その名前が、何度も別の形へ変えられること。


 英雄にもされる。


 鬼にもされる。


 誰かが祈る時の名になり、誰かが恐れる時の名になり、誰かが土地を語る時の飾りになる。


⸻


 でも、ここにいる二人は飾りではない。


 紙の上の名前ではない。


 いま息をしている。


 疲れて、痩せて、それでも笑っている。


 目の前にいる。


⸻


「俺は」


⸻


 声が詰まった。


⸻


「そんな残り方をしてほしくない」


⸻


 灯が揺れた。


 アテルイは黙っていた。


 モレも黙っていた。


⸻


「それが嫌なんだ」


⸻


 シンは言った。


 声が震えた。


⸻


「俺は、それを知ってる」


「知ってるのに、何もしないのが嫌なんだ」


「逃げれば変わるかもしれない」


「アンタたちが生きれば、残せるものが増えるかもしれない」


「死んで終わりじゃないなら、生きて変えたっていいだろ」


⸻


 アテルイは目を伏せた。


 長い沈黙だった。


 水の滴る音だけがした。


⸻


「シン」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「お前の言うことは、分かる」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「だが、俺が生きて山へ戻れば、火はまた上がる」


「俺が望まなくても、上がる」


「俺を担ぐ者が出る」


「俺を殺したい者も来る」


「守るために弓を取る者が出る」


「その時、戦は俺のものではなくなる」


⸻


 アテルイは膝の上に置いた手を見た。


 その手は大きかった。


 弓を引いた手。


 馬の首を叩いた手。


 人を止め、人を押し出し、山の中で道を選んできた手だった。


⸻


「もう田に戻した者がいる」


「弓を置かせた者がいる」


「子を抱けと言った女たちがいる」


「冬に備えろと言った年寄りがいる」


「俺が逃げれば、その者らの背にまた弓を負わせる」


⸻


 シンは何も言えなかった。


⸻


「俺が生きたいからといって、皆にもう一度死ねとは言えない」


⸻


 アテルイの声は静かだった。


 静かだから、重かった。


⸻


「俺が死ねば、すべてが終わるとは思っていない」


「そんなに人は簡単ではない」


「恨みは残る」


「怒りも残る」


「名も残る」


⸻


 アテルイはシンを見た。


⸻


「だからこそ、俺が戦を終わらせた者として死ぬ」


「逃げた者としてではなく」


「山を捨てた者としてでもなく」


「降って、命を預け、それでも殺された者として死ぬ」


⸻


 シンは何も言えなかった。


⸻


「その方が残る」


⸻


 アテルイは言った。


⸻


「死んでも残る火がある」


「燃やす火ではない」


「道を照らす火だ」


⸻


 モレが小さく息を吐いた。


 その言葉を、何度も聞いてきたような顔だった。


⸻


「きれいな話にするな」


⸻


 モレが言った。


 低い声だった。


⸻


「怖いものは怖い」


「死にたいわけじゃない」


「都の連中に首を落とされて、分かったような顔をされるのも腹が立つ」


⸻


 アテルイが笑った。


 モレは睨んだ。


⸻


「だが、ここで逃げれば、あいつらは言う」


「ほら見ろ、やはり蝦夷は約を守らぬと」


「降ったふりをして刃を隠していたと」


「山の者は信じるなと」


⸻


 モレの拳が、さらに白くなった。


⸻


「それだけは、残せない」


⸻


 シンはモレを見た。


⸻


 モレは壁を見ていた。


 アテルイの言葉を聞きながら、壁を見ていた。


 拳を握っていた。


 少し白くなっていた。


⸻


「モレ」


⸻


「聞こえてる」


⸻


 低い声だった。


⸻


「怖くないのか」


⸻


 少し間があった。


⸻


「怖い」


⸻


 即答だった。


 シンは少し驚いた。


⸻


「怖いに決まってる」


⸻


 モレが言った。


⸻


「首を斬られるのも怖い」


「痛みも怖い」


「息が止まるのも怖い」


「その後、山がどうなるか見られないのも怖い」


⸻


 モレはそこで、アテルイを見た。


⸻


「でもあいつ一人で死なせる方が、怖い」


⸻


 それだけだった。


 それ以上の説明はしなかった。


⸻


 アテルイが横でまた笑った。


⸻


「言い方が悪いな」


「ありがとう、だろ」


「頼んだ覚えはない」


「頼んだだろうが」


「誘っただけだ」


⸻


 しばらく二人は笑い合っていた。


 その他愛ないやり取りの中に、二人の時間が全部入っていた気がした。


⸻


 シンは膝をついた。


 石の冷たさが、膝に入った。


⸻


「俺は、最後にもう一回だけ死ねる」


⸻


 言ってしまってから、自分でも驚いた。


 アテルイとモレは黙って見ていた。


⸻


「死んだら戻る」


「でも次で終わりだ」


「次に死んだら、この時代から飛ぶ」


「ここに戻れない」


「お前たちにも、スズリにも、カミノにも、モモにも会えない」


⸻


 言葉が一つずつ落ちた。


 牢の湿った床に、戻らないものみたいに落ちた。


⸻


「だから、もう失敗できない」


「逃げるなら、今しかない」


「俺は最後の一回を使ってでも、道を開く」


⸻


 アテルイは、静かに首を振った。


⸻


「使うな」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「なぜ」


⸻


「死ぬな」


⸻


 アテルイは言った。


⸻


「死んでも戻る男に言うのは変だが」


「死ぬな」


「お前が死んで道を開いても、その道は長く続かない」


「死なずに運べ」


⸻


「何を」


⸻


 アテルイは自分の胸を軽く叩いた。


⸻


「火だ」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「俺たちが死んでも残る火を、お前が運べ」


「山で見たことを」


「ここで聞いたことを」


「俺たちが人だったことを」


「泣いた者がいたことを」


「怒った者がいたことを」


「書いた者がいたことを」


⸻


「それから」


⸻


 アテルイは少し考えた。


 困ったように笑った。


⸻


「笑ったこともだ」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「俺たちは、ずっと怒っていたわけではない」


