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藤原薬子

第八十六話 藤原薬子


⸻


 彼女は静かに狂っていた。


⸻


 その静けさは、怒りの後に来るものではなかった。


 悲しみを押し殺したものでもなかった。


 最初から、そこだけ温度が抜け落ちている。


 灯籠の火が揺れても、香の煙が床を這っても、女の横顔だけは動かなかった。


⸻


 藤原薬子。


⸻


 名を口にすれば、柔らかい響きがあった。


 けれど、その柔らかさは人を休ませない。


 白い頬。


 濡れたような唇。


 薄く伏せた目。


 経巻を押さえる指は細く、爪の先まで整っていた。


 美しかった。


 ただ美しいだけではない。


 見た者の息を一度奪い、奪ったことに気づかせない種類の美しさだった。


⸻


 魔性、と呼べば近かった。


 だが彼女自身は、自分が誰かを狂わせる女だとは思っていない。


 むしろ逆だった。


⸻


 その美しさは、彼女のものではなくなって久しかった。


 誰かが褒めた。


 誰かが値をつけた。


 誰かが政治の道具にした。


 誰かが夜の奥へ連れていった。


⸻


 男たちは薬子を見た。


 女として見た。


 式家の娘として見た。


 安殿に近づける梯子として見た。


 誰かを動かすための香として見た。


⸻


 薬子は、そのすべてに微笑んだ。


 微笑まなければ、生き残れなかった。


 拒めば罪になった。


 受け入れても罪になった。


 噂はいつも彼女の肌に貼りつき、朝になっても剥がれなかった。


⸻


 いつから自分の望みだったのか。


 いつから誰かの望みを、自分の望みだと思い込んだのか。


 薬子にはもう、分からなくなっていた。


⸻


 だから仏の前では、ただ静かに座った。


 誰にも触れられない場所が欲しかった。


 誰にも名を呼ばれない場所が欲しかった。


 女でも、母でも、妻でも、罪でもないものになりたかった。


⸻


 そこへ、また手が伸びた。


 祈りの形をした手だった。


 救いの声をした手だった。


 その影に、常世衆がいた。


 さらに奥に、もっと古いものがいた。


⸻


 『『繧ウ繝ウ繧ケ繧ソ繝ウ繝�繧」繝ウ』』


⸻


 それは名でも音でもなかった。


 武甕雷。毘沙門天。


 神を騙り、流れを固定するもの。


 薬子はその本当の名を知らない。


 知るはずもない。


 ただ、神仏に縋った最後の場所でさえ、彼女はまた使われた。


 救われたと思った瞬間から、別の糸に繋がれていた。


⸻


 狂っているのは外だと、彼女は信じていた。


 乱れているのは国だと。


 濁っているのは辺境だと。


 穢れているのは、まつろわぬ鬼たちだと。


⸻


 かつて、薬子は内裏から遠ざけられた。


 安殿親王のそばに近づきすぎた女。


 そう見られた。


 そう扱われた。


 桓武の目は冷たく、宮中の空気は一晩で変わった。


 御簾の向こうで交わされる噂は、刃より薄く、紙より速かった。


 誰かが咳をする。


 誰かが目を伏せる。


 誰かが名を呼ばなくなる。


 それだけで、人は場所を失う。


⸻


 薬子は一度、退けられた。


 だが、折れなかった。


⸻


 仏の前に座るようになった。


 灯を見た。


 香を聞いた。


 経の文字を指でなぞった。


 祈りの言葉は、最初は彼女の中に入らなかった。


 ただ、内裏から遠ざけられた夜の冷たさだけがあった。


 愛しい人のそばにいられない苦しさだけがあった。


⸻


 そこへ、声が来た。


⸻


 誰の声かは分からない。


 僧の声だったのか。


 古くから祈りの場にいる者の声だったのか。


 経の奥で沈む低い響きだったのか。


 はじめは、ただ慰めのように聞こえた。


⸻


 あなたは捨てられていない。


 あなたの愛は穢れではない。


 あなたの苦しみは、国を守るための火だ。


⸻


 薬子は目を閉じた。


 その声を聞いた。


 聞き続けた。


⸻


 やがて声は、形を持った。


 毘沙門天。


 北を守る武神。


 仏の守護者。


 国の敵を踏み砕くもの。


⸻


 薬子は、そう受け取った。


 誰かがそう整えた。


 誰かがそう導いた。


 常世衆は、祈りの隙間に立っていた。


 薬子の涙と、安殿への想いと、国への恐れを、ひとつの言葉へ束ねていった。


⸻


 神託。


⸻


 薬子はそれを疑わなかった。


 疑うには、あまりに深く救われてしまっていた。


 彼女は、安殿を守りたかった。


 国を守りたかった。


