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泣き虫

第八十七話 泣き虫


⸻


 カミノが戻ってきた時、夜明け前だった。


⸻


 戸の外はまだ青黒かった。


 京の空は広いはずなのに、夜明け前だけは低く見える。


 屋根の線が薄く浮かび、遠くで牛の鼻息が聞こえた。


 寺の鐘はまだ鳴っていない。


 人の声も少ない。


 都が目を覚ます前の、ほんの短い沈黙だった。


⸻


 その沈黙の中に、カミノは立っていた。


⸻


 旅の顔ではなかった。


 親王の顔でもなかった。


 好奇心に目を光らせる、あの顔でもなかった。


 疲れた、ただの人間の顔だった。


 衣は乱れていない。


 冠も、帯も、いつものように整っている。


 けれど、整っていることがかえって痛々しかった。


 宮中から戻るまでの間に、何度も息を飲み、何度も顔を作り直したのだと分かった。


⸻


 全員いた。


 スズリが筆を置いた。


 タダが荷の紐を結ぶ手を止めた。


 護衛たちも、黙って戸口を見た。


 シンは何も言わなかった。


 見ただけで分かった。


⸻


「朝議が終わった」


⸻


 カミノが言った。


 声は低かった。


 低いのに、どこか空だった。


⸻


「処刑が決まった」


「日時も確定した」


「変えられない」


⸻


 誰も喋らなかった。


⸻


 炭の火が、小さく崩れた。


 灰の中で赤いものが一度だけ見え、それから沈んだ。


⸻


 カミノは座らなかった。


 座る場所はあった。


 いつも彼が座る場所も空いていた。


 それでも座らなかった。


 座ってしまえば、終わったことを認めるようで、膝が折れるようで、そこへ身体を置けなかったのかもしれない。


⸻


「私は」


⸻


 カミノは言いかけた。


 続かなかった。


⸻


 親王だった。


 桓武の子だった。


 宮の内側へ入れる名を持っていた。


 人が道を空ける身分を持っていた。


 それでも、今日の朝議では届かなかった。


 言葉は届いた。


 届いた上で、踏まれた。


 理も、記録も、田村麻呂の名も、緒嗣の危惧も、胆沢で見た人の顔も、都の恐れの前で薄くされた。


⸻


「……すまない」


⸻


 カミノは言った。


 誰に向けた謝罪なのか、分からなかった。


 アテルイへか。


 モレへか。


 シンへか。


 スズリへか。


 それとも、力があると思っていた自分へか。


⸻


 カミノの指が、袖の中で強く握られていた。


 爪が布を噛んでいる。


 親王であることは、門を開ける鍵になる。


 だが、開いた先で人を救えるとは限らない。


 名は通る。


 声も通る。


 それでも、恐れに形を与えられた朝議の中で、彼の言葉はどこにも刺さらなかった。


 未だカミノは、無力だった。


⸻


 スズリが紙束を見た。


 胆沢の記録が積まれていた。


 アテルイの名前が入った記録が入っていた。


 モレの名前も入っていた。


 声も、手も、酒の匂いも、笑った時の皺も、できるだけ残そうとした。


 全部書いてあった。


 残っていた。


 でも本人たちは残らない。


⸻


 シンの手が、膝の上で握られた。


 爪が掌に食い込んだ。


 痛みが来た。


 生きている痛みだった。


⸻


「……助ける」


⸻


 シンが言った。


⸻


 カミノが顔を上げた。


 止めなかった。


 止められないと知っていた。


 止めたい顔をしていた。


 止めたところで、シンが止まる男ではないことも知っていた。


⸻


「シン」


⸻


 名を呼んだ。


 それだけだった。


⸻


 シンは立ち上がった。


 畳が軋んだ。


 スズリの視線が動いた。


 タダが口を開きかけた。


 誰も間に合わなかった。


⸻


 シンは外へ出た。


⸻


 背中で、カミノの息が聞こえた気がした。


 声にはならなかった。


 親王の言葉にも、友の叫びにもならなかった。


 ただ、飲み込まれた息だった。


⸻


⸻


 都の朝が始まっていた。


⸻


 人が多かった。


 戸が開く音。


 井戸端の水音。


 荷車の軸が鳴る音。


 牛車の車輪が湿った土を押す音。


 役人が文箱を抱え、店の者が簾を上げ、子どもが叱られて道の端へ寄る。


⸻


 誰も急いでいない顔だった。


 処刑のことを知らなかった。


 知っていても関係なかった。


 都はそういう場所だった。


 人の死を決めた朝にも、米は炊かれ、井戸は汲まれ、紙は運ばれる。


⸻


 シンは歩いた。


 歩いたつもりだった。


 気づけば走っていた。


 大路を避け、小路へ入る。


 人と肩がぶつかる。


 舌打ちが聞こえる。


 謝る暇もない。


 息が浅い。


 胸が熱い。


 足だけが先に行く。


⸻


 誰かが何かを言った。


 聞こえなかった。


 腕を掴まれた気がした。


 振り払ったのか、ただすり抜けたのかも分からない。


 胸の中で、時間だけが先に燃えていた。


 今日が終わる。


 明日が来る。


 その次も来る。


 都の暦は何も知らない顔で進む。


 そのどこかに、アテルイとモレの終わりが置かれている。


⸻


 置かせるな。


⸻


 自分の足音が、頭の内側で何度も跳ねた。


⸻


 押送路を歩いた。


 護送に使われる道を歩いた。


 牢所の方角を確かめた。


 警備の厚い場所を見た。


 夜番の交代時刻を目測した。


 逃げるとしたらどこを使うか。


 馬はいるか。


 追手が来たらどの道へ逃げるか。


 川へ出るか。


 寺の裏を抜けるか。


 人混みに沈めるか。


⸻


 全部考えながら歩いた。


 考えているのに、考えがまとまらない。


 線を引いても、すぐに消える。


 道を見つけても、その先に兵が立つ。


 隙を見つけても、白い影がそこへ立つ。


⸻


 できることとできないことが、少しずつ形になってきた。


 形になるほど、息が詰まった。


 できないことの形ばかりが、はっきりしていく。


⸻


(間に合わない)