「ずっと戦っていたわけでもない」


「飯を食った」


「馬を撫でた」


「子を叱った」


「酒で馬鹿を言った」


「雪を見て、春を待った」


⸻


 アテルイの目が細くなった。


 遠い山を見ている目だった。


⸻


「それも運べ」


⸻


 アテルイは笑った。


 牢の中なのに、山の上で笑うように。


⸻


「それを運べ」


「死ぬな」


「見ろ」


「見て、持っていけ」


⸻


 シンの喉が詰まった。


 胸の奥で、何かが折れる音がした。


 折れて、別の形になった。


⸻


 助けたい。


 逃がしたい。


 生きてほしい。


 それは消えない。


 でも二人は、もう逃げない場所に立っていた。


 死に向かっているのではない。


 戦を終わらせた場所に立っていた。


⸻


「お前は何者だ」


⸻


 アテルイが聞いた。


⸻


 シンは止まった。


⸻


「何度もここへ来る」


「ヤマトでもエミシでもない」


「なぜそこまで動く」


「何を残したい」


⸻


 シンは答えようとした。


 言葉が来なかった。


⸻


 何者か。


 分からなかった。


 自分でも分かっていない。


 ミチヌシも言っていた。


 空ではない、重さがある、と。


 でも何かはまだ分からない。


⸻


 でも。


⸻


「助けられない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「逃げられない」


「変えられない」


⸻


「分かった」


⸻


 少し間があった。


⸻


「でも見る」


「最後まで見る」


「逃げない」


「ここにいる」


⸻


 声に出してから、初めて分かった。


 これが今の自分の答えだった。


 助けるのではない。


 救出するのではない。


 見届ける。


 最後まで、目を背けずに見る。


 死んでも残る火を、受け取る。


 それが今できることだった。


⸻


 アテルイはしばらく黙っていた。


 それから頷いた。


 短く、確かに頷いた。


⸻


「そうか」


⸻


「そういう奴がいると」


「山は消えない」


⸻


 モレが少し動いた。


 顔は相変わらず険しかった。


 でも声が少しだけ、いつもと違った。


⸻


「……面倒な奴だな」


⸻


「それは知ってる」


⸻


 少し間があった。


⸻


「俺たちのことを書いている女がいたな」


⸻


 モレが続けた。


⸻


「墨と香の匂いの」


⸻


「スズリだ」


⸻


「そいつに伝えろ」


「消えないようにするのは難しい」


「でも、書き続けろと」


「それだけでいい」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「必ず伝える」


⸻


 モレは小さく頷いた。


 それだけだった。


⸻


⸻


 別れは静かだった。


⸻


 泣かなかった。


 叫ばなかった。


 言葉が多くなかった。


⸻


 アテルイが最後に言った。


⸻


「飯は食えてるか」


⸻


「……まあそれなりに」


⸻


「ちゃんと食え」


「腹が減れば動けない」


⸻


 それだけだった。


⸻


 モレは何も言わなかった。


 シンを一度見た。


 それだけだった。


 それで十分だった。


⸻


 シンは頭を下げた。


 深く。


 今までのどの礼よりも深く。


⸻


 顔を上げた時、アテルイは笑っていた。


 モレは横を向いていた。


 その横顔も、少しだけ笑っているように見えた。


⸻


「シン」


⸻


 アテルイが呼んだ。


 シンは振り返った。


⸻


「ちゃんと帰れ」


⸻


 短かった。


⸻


「帰る場所があるうちは、帰れ」


⸻


 シンの胸に、スズリの声が戻った。


 おかえりなさい。


 まだ聞いていない声なのに、もう聞こえた気がした。


⸻


 モレが続けた。


⸻


「伝える相手がいるなら、先にそいつの所へ戻れ」


「死人の前で長居するな」


⸻


「まだ死んでないだろ」


⸻


「じきに死ぬ」


⸻


 シンは言葉を失った。


 アテルイが笑った。


 モレも、ほんのわずかに口元を動かした。


⸻


 シンは石壁を潜って外へ出た。


⸻


⸻


 都の夕方だった。


⸻


 空が赤かった。


 大路に人が戻り始めていた。


 荷車が行き交っていた。


 誰かが笑っていた。


 子供が走っていた。


 何も変わっていなかった。


 都は普通に動いていた。


⸻


 もうすぐ処刑が行われる。


⸻


 シンは歩いた。


⸻


 長かった。


 足が重かった。


 でも止まらなかった。


⸻


 途中に石があった。


 道の脇の、古い石だった。


 苔が乗っていた。


 倒れていなかった。


 ただそこにあった。


⸻


 風が来た。


 山の匂いがした。


 遠くで鐘が鳴った。


⸻


(見る)


⸻


 思った。


⸻


(最後まで)