 桓武の御世が終わる前に残る火種を、愛する人の代へ渡したくなかった。


⸻


 ならば、鬼は焼かねばならない。


 まつろわぬ者は、名ごと断たねばならない。


 北の火は、都へ届く前に踏み消さねばならない。


⸻


 薬子はそう思った。


 そう思わされた。


 その違いに、まだ気づいていなかった。


⸻


⸻


 隣に男がいた。


⸻


 藤原仲成。


 薬子の兄だった。


 顔立ちは整っている。


 衣も乱れていない。


 けれど薬子の静けさとは違うものが、目の奥で燃えていた。


⸻


 仲成は神託を聞いていない。


 聞きたいとも思っていない。


 毘沙門天も、常世衆の読経も、彼には道具だった。


 人を動かすには、恐れがいる。


 恐れに形を与えるには、神仏の名がいる。


 それだけのことだった。


⸻


 妹は美しい。


 東宮は妹を求めている。


 ならば、その美しさも、その寵愛も、家を上げるために使う。


 朝廷の中で立つ場所を得るために使う。


 父の代から続く式家の名を、もう一度光らせるために使う。


⸻


 仲成は、それを悪とは思わなかった。


 宮中とはそういう場所だ。


 誰かの血筋。


 誰かの寵愛。


 誰かの恐れ。


 誰かの祈り。


 それらを読めない者から、静かに沈んでいく。


⸻


 ただ、ひとつだけ誤算があった。


⸻


 薬子が、少しずつ遠くなっている。


⸻


 同じ部屋にいる。


 同じ灯を見ている。


 同じ話を聞いている。


 それでも、妹の目は時々、誰もいない場所を見る。


 常世衆の読経が沈む時、薬子の指が黒い石を撫でる。


 その横顔は、仲成が知る妹のものではなくなる。


⸻


 気味が悪い。


⸻


 仲成はそう思う。


 だが顔には出さない。


 出せば負ける。


 この場にいる者たちは、恐れを嗅ぐ。


 恐れを嗅ぎ、その隙間から入ってくる。


 妹も、すでにどこかを開かれている。


 仲成には、そう見えた。


⸻


 だからこそ使う。


 使えるうちに使う。


⸻


 彼は妹を愛していないわけではなかった。


 ただ、愛より先に野心が立つ男だった。


⸻


 仲成には、もう一人、消えない男がいた。


⸻


 仲成と薬子の父。前中納言、藤原種継。


⸻


 桓武に重く用いられ、都を動かそうとした男。


 長岡の土に、新しい国の形を引こうとした男。


 その父は、志の途中で斃れた。


 矢か。


 刃か。


 夜か。


 噂か。


 仲成の中では、すべてが混じっていた。


⸻


 父は殺された。


 国を動かそうとした者は、殺された。


 その後に残ったのは、怨霊を恐れる宮中と、処罰の文と、失われた式家の光だった。


⸻


 仲成は、仇を討ちたいと思ったことはない。


 少なくとも、自分ではそう思っていなかった。


 彼はただ、家を上げたいと思っている。


 父が届かなかった場所へ、届きたいと思っている。


 父を殺したものたちを見返したいと思っている。


⸻


 それが仇討ちだとは、気づいていなかった。


⸻


 だから妹を使う。


 薬子の美しさを使う。


 安殿の執着を使う。


 神託すら使う。


⸻


 残った家族を犠牲にしていることにも、気づかない。


 気づけば、歩けなくなるからだった。


⸻


 薬子と仲成。


 二人とも、誰かに壊されたものを抱えていた。


 それでも互いを救えないまま、同じ灯の前に座っていた。


⸻


⸻


「蝦夷の首魁の処遇は、ほぼ決します」


⸻


 仲成が言った。


 低い声だった。


 喜びを見せすぎない、よく磨かれた声だった。


⸻


 灯の向こうに、安殿親王がいた。


 膝の上で手を組んでいる。


 その手は若かった。


 まだ強く握る癖がついていない手だった。


⸻


 安殿は黙っていた。


 顔色が悪い。


 彼は残酷な人間ではなかった。


 むしろ、残酷さに耐える訓練がまだ足りなかった。


 だから恐れる。


 国が揺れることを。


 父の世で積み残された北の火が、自分の代に燃え上がることを。


 名を知らぬ遠い山の者たちが、都の秩序を壊すことを。


⸻


「帝は」


⸻


 安殿が聞いた。


⸻


「御心は重いままです」


⸻


 仲成は答えた。


⸻


「ですが、恐れはすでに御前にございます。帰服を認めることと、首魁を残すことは別です。辺境へ示す形が必要だと、諸卿の多くは考え始めております」


⸻


「田村麻呂は、助命を願っていると聞く」


⸻


「田村麻呂殿は陸奥におります。功ある将の言葉は重んじられますが、届くには時が要ります」