⸻


 その言葉だけは、何度消しても戻ってきた。


⸻


 間に合わせる。


 間に合わせなきゃいけない。


 死んでも。


 死んだら戻れる。


 戻れば、もっと見られる。


 もっと探せる。


⸻


 考えた瞬間、腹の奥が冷えた。


 七度目の刃が、まだそこに残っていた。


 モモの涙も、まだ残っていた。


⸻


 それでも足は止まらなかった。


⸻


⸻


 路地を曲がった時、後ろから足音がした。


⸻


 スズリだった。


⸻


 息が少し切れていた。


 筆を持っていなかった。


 珍しかった。


 外で筆を持っていないスズリを見たのは、旅を通じて初めてだった。


 袖の端に墨がついている。


 髪も少し乱れていた。


 それでも彼女は、いつものように姿勢を崩さないように立っていた。


 崩れたら、言えなくなるからだと分かった。


⸻


「行かないで、下さい」


⸻


 スズリが言った。


⸻


 シンは止まった。


⸻


「死なないで下さい」


⸻


 怒っていなかった。


 責めてもいなかった。


 ただ言っていた。


 声が少し震えていた。


⸻


 シンは振り返った。


⸻


 朝の光が路地へ斜めに入っていた。


 土塀の上に、まだ夜の湿りが残っている。


 スズリの頬にも、同じような薄い影があった。


⸻


「スズリ」


⸻


 呼ぶと、スズリの目が少し揺れた。


 それでも逃げなかった。


⸻


「私は書くことしかできません」


「見たものを残す」


「それだけです」


⸻


 少し間があった。


⸻


「でも」


⸻


 また間があった。


 飲み込む音がした。


 彼女は自分の声を、自分で押し出していた。


⸻


「書けないものがあります」


「筆には乗せられないものがあります」


「自分の気持ちは記録にできない」


「記録者はそういう者です」


⸻


 シンは何も言えなかった。


⸻


 スズリは、ずっと記録してきた。


 シンが笑ったこと。


 カミノが怒ったこと。


 タダが黙って荷を増やしたこと。


 アテルイが酒を飲んで笑ったこと。


 モレが静かに言葉を置いたこと。


 モモが人間の顔で泣いたこと。


 それらを、消されないように書いてきた。


⸻


 その彼女が、今は筆を持っていない。


 記録ではなく、自分の声で立っている。


⸻


「最初は」


⸻


 スズリが言った。


⸻


「怖い人だと思いました」


⸻


 シンは少しだけ目を伏せた。


⸻


「知らない言葉を使って、知らないことを知っていて、すぐに笑って、すぐに無茶をして」


「何を見ているのか分からなかった」


⸻


 スズリの指が、袖を握った。


⸻


「でも、見ていました」


「あなたはいつも、人が消される前に手を伸ばす」


「自分が傷ついても、誰かの名が消えるのを嫌がる」


「それを見ていたら」


⸻


 声が止まった。


 スズリは一度、目を閉じた。


⸻


「私は、あなたを書くだけでは足りなくなりました」


⸻


 シンの胸が、きゅっと詰まった。


⸻


「いけないことだと分かっています」


「あなたは、どこかへ行く人です」


「私が引き止めていい人ではありません」


「それでも」


⸻


