入京
第八十五話 入京
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道が広くなった。
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不破の関を越えてから、少しずつそうなっていた。
山の背に沿っていた道が、近江へ入ると土の色を変えた。
湿り気が増えた。
水の匂いがした。
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遠くに大きな湖が見えた。
最初は、空の端が落ちているのかと思った。
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違った。
水だった。
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山の間に、信じられないほど広い水があった。
風がそこから来る。
胆沢の山風とも、坂東の乾いた風とも違う。
水面を渡った風は冷たく、少し甘かった。
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荷を積んだ馬が増えた。
米俵。
布。
木材。
塩。
干した魚。
文箱を抱えた役人もいた。
僧もいた。
顔を伏せた旅人もいた。
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皆、同じ方へ流れていた。
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都へ。
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シンは、その言葉を胸の中で言った。
都。
京。
平安京。
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分かっているようで、分かっていなかった。
胆沢では、都は文の向こうにあるものだった。
田村麻呂の言葉の後ろにあるものだった。
カミノの血筋の奥にあるものだった。
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でも今は、道の先にある。
足で向かっている。
近づいている。
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近づくほど、胸が重くなった。
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瀬田の水を渡った。
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大きな川だった。
湖から出た水が、広く、重く、音を立てて流れている。
橋の上で馬が少し怯えた。
荷車の車輪が板を鳴らした。
タダが荷を押さえ、スズリが紙束を抱き直す。
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カミノは欄干の向こうを見ていた。
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「ここを押さえる者は、都の息の根を押さえる」
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カミノが言った。
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「また怖いこと言うな」
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「怖いから、皆が欲しがる」
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水の上を風が来た。
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「この水は近江から集まって、宇治へ落ちる。さらに淀へ行き、難波へも繋がる。東の道も、南の水も、ここで細くなる」
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「細いところを握れば、全部止まる」
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「そうだ」
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カミノは水を見たまま言った。
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「都は山に囲まれている。守られているようで、出入口は限られる。だから橋と坂と川は、門より怖い」
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シンは黙って、その水を見た。
人を運ぶ水。
荷を運ぶ水。
命令を運ぶ道。
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胆沢にはなかったものが、ここにはあった。
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逢坂の山道へ入る頃には、空が狭くなった。
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坂だった。
土が締まっている。
踏まれすぎて、道そのものが硬くなっていた。
荷車の轍が残り、雨の跡に薄い水が溜まっている。
両側の木の間から、人の声がした。
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先へ行く者。
戻る者。
道端で休む者。
足を痛めた馬の蹄を見る者。
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山道なのに、山だけではなかった。
人が多すぎた。
山が人に削られているみたいだった。
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「山なのに、逃げにくいな」
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シンが言うと、カミノが少し笑った。
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「都に近い山は、もう自然の山ではない」
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「嫌な言い方だ」
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「私も好きではない」
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言ってから、カミノは前を見た。
笑いが消えていた。
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坂を越えると、山科の方へ開けた。
盆地だった。
田があった。
水路があった。
家があった。
その向こうに、低く続く東山が見えた。
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都は、山の向こう側にあった。
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近い。
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それが分かった瞬間、シンの手が勝手に握られた。
指の中に、木片の感触が蘇る。
胆沢の子供が渡した、あの小さなしるし。
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帰ってきたら返して。
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まだ返していない。
返すためには、二人を死なせてはいけない。
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東山の口を抜けた。
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音が増えた。
匂いが増えた。
土、牛、馬、炊ぐ米、炭、汗、木材、墨、濡れた衣、香。
全部が一度に来た。
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その手前に、川があった。
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賀茂の川だった。
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瀬田ほど広くはない。
けれど都の東を流れる水は、山から来る冷たさを残していた。
浅いところでは石が見えた。
深いところは、黒く、速い。
岸には人がいた。
荷を濡らさないように抱える者。
馬をなだめる者。
足元を見ながら渡る女。
水を汲む子供。
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川向こうに、京の気配があった。
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「ここも門か」
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シンが聞いた。
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「門ではない」
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カミノが答えた。
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「だが、線だ」
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「線」
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「東から来る者は、山を越え、この川を越える。川の内側に入れば、もう京の息がかかる」
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カミノは流れを見た。
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「京には大きな城壁がない。だから川、道、坂、築地、人の目が境になる。見えない門が多い」
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スズリがその言葉を聞いていた。
紙は出していない。
けれど、忘れない顔をしていた。
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シンは川を渡った。
冷たい水の匂いが、足元から上がってきた。
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京に入った時、シンは足を止めかけた。
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まず見えたのは、門ではなかった。
道だった。
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まっすぐな道。
横へ伸びる道。
それが、妙にきれいな角度で交わっている。
山や川に合わせた道ではない。
人が線を引いて作った道だった。
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道が、人を従わせていた。