⸻


⸻


 同じ頃。


⸻


 御簾の奥で、薬子は目を開けた。


⸻


 灯が低かった。


 香は濃かった。


 黒い石は、膝の上にあった。


 いつもなら、そこに声があった。


 低く沈む読経。


 神の名を整える囁き。


 毘沙門天。


 まつろわぬ鬼を断てという、冷たい確信。


⸻


 何もなかった。


⸻


 薬子は石を撫でた。


 指先が白くなるほど、撫でた。


 声は返らなかった。


 それは、常世衆から渡された黒い石だった。


 北の地から運ばれたものだという。


⸻


 いつもなら、石は冷たくても意味を持っていた。


 冷たさの奥に、誰かの意志があるように思えた。


 自分の苦しみを知っているものがいる。


 自分の愛を罪ではないと告げるものがいる。


 そう思えた。


⸻


 今は、ただの石だった。


⸻


 そのことが、薬子を壊した。


⸻


「……毘沙門天様」


⸻


 呼んだ。


 自分の声だけが戻った。


 部屋の隅に落ちた。


⸻


 常世衆もいなかった。


 つい先日まで御簾の外にいた影が、消えていた。


 読経もない。


 衣擦れもない。


 香を足す手もない。


 神託を整える低い声もない。


⸻


 御簾の外へ手を伸ばした。


 誰もいなかった。


 灯籠の火が揺れただけだった。


 床に落ちた香の灰が、細く崩れただけだった。


⸻


「どこへ」


⸻


 声が掠れた。


⸻


「どこへ行ったのです」


⸻


 返るものはなかった。


⸻


 大勢は決した。


 鬼は断たれる。


 都の恐れは形を得た。


 安殿の代へ残る火種は、踏み消される。


 ならば、もう彼女に用はない。


⸻


 薬子に分かるはずがなかった。


 理解できるはずがなかった。


⸻


 誰かにまた、都合良く使われただけなのだと、心のどこかでは分かりかけていた。


 けれど、それを認めれば何も残らない。


 安殿への想いも、国を守るという祈りも、流した涙も、耐えた夜も、全部ただ踏まれただけになる。


 そんなものに耐えられるほど、薬子は強くなかった。


⸻


 救われたと思った。


 選ばれたと思った。


 苦しみに意味があると、やっと信じた。


 愛も、噂も、恥辱に塗れた夜も、内裏から退けられた寒さも、すべて国を守るための火になるのだと信じた。


⸻


 その火が、急に消えた。


⸻


 薬子は黒い石を抱いた。


 胸に押し当てた。


 石は冷たかった。


 誰の体温もなかった。


⸻


「私は」


⸻


 声が震えた。


⸻


「まだ、ここにおります」


⸻


 誰も答えなかった。


⸻


 まただった。


⸻


 男たちは去る。


 声は消える。


 祈りも、神も、必要な時だけ手を伸ばし、終われば離れる。


 薬子はいつも、最後に残される。


 美しいと言われた身体と、使われた名と、冷たい夜だけが残る。


⸻


 安殿。


⸻


 胸の奥で、その名だけが残った。


 愛しい人。


 自分を見てくれた人。


 あるいは、そう信じなければ生きられなかった人。


⸻


 薬子は石を強く抱いた。


 指が震えた。


 爪が黒い表面を掻いた。


