藤原薬子
第八十六話 藤原薬子
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彼女は静かに狂っていた。
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その静けさは、怒りの後に来るものではなかった。
悲しみを押し殺したものでもなかった。
最初から、そこだけ温度が抜け落ちている。
灯籠の火が揺れても、香の煙が床を這っても、女の横顔だけは動かなかった。
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藤原薬子。
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名を口にすれば、柔らかい響きがあった。
けれど、その柔らかさは人を休ませない。
白い頬。
濡れたような唇。
薄く伏せた目。
経巻を押さえる指は細く、爪の先まで整っていた。
美しかった。
ただ美しいだけではない。
見た者の息を一度奪い、奪ったことに気づかせない種類の美しさだった。
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魔性、と呼べば近かった。
だが彼女自身は、自分が誰かを狂わせる女だとは思っていない。
むしろ逆だった。
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その美しさは、彼女のものではなくなって久しかった。
誰かが褒めた。
誰かが値をつけた。
誰かが政治の道具にした。
誰かが夜の奥へ連れていった。
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男たちは薬子を見た。
女として見た。
式家の娘として見た。
安殿に近づける梯子として見た。
誰かを動かすための香として見た。
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薬子は、そのすべてに微笑んだ。
微笑まなければ、生き残れなかった。
拒めば罪になった。
受け入れても罪になった。
噂はいつも彼女の肌に貼りつき、朝になっても剥がれなかった。
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いつから自分の望みだったのか。
いつから誰かの望みを、自分の望みだと思い込んだのか。
薬子にはもう、分からなくなっていた。
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だから仏の前では、ただ静かに座った。
誰にも触れられない場所が欲しかった。
誰にも名を呼ばれない場所が欲しかった。
女でも、母でも、妻でも、罪でもないものになりたかった。
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そこへ、また手が伸びた。
祈りの形をした手だった。
救いの声をした手だった。
その影に、常世衆がいた。
さらに奥に、もっと古いものがいた。
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『『繧ウ繝ウ繧ケ繧ソ繝ウ繝�繧」繝ウ』』
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それは名でも音でもなかった。
武甕雷。毘沙門天。
神を騙り、流れを固定するもの。
薬子はその本当の名を知らない。
知るはずもない。
ただ、神仏に縋った最後の場所でさえ、彼女はまた使われた。
救われたと思った瞬間から、別の糸に繋がれていた。
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狂っているのは外だと、彼女は信じていた。
乱れているのは国だと。
濁っているのは辺境だと。
穢れているのは、まつろわぬ鬼たちだと。
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かつて、薬子は内裏から遠ざけられた。
安殿親王のそばに近づきすぎた女。
そう見られた。
そう扱われた。
桓武の目は冷たく、宮中の空気は一晩で変わった。
御簾の向こうで交わされる噂は、刃より薄く、紙より速かった。
誰かが咳をする。
誰かが目を伏せる。
誰かが名を呼ばなくなる。
それだけで、人は場所を失う。
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薬子は一度、退けられた。
だが、折れなかった。
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仏の前に座るようになった。
灯を見た。
香を聞いた。
経の文字を指でなぞった。
祈りの言葉は、最初は彼女の中に入らなかった。
ただ、内裏から遠ざけられた夜の冷たさだけがあった。
愛しい人のそばにいられない苦しさだけがあった。
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そこへ、声が来た。
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誰の声かは分からない。
僧の声だったのか。
古くから祈りの場にいる者の声だったのか。
経の奥で沈む低い響きだったのか。
はじめは、ただ慰めのように聞こえた。
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あなたは捨てられていない。
あなたの愛は穢れではない。
あなたの苦しみは、国を守るための火だ。
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薬子は目を閉じた。
その声を聞いた。
聞き続けた。
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やがて声は、形を持った。
毘沙門天。
北を守る武神。
仏の守護者。
国の敵を踏み砕くもの。
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薬子は、そう受け取った。
誰かがそう整えた。
誰かがそう導いた。
常世衆は、祈りの隙間に立っていた。
薬子の涙と、安殿への想いと、国への恐れを、ひとつの言葉へ束ねていった。
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神託。
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薬子はそれを疑わなかった。
疑うには、あまりに深く救われてしまっていた。
彼女は、安殿を守りたかった。
国を守りたかった。
桓武の御世が終わる前に残る火種を、愛する人の代へ渡したくなかった。
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ならば、鬼は焼かねばならない。
まつろわぬ者は、名ごと断たねばならない。
北の火は、都へ届く前に踏み消さねばならない。
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薬子はそう思った。
そう思わされた。
その違いに、まだ気づいていなかった。
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隣に男がいた。
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藤原仲成。
薬子の兄だった。
顔立ちは整っている。
衣も乱れていない。
けれど薬子の静けさとは違うものが、目の奥で燃えていた。
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仲成は神託を聞いていない。
聞きたいとも思っていない。
毘沙門天も、常世衆の読経も、彼には道具だった。
人を動かすには、恐れがいる。
恐れに形を与えるには、神仏の名がいる。
それだけのことだった。