⸻


 時。


⸻


 仲成はその一語を、丁寧に置いた。


 文はすぐには来ない。


 道は遠い。


 都で先に形を作れば、後から届く言葉は遅れる。


 遅れた言葉は、悔恨になる。


 悔恨は人を殺さない。


⸻


「緒嗣の周りがまだ騒いでおります」


⸻


 仲成は少しだけ口元を歪めた。


⸻


「無駄な征討を疑う者はおります。財も人も尽きますからな。だが、それも戦を続けるかどうかの話。首魁を見せしめにするかどうかとは、別に論じられます」


⸻


 薬子は黙って聞いていた。


 指先が黒い石を撫でている。


 石は光らない。


 ただ、灯を吸っているように見えた。


⸻


「帰服は確定した」


⸻


 仲成が言った。


⸻


「だが終わってはいない。胆沢は落ちた。しかし象徴が残っている。首魁が生きれば、人はまた集まる」


⸻


 安殿が小さく息を吸った。


⸻


「戦は終わりました」


⸻


 言葉は弱かった。


 それでも、出た。


⸻


「ならば……」


⸻


 薬子が、そこで初めて顔を上げた。


⸻


 安殿は言葉を失った。


 彼女が美しいからではない。


 その美しさが、自分だけに向けられたものだと、まだ信じたかったからだった。


⸻


「戦った者を義士と呼ぶのは、辺境を治める者の理です」


⸻


 薬子の声は柔らかかった。


 柔らかいのに、曲がらなかった。


⸻


「ですが、都は違います」


⸻


 薬子は経巻を閉じた。


 紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。


⸻


「火は残してはなりません。ひとつ残れば、また焔となり、災になります」


⸻


「彼らも、人ではないのか」


⸻


 安殿が言った。


 自分でも驚くほど小さな声だった。


⸻


 薬子は微笑んだ。


 優しかった。


 だから怖かった。


⸻


「人であるからこそ、鬼にしてはならないのです」


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 安殿は薬子を見た。


⸻


「名が残れば、誰かがそれを抱きます。恨みが名を持ちます。祈りが名を持ちます。やがて、その名はまた山を動かす。ならば今、国の内側へ入る前に、断たねばなりません」


⸻


 言葉は整っていた。


 整いすぎていた。


 薬子の口から出ているのに、薬子だけの言葉ではないようだった。


⸻


 仲成はその横顔を見た。


 背筋に、冷たいものが一筋走った。


 すぐに消した。


⸻


「もう一件ございます」


⸻


 仲成は話を戻した。


⸻


「非公式に陸奥へ向かい、戻ってきた神野親王の一行がございます」


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 安殿の眉が動いた。


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「神野が」


⸻


「はい。公式には、旅ではございません。記録にも残りにくい。ですが人の目はあります。従者、記録役、商人風の大男。それから」


⸻


 仲成は少し間を置いた。


⸻


「身元の分からぬ男が一人」


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 薬子の指が止まった。


⸻


 常世衆の読経も、わずかに沈んだ。


 仲成はそれに気づいた。


 嫌な沈み方だった。


 部屋の空気が、床から冷えていく。


⸻


「その者が、何か」


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 安殿が聞いた。


⸻


「陸奥で白桃と接触しております」


⸻


 仲成は言った。


⸻


「記録もなく、どの家の者か分からぬ。しかし、神野親王はその男を近くに置いている。偶然とは思えませぬ」


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 薬子が目を伏せた。


⸻


 黒い石に、白い指が乗る。


 撫でる。


 ゆっくり。


 誰かの額に触れるように。


⸻


「その男を、確実に消しなさい」


⸻


 薬子が言った。


⸻


 仲成は妹を見た。


 安殿も薬子を見た。


 御簾の奥の影が、一つ揺れた。


⸻


「神託も、そう申しております」


⸻


 薬子の声は静かだった。


 静かすぎた。


⸻


⸻


 御簾の奥から、白い影が出た。


⸻


 連れてこられた、と言うには足音が軽すぎた。


