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シンの決意

第八十四話 シンの決意


⸻


 目を開けた。


⸻


 霧だった。


 山道に霧があった。


 深い。


 木の輪郭が溶けている。


 音が吸われている。


⸻


 同じ朝だった。


⸻


 シンは、しばらく息ができなかった。


 胸に矢が入った感触が残っていた。


 骨の奥に、冷たいものが刺さっている。


 手で胸を押さえる。


 傷はない。


 血もない。


⸻


 でも、死んだ。


⸻


 久しぶりだった。


 久しぶりに、あっさり死んだ。


 胆沢で繰り返した時とは違う。


 戦の中で覚悟して割って入った死でもない。


 霧の中から矢が来て、何もできずに倒れた。


⸻


(まずい)


⸻


 焦りが来た。


 喉が乾く。


 指が震える。


 足の裏が、まだ地面を掴めていない。


⸻


 それでも、目の前では皆が動いていた。


⸻


 護衛が列を整えている。


 タダが荷車の縄を見ている。


 カミノが何かを護衛へ話しかけている。


 スズリが紙束を胸に抱えている。


⸻


 皆が生きていた。


⸻


 矢はまだ来ていない。


⸻


 シンは息を吸った。


 焦るな。


 死んだのは終わりじゃない。


 戻ったなら、使え。


⸻


「カミノ、馬の方へ寄れ。右側」


⸻


 カミノが振り向いた。


⸻


「どうした突然」


⸻


「いいから右。護衛は盾を上げろ。森側だ」


⸻


 護衛の顔が変わった。


 理由は分からない。


 だが、シンの声が遊びではないことは伝わった。


⸻


「スズリ、荷車の左に」


⸻


「えっ」


⸻


「紙ごと伏せられる場所。そこ」


⸻


「はい」


⸻


「タダ、前に出るな。荷車を横に倒せるようにしとけ」


⸻


「分かった」


⸻


 タダだけ即答だった。


 理由を聞かなかった。


 それで十分だった。


⸻


 霧の中、森の右側を見る。


 何もない。


 まだ何もない。


⸻


 でも来る。


⸻


 シンは、息を止めた。


⸻


 矢が来た。


⸻


「右!!」


⸻


 護衛が動いた。


 盾が上がる。


 カミノが伏せる。


 スズリが荷車の陰に入る。


⸻


 最初の矢は、盾へ当たった。


⸻


 乾いた音。


 前の死で、護衛の首へ刺さった矢だった。


⸻


 男は倒れなかった。


 生きている。


⸻


 二射目が来た。


⸻


「低く!」


⸻


 護衛の一人が肩をかすった。


 血は出た。


 だが、立っている。


⸻


 三射目が飛んだ瞬間、森から声が来た。


⸻


「毘沙門天の加護ぞある!!」


⸻


「鬼の道連れを討て!!」


⸻


「神使を惑わす者を滅せよ!!」


⸻


 霧の中に人影が出てきた。


 五、六人。


 武装している。


 目に理性がない。


⸻


 護衛が構えた。


 数で負けてはいない。


 だが、カミノを守る分だけ動きが狭い。


 敵は死ぬことを怖がっていない。


 そこが厄介だった。


⸻


 横から動いた者がいた。


⸻


 護衛の列の中に、ずっとそこにいたみたいな顔で混ざっていた男が前に出た。


 金髪だった。


 軽い立ち方だった。


⸻


「ちょっと待ってね」


⸻


 ワカレだった。


⸻


 シンは絶句した。


⸻


「お前いたのかよ!!」


⸻


「いたよ?」


⸻


 ワカレは答えながら、もう動いていた。


 戦うというより、ずらしていた。


 足を払う。


 肩を押す。


 盾の角度を少し変える。


 敵の踏み込みを、隣の敵へぶつける。


⸻


 霧の中で、道が曲がったみたいだった。


⸻


 向こうの陣形が崩れる。


 護衛の退路が開く。


 タダが荷車を横に倒した。


 遮蔽になった。


⸻


 カミノとスズリがその後ろに入った。


 タダはそのまま荷を見た。


 干肉の包みが落ちていないか確認していた。


⸻


「今それ見る!?」


⸻


「大事だ」


⸻


 タダは真顔だった。


 仕事が速かった。


 腹が立つほど頼もしかった。


⸻


 毘沙門兵が迷った。


 カミノが見えない。


 スズリも見えない。


 シンも盾と荷車の陰に入った。


 狙いが、霧の中で割れた。


⸻


 ワカレが最後に一人の膝を軽く蹴った。


 その男が倒れ、後ろの二人が止まる。


⸻


「はい。今日はここまで」


⸻


 軽い声だった。


⸻


 敵は退いた。


 霧の中へ消えていく。


 声だけが遠ざかった。


⸻


 静かになった。


⸻


⸻


 スズリが震えていた。


⸻


 荷車の陰で、紙束を抱えたまま動けずにいる。


 顔は白い。


 唇だけが少し震えている。


⸻


 シンは近づいた。


 膝をつく。


⸻


「大丈夫か」


⸻


 スズリはすぐには答えなかった。