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胆沢では、山が先にあった。
沢が先にあった。
人はその隙間に住んだ。
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ここは違う。
先に線がある。
そこへ家が入る。
人が入る。
荷が入る。
暮らしが押し込まれていく。
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「これが、京か」
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シンが言った。
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「ああ」
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カミノは短く答えた。
いつものように、得意げにはならなかった。
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「平安京だ」
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その言い方には、誇りよりも疲れが混じっていた。
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スズリが止まっていた。
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珍しかった。
筆を持っていない。
紙も出していない。
ただ、道を見ていた。
人の列を見ていた。
店先に積まれた荷を見ていた。
牛車の車輪が泥を潰す音を聞いていた。
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「記録しないのか」
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シンが聞いた。
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「少しだけ」
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スズリは言った。
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「見てます」
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それだけだった。
目が、紙よりも先に動いていた。
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タダは市場の方向を見ていた。
人の多さ。
荷の密度。
道の幅。
立ち止まる者の癖。
全部を黙って見ている。
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商人の顔だった。
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シンは少し笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
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朱雀大路へ出た時、シンはまた足を止めた。
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広かった。
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今まで見たどの道とも違った。
道というより、平らにされた広場が北へ伸びているみたいだった。
牛車が通る。
馬が通る。
人の列が流れる。
それでもまだ余白がある。
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北へ向かって、大路がまっすぐ伸びていた。
遠くに、さらに大きな門と築地の影が見える。
宮の方角だと、カミノが言った。
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「南には羅城門がある」
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カミノが続けた。
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「都の正面だ。だが、東から来る者は、必ずしもそこから入るわけではない」
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「じゃあ、これは何だ」
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「芯だ」
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カミノは大路を見た。
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「この京の芯。人に見せるための道でもある」
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シンは、大路を見直した。
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見せるための道。
止めるための関。
通すための橋。
隠すための御簾。
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都は、全部を形にしていた。
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左右に区画が伸びている。
新しい家もある。
まだ土が見えている空き地もある。
材木を積んだ場所がある。
掘られた溝がある。
水の流れを作っている者たちがいる。
築地の土が乾ききっていない場所もあった。
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古い都ではない。
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新しい都だった。
まだ作られている都だった。
大きい。
整っている。
だが、あちこちで継ぎ目が見えた。
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それが逆に怖かった。
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人が作ったものは、人が変えられる。
人が作った記録は、人が消せる。
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カミノの別宅は、左京の大路から少し入った区画にあった。
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本邸でも宮中でもない。
記録と書写のための家だった。
板塀に囲まれた敷地に、母屋と作業棟と納屋が収まっている。
小庭に井戸がある。
端に馬を繋ぐ場所がある。
華やかさはなかった。
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皇子の別宅にしては、小さい。
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シンがそう思った瞬間、スズリが振り向いた。
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「居住向きではありませんから」
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「声に出てたか」
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「顔に出ていました」
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スズリは少しだけ笑った。
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「神野様の持ち物ですが、代々、私の家が預かってきました。記録整理と書写と、地方資料の保管用です」
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「じゃあ、スズリの家でもあるのか」
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「家、というほど立派ではありません」
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スズリは門の内側を見た。
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「でも、帰る場所ではあります」
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扉を開けた瞬間、違う匂いがした。
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墨だった。
紙だった。
乾いた木の匂いだった。
古い布の匂いもある。
それから、ほんのかすかに、スズリの香の匂いがした。
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胆沢の朝に嗅いだ匂い。
上着を貸した時の匂い。
紙を抱えて走った時の匂い。
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シンは一瞬、呼吸を止めた。
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「どうしました」
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「いや」
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「埃っぽいですか」
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「違う」
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「では」
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「何でもない」
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スズリが少し首を傾げた。
シンは目を逸らした。
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女子の部屋に入るの、初めてじゃないか。
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突然、そんなことを思った。
場違いだった。
あまりにも場違いだった。
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都に入った。
朝廷がある。
アテルイとモレの命がかかっている。
なのに、部屋に染みついたスズリの匂いで、変なところに意識が引っかかった。
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まずい。
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シンは心の中で言った。