 自ら歩いてきた、と言うには気配が薄すぎた。


 黒髪。


 桃の髪飾り。


 白から薄桃へ移る衣。


 灯の中で、そこだけ季節が違って見えた。


⸻


 白桃。


⸻


 仲成は、その名を心の中で言った。


 声には出さなかった。


 口に出すよりも恐れが勝った。


⸻


 白桃は立っていた。


 目は開いている。


 だが、何を見ているのか分からない。


 薬子の方を見ているようで、薬子を見ていない。


 灯を見ているようで、灯を見ていない。


⸻


 人形ではなかった。


 人でもなかった。


 その間に、何かが残っていた。


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 薬子は振り返らなかった。


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「白桃も、それでよろしいですね」


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 傍の常世衆が頭を下げた。


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「まだ揺れておりますが」


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 薬子の睫毛が、わずかに動いた。


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「揺れは、正されます」


⸻


 少し間があった。


 白桃の唇が動いた。


⸻


「……り」


⸻


 言葉はそこで止まった。


 喉の奥に、何かが引っかかったように。


 短い音が、続きを探した。


⸻


 りょ。


⸻


 そう言いかけたのだと、誰も知らない。


 白桃自身も、知らない。


 ただ、指が少し震えた。


 右手の薬指だけが、ほんのわずかに。


⸻


「……承諾」


⸻


 改めて、白桃は言った。


 声は平らだった。


 だが平らになりきれていなかった。


⸻


 薬子は初めて白桃を見た。


 その目に、哀れみはなかった。


 恐れもない。


 ただ、美しい道具を見るような静けさがあった。


⸻


「鬼を断ち、誤差を消しなさい」


⸻


 白桃は答えなかった。


 ただ、桃の香りが一度だけ薄く揺れた。


⸻


 仲成はその香りを吸って、思わず息を浅くした。


 甘い。


 甘すぎる。


 血の匂いより、よほど気味が悪かった。


⸻


⸻


 都に来て、数日が経っていた。


⸻


 日が昇れば、京はすぐに動いた。


 大路には牛車の轍が増え、荷を引く者が声を上げ、役人が文箱を抱えて通る。


 物売りの声。


 寺の鐘。


 井戸端の水音。


 墨の匂い。


 炊ぐ米の匂い。


⸻


 都は大きかった。


 大きいものは、止まらない。


 誰かが泣いても。


 誰かが消えても。


 誰かの名が鬼に変えられても。


 朝になれば、道に人が流れた。


⸻


 カミノは毎日、宮との間を往来した。


 朝に出る時と、夜に戻る時で顔が違った。


 旅の顔。


 親王の顔。


 好奇心に光る顔。


 怒りを飲み込んだ顔。


 それらを一日に何度も脱ぎ替え、夜には疲れた目で作業棟に座った。


⸻


 スズリは記録の整理に没頭していた。


 胆沢から京までの記録。


 見たもの。


 聞いたもの。


 出す文。


 隠す文。


 紙束が増え、紐で括られ、またほどかれた。


 筆の音は途切れない。


 怒っているようでもあった。


 祈っているようでもあった。


⸻


 シンはその音を聞きながら、何度も外を見た。


 障子の向こうに、京の明かりがある。


 その明かりのどこかで、話が進んでいる。


 アテルイとモレの命が、誰かの口の中で軽くなっていく。


⸻


 タダは市場へ通っていた。


 毎日行き、毎日違う顔をして帰ってくる。


 干肉を売った。


 布を見た。


 馬の値を聞いた。


 宿の噂を拾った。


 牢の近くへ出入りする者の癖を聞いた。


 商売なのか、情報集めなのか、シンには分からなかった。


 おそらく、タダにとっては同じことだった。


⸻


 夜、別宅に全員が集まった。


⸻


 カミノは座る前に、息を吐いた。


 長かった。


 その息だけで、悪い知らせだと分かった。


⸻


「芳しくない」


⸻


 声は低かった。


 疲れが混じっていた。


⸻


「朝議に強硬な声が増えた。田村麻呂殿はまだ陸奥にいる。助命の文も、本人の言葉も、こちらへ届くまでに時がいる」