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妹は美しい。
東宮は妹を求めている。
ならば、その美しさも、その寵愛も、家を上げるために使う。
朝廷の中で立つ場所を得るために使う。
父の代から続く式家の名を、もう一度光らせるために使う。
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仲成は、それを悪とは思わなかった。
宮中とはそういう場所だ。
誰かの血筋。
誰かの寵愛。
誰かの恐れ。
誰かの祈り。
それらを読めない者から、静かに沈んでいく。
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ただ、ひとつだけ誤算があった。
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薬子が、少しずつ遠くなっている。
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同じ部屋にいる。
同じ灯を見ている。
同じ話を聞いている。
それでも、妹の目は時々、誰もいない場所を見る。
常世衆の読経が沈む時、薬子の指が黒い石を撫でる。
その横顔は、仲成が知る妹のものではなくなる。
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気味が悪い。
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仲成はそう思う。
だが顔には出さない。
出せば負ける。
この場にいる者たちは、恐れを嗅ぐ。
恐れを嗅ぎ、その隙間から入ってくる。
妹も、すでにどこかを開かれている。
仲成には、そう見えた。
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だからこそ使う。
使えるうちに使う。
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彼は妹を愛していないわけではなかった。
ただ、愛より先に野心が立つ男だった。
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仲成には、もう一人、消えない男がいた。
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仲成と薬子の父。前中納言、藤原種継。
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桓武に重く用いられ、都を動かそうとした男。
長岡の土に、新しい国の形を引こうとした男。
その父は、志の途中で斃れた。
矢か。
刃か。
夜か。
噂か。
仲成の中では、すべてが混じっていた。
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父は殺された。
国を動かそうとした者は、殺された。
その後に残ったのは、怨霊を恐れる宮中と、処罰の文と、失われた式家の光だった。
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仲成は、仇を討ちたいと思ったことはない。
少なくとも、自分ではそう思っていなかった。
彼はただ、家を上げたいと思っている。
父が届かなかった場所へ、届きたいと思っている。
父を殺したものたちを見返したいと思っている。
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それが仇討ちだとは、気づいていなかった。
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だから妹を使う。
薬子の美しさを使う。
安殿の執着を使う。
神託すら使う。
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残った家族を犠牲にしていることにも、気づかない。
気づけば、歩けなくなるからだった。
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薬子と仲成。
二人とも、誰かに壊されたものを抱えていた。
それでも互いを救えないまま、同じ灯の前に座っていた。
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「蝦夷の首魁の処遇は、ほぼ決します」
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仲成が言った。
低い声だった。
喜びを見せすぎない、よく磨かれた声だった。
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灯の向こうに、安殿親王がいた。
膝の上で手を組んでいる。
その手は若かった。
まだ強く握る癖がついていない手だった。
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安殿は黙っていた。
顔色が悪い。
彼は残酷な人間ではなかった。
むしろ、残酷さに耐える訓練がまだ足りなかった。
だから恐れる。
国が揺れることを。
父の世で積み残された北の火が、自分の代に燃え上がることを。
名を知らぬ遠い山の者たちが、都の秩序を壊すことを。
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「帝は」
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安殿が聞いた。
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「御心は重いままです」
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仲成は答えた。
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「ですが、恐れはすでに御前にございます。帰服を認めることと、首魁を残すことは別です。辺境へ示す形が必要だと、諸卿の多くは考え始めております」
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「田村麻呂は、助命を願っていると聞く」
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「田村麻呂殿は陸奥におります。功ある将の言葉は重んじられますが、届くには時が要ります」
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時。
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仲成はその一語を、丁寧に置いた。
文はすぐには来ない。
道は遠い。
都で先に形を作れば、後から届く言葉は遅れる。
遅れた言葉は、悔恨になる。
悔恨は人を殺さない。
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「緒嗣の周りがまだ騒いでおります」
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仲成は少しだけ口元を歪めた。
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「無駄な征討を疑う者はおります。財も人も尽きますからな。だが、それも戦を続けるかどうかの話。首魁を見せしめにするかどうかとは、別に論じられます」
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薬子は黙って聞いていた。
指先が黒い石を撫でている。
石は光らない。
ただ、灯を吸っているように見えた。
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「帰服は確定した」
