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入京

第八十五話 入京


⸻


 道が広くなった。


⸻


 不破の関を越えてから、少しずつそうなっていた。


 山の背に沿っていた道が、近江へ入ると土の色を変えた。


 湿り気が増えた。


 水の匂いがした。


⸻


 遠くに大きな湖が見えた。


 最初は、空の端が落ちているのかと思った。


⸻


 違った。


 水だった。


⸻


 山の間に、信じられないほど広い水があった。


 風がそこから来る。


 胆沢の山風とも、坂東の乾いた風とも違う。


 水面を渡った風は冷たく、少し甘かった。


⸻


 荷を積んだ馬が増えた。


 米俵。


 布。


 木材。


 塩。


 干した魚。


 文箱を抱えた役人もいた。


 僧もいた。


 顔を伏せた旅人もいた。


⸻


 皆、同じ方へ流れていた。


⸻


 都へ。


⸻


 シンは、その言葉を胸の中で言った。


 都。


 京。


 平安京。


⸻


 分かっているようで、分かっていなかった。


 胆沢では、都は文の向こうにあるものだった。


 田村麻呂の言葉の後ろにあるものだった。


 カミノの血筋の奥にあるものだった。


⸻


 でも今は、道の先にある。


 足で向かっている。


 近づいている。


⸻


 近づくほど、胸が重くなった。


⸻


 瀬田の水を渡った。


⸻


 大きな川だった。


 湖から出た水が、広く、重く、音を立てて流れている。


 橋の上で馬が少し怯えた。


 荷車の車輪が板を鳴らした。


 タダが荷を押さえ、スズリが紙束を抱き直す。


⸻


 カミノは欄干の向こうを見ていた。


⸻


「ここを押さえる者は、都の息の根を押さえる」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「また怖いこと言うな」