 紙束を抱える指に力が入りすぎている。


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「……はい」


⸻


 声は、はいと言っていなかった。


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「ごめん」


⸻


 シンは言った。


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 スズリが顔を上げた。


⸻


「なぜ、シンさんが謝るんですか」


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 答えられなかった。


 前の朝、何もできずに死んだ。


 スズリを残して死んだ。


 その記憶が、シンの中だけにある。


⸻


「驚かせた」


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「驚いたのは、矢に、です」


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「それは、そうだな」


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「シンさんは、助けてくれました」


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 スズリの声はまだ震えていた。


 それでも、言葉だけはまっすぐだった。


⸻


 シンは困った。


⸻


「じゃあ、謝るの取り消す」


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「取り消せるものなんですか」


⸻


「たぶん」


⸻


 スズリは少しだけ息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 けれど、震えがほんの少しだけ弱くなった。


⸻


「紙は」


⸻


「無事です」


⸻


「よかった」


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「私も無事です」


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「ああ。そっちが先だった」


⸻


 スズリの目が、ほんの少しだけ怒った。


 それを見て、シンはようやく安心した。


⸻


⸻


「前回サボってたろ」


⸻


 少し離れて、シンはワカレへ言った。


⸻


「前回?」


⸻


 ワカレが首を傾げた。


⸻


「いや……何でもない」


⸻


 シンは引いた。


 分からない。


 本当に知らないのか。


 知らないふりなのか。


 それも分からなかった。


⸻


 ただ一つだけ確かなことがある。


 ワカレは普通じゃない。


 それだけだった。


⸻


「どこ行ってた」


⸻


「ごめんね、知り合いに会っててさ」


⸻


「ミチヌシか」


⸻


 ワカレは否定しなかった。


 木の幹に背を預け、霧の奥を見ていた。


⸻


「あいつは残るんだよ」


⸻


「俺は流れる」


⸻


「違いは?」


⸻


「性格」


⸻


 即答だった。


⸻


「あと足」


⸻


「俺の方が速い」


⸻


 笑っていた。


 いつもの顔だった。


⸻


「ミチヌシは、道を動かさないって言ってた」


⸻


「そうだね」


⸻


「お前は動かすのか」


⸻


「俺は、動いてる方へ乗る」


⸻


 ワカレは、倒れた荷車を起こしているタダを見た。


 次に、カミノを見た。


 カミノは護衛に起こされながら、矢の飛んできた方角を見ている。


⸻


「流れが変わる時って、面白いんだよ」


⸻


「面白いで済ませるな」


⸻


「済ませないよ。だから手も貸す」


⸻


 軽い声だった。


 だが、その一言だけは、少し軽くなかった。


⸻


「昔から何やってたんだ」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 ワカレは少し考えた。


 珍しかった。


 いつもはすぐ答える。


⸻


「流れてた」


⸻


「どういう事だ?」


⸻


「道に迷った奴を案内したり」


⸻


 少し間があった。


⸻


「カミノくんのご先祖様も、何回か運んだよ」


⸻


「山越え?」


⸻


「道案内」


⸻


「都の人は迷うから」


⸻


 ワカレは笑った。


⸻


「山弱いんだよ、あの家」


⸻


 シンは止まった。


⸻


「……本当か」


⸻


 ワカレは笑っていた。


 軽かった。


 でも、目だけが少し別の場所を見ていた。


 古い目だった。


 途方もない時間を見てきた目だった。


⸻


「……俺達は、何なんだと思う?」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 ワカレの笑いが少しだけ薄くなった。