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仲成が言った。
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「だが終わってはいない。胆沢は落ちた。しかし象徴が残っている。首魁が生きれば、人はまた集まる」
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安殿が小さく息を吸った。
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「戦は終わりました」
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言葉は弱かった。
それでも、出た。
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「ならば……」
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薬子が、そこで初めて顔を上げた。
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安殿は言葉を失った。
彼女が美しいからではない。
その美しさが、自分だけに向けられたものだと、まだ信じたかったからだった。
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「戦った者を義士と呼ぶのは、辺境を治める者の理です」
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薬子の声は柔らかかった。
柔らかいのに、曲がらなかった。
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「ですが、都は違います」
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薬子は経巻を閉じた。
紙の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
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「火は残してはなりません。ひとつ残れば、また焔となり、災になります」
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「彼らも、人ではないのか」
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安殿が言った。
自分でも驚くほど小さな声だった。
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薬子は微笑んだ。
優しかった。
だから怖かった。
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「人であるからこそ、鬼にしてはならないのです」
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安殿は薬子を見た。
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「名が残れば、誰かがそれを抱きます。恨みが名を持ちます。祈りが名を持ちます。やがて、その名はまた山を動かす。ならば今、国の内側へ入る前に、断たねばなりません」
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言葉は整っていた。
整いすぎていた。
薬子の口から出ているのに、薬子だけの言葉ではないようだった。
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仲成はその横顔を見た。
背筋に、冷たいものが一筋走った。
すぐに消した。
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「もう一件ございます」
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仲成は話を戻した。
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「非公式に陸奥へ向かい、戻ってきた神野親王の一行がございます」
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安殿の眉が動いた。
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「神野が」
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「はい。公式には、旅ではございません。記録にも残りにくい。ですが人の目はあります。従者、記録役、商人風の大男。それから」
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仲成は少し間を置いた。
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「身元の分からぬ男が一人」
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薬子の指が止まった。
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常世衆の読経も、わずかに沈んだ。
仲成はそれに気づいた。
嫌な沈み方だった。
部屋の空気が、床から冷えていく。
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「その者が、何か」
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安殿が聞いた。
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「陸奥で白桃と接触しております」
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仲成は言った。
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「記録もなく、どの家の者か分からぬ。しかし、神野親王はその男を近くに置いている。偶然とは思えませぬ」
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薬子が目を伏せた。
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黒い石に、白い指が乗る。
撫でる。
ゆっくり。
誰かの額に触れるように。
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「その男を、確実に消しなさい」
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薬子が言った。
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仲成は妹を見た。
安殿も薬子を見た。
御簾の奥の影が、一つ揺れた。
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「神託も、そう申しております」
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薬子の声は静かだった。
静かすぎた。
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御簾の奥から、白い影が出た。
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連れてこられた、と言うには足音が軽すぎた。
自ら歩いてきた、と言うには気配が薄すぎた。
黒髪。
桃の髪飾り。