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すごくまずい。
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スズリが棚へ向かった。
旅の上衣を脱ぎ、畳んで置く。
薄く埃を払う。
その下の衣は、旅の泥を吸って少し色が沈んでいた。
スズリは奥の衝立の向こうへ入った。
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「少し、着替えます」
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「お、おう」
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「見ないで下さいね」
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「見るわけないだろ」
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「念のためです」
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声が、少しだけ照れていた。
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衣擦れの音がした。
紐を解く音。
布を払う音。
水を含ませた布で身体を拭う音。
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シンは入口の柱を見た。
柱の木目を見た。
ひたすら見た。
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木目がこんなに長いとは思わなかった。
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「シンさん」
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「何だ」
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「そんなに柱を見なくても」
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「見てない」
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「見ています」
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「柱は見てる」
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衝立の向こうで、スズリが小さく息を吐いた。
笑ったのか、困ったのか、分からなかった。
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やがて、スズリが戻ってきた。
京で着るための、少し薄い色の衣に替わっていた。
旅の泥が消えたせいか、顔の白さが戻って見えた。
髪も軽く整えられている。
香の匂いが、ほんの少しだけ濃くなった。
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シンはまた目を逸らした。
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「変ですか」
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「変じゃない」
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「では、どうして見ないんですか」
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「見たら変になりそうだから」
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言ってから、失敗したと思った。
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スズリが止まった。
耳が赤くなった。
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「……それは、どういう意味ですか」
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「忘れてくれ」
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「記録者に、それを言いますか」
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「今のは記録するな」
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「検討します」
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声は淡々としていた。
でも目が少し泳いでいた。
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シンは、ますます困った。
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作業棟へ入ると、紙束が積まれていた。
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木簡がある。
丸めた地図がある。
墨が並んでいる。
地方から届いた記録が籠に入れられ、まだ整理されないまま山になっている。
隅に小さな炉があった。
炭がある。
灰もある。
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棚の一角に、胆沢でスズリが作った記録の束が並んでいた。
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届いていた。
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シンはそこから目が離せなかった。
焼けた朝。
炉の火。
子供の声。
アテルイの背中。
モレの怒り。
白桃の目。
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全部が、紙の束になってそこにあった。
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「ここが」
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シンが聞きかけると、
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「私の部屋です」
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スズリが言った。
少し照れていた。
散らかった部屋を見られた時の顔に似ていた。
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「元々は、こういう仕事をする家でした。地方の記録を取って、整理して、都へ送る。大きな家ではありません。家運も落ちました。でも、記録だけは残りました」
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棚を整えながら、スズリは話した。
戻ってきた場所を、自分でも確かめているみたいだった。
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「私の身分では、本来、神野様のお側に置かれるようなことはありません」
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少し間があった。
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「でも、神野様が字を見て下さいました」
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スズリの指が、紙束の角を揃えた。
丁寧だった。
速くはない。
けれど、狂わない。
端がぴたりと合う。
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「綺麗な字だから、ではありません。そう言って下さいました。見たものを、残す形にできる字だと」
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シンはスズリを見た。
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「それで、抜擢されたのか」
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「はい」
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スズリは頷いた。
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「侍女ではありません」
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スズリは言った。
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「そういう役ではなくて」
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シンは頷いた。
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「知ってる」
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スズリが少し止まった。
それから、また紙を整え始めた。
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カミノが作業棟を歩き回っていた。
棚を見る。
籠を見る。
地図を広げようとする。
スズリが静かに取り返す。
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「神野様は見る方です」
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スズリが言った。
淡々としていた。
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「だから私が書くんです」
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カミノが笑った。
否定しなかった。
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胆沢で炉守りが言っていたことを、シンは思い出した。
火は炭になる。
炭は砕ける。
砕ければ墨になる。
墨になれば残る。
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炉守りは火を残した。
スズリは墨を残す。
たぶん、同じ仕事だった。
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カミノが見たものが、スズリを通して紙になる。
紙になれば残る。
それがここだった。
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最初から、ここへ繋がっていた。