⸻


「知らない」


⸻


 少し間があった。


⸻


「でも普通じゃない」


⸻


「長く歩いてる顔してるよ」


⸻


 それだけだった。


 それ以上は言わなかった。


 シンも聞かなかった。


⸻


⸻


 旅を再開した。


⸻


 霧は昼近くまで残った。


 道の端に湿った草が垂れている。


 馬の足は重い。


 護衛の肩の傷は浅かったが、布を巻く手に力が入っていた。


⸻


 タダは荷車を押しながら、時々後ろを見た。


 干肉ではなく、スズリを見ていた。


 たぶん。


 少なくとも、そう見えた。


⸻


 カミノは黙っていた。


⸻


 珍しかった。


 道端の草にも、石にも、鳥にも反応しない。


 霧の向こうを見ていた。


 さっき矢が飛んできた森ではない。


 もっと遠い場所を見ている顔だった。


⸻


⸻


 夕方になった頃、沢のそばで小休止になった。


⸻


 馬に水を飲ませる。


 護衛の肩の布を締め直す。


 荷車の車輪を確かめる。


 タダは荷の中身を数え、スズリは少し離れた石の上で紙を乾かしていた。


⸻


 カミノはろくに休まず、立ったまま腕を組んで沢の水の流れを見ている。


 護衛が諦めた顔でその横に立っていた。


⸻


 シンは沢の水を飲んだ。


 冷たかった。


 胸の奥に残っていた矢の感触が、少しだけ薄くなった。


⸻


 その時、古道の脇に石があるのを見た。


⸻


 鹿骨が置かれていた。


 石の横に、細身の人影があった。


⸻


 小休止のざわめきだけが、妙に遠くなる。


 馬の鼻息。


 荷縄の音。


 水の音。


 全部が、薄い膜の向こうへ退いた。


⸻


 シンは足を止めた。


⸻


「……また会ったな」


⸻


「そうだな」


⸻


 ミチヌシが居た。


 静かだった。


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「ワカレに会った」


⸻


「そうか」


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「アイツも似たことを言ってた」


⸻


「俺達は、何か抱えてるって」


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 少し間があった。


 ミチヌシは石を見ていた。


 鹿骨を見ていた。


⸻


「知らん」


⸻


「だが、空ではない」


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「目的はある」


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「そのうち思い出す」


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 それだけだった。


⸻


「ヒントくらいくれよ」


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「歩け」


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「それヒントか?」


⸻


「道の上ではな」


⸻


 風が来た。


 振り返ると、沢のそばでは皆がまだ休んでいた。


 護衛が馬の口を引き、タダが荷縄を締め、スズリが紙を胸へ戻している。


⸻


 もう一度、石の方を見る。


 男はもういなかった。


 石だけが残っていた。


⸻


 移動中ではない。


 夢でもない。


 小休止の沢のそば。


 その、ほんの数歩外側に、あいつはいた。


⸻


 また何処かで会う。そんな気がした。


⸻


⸻


 その夜は、信濃を抜ける山道の手前で泊まった。


⸻


 山の水は冷たかった。


 沢の音が強い。


 夜になると霧は消え、空に星が出た。


 だが、昼の襲撃のせいで、誰もすぐには眠らなかった。


⸻


 護衛は交代で立った。


 タダは荷の横で寝ていた。


 寝ているように見えたが、荷車へ近づく足音があれば、たぶん起きる。


⸻


 スズリは火のそばで紙を開いていた。


 筆は持っている。


 けれど、なかなか書かない。


⸻


 シンは声をかけようとして、やめた。


 代わりに、少し離れた場所へ座った。


⸻


 カミノが来た。


⸻


「少しいいか」


⸻


「ああ」


⸻


 カミノは火ではなく、暗い道を見た。


⸻


「今日の襲撃は、私も巻き込む形だった」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「狙いがお前だけなら、もっと違うやり方があった。スズリだけでもない。護衛だけでもない。あれは、まとめて消してもよい形だった」


⸻


「そうなのか」


⸻


「そう見えた」


⸻


 カミノの声は静かだった。


 昼の好奇心の声ではない。


 王の血筋の声だった。


⸻


「……兄上は、私がいない方が都合がよいと思うことはあるだろう」


⸻


 シンはカミノを見た。


⸻


「兄弟って、そういうものなのか」


⸻


「皇子の兄弟なら、そういう時もある」


⸻


 カミノは苦く笑った。


⸻


「だが、兄上は、そのために山中で私を矢にかける決断をする人ではない。少なくとも、今の兄上は違う」


⸻


「じゃあ誰だ」


⸻


「分からない」


⸻


 カミノは即答した。


⸻


「分からないが、都は私が思っていたより、おかしくなっているのかもしれない」


⸻


 火が小さく鳴った。


⸻


「父上は老いた」


⸻


 その言葉は、火へ落ちる炭みたいに低かった。


⸻


「老いてなお、国を動かそうとしている。いや、動かさなければ止まると思っているのかもしれない。止まれば壊れる。壊れれば、自分が築いたものまで崩れる。父上は、それを恐れている」