白から薄桃へ移る衣。
灯の中で、そこだけ季節が違って見えた。
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白桃。
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仲成は、その名を心の中で言った。
声には出さなかった。
口に出すよりも恐れが勝った。
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白桃は立っていた。
目は開いている。
だが、何を見ているのか分からない。
薬子の方を見ているようで、薬子を見ていない。
灯を見ているようで、灯を見ていない。
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人形ではなかった。
人でもなかった。
その間に、何かが残っていた。
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薬子は振り返らなかった。
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「白桃も、それでよろしいですね」
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傍の常世衆が頭を下げた。
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「まだ揺れておりますが」
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薬子の睫毛が、わずかに動いた。
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「揺れは、正されます」
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少し間があった。
白桃の唇が動いた。
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「……り」
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言葉はそこで止まった。
喉の奥に、何かが引っかかったように。
短い音が、続きを探した。
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りょ。
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そう言いかけたのだと、誰も知らない。
白桃自身も、知らない。
ただ、指が少し震えた。
右手の薬指だけが、ほんのわずかに。
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「……承諾」
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改めて、白桃は言った。
声は平らだった。
だが平らになりきれていなかった。
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薬子は初めて白桃を見た。
その目に、哀れみはなかった。
恐れもない。
ただ、美しい道具を見るような静けさがあった。
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「鬼を断ち、誤差を消しなさい」
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白桃は答えなかった。
ただ、桃の香りが一度だけ薄く揺れた。
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仲成はその香りを吸って、思わず息を浅くした。
甘い。
甘すぎる。
血の匂いより、よほど気味が悪かった。
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都に来て、数日が経っていた。
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日が昇れば、京はすぐに動いた。
大路には牛車の轍が増え、荷を引く者が声を上げ、役人が文箱を抱えて通る。
物売りの声。
寺の鐘。
井戸端の水音。
墨の匂い。
炊ぐ米の匂い。
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都は大きかった。
大きいものは、止まらない。
誰かが泣いても。
誰かが消えても。
誰かの名が鬼に変えられても。
朝になれば、道に人が流れた。
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カミノは毎日、宮との間を往来した。
朝に出る時と、夜に戻る時で顔が違った。
旅の顔。
親王の顔。
好奇心に光る顔。
怒りを飲み込んだ顔。
それらを一日に何度も脱ぎ替え、夜には疲れた目で作業棟に座った。
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スズリは記録の整理に没頭していた。
胆沢から京までの記録。
見たもの。
聞いたもの。
出す文。
隠す文。
紙束が増え、紐で括られ、またほどかれた。
筆の音は途切れない。
怒っているようでもあった。
祈っているようでもあった。
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シンはその音を聞きながら、何度も外を見た。
障子の向こうに、京の明かりがある。
その明かりのどこかで、話が進んでいる。
アテルイとモレの命が、誰かの口の中で軽くなっていく。
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タダは市場へ通っていた。
毎日行き、毎日違う顔をして帰ってくる。
干肉を売った。
布を見た。
馬の値を聞いた。
宿の噂を拾った。
牢の近くへ出入りする者の癖を聞いた。
商売なのか、情報集めなのか、シンには分からなかった。
おそらく、タダにとっては同じことだった。
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夜、別宅に全員が集まった。
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カミノは座る前に、息を吐いた。
長かった。
その息だけで、悪い知らせだと分かった。
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「芳しくない」
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声は低かった。
疲れが混じっていた。
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「朝議に強硬な声が増えた。田村麻呂殿はまだ陸奥にいる。助命の文も、本人の言葉も、こちらへ届くまでに時がいる」
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「先に決める気か」
「二人の処刑を」
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シンが言った。
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「……そう見える」
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カミノは短く答えた。
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「いつ」
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「早ければ十日以内だ」
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十日。