 スズリの目に涙はなかった。


 泣かないようにしている目だった。


 泣けば、言葉が崩れる。


 だから泣かない。


 その我慢が、涙よりずっと痛かった。


⸻


「あなたがまた死ぬことを、数に入れるのが嫌です」


「私の知らないところで、私の前から消えるのが嫌です」


「書けば残ると、ずっと思っていました」


「でも」


⸻


 風が来た。


 路地の端で、誰かの干した布が揺れた。


⸻


「残ることと、生きていることは違います」


⸻


 シンは息を吸った。


 うまく入らなかった。


⸻


「だから」


「書けない、から」


⸻


 スズリが言った。


⸻


「私と一緒に生きて下さい」


⸻


 世界が、一瞬だけ静かになった。


⸻


 シンは少し黙った。


 胸のどこかで、何かが動いた。


 今まで気づかないふりをしていた何かが、初めて音を立てた。


 スズリが何を言っているか分からなかった。


 分かった。


 分からなかった。


 どちらも本当だった。


⸻


 彼女のいる朝を想像した。


 筆の音。


 墨の匂い。


 湯気。


 紙を押さえる細い指。


 こちらを見て、少しだけ怒る目。


 それが続く日々を、ほんの一瞬だけ想像した。


⸻


 欲しかった。


⸻


 そう思ってしまった。


 だから、すぐに断たなければならなかった。


⸻


「ありがとう」


⸻


 シンは言った。


 それだけでは足りないと、自分でも分かった。


⸻


「嬉しい」


⸻


 スズリの目が揺れた。


⸻


「本当に」


「俺は、たぶん」


⸻


 言葉を探した。


 逃げずに言いたかった。


 でも近づきすぎれば、もっと傷つける。


⸻


「スズリがいる場所に、帰りたいと思ってる」


⸻


 言ってから、胸が痛んだ。


⸻


「でも、今は行く」


「アテルイとモレを、鬼にさせたくない」


「モモを、あのままにしたくない」


「俺がここで止まったら、たぶん、一生自分を許せない」


⸻


 スズリは何も言わなかった。


 ただ聞いていた。


⸻


「だから」


⸻


 シンは、少し笑おうとした。


 失敗した。


⸻


「ごめん」


⸻


 それは拒絶だった。


 感謝でもあった。


 逃げでもあった。


 断ち切るための言葉でもあった。


⸻


 スズリの指が、袖を強く握った。


 でも、彼女は引き止めなかった。


 その強さが、シンを余計に苦しくさせた。


⸻


「……書きます」


⸻


 スズリが言った。


 泣かない声だった。


⸻


「あなたが戻ったら」


⸻


 少しだけ間があった。


⸻


「続きを、聞かせて下さい」


⸻


 シンは頷いた。


 嘘だった。


 戻れるか分からない。


 それでも頷いた。


⸻


 走った。


⸻


 後ろを向かなかった。


 向いたら止まりそうだった。


 止まったら、抱きしめてしまいそうだった。


 抱きしめたら、行けなくなる。


⸻


 だから走った。


 スズリの声も、墨の匂いも、差し込む朝の光も、全部背中に置いて。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 押送路の端まで来た。