⸻


「怖いから、皆が欲しがる」


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 水の上を風が来た。


⸻


「この水は近江から集まって、宇治へ落ちる。さらに淀へ行き、難波へも繋がる。東の道も、南の水も、ここで細くなる」


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「細いところを握れば、全部止まる」


⸻


「そうだ」


⸻


 カミノは水を見たまま言った。


⸻


「都は山に囲まれている。守られているようで、出入口は限られる。だから橋と坂と川は、門より怖い」


⸻


 シンは黙って、その水を見た。


 人を運ぶ水。


 荷を運ぶ水。


 命令を運ぶ道。


⸻


 胆沢にはなかったものが、ここにはあった。


⸻


⸻


 逢坂の山道へ入る頃には、空が狭くなった。


⸻


 坂だった。


 土が締まっている。


 踏まれすぎて、道そのものが硬くなっていた。


 荷車の轍が残り、雨の跡に薄い水が溜まっている。


 両側の木の間から、人の声がした。


⸻


 先へ行く者。


 戻る者。


 道端で休む者。


 足を痛めた馬の蹄を見る者。


⸻


 山道なのに、山だけではなかった。


 人が多すぎた。


 山が人に削られているみたいだった。


⸻


「山なのに、逃げにくいな」


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 シンが言うと、カミノが少し笑った。


⸻


「都に近い山は、もう自然の山ではない」


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「嫌な言い方だ」


⸻


「私も好きではない」


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 言ってから、カミノは前を見た。


 笑いが消えていた。


⸻


 坂を越えると、山科の方へ開けた。


 盆地だった。


 田があった。


 水路があった。


 家があった。


 その向こうに、低く続く東山が見えた。


⸻


 都は、山の向こう側にあった。


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 近い。


⸻


 それが分かった瞬間、シンの手が勝手に握られた。


 指の中に、木片の感触が蘇る。


 胆沢の子供が渡した、あの小さなしるし。


⸻


 帰ってきたら返して。


⸻


 まだ返していない。


 返すためには、二人を死なせてはいけない。


⸻


⸻


 東山の口を抜けた。


⸻


 音が増えた。


 匂いが増えた。


 土、牛、馬、炊ぐ米、炭、汗、木材、墨、濡れた衣、香。


 全部が一度に来た。


⸻


 その手前に、川があった。


⸻


 賀茂の川だった。


⸻


 瀬田ほど広くはない。


 けれど都の東を流れる水は、山から来る冷たさを残していた。


 浅いところでは石が見えた。


 深いところは、黒く、速い。


 岸には人がいた。


 荷を濡らさないように抱える者。


 馬をなだめる者。


 足元を見ながら渡る女。


 水を汲む子供。


⸻


 川向こうに、京の気配があった。


⸻


「ここも門か」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


「門ではない」


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 カミノが答えた。


⸻


「だが、線だ」


⸻


「線」


⸻


「東から来る者は、山を越え、この川を越える。川の内側に入れば、もう京の息がかかる」


⸻


 カミノは流れを見た。


⸻


「京には大きな城壁がない。だから川、道、坂、築地、人の目が境になる。見えない門が多い」


⸻


 スズリがその言葉を聞いていた。


 紙は出していない。


 けれど、忘れない顔をしていた。


⸻


 シンは川を渡った。


 冷たい水の匂いが、足元から上がってきた。


⸻


⸻


 京に入った時、シンは足を止めかけた。


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 まず見えたのは、門ではなかった。


 道だった。


⸻


 まっすぐな道。


 横へ伸びる道。


 それが、妙にきれいな角度で交わっている。


 山や川に合わせた道ではない。


 人が線を引いて作った道だった。


⸻


 道が、人を従わせていた。


⸻


 胆沢では、山が先にあった。


 沢が先にあった。


 人はその隙間に住んだ。


⸻


 ここは違う。


 先に線がある。


 そこへ家が入る。


 人が入る。


 荷が入る。


 暮らしが押し込まれていく。


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「これが、京か」


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 シンが言った。


⸻


「ああ」


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 カミノは短く答えた。


 いつものように、得意げにはならなかった。


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「平安京だ」


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 その言い方には、誇りよりも疲れが混じっていた。


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 スズリが止まっていた。


⸻


 珍しかった。


 筆を持っていない。


 紙も出していない。


 ただ、道を見ていた。


 人の列を見ていた。


 店先に積まれた荷を見ていた。


 牛車の車輪が泥を潰す音を聞いていた。


⸻


「記録しないのか」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


「少しだけ」


⸻


 スズリは言った。


⸻


「見てます」


⸻


 それだけだった。


 目が、紙よりも先に動いていた。


⸻


 タダは市場の方向を見ていた。


 人の多さ。


 荷の密度。


 道の幅。


 立ち止まる者の癖。


 全部を黙って見ている。


⸻


 商人の顔だった。


⸻


 シンは少し笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


⸻


⸻


 朱雀大路へ出た時、シンはまた足を止めた。


⸻


 広かった。


⸻


 今まで見たどの道とも違った。


 道というより、平らにされた広場が北へ伸びているみたいだった。


 牛車が通る。


 馬が通る。


 人の列が流れる。


 それでもまだ余白がある。


⸻


 北へ向かって、大路がまっすぐ伸びていた。


 遠くに、さらに大きな門と築地の影が見える。


 宮の方角だと、カミノが言った。


⸻


「南には羅城門がある」


⸻


 カミノが続けた。


⸻


「都の正面だ。だが、東から来る者は、必ずしもそこから入るわけではない」


⸻


「じゃあ、これは何だ」


⸻


「芯だ」


⸻


 カミノは大路を見た。