⸻


「先に決める気か」


「二人の処刑を」


⸻


 シンが言った。


⸻


「……そう見える」


⸻


 カミノは短く答えた。


⸻


「いつ」


⸻


「早ければ十日以内だ」


⸻


 十日。


⸻


 その数が、作業棟の中に落ちた。


 墨の匂いが濃くなった気がした。


⸻


 スズリの筆が止まった。


 タダの手も止まった。


 護衛の一人が、無意識に戸の方を見た。


⸻


「牢は」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 カミノが目を上げた。


 答える前に、何を聞かれたか分かった顔だった。


⸻


「動くな」


⸻


「場所だけだ」


⸻


「動くなと言った」


⸻


 カミノの声が強くなった。


 珍しかった。


⸻


「ここは胆沢ではない。道を知っているだけでは足りない。牢も、押送も、兵も、命令も、すべて都の中にある。お前一人で触れば、すぐに潰される」


⸻


「なら、潰されない触り方を探す」


⸻


「シンさん」


⸻


 スズリの声だった。


 小さかった。


 でも、シンの動きを止めた。


⸻


 スズリは紙を押さえていた。


 指に墨がついている。


 いつものように拭っていない。


⸻


「今、何を考えました」


⸻


「何も」


⸻


「嘘です」


⸻


 即答だった。


⸻


「あなたは、死ぬことを数に入れました」


⸻


 作業棟が静かになった。


⸻


 シンは答えなかった。


 答えれば、認めることになる。


 認めなくても、もう見抜かれていた。


⸻


「死なないで下さい」


⸻


 スズリは言った。


 責める声ではなかった。


 怖がっている声だった。


 それでも、真っ直ぐだった。


⸻


「まだ、書けていないことがあります」


⸻


 シンは一瞬、言葉を失った。


⸻


 スズリは続けなかった。


 筆を持ち直した。


 持ち直したが、すぐには書かなかった。


⸻


 カミノが、低く言った。


⸻


「明日、もう一度探る。私も動く。緒嗣殿の周りにも当たる。お前は勝手に出るな」


⸻


「分かった」


⸻


 シンは言った。


 嘘だった。


⸻


 スズリだけが、それに気づいた顔をした。


⸻


⸻


 その夜、シンは一人で外へ出た。


⸻


 誰にも言わなかった。


 護衛の足音が遠ざかった時を待った。


 納屋の影を抜け、裏の細い戸から出た。


 夜の京は、昼より大きかった。


 人が少ない分、道の幅がそのまま胸に来る。


 大路の先に闇がある。


 小路の奥に灯がある。


 どこかで戸が鳴った。


⸻


 シンは歩いた。


 処刑が行われる場所を探した。


 押送に使われそうな道を見た。


 役所の周辺を歩いた。


 牢へ出入りする者の流れを見た。


 夜番の立つ位置を確かめた。


 交代の間を数えた。


 荷車が通れる幅を見た。


 馬が走れる道を探した。


 逃げるなら山側か。


 水路か。


 寺の裏か。


 人混みに紛れるか。


⸻


 考えれば考えるほど、都は固かった。


 壁がないのに、どこにも壁がある。


 門がないのに、見えない門がある。


 人の目。


 役人の文。


 兵の足。


 噂。


 恐れ。


 祈り。


⸻


 全部が柵だった。


⸻


 それでも、穴はあるはずだった。


 人が作ったものなら、人の隙がある。


 人が消す記録なら、消す前の瞬間がある。


⸻


 できることとできないことが、少しずつ見えてきた。


 見えるほど、怖くなった。


 できないことの方が、多かった。


⸻


⸻


 翌日もシンは一人で動いた。


 やはり道は見つからない。


⸻


 なんの手掛かりも得られぬまま、日が傾いた。


 シンは諦めきれず、人気の無い裏路地まで入念に歩き回った。


 気づくと寂れた寺院の裏手に出ていた。


 その時。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 シンは足を止めた。


 息をする前に、胸の奥が反応していた。


 甘い。


 懐かしい。


 怖い。


 会いたかった。


 会いたくなかった。


⸻


「モモ」


⸻


 声が出た。


⸻


 白い影が、寺の土塀の前にいた。


 刃は見えなかった。


 完全に白桃ではなかった。


 でも完全にモモでもなかった。


 目が揺れている。


 焦点が合わない。