 灯火が並んでいた。


 夜番の兵がいた。


 静かだった。


 重い静かさだった。


 あの向こうにいる。


 あと少しだった。


⸻


 シンの息は荒れていた。


 足が熱い。


 喉が乾く。


 何度も道を見た。


 何度も戻って考えた。


 何度考えても、細い道しか残らなかった。


 それでも進むしかなかった。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 シンは足を止めた。


⸻


 白桃が道の中央にいた。


⸻


 揺れていなかった。


 迷っていなかった。


 人を見ていなかった。


 何かを見ていた。


 何かを処理していた。


 完全に機械だった。


⸻


「モモ」


⸻


 呼んだ。


⸻


 反応がなかった。


⸻


 それだけではなかった。


 いつもとは違う何かがあった。


 白桃の背後に、兵がいた。


 数は多くない。


 けれど道の端を塞ぐには十分だった。


 胸元に護符を下げている。


 経文の札。


 朱の印。


 新しい墨。


 常世衆の声が、低く流れていた。


 読経のようで、命令のようだった。


⸻


 さらに奥に、小さな輿があった。


 薄い御簾が垂れている。


 灯の向こうに、女の輪郭が見えた。


 白い指。


 黒い石。


 撫でる動き。


 ゆっくり。


 誰かの額に触れるように。


⸻


 シンはその女の名を知らなかった。


 知るはずもなかった。


 ただ、ぞっとした。


 胆沢で感じた白さとは別の、もっと湿ったものが、そこにあった。


 香が濃い。


 甘く、重く、息の奥に貼りつく。


⸻


 白桃の口が動いた。


 モモの声ではなかった。


 何か別のものが、モモの口を借りていた。


⸻


「我はビシャモンテン」


⸻


 男の声でも女の声でもなかった。


 平らな声だった。


 温度がなかった。


 感情がなかった。


 神託のようで、神様ではなかった。


⸻


「我はタケミカヅチ」


⸻


 少し間があった。


 白桃の唇が、わずかにずれた。


 言葉の奥で、別の音が軋む。


⸻


「我は――繧ウ繝ウ繧ケ繧ソ繝ウ繝繧」繝ウ」


⸻


 それは名ではなかった。


 壊れた文字が、そのまま声になったようだった。


 人の舌に乗せるための音ではない。


 祈りでもない。


 呪いでもない。


 ただ、時代の奥から滲んでくる異物だった。


⸻


「誤差は消去する」


「歴史は動かない」


「固定は維持される」


⸻


 シンは止まっていた。


⸻


 この声を知っていた。


 胆沢で白桃が言っていた言葉を知っていた。


 武甕雷という名前を知っていた。


 毘沙門天という名前を知っていた。


 形を変えながら時代を渡る、同じものを知っていた。


⸻


 怒りが来た。


⸻


 初めてだった。


 いつもは軽口を叩いた。


 笑って誤魔化した。


 怖い時ほど、ふざけた。


 でも今回は違った。


⸻


「……うるさい」


⸻


 声に出た。


⸻


 白桃の目が、ほんの少しだけ動いた。


⸻


「うるさい」


「黙れ」


⸻


 喉が震えた。


 怒りで震えたのか、恐怖で震えたのか分からなかった。


 どちらでもよかった。


⸻


「黙れバカ!!」


「モモを返せ!!」


「人の顔を使うな!!」


「この詐欺師め!!!!」


⸻


 兵の一人が弓を上げた。


 常世衆の読経が強くなった。