⸻


 涙が落ちた。


 音もなく、石の上に落ちた。


 石は何も返さなかった。


⸻


 薬子は泣いていた。


 笑ってもいなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、また寄る辺を失った女の顔で、泣いていた。


⸻


 その少し後、仲成が御簾の外に来た。


⸻


 妹の泣く声は聞こえていた。


 聞こえていたが、入らなかった。


 今は慰める時ではない。


 そう思った。


 あるいは、慰める言葉を持っていなかった。


⸻


 仲成の頭には、すでに次のことがあった。


 東宮に何を伝えるか。


 誰に先んじて功を示すか。


 どの家が動き、どの家が黙ったか。


 誰が恐れ、誰が従い、誰が式家の名を見直すか。


⸻


 陸奥の鬼は断たれる。


 その報せは、手柄になる。


 国の不安を先に読んだ者。


 次の御代を案じた者。


 北の禍根を残さなかった者。


 そういう形にできる。


⸻


 仲成は静かに笑った。


 薬子とは違う笑いだった。


 救われた者の笑みではない。


 救いを使った者の笑みだった。


⸻


 彼は、牢にいる二人の顔を知らなかった。


 山で何を食べたかも知らなかった。


 誰を田へ戻し、誰に弓を置かせ、誰に冬へ備えろと言ったかも知らなかった。


⸻


 名すら、正しく覚えていなかった。


⸻


 薬子も同じだった。


 黒い石を抱き、神の声を失って泣きながら、それでも彼女は、断たれる鬼の名を覚えていなかった。


⸻


 アテルイ。


 モレ。


⸻


 その二つの名は、御簾の奥には届いていなかった。


 届く必要のない名として扱われていた。


⸻


 だからこそ、二人は鬼にされた。


 顔を知られないまま。


 声を聞かれないまま。


 名前すら、誰かの手柄の下でぼやけたまま。


⸻


 この件に関して、薬子の役目は終わっていた。


 常世衆は去った。


 神託も去った。


⸻


 残ったのは、泣く妹と、手柄を数える兄だけだった。


⸻


⸻


 別宅に灯があった。


⸻


 作業棟に明かりが見えた。


 墨の匂いがした。


 筆の音がした。


⸻


 戸が開いた。


⸻


 スズリが立っていた。


 筆を持っていた。


 少し安心した顔をしていた。


⸻


「おかえりなさい」


⸻


 短かった。


 それだけだった。


⸻


 でもその一言が、今夜一番重かった。


⸻


 シンは中へ入った。


 墨の匂いがした。


 灯があった。


 暖かかった。


⸻


 ここへ戻ってきた。


 戻ってきてしまった。


 見なければならない。


 最後まで。


⸻


 スズリが紙を用意した。


 シンは座った。


 喉が乾いていた。


 それでも、言葉を出した。


⸻


「アテルイが言ってた」


⸻


 スズリの筆が止まった。


 すぐに動いた。


⸻


「死んでも残る火があるって」


⸻


 筆の音が、静かに続いた。


⸻


⸻


(第八十九話へ)


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