⸻


「この京の芯。人に見せるための道でもある」


⸻


 シンは、大路を見直した。


⸻


 見せるための道。


 止めるための関。


 通すための橋。


 隠すための御簾。


⸻


 都は、全部を形にしていた。


⸻


 左右に区画が伸びている。


 新しい家もある。


 まだ土が見えている空き地もある。


 材木を積んだ場所がある。


 掘られた溝がある。


 水の流れを作っている者たちがいる。


 築地の土が乾ききっていない場所もあった。


⸻


 古い都ではない。


⸻


 新しい都だった。


 まだ作られている都だった。


 大きい。


 整っている。


 だが、あちこちで継ぎ目が見えた。


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 それが逆に怖かった。


⸻


 人が作ったものは、人が変えられる。


 人が作った記録は、人が消せる。


⸻


⸻


 カミノの別宅は、左京の大路から少し入った区画にあった。


⸻


 本邸でも宮中でもない。


 記録と書写のための家だった。


 板塀に囲まれた敷地に、母屋と作業棟と納屋が収まっている。


 小庭に井戸がある。


 端に馬を繋ぐ場所がある。


 華やかさはなかった。


⸻


 皇子の別宅にしては、小さい。


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 シンがそう思った瞬間、スズリが振り向いた。


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「居住向きではありませんから」


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「声に出てたか」


⸻


「顔に出ていました」


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 スズリは少しだけ笑った。


⸻


「神野様の持ち物ですが、代々、私の家が預かってきました。記録整理と書写と、地方資料の保管用です」


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「じゃあ、スズリの家でもあるのか」


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「家、というほど立派ではありません」


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 スズリは門の内側を見た。


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「でも、帰る場所ではあります」


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 扉を開けた瞬間、違う匂いがした。


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 墨だった。


 紙だった。


 乾いた木の匂いだった。


 古い布の匂いもある。


 それから、ほんのかすかに、スズリの香の匂いがした。


⸻


 胆沢の朝に嗅いだ匂い。


 上着を貸した時の匂い。


 紙を抱えて走った時の匂い。


⸻


 シンは一瞬、呼吸を止めた。


⸻


「どうしました」


⸻


「いや」


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「埃っぽいですか」


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「違う」


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「では」


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「何でもない」


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 スズリが少し首を傾げた。


 シンは目を逸らした。


⸻


 女子の部屋に入るの、初めてじゃないか。


⸻


 突然、そんなことを思った。


 場違いだった。


 あまりにも場違いだった。


⸻


 都に入った。


 朝廷がある。


 アテルイとモレの命がかかっている。


 なのに、部屋に染みついたスズリの匂いで、変なところに意識が引っかかった。


⸻


 まずい。


⸻


 シンは心の中で言った。


⸻


 すごくまずい。


⸻


 スズリが棚へ向かった。


 旅の上衣を脱ぎ、畳んで置く。


 薄く埃を払う。


 その下の衣は、旅の泥を吸って少し色が沈んでいた。


 スズリは奥の衝立の向こうへ入った。


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「少し、着替えます」


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「お、おう」


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「見ないで下さいね」


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「見るわけないだろ」


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「念のためです」


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 声が、少しだけ照れていた。


⸻


 衣擦れの音がした。


 紐を解く音。


 布を払う音。


 水を含ませた布で身体を拭う音。


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 シンは入口の柱を見た。


 柱の木目を見た。


 ひたすら見た。


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 木目がこんなに長いとは思わなかった。


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「シンさん」


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「何だ」


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「そんなに柱を見なくても」


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「見てない」


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「見ています」


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「柱は見てる」


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 衝立の向こうで、スズリが小さく息を吐いた。


 笑ったのか、困ったのか、分からなかった。


⸻


 やがて、スズリが戻ってきた。


 京で着るための、少し薄い色の衣に替わっていた。


 旅の泥が消えたせいか、顔の白さが戻って見えた。


 髪も軽く整えられている。


 香の匂いが、ほんの少しだけ濃くなった。