 輿の奥で、白い指が黒い石を強く押さえた。


⸻


 白桃が止まった。


 一瞬だけ、止まった。


⸻


 桃の香りが来た。


 揺れた。


 瞳の奥で、何かが浮いた。


 来た瞬間に押し込まれた。


⸻


「モモ」


⸻


 シンは一歩踏み出した。


⸻


「聞こえてるなら聞け」


「お前は道具じゃない」


「白桃でもない」


「偽物の神になんて負けるな」


⸻


 白桃の頬が、わずかに震えた。


 ほんの少し。


 涙になる前の動きだった。


⸻


 シンは叫んだ。


 何も見えない、空に向かって。


 怒りにまかせて、力いっぱい罵った。


⸻


「裏でコソコソしやがって気持ちわりーんだよ!」


「モモを解放しろ!余計な口出しすんな!」


「今すぐ!消えて!なくなれ!」


「バーーーーーーーーーカ!!!」


⸻


 白桃が止まった。


 また止まった。


 今度は長かった。


 揺れていた。


 内側で何かが争っているみたいだった。


 桃の香りが甘くなり、すぐに冷えた。


 瞳の奥の白と、底に残った桃色が、ぶつかっていた。


⸻


 御簾の奥で、女が小さく息を吸った。


 黒い石が、灯を吸った。


 読経が沈む。


 沈んで、深くなる。


⸻


「強制消去」


⸻


 平らな声が戻った。


⸻


 空気が白くなった。


⸻


 今度は斬撃ではなかった。


 刃の距離ではない。


 弓の距離でもない。


 上から来た。


 地面からも来た。


 身体の内側から、白いものが開くように来た。


⸻


 逃げ場がなかった。


⸻


 白かった。


 熱かった。


 音が遅れて来た。


 何かが焼けた。


 布が焼けた。


 皮膚が焼けた。


 息が焼けた。


 考えが焼けた。


⸻


 倒れた。


⸻


 地面が近かった。


 土の匂いがした。


 焦げた匂いがした。


 桃の匂いがした。


⸻


 最後に見えたのは。


⸻


 白桃だった。


⸻


 揺れていた。


 桃の香りが戻っていた。


 泣いていた。


 ただ泣いていた。


 言葉がなかった。


 声がなかった。


 ただ涙だけが落ちていた。


⸻


 シンは笑おうとした。


 口が動いたかどうかも分からなかった。


⸻


(ずいぶん、泣き虫にさせてしまった)


⸻


 モモの顔が歪んだ。


 聞こえたのかもしれない。


 聞こえていなかったのかもしれない。


⸻


(ごめんな、モモ)


⸻


 視界が白くなった。


⸻


 ――死んだ。


⸻


⸻


 天井があった。


⸻


 作業棟だった。


 朝だった。


 静かだった。


 遠くで鐘が鳴っていた。


⸻


 シンはしばらく天井を見ていた。


⸻


 息ができなかった。


 胸が動いているのに、息をしている気がしない。


 喉の奥に、焼けた匂いが残っていた。


 皮膚に傷はない。


 服も焼けていない。


 でも身体は覚えている。


 白く焼けた瞬間を。


 モモが泣いた顔を。


⸻


 あと何回あるか。


⸻


 考えなくても分かっていた。


 でも数えた。


 数えずにはいられなかった。


⸻


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 七。


⸻


 そして今。


⸻


 八。


⸻


 九回まで死ねる。


 九回目は時代が飛ぶ。


 そういう仕組みだ。


⸻


(あと一回)