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夜になった。
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タダはいつの間にか納屋を使い始めていた。
誰も許可していなかった。
でもいた。
荷車を入れ、干肉を吊るし、明日の段取りをしている。
京の市場へ出す物と、出さない物を分けていた。
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「ここ、使っていいのか」
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「空いている」
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「許可は」
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「後で取る」
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「順番が逆なのでは」
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「荷は待たない」
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タダは真顔だった。
カミノが少し考えた。
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「確かに、荷は待たないな」
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「納得しないでください……」
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護衛がまた小さく呻いた。
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作業棟に灯があった。
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スズリが書いていた。
旅中に取った記録の整理だった。
胆沢からここまでの全部。
白河の関。
那須の湯。
信濃の山道。
不破の関。
近江の水。
瀬田の橋。
逢坂の山。
賀茂の川。
京の道。
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量が多かった。
でも、スズリの手は止まらなかった。
字は美しいというより、乱れない。
丁寧で、正確だった。
細い線が、紙の上に道を作っていく。
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シンは入口の近くに座って、灯の光を見ていた。
墨を磨る音がする。
筆が紙を擦る音がする。
外から京の夜の音が来る。
遠くで鐘が鳴る。
牛車の車輪が、どこかの道をゆっくり通る。
誰かの笑い声がして、すぐ消える。
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胆沢の炉の音に似ていた。
似ていない。
でも似ていた。
何かが続いていく音だった。
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夜更けに、カミノが戻ってきた。
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顔が違った。
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宮の方へ行っていたらしかった。
衣を直している。
従者が二人、外で控えている。
旅の顔ではない。
都の顔だった。
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だが、その中に、別のものが混じっていた。
疲れ。
怒り。
それから、警戒。
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「何かあったか」
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シンが聞いた。
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カミノは少し間を置いた。
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「動いている」
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「誰が」
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「一人ではない」
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そう言いながら中へ入った。
スズリを見た。
スズリが筆を置いた。
二人の間に、言葉より先の確認があった。
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「陸奥の帰服が、朝議に上がっている」
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カミノが言った。
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「処断を決めたがっている者がいる」
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「早すぎないか」
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「早い。だから妙だ」
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カミノは座らなかった。
立ったまま、灯の横で話した。
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「田村麻呂はまだ遠い。助命の文も、本人の言葉も、都へ届いて形になるまで時間がいる」
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「じゃあ、先に殺す話だけ進んでるのか」
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「そう見える」
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スズリの指が、紙の端を押さえた。
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「助命を望む方はいないのですか」
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カミノが言った。
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「私がそうだ。田村麻呂殿も、帰れば必ず願う。参議の緒嗣殿も、無駄な征討を続けることには疑いを持っている。まだ大きく声を通せる立場ではないが、彼は見る目がある」
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「穏健派ってやつか」
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「言葉にすれば、そうなる」
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カミノは少しだけ苦く笑った。
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「だが、穏やかだから勝つわけではない」
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「強硬派は」
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「いる」
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即答だった。
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「式家の仲成は、東宮に近い。東宮は、陸奥の者を恐れている。恐れている者の耳へ、討つべきだと囁けば、それは忠義の形になる」
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「東宮って、カミノの兄貴か」
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「ああ」
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カミノの声は低かった。
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「兄上が悪人というわけではない。むしろ逆だ。恐れている。国が揺れることを。父上の御世が終わる前に、禍根が残ることを。自分の代に、北がまた燃えることを」
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「恐いから、殺すのか」
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「恐い者は、殺せば恐くなくなると思う」
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火が小さく鳴った。
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「だが、それだけならまだ見える。文に残る。誰が言ったかも追える」
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カミノは、そこで声を落とした。
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「問題は、御簾の奥だ」
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スズリの顔が少し強張った。
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「強硬派を裏で煽っている者がいる」
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カミノが言った。
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「陸奥へ関わる立場ではない。陸奥を口実にして、強硬な者たちの恐れを撫でている奴だ」
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「名前は」
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「出ない」
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「分からないのか」
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カミノは少しだけ口元を歪めた。
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「……検討はつくがな」
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沈黙が落ちた。