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その数が、作業棟の中に落ちた。
墨の匂いが濃くなった気がした。
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スズリの筆が止まった。
タダの手も止まった。
護衛の一人が、無意識に戸の方を見た。
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「牢は」
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シンが聞いた。
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カミノが目を上げた。
答える前に、何を聞かれたか分かった顔だった。
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「動くな」
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「場所だけだ」
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「動くなと言った」
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カミノの声が強くなった。
珍しかった。
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「ここは胆沢ではない。道を知っているだけでは足りない。牢も、押送も、兵も、命令も、すべて都の中にある。お前一人で触れば、すぐに潰される」
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「なら、潰されない触り方を探す」
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「シンさん」
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スズリの声だった。
小さかった。
でも、シンの動きを止めた。
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スズリは紙を押さえていた。
指に墨がついている。
いつものように拭っていない。
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「今、何を考えました」
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「何も」
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「嘘です」
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即答だった。
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「あなたは、死ぬことを数に入れました」
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作業棟が静かになった。
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シンは答えなかった。
答えれば、認めることになる。
認めなくても、もう見抜かれていた。
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「死なないで下さい」
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スズリは言った。
責める声ではなかった。
怖がっている声だった。
それでも、真っ直ぐだった。
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「まだ、書けていないことがあります」
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シンは一瞬、言葉を失った。
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スズリは続けなかった。
筆を持ち直した。
持ち直したが、すぐには書かなかった。
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カミノが、低く言った。
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「明日、もう一度探る。私も動く。緒嗣殿の周りにも当たる。お前は勝手に出るな」
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「分かった」
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シンは言った。
嘘だった。
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スズリだけが、それに気づいた顔をした。
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その夜、シンは一人で外へ出た。
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誰にも言わなかった。
護衛の足音が遠ざかった時を待った。
納屋の影を抜け、裏の細い戸から出た。
夜の京は、昼より大きかった。
人が少ない分、道の幅がそのまま胸に来る。
大路の先に闇がある。
小路の奥に灯がある。
どこかで戸が鳴った。
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シンは歩いた。
処刑が行われる場所を探した。
押送に使われそうな道を見た。
役所の周辺を歩いた。
牢へ出入りする者の流れを見た。
夜番の立つ位置を確かめた。
交代の間を数えた。
荷車が通れる幅を見た。
馬が走れる道を探した。
逃げるなら山側か。
水路か。
寺の裏か。
人混みに紛れるか。
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考えれば考えるほど、都は固かった。
壁がないのに、どこにも壁がある。
門がないのに、見えない門がある。
人の目。
役人の文。
兵の足。
噂。
恐れ。
祈り。
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全部が柵だった。
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それでも、穴はあるはずだった。
人が作ったものなら、人の隙がある。
人が消す記録なら、消す前の瞬間がある。
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できることとできないことが、少しずつ見えてきた。
見えるほど、怖くなった。
できないことの方が、多かった。
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翌日もシンは一人で動いた。
やはり道は見つからない。
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なんの手掛かりも得られぬまま、日が傾いた。
シンは諦めきれず、人気の無い裏路地まで入念に歩き回った。
気づくと寂れた寺院の裏手に出ていた。
その時。
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桃の香りがした。
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シンは足を止めた。
息をする前に、胸の奥が反応していた。
甘い。