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 シンはまた目を逸らした。


⸻


「変ですか」


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「変じゃない」


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「では、どうして見ないんですか」


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「見たら変になりそうだから」


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 言ってから、失敗したと思った。


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 スズリが止まった。


 耳が赤くなった。


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「……それは、どういう意味ですか」


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「忘れてくれ」


⸻


「記録者に、それを言いますか」


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「今のは記録するな」


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「検討します」


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 声は淡々としていた。


 でも目が少し泳いでいた。


⸻


 シンは、ますます困った。


⸻


⸻


 作業棟へ入ると、紙束が積まれていた。


⸻


 木簡がある。


 丸めた地図がある。


 墨が並んでいる。


 地方から届いた記録が籠に入れられ、まだ整理されないまま山になっている。


 隅に小さな炉があった。


 炭がある。


 灰もある。


⸻


 棚の一角に、胆沢でスズリが作った記録の束が並んでいた。


⸻


 届いていた。


⸻


 シンはそこから目が離せなかった。


 焼けた朝。


 炉の火。


 子供の声。


 アテルイの背中。


 モレの怒り。


 白桃の目。


⸻


 全部が、紙の束になってそこにあった。


⸻


「ここが」


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 シンが聞きかけると、


⸻


「私の部屋です」


⸻


 スズリが言った。


 少し照れていた。


 散らかった部屋を見られた時の顔に似ていた。


⸻


「元々は、こういう仕事をする家でした。地方の記録を取って、整理して、都へ送る。大きな家ではありません。家運も落ちました。でも、記録だけは残りました」


⸻


 棚を整えながら、スズリは話した。


 戻ってきた場所を、自分でも確かめているみたいだった。


⸻


「私の身分では、本来、神野様のお側に置かれるようなことはありません」


⸻


 少し間があった。


⸻


「でも、神野様が字を見て下さいました」


⸻


 スズリの指が、紙束の角を揃えた。


 丁寧だった。


 速くはない。


 けれど、狂わない。


 端がぴたりと合う。


⸻


「綺麗な字だから、ではありません。そう言って下さいました。見たものを、残す形にできる字だと」


⸻


 シンはスズリを見た。


⸻


「それで、抜擢されたのか」


⸻


「はい」


⸻


 スズリは頷いた。


⸻


「侍女ではありません」


⸻


 スズリは言った。


⸻


「そういう役ではなくて」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「知ってる」


⸻


 スズリが少し止まった。


 それから、また紙を整え始めた。


⸻


 カミノが作業棟を歩き回っていた。


 棚を見る。


 籠を見る。


 地図を広げようとする。


 スズリが静かに取り返す。


⸻


「神野様は見る方です」


⸻


 スズリが言った。


 淡々としていた。


⸻


「だから私が書くんです」


⸻


 カミノが笑った。


 否定しなかった。


⸻


 胆沢で炉守りが言っていたことを、シンは思い出した。


 火は炭になる。


 炭は砕ける。


 砕ければ墨になる。


 墨になれば残る。


⸻


 炉守りは火を残した。


 スズリは墨を残す。


 たぶん、同じ仕事だった。


⸻


 カミノが見たものが、スズリを通して紙になる。


 紙になれば残る。


 それがここだった。


⸻


 最初から、ここへ繋がっていた。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 タダはいつの間にか納屋を使い始めていた。


 誰も許可していなかった。


 でもいた。


 荷車を入れ、干肉を吊るし、明日の段取りをしている。


 京の市場へ出す物と、出さない物を分けていた。


⸻


「ここ、使っていいのか」


⸻


「空いている」


⸻


「許可は」


⸻


「後で取る」


⸻


「順番が逆なのでは」


⸻


「荷は待たない」


⸻


 タダは真顔だった。


 カミノが少し考えた。


⸻


「確かに、荷は待たないな」


⸻


「納得しないでください……」


⸻


 護衛がまた小さく呻いた。


⸻


⸻


 作業棟に灯があった。


⸻


 スズリが書いていた。


 旅中に取った記録の整理だった。


 胆沢からここまでの全部。


 白河の関。


 那須の湯。


 信濃の山道。


 不破の関。


 近江の水。


 瀬田の橋。


 逢坂の山。


 賀茂の川。


 京の道。


⸻


 量が多かった。


 でも、スズリの手は止まらなかった。


 字は美しいというより、乱れない。


 丁寧で、正確だった。


 細い線が、紙の上に道を作っていく。


⸻


 シンは入口の近くに座って、灯の光を見ていた。


 墨を磨る音がする。


 筆が紙を擦る音がする。


 外から京の夜の音が来る。


 遠くで鐘が鳴る。


 牛車の車輪が、どこかの道をゆっくり通る。


 誰かの笑い声がして、すぐ消える。


⸻


 胆沢の炉の音に似ていた。


 似ていない。


 でも似ていた。


 何かが続いていく音だった。


⸻


⸻


 夜更けに、カミノが戻ってきた。


⸻


 顔が違った。


⸻


 宮の方へ行っていたらしかった。


 衣を直している。


 従者が二人、外で控えている。


 旅の顔ではない。


 都の顔だった。


⸻


 だが、その中に、別のものが混じっていた。


 疲れ。


 怒り。


 それから、警戒。


⸻


「何かあったか」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 カミノは少し間を置いた。


⸻


「動いている」


⸻


「誰が」


⸻


「一人ではない」


⸻


 そう言いながら中へ入った。


 スズリを見た。


 スズリが筆を置いた。


 二人の間に、言葉より先の確認があった。


⸻


「陸奥の帰服が、朝議に上がっている」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「処断を決めたがっている者がいる」