⸻


 もう死ねない。


 次に死んだら終わりだ。


 この時代から飛ぶ。


 カミノもアテルイもモレもスズリも置いていく。


 モモも、また、置いていってしまう。


⸻


 怖かった。


⸻


 死ぬことよりも、戻れないことが怖かった。


 戻れないまま、誰かの手が届かないところへ流されることが怖かった。


 次の時代で目を覚まして、ここで聞いた声も、触れた温度も、書かれた文字も、全部遠くなることが怖かった。


 その怖さは、今までの死とは違っていた。


 身体ではなく、胸の奥を掴まれる怖さだった。


⸻


 使えない。


⸻


 もう死に戻りは使えない。


⸻


 でも時間もない。


 警備は厚い。


 白桃がいる。


 兵がいる。


 御簾の奥に、黒い石を握る女がいる。


 都が動いている。


 一人では無理だ。


 何もかもが足りない。


⸻


 シンは起き上がれなかった。


 天井を見たままだった。


⸻


 どこから始めればいい。


 誰を頼る。


 カミノはもう動けない。


 動こうとしても、宮中の中で縛られる。


 スズリは記録者だ。


 タダには関係のない話だ。


 関係ないはずなのに、巻き込んでいる。


⸻


 八方塞がりだった。


⸻


 筆の音がした。


⸻


 シンは横を見た。


 スズリがいた。


 書いていた。


 まだ、あの路地へ追いかけてきていない朝だった。


 まだ、あの言葉を言っていない朝だった。


 スズリの告白は、無かったことになっていた。


 無かったことになったのに、シンの中には残っていた。


⸻


 私と一緒に生きて下さい。


⸻


 声が戻る。


 喉の奥が詰まる。


 シンはスズリを見られなかった。


 見れば、顔に出る。


 見れば、返事をしてしまう。


 見れば、また傷つける。


⸻


「シンさん」


⸻


 スズリが気づいた。


 筆の音が止まる。


⸻


「顔色が」


⸻


「大丈夫」


⸻


 早すぎる返事だった。


 自分でも分かった。


⸻


 スズリが少し眉を寄せる。


 その目が怖かった。


 優しいから怖かった。


 何も知らないのに、何かを察してしまう目だった。


⸻


 シンは立ち上がった。


 足がふらついた。


 腹の奥ではなく、今度は胸の奥が焼けていた。


⸻


「外、見てくる」


⸻


「シンさん」


⸻


 呼ばれた。


 止まらなかった。


 止まれなかった。


⸻


 作業棟を出た。


 朝の光が眩しかった。


 息を吸う。


 肺が痛い。


 白い死の記憶が、まだ身体に残っている。


 スズリの声も残っている。


 モモの涙も残っている。


⸻


 全部置いていけない。


 全部持ったまま走るしかない。


⸻


 シンは裏戸を抜けた。


 細い路地に出た。


 誰もいないと思った。


⸻


「困った?」


⸻


 声がした。


⸻


 振り返る。


⸻


 ワカレが土塀に背を預けていた。


 最初からそこにいたみたいな顔をしていた。


 笑っていた。


 いつもの軽い笑いだった。


⸻


「いつからいた」


⸻


「さあ」


⸻


 ワカレは空を見た。


 都の朝が明るかった。


 明るすぎて、何もかも嘘みたいだった。


⸻


「死に戻りって、便利そうに見えるけど」


⸻


 ワカレが言った。


⸻


「便利じゃないね」


⸻


 シンは何も言わなかった。


 言い返す力がなかった。


⸻


「あと一回?」


⸻


 シンはワカレを見た。


⸻


 ワカレは笑っていた。


 でも目は笑っていなかった。


 古い目だった。


 ずっとずっと昔から、道を見てきた目だった。


⸻


「道案内してあげるよ」


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「どこへ」


⸻


 ワカレは笑ったまま答えなかった。


 代わりに、路地の奥を顎で示した。


⸻


 そこには、まだ知らない細い道があった。


 昨日まで何度も歩いたはずの京に、見えていなかった継ぎ目があった。


⸻


 朝の光が路地に差し込んでいた。


⸻


 最後の一回。


 全部やる。


⸻


 シンは息を吸った。


 白い死の匂いは、まだ消えない。


 それでも、足を出した。


⸻


⸻


(第八十八話へ)


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