懐かしい。
怖い。
会いたかった。
会いたくなかった。
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「モモ」
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声が出た。
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白い影が、寺の土塀の前にいた。
刃は見えなかった。
完全に白桃ではなかった。
でも完全にモモでもなかった。
目が揺れている。
焦点が合わない。
シンを見て、見ていない。
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「……シン」
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返ってきた声は、かすれていた。
短い一語なのに、遠くから来たみたいだった。
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シンは一歩近づいた。
モモの指が動いた。
逃げる動きではない。
斬る動きでもない。
何かを思い出そうとして、思い出せない手だった。
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「アテルイを知ってるか」
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少し間があった。
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「……知ってる」
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「モレは」
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モモの眉が、ほんのわずかに寄った。
⸻
「……知ってる」
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「助けたいんだ」
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モモは黙った。
桃の香りが揺れた。
風はなかった。
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「……命令は」
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モモが言った。
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「命令は、消去」
⸻
「モモは」
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シンは聞いた。
⸻
「モモは、どうしたい」
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言ってから、喉が詰まった。
答えられるはずがない。
分かっていた。
でも聞かずにいられなかった。
⸻
モモは目を伏せた。
長い沈黙だった。
寺の屋根から、乾いた葉が一枚落ちた。
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「……分からない」
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声は小さかった。
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「でも」
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また止まった。
唇が少し開く。
閉じる。
指が震える。
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「シンが嫌なら」
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桃の香りが、わずかに温かくなった。
⸻
「……私も嫌」
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シンは息を吸った。
⸻
(迷ってる)
⸻
(命令だけじゃない)
(どっちも本当だ)
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その瞬間だった。
⸻
白いものが、モモの目の奥を通った。
⸻
音はなかった。
空が裂けたわけでもない。
ただ、温度のない光が一瞬、瞳の中で開いた。
胆沢で見た白さと同じだった。
神託と呼ばれるもの。
命令と呼ぶには、あまりに古いもの。
祈りの形をした刃。
⸻
モモの目から揺れが消えた。
⸻
桃の香りが冷えた。
⸻
「……執行」
⸻
刃が出た。
⸻
来た。
正面に来た。
速かった。
でも。
⸻
(外れた)
⸻
肩をかすった。
布が裂けた。
皮膚が熱くなる。
深くは入っていない。
⸻
次。
腕。
当たった。
痛みが走る。
でも骨まではいかない。
⸻
足。
逸れた。
土を削った。
⸻
(わざと外してる)
⸻
シンは後退しながら理解した。
全部が微妙にずれている。
当てに来ている。
殺しに来ている。
それなのに、最後の線が外れる。
白桃の精度が、本来の精度ではない。
モモが、どこかで刃を掴んでいる。
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「モモ」
⸻
呼んだ。
⸻
白桃の足が一瞬止まった。
その一瞬が、長すぎた。
⸻
路地の奥から足音が来た。
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複数だった。
革の擦れる音。
弓の軋む音。
息を殺した男たちの足。
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武装していた。
胸元に護符を下げている。
経文を書いた札だった。
朱で印が押されている。
墨がまだ新しい。
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「そこか!」
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包囲が来た。
後ろを塞がれた。
右へ逃げる道にも人影があった。
寺の塀は高い。
土は乾いて滑る。
⸻
矢が一本、壁に刺さった。
乾いた音がした。
シンは反射で身を捻った。
足がもつれた。
肩の傷が開いた。
⸻
体勢が崩れた。
⸻
白桃が来た。
⸻
今度は止める間もなかった。
崩れた体に刃が来る。
白桃自身が、半歩、止まろうとしていた。
目の奥で、桃色が戻りかけていた。
でも間に合わなかった。
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身体に刃が入った。
⸻
腹の奥が熱くなった。
それから、急に遠くなった。
膝が落ちた。
地面が近づいた。
⸻
白桃が固まった。
⸻
桃の香りが戻った。
冷えた香りではなかった。
あの甘い匂いだった。
⸻
「……シン」
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モモの声だった。
遠かった。
だんだん遠くなる。
⸻
涙が落ちた。
白い頬を伝って、ひとつ。
またひとつ。
泣いていた。
人間の顔で泣いていた。
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シンはそれを見た。
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寒くはなかった。
痛かった。
息ができなかった。
血の匂いがした。
土の匂いがした。
桃の匂いがした。
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(また泣かせた)