⸻


「早すぎないか」


⸻


「早い。だから妙だ」


⸻


 カミノは座らなかった。


 立ったまま、灯の横で話した。


⸻


「田村麻呂はまだ遠い。助命の文も、本人の言葉も、都へ届いて形になるまで時間がいる」


⸻


「じゃあ、先に殺す話だけ進んでるのか」


⸻


「そう見える」


⸻


 スズリの指が、紙の端を押さえた。


⸻


「助命を望む方はいないのですか」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「私がそうだ。田村麻呂殿も、帰れば必ず願う。参議の緒嗣殿も、無駄な征討を続けることには疑いを持っている。まだ大きく声を通せる立場ではないが、彼は見る目がある」


⸻


「穏健派ってやつか」


⸻


「言葉にすれば、そうなる」


⸻


 カミノは少しだけ苦く笑った。


⸻


「だが、穏やかだから勝つわけではない」


⸻


「強硬派は」


⸻


「いる」


⸻


 即答だった。


⸻


「式家の仲成は、東宮に近い。東宮は、陸奥の者を恐れている。恐れている者の耳へ、討つべきだと囁けば、それは忠義の形になる」


⸻


「東宮って、カミノの兄貴か」


⸻


「ああ」


⸻


 カミノの声は低かった。


⸻


「兄上が悪人というわけではない。むしろ逆だ。恐れている。国が揺れることを。父上の御世が終わる前に、禍根が残ることを。自分の代に、北がまた燃えることを」


⸻


「恐いから、殺すのか」


⸻


「恐い者は、殺せば恐くなくなると思う」


⸻


 火が小さく鳴った。


⸻


「だが、それだけならまだ見える。文に残る。誰が言ったかも追える」


⸻


 カミノは、そこで声を落とした。


⸻


「問題は、御簾の奥だ」


⸻


 スズリの顔が少し強張った。


⸻


「強硬派を裏で煽っている者がいる」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「陸奥へ関わる立場ではない。陸奥を口実にして、強硬な者たちの恐れを撫でている奴だ」


⸻


「名前は」


⸻


「出ない」


⸻


「分からないのか」


⸻


 カミノは少しだけ口元を歪めた。


⸻


「……検討はつくがな」


⸻


 沈黙が落ちた。


⸻


「では、なぜ言わないんですか」


⸻


 スズリが聞いた。


⸻


「名を出せば、こちらが先に汚れる」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「正式な命ではない。印もない。文もない。誰かの不安を聞き、誰かの忠義を褒め、誰かの恐れに形を与える。それだけだ。だが、それだけで人は動く」


⸻


 シンは意味を全部は分からなかった。


 でも嫌な感じは分かった。


⸻


「毘沙門の狂信者達の話も、まだ消えていない」


⸻


 カミノが続けた。


⸻


「白桃が退いたから終わり、ではない。神託を聞いたつもりの者がいる。神の加護だと信じた者がいる。北の鬼を都で裁くことこそ、国を守ることだと考える者がいる」


⸻


「あいつらは鬼じゃない」


⸻


「分かっている」


⸻


「分かってるなら」


⸻


「分かっている者だけで、朝廷は動かない」


⸻


 前にも似たことを聞いた。


 でも、京で聞くと重さが違った。


⸻


 ここでは、言葉が人を殺す。


 矢より遅く飛ぶ。


 でも、刺されば抜けない。


⸻


「アテルイとモレは、都では人ではなくなる」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「功績になる。面子になる。恐れになる。見せしめになる。誰かの忠義になる。誰かの祈りになる。誰かの保身になる」


⸻


 シンは歯を食いしばった。


⸻


「あいつらは、人だ」


⸻


「だから、お前も来たんだろう」


⸻


 カミノは、そこで初めてシンを見た。


⸻


 シンは答えなかった。


 答える必要がなかった。


⸻


「明日から、私は動く」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「お前たちも、外へ出る時は必ず誰かをつける。スズリは記録を続けろ。ただし、出す文と隠す文を分ける」