 シンを見て、見ていない。


⸻


「……シン」


⸻


 返ってきた声は、かすれていた。


 短い一語なのに、遠くから来たみたいだった。


⸻


 シンは一歩近づいた。


 モモの指が動いた。


 逃げる動きではない。


 斬る動きでもない。


 何かを思い出そうとして、思い出せない手だった。


⸻


「アテルイを知ってるか」


⸻


 少し間があった。


⸻


「……知ってる」


⸻


「モレは」


⸻


 モモの眉が、ほんのわずかに寄った。


⸻


「……知ってる」


⸻


「助けたいんだ」


⸻


 モモは黙った。


 桃の香りが揺れた。


 風はなかった。


⸻


「……命令は」


⸻


 モモが言った。


⸻


「命令は、消去」


⸻


「モモは」


⸻


 シンは聞いた。


⸻


「モモは、どうしたい」


⸻


 言ってから、喉が詰まった。


 答えられるはずがない。


 分かっていた。


 でも聞かずにいられなかった。


⸻


 モモは目を伏せた。


 長い沈黙だった。


 寺の屋根から、乾いた葉が一枚落ちた。


⸻


「……分からない」


⸻


 声は小さかった。


⸻


「でも」


⸻


 また止まった。


 唇が少し開く。


 閉じる。


 指が震える。


⸻


「シンが嫌なら」


⸻


 桃の香りが、わずかに温かくなった。


⸻


「……私も嫌」


⸻


 シンは息を吸った。


⸻


(迷ってる)


⸻


(命令だけじゃない)


(どっちも本当だ)


⸻


 その瞬間だった。


⸻


 白いものが、モモの目の奥を通った。


⸻


 音はなかった。


 空が裂けたわけでもない。


 ただ、温度のない光が一瞬、瞳の中で開いた。


 胆沢で見た白さと同じだった。


 神託と呼ばれるもの。


 命令と呼ぶには、あまりに古いもの。


 祈りの形をした刃。


⸻


 モモの目から揺れが消えた。


⸻


 桃の香りが冷えた。


⸻


「……執行」


⸻


 刃が出た。


⸻


 来た。


 正面に来た。


 速かった。


 でも。


⸻


(外れた)


⸻


 肩をかすった。


 布が裂けた。


 皮膚が熱くなる。


 深くは入っていない。


⸻


 次。


 腕。


 当たった。


 痛みが走る。


 でも骨まではいかない。


⸻


 足。


 逸れた。


 土を削った。


⸻


(わざと外してる)


⸻


 シンは後退しながら理解した。


 全部が微妙にずれている。


 当てに来ている。


 殺しに来ている。


 それなのに、最後の線が外れる。


 白桃の精度が、本来の精度ではない。


 モモが、どこかで刃を掴んでいる。


⸻


「モモ」


⸻


 呼んだ。


⸻


 白桃の足が一瞬止まった。


 その一瞬が、長すぎた。


⸻


 路地の奥から足音が来た。


⸻


 複数だった。


 革の擦れる音。


 弓の軋む音。


 息を殺した男たちの足。


⸻


 武装していた。


 胸元に護符を下げている。


 経文を書いた札だった。


 朱で印が押されている。


 墨がまだ新しい。


⸻


「そこか!」


⸻


 包囲が来た。


 後ろを塞がれた。


 右へ逃げる道にも人影があった。


 寺の塀は高い。


 土は乾いて滑る。


⸻


 矢が一本、壁に刺さった。


 乾いた音がした。


 シンは反射で身を捻った。


 足がもつれた。


 肩の傷が開いた。


⸻


 体勢が崩れた。


⸻


 白桃が来た。


⸻


 今度は止める間もなかった。


 崩れた体に刃が来る。


 白桃自身が、半歩、止まろうとしていた。


 目の奥で、桃色が戻りかけていた。


 でも間に合わなかった。


⸻


 身体に刃が入った。


⸻


 腹の奥が熱くなった。


 それから、急に遠くなった。


 膝が落ちた。


 地面が近づいた。


⸻


 白桃が固まった。


⸻


 桃の香りが戻った。


 冷えた香りではなかった。


 あの甘い匂いだった。


⸻


「……シン」


⸻


 モモの声だった。


 遠かった。


 だんだん遠くなる。


⸻


 涙が落ちた。


 白い頬を伝って、ひとつ。


 またひとつ。


 泣いていた。


 人間の顔で泣いていた。


⸻


 シンはそれを見た。


⸻


 寒くはなかった。


 痛かった。


 息ができなかった。


 血の匂いがした。


 土の匂いがした。


 桃の匂いがした。


⸻


(また泣かせた)