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「では、なぜ言わないんですか」
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スズリが聞いた。
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「名を出せば、こちらが先に汚れる」
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カミノは言った。
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「正式な命ではない。印もない。文もない。誰かの不安を聞き、誰かの忠義を褒め、誰かの恐れに形を与える。それだけだ。だが、それだけで人は動く」
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シンは意味を全部は分からなかった。
でも嫌な感じは分かった。
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「毘沙門の狂信者達の話も、まだ消えていない」
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カミノが続けた。
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「白桃が退いたから終わり、ではない。神託を聞いたつもりの者がいる。神の加護だと信じた者がいる。北の鬼を都で裁くことこそ、国を守ることだと考える者がいる」
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「あいつらは鬼じゃない」
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「分かっている」
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「分かってるなら」
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「分かっている者だけで、朝廷は動かない」
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前にも似たことを聞いた。
でも、京で聞くと重さが違った。
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ここでは、言葉が人を殺す。
矢より遅く飛ぶ。
でも、刺されば抜けない。
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「アテルイとモレは、都では人ではなくなる」
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カミノが言った。
⸻
「功績になる。面子になる。恐れになる。見せしめになる。誰かの忠義になる。誰かの祈りになる。誰かの保身になる」
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シンは歯を食いしばった。
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「あいつらは、人だ」
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「だから、お前も来たんだろう」
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カミノは、そこで初めてシンを見た。
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シンは答えなかった。
答える必要がなかった。
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「明日から、私は動く」
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カミノが言った。
⸻
「お前たちも、外へ出る時は必ず誰かをつける。スズリは記録を続けろ。ただし、出す文と隠す文を分ける」
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「隠す文」
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スズリが繰り返した。
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「消される前に残す文だ」
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スズリの目が変わった。
怯えではなかった。
紙を見る目だった。
⸻
「書きます」
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声は静かだった。
⸻
「消させません」
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シンは、その声を聞いて息を吸った。
胆沢の炉の前で聞いた声と同じだった。
⸻
⸻
シンは外へ出た。
⸻
平安京の夜があった。
⸻
灯火が並んでいる。
大路の方へ、光が続いている。
遠くに宮の闇がある。
近くに人家の灯がある。
牛の低い声がした。
どこかで戸が閉まる音がした。
夜番の足音が通り過ぎる。
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豊かだった。
巨大だった。
凄かった。
⸻
でも。
⸻
ここでは人が消える。
⸻
静かに消える。
理由も分からないまま消える。
紙に残らなければ、最初からいなかったことになる。
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都は、そういう場所だった。
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アテルイ。
モレ。
⸻
時間があまりなかった。
歴史が正しいなら。
恐らく、あと少しだった。
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シンは夜の大路を見た。
まっすぐな道。
人が引いた線。
国が作った形。
⸻
なら、その線をずらす。
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胸の奥に、前の死の矢の冷たさがまだ残っている。
不破の関の風も残っている。
胆沢の火も残っている。
子供の木片も、手の中にないのに、まだ指が覚えている。
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帰ってきたら返して。
⸻
「返す」
⸻
シンは呟いた。
⸻
「返しに行く」
⸻
鐘が鳴った。
遠かった。
夜が深かった。
⸻
京は眠らない。
御簾の奥で、誰かがまだ囁いている。
文にならない言葉が、誰かの耳へ入っていく。
⸻
それでも。
⸻
シンは顔を上げた。
⸻
もう、死なせない。
都が二人を殺すなら、都の中で止める。
記録が二人を鬼にするなら、その前に奪い返す。
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消させない。
⸻
⸻
同じ夜。
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内裏の奥に、灯の届きにくい一画があった。
⸻
公の図には載らない。
日々の記録にも残らない。
誰が通ったか。
誰が開けたか。
誰がそこで何を聞いたか。
そのすべてが、朝になれば無かったことになる場所だった。
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そこに、人がいた。
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本来ならば、内裏に入れるはずのない女。
そして、古くから朝廷に巣食う者たち。
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常世衆。
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そう呼ばれてきた。
そう呼ばれない時代もあった。
名を変え、衣を変え、祈りの言葉を変えながら、彼らはいつも神託のそばにいた。
⸻
神の声が必要な時、彼らは声を整えた。
国が敵を欲した時、彼らは鬼を決めた。
まつろわぬ者を焼く時、彼らはそれを天の意志と呼んだ。
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白桃は、そのために使われてきた。
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白い雷。
桃の匂い。
ためらわない刃。
人が人を殺すには重すぎる時、彼らは神の名を借りた。
神の名だけで足りない時、白桃を動かした。
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火が消える。
村が消える。
名が消える。
記録が消える。
⸻
それでも、朝廷の紙には何も残らない。
残るのは、鬼が討たれたという一行だけだった。
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低い読経が続いていた。
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声というより、雑音に近かった。
耳の奥を擦るような音。
石の下で虫が鳴いているような音。
人の声なのに、人の言葉になりきらない音。
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灯籠の火がぼんやり揺れている。
濃い香の煙が床を這い、御簾の裾に絡んでいた。
誰かの影がある。
数は分からない。
顔も分からない。
ただ、そこにいることだけが分かった。
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その中心に、女がひとり座っていた。
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藤原薬子。
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妖しく美しい女だった。
白い顔。
濡れたような唇。
薄く伏せた目。
指先だけが、灯の中で生き物のように動いている。
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その指が、黒い石を撫でた。
石なのか、墨なのか、骨なのか。
暗がりでは分からない。
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薬子は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
怒ってもいなかった。
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ただ、静かだった。
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静かすぎた。
⸻
常世衆の読経が、さらに低く沈んだ。
灯籠の火が一度だけ細くなった。
御簾の奥で、誰かが名を囁いた。
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陸奥。
⸻
鬼。
⸻
白桃。
⸻
薬子の目が、ゆっくり開いた。
⸻
彼女は静かに狂っていた。
⸻
⸻
(第八十六話へ)