⸻


「隠す文」


⸻


 スズリが繰り返した。


⸻


「消される前に残す文だ」


⸻


 スズリの目が変わった。


 怯えではなかった。


 紙を見る目だった。


⸻


「書きます」


⸻


 声は静かだった。


⸻


「消させません」


⸻


 シンは、その声を聞いて息を吸った。


 胆沢の炉の前で聞いた声と同じだった。


⸻


⸻


 シンは外へ出た。


⸻


 平安京の夜があった。


⸻


 灯火が並んでいる。


 大路の方へ、光が続いている。


 遠くに宮の闇がある。


 近くに人家の灯がある。


 牛の低い声がした。


 どこかで戸が閉まる音がした。


 夜番の足音が通り過ぎる。


⸻


 豊かだった。


 巨大だった。


 凄かった。


⸻


 でも。


⸻


 ここでは人が消える。


⸻


 静かに消える。


 理由も分からないまま消える。


 紙に残らなければ、最初からいなかったことになる。


⸻


 都は、そういう場所だった。


⸻


 アテルイ。


 モレ。


⸻


 時間があまりなかった。


 歴史が正しいなら。


 恐らく、あと少しだった。


⸻


 シンは夜の大路を見た。


 まっすぐな道。


 人が引いた線。


 国が作った形。


⸻


 なら、その線をずらす。


⸻


 胸の奥に、前の死の矢の冷たさがまだ残っている。


 不破の関の風も残っている。


 胆沢の火も残っている。


 子供の木片も、手の中にないのに、まだ指が覚えている。


⸻


 帰ってきたら返して。


⸻


「返す」


⸻


 シンは呟いた。


⸻


「返しに行く」


⸻


 鐘が鳴った。


 遠かった。


 夜が深かった。


⸻


 京は眠らない。


 御簾の奥で、誰かがまだ囁いている。


 文にならない言葉が、誰かの耳へ入っていく。


⸻


 それでも。


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


 もう、死なせない。


 都が二人を殺すなら、都の中で止める。


 記録が二人を鬼にするなら、その前に奪い返す。


⸻


 消させない。


⸻


⸻


 同じ夜。


⸻


 内裏の奥に、灯の届きにくい一画があった。


⸻


 公の図には載らない。


 日々の記録にも残らない。


 誰が通ったか。


 誰が開けたか。


 誰がそこで何を聞いたか。


 そのすべてが、朝になれば無かったことになる場所だった。


⸻


 そこに、人がいた。


⸻


 本来ならば、内裏に入れるはずのない女。


 そして、古くから朝廷に巣食う者たち。


⸻


 常世衆。


⸻


 そう呼ばれてきた。


 そう呼ばれない時代もあった。


 名を変え、衣を変え、祈りの言葉を変えながら、彼らはいつも神託のそばにいた。


⸻


 神の声が必要な時、彼らは声を整えた。


 国が敵を欲した時、彼らは鬼を決めた。


 まつろわぬ者を焼く時、彼らはそれを天の意志と呼んだ。


⸻


 白桃は、そのために使われてきた。


⸻


 白い雷。


 桃の匂い。


 ためらわない刃。


 人が人を殺すには重すぎる時、彼らは神の名を借りた。


 神の名だけで足りない時、白桃を動かした。


⸻


 火が消える。


 村が消える。


 名が消える。


 記録が消える。


⸻


 それでも、朝廷の紙には何も残らない。


 残るのは、鬼が討たれたという一行だけだった。


⸻


 低い読経が続いていた。


⸻


 声というより、雑音に近かった。


 耳の奥を擦るような音。


 石の下で虫が鳴いているような音。


 人の声なのに、人の言葉になりきらない音。


⸻


 灯籠の火がぼんやり揺れている。


 濃い香の煙が床を這い、御簾の裾に絡んでいた。


 誰かの影がある。


 数は分からない。


 顔も分からない。


 ただ、そこにいることだけが分かった。


⸻


 その中心に、女がひとり座っていた。


⸻


 藤原薬子。


⸻


 妖しく美しい女だった。


 白い顔。


 濡れたような唇。


 薄く伏せた目。


 指先だけが、灯の中で生き物のように動いている。


⸻


 その指が、黒い石を撫でた。


 石なのか、墨なのか、骨なのか。


 暗がりでは分からない。


⸻


 薬子は笑っていなかった。


 泣いてもいなかった。


 怒ってもいなかった。


⸻


 ただ、静かだった。


⸻


 静かすぎた。


⸻


 常世衆の読経が、さらに低く沈んだ。


 灯籠の火が一度だけ細くなった。


 御簾の奥で、誰かが名を囁いた。


⸻


 陸奥。


⸻


 鬼。


⸻


 白桃。


⸻


 薬子の目が、ゆっくり開いた。


⸻


 彼女は静かに狂っていた。


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(第八十六話へ)


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