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それだけ思った。
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モモが何かを言った。
聞こえなかった。
唇だけが動いていた。
りょ、と言ったのかもしれない。
ごめん、と言ったのかもしれない。
どちらでもなかったのかもしれない。
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視界が暗くなった。
⸻
――死んだ。
⸻
⸻
天井があった。
⸻
作業棟の天井だった。
朝だった。
外で人の足音がした。
遠くで牛車の音がした。
筆の音がした。
⸻
スズリがいた。
書いていた。
いつも通りだった。
いつも通りすぎて、胸が詰まった。
⸻
シンはしばらく天井を見ていた。
動けなかった。
腹の奥に、まだ刃が残っていた。
傷はない。
血もない。
でも体が覚えている。
息の仕方が分からない。
喉が勝手に閉じる。
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「シンさん」
⸻
スズリの声がした。
筆の音が止まっていた。
⸻
「顔色が悪いです」
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「寝起きだから」
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声が掠れた。
誤魔化しきれなかった。
⸻
スズリが近づいてきた。
膝をつく音。
衣が畳を擦る音。
⸻
「また、見ましたか」
⸻
シンは答えなかった。
⸻
答えないことが答えだった。
⸻
スズリはそれ以上聞かなかった。
水を持ってきた。
手渡す指が、少し震えていた。
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シンは水を飲んだ。
冷たかった。
飲み込むたびに、腹の奥が思い出した。
刃。
血。
涙。
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冷静に数えた。
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一。
二。
三。
四。
五。
六。
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そして今。
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七。
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アサメの時に確定した。
ひとつの時代で死ねるのは九回だ。
八ではない。
十でもない。
九度目で飛ぶ。
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死ぬ。
戻る。
最後は、時代から弾き出される。
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そこだけは、もう疑っていなかった。
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(あと二回)
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少なかった。
思ったより、ずっと少なかった。
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あと二回。
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死ねる数ではない。
失える数だった。
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ひとつ使えば、モモをまた泣かせる。
ひとつ使えば、スズリの前でまた嘘をつく。
ひとつ使えば、カミノの知らない場所で、何かを取りこぼす。
最後を使えば、この時代が終わる。
アテルイも。
モレも。
スズリも。
カミノも。
タダも。
この火も。
全部、置いていく。
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それでも。
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その前に。
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アテルイを。
モレを。
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鬼にさせない。
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救えるかは分からない。
逃がせるかも分からない。
歴史を曲げられるかも分からない。
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でも。
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人として取り戻す。
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シンは起き上がった。
体が重かった。
腹の奥に、まだ死が残っていた。
足が少し震えた。
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スズリが見ていた。
何か言いかけた。
言わなかった。
代わりに、筆を握り直した。
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「書いてくれ」
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シンが言った。
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スズリが顔を上げる。
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「俺が見たことは、言える範囲で言う。全部は無理だ。でも、消される前に残す」
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スズリの目が変わった。
紙を見る目だった。
それから、シンを見る目だった。
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「はい」
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短く答えた。
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「書きます」
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外の光が明るかった。
都の朝だった。
昨日と同じ朝だった。
同じではなかった。
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まだ終わっていない。
まだ二回ある。
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なら使う。
死ぬためではない。
死なないために。
次は、もっとよく見る。
もっと深く潜る。
都の線の中にある、ほんの小さな継ぎ目を探す。
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今度は止める。
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絶対に。
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(第八十七話へ)