⸻


 それだけ思った。


⸻


 モモが何かを言った。


 聞こえなかった。


 唇だけが動いていた。


 りょ、と言ったのかもしれない。


 ごめん、と言ったのかもしれない。


 どちらでもなかったのかもしれない。


⸻


 視界が暗くなった。


⸻


 ――死んだ。


⸻


⸻


 天井があった。


⸻


 作業棟の天井だった。


 朝だった。


 外で人の足音がした。


 遠くで牛車の音がした。


 筆の音がした。


⸻


 スズリがいた。


 書いていた。


 いつも通りだった。


 いつも通りすぎて、胸が詰まった。


⸻


 シンはしばらく天井を見ていた。


 動けなかった。


 腹の奥に、まだ刃が残っていた。


 傷はない。


 血もない。


 でも体が覚えている。


 息の仕方が分からない。


 喉が勝手に閉じる。


⸻


「シンさん」


⸻


 スズリの声がした。


 筆の音が止まっていた。


⸻


「顔色が悪いです」


⸻


「寝起きだから」


⸻


 声が掠れた。


 誤魔化しきれなかった。


⸻


 スズリが近づいてきた。


 膝をつく音。


 衣が畳を擦る音。


⸻


「また、見ましたか」


⸻


 シンは答えなかった。


⸻


 答えないことが答えだった。


⸻


 スズリはそれ以上聞かなかった。


 水を持ってきた。


 手渡す指が、少し震えていた。


⸻


 シンは水を飲んだ。


 冷たかった。


 飲み込むたびに、腹の奥が思い出した。


 刃。


 血。


 涙。


⸻


 冷静に数えた。


⸻


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


⸻


 そして今。


⸻


 七。


⸻


 アサメの時に確定した。


 ひとつの時代で死ねるのは九回だ。


 八ではない。


 十でもない。


 九度目で飛ぶ。


⸻


 死ぬ。


 戻る。


 最後は、時代から弾き出される。


⸻


 そこだけは、もう疑っていなかった。


⸻


(あと二回)


⸻


 少なかった。


 思ったより、ずっと少なかった。


⸻


 あと二回。


⸻


 死ねる数ではない。


 失える数だった。


⸻


 ひとつ使えば、モモをまた泣かせる。


 ひとつ使えば、スズリの前でまた嘘をつく。


 ひとつ使えば、カミノの知らない場所で、何かを取りこぼす。


 最後を使えば、この時代が終わる。


 アテルイも。


 モレも。


 スズリも。


 カミノも。


 タダも。


 この火も。


 全部、置いていく。


⸻


 それでも。


⸻


 その前に。


⸻


 アテルイを。


 モレを。


⸻


 鬼にさせない。


⸻


 救えるかは分からない。


 逃がせるかも分からない。


 歴史を曲げられるかも分からない。


⸻


 でも。


⸻


 人として取り戻す。


⸻


 シンは起き上がった。


 体が重かった。


 腹の奥に、まだ死が残っていた。


 足が少し震えた。


⸻


 スズリが見ていた。


 何か言いかけた。


 言わなかった。


 代わりに、筆を握り直した。


⸻


「書いてくれ」


⸻


 シンが言った。


⸻


 スズリが顔を上げる。


⸻


「俺が見たことは、言える範囲で言う。全部は無理だ。でも、消される前に残す」


⸻


 スズリの目が変わった。


 紙を見る目だった。


 それから、シンを見る目だった。


⸻


「はい」


⸻


 短く答えた。


⸻


「書きます」


⸻


 外の光が明るかった。


 都の朝だった。


 昨日と同じ朝だった。


 同じではなかった。


⸻


 まだ終わっていない。


 まだ二回ある。


⸻


 なら使う。


 死ぬためではない。


 死なないために。


 次は、もっとよく見る。


 もっと深く潜る。


 都の線の中にある、ほんの小さな継ぎ目を探す。


⸻


 今度は止める。


⸻


 絶対に。


⸻


(第八十七話へ)


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