⸻


 シンは何も言わなかった。


⸻


「兄上は、その重さをもう背に置かれている。東宮というのは、次に座る場所の名ではない。座る前から、四方から手を掛けられる場所だ」


⸻


「手を掛けられる?」


⸻


「支える顔で掴む者がいる。慰める顔で縛る者がいる。泣いて頼む者がいる。笑って追い詰める者がいる」


⸻


 カミノは、少しだけ口元を歪めた。


⸻


「貴族は、醜いぞ」


⸻


 その言い方が、あまりに疲れていた。


⸻


「美しい字を書く。美しい衣を着る。美しい香を焚く。だが、欲は美しくならない。血筋を数え、席を奪い、誰の耳に何を入れるかで人を殺す」


⸻


「戦よりましとは限らないってことか」


⸻


「戦は死体が見える」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「都の争いは、死体が遅れて出る」


⸻


 シンの背中が冷えた。


⸻


「御簾の奥で囁く声がある。正式な命令ではない。印もない。誰の文にも残らない。だが、人の向きを変える声だ」


⸻


 カミノは火を見た。


⸻


「父上の御世のうちは、まだ表へ出ない。だが、奥で増えている。誰が言ったか分からない言葉が、誰かの判断になり、誰かの忠義になり、誰かの殺意になる」


⸻


 シンは意味を全部は分からなかった。


 でも、嫌な感じは分かった。


⸻


「アテルイとモレは、都では人ではなくなる」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「功績になる。面子になる。恐れになる。見せしめになる。兄上がどう思うか、父上がどう裁くか、その前に、あの二人へ意味をかぶせる者が必ず出る」


⸻


「あいつらは、人だ」


⸻


「分かっている」


⸻


「分かってるなら」


⸻


「分かっている者だけで都は動かない」


⸻


 カミノは、そこで初めてシンを見た。


⸻


「だから、お前も来るんだろう」


⸻


 シンは答えられなかった。


 胸の中で、何かが固まり始めていた。


⸻


「巻き込んですまない」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「それ、俺が言われる側か?」


⸻


「お前にもだ。だが、スズリへ謝らなければならないのは私だ」


⸻


 シンは困った。


⸻


「あいつは、謝られるより、ちゃんと見て書かせろって言うんじゃないか」


⸻


 カミノは一度、火の方を見た。


 スズリの横顔がある。


 筆はまだ止まっている。


⸻


「そうだろうな」


⸻


 少しだけ笑った。


 疲れた笑いだった。


⸻


「だから余計に、謝りにくい」


⸻


「分かる」


⸻


「お前も何か謝っていたな」


⸻


「見てたのか」


⸻


「聞こえた」


⸻


 シンは頭をかいた。


⸻


「俺も、理由は言えない」


⸻


「そうか」


⸻


 カミノはそれ以上聞かなかった。


⸻


 この旅の中には、言えないことが増えていく。


 だが、言えないままでも歩くしかない。


⸻


⸻


 翌日から、道はさらに西へ向かった。


⸻


 信濃の山が少しずつ後ろへ退いていく。


 谷を下り、川を渡り、湿った道から乾いた道へ変わる。


 美濃へ向かう口では、人と荷が増えた。


⸻


 木材を運ぶ者。


 布を運ぶ者。


 米を積む者。


 馬を替える者。


 文を懐に入れて急ぐ者。


⸻


 道が広くなるほど、息苦しくなる。


 逃げる場所は増えたようで、減っていった。


 山の中なら、木の陰に入ればいい。


 ここでは人の目が多い。


 荷の流れが速い。


 誰かの命令が、見えない縄みたいに道を締めている。


⸻


 カミノはそれを見ていた。


 スズリも書いていた。


 タダは売っていた。


⸻


「ここでも売るのか」


⸻


「人がいる」


⸻


「それは理由として強すぎる」


⸻


「商いは人だ」


⸻


 タダは当然のように言った。


⸻


 カミノがその言葉を書いた。


 美しい字だった。


 速いのに、線の先が澄んでいる。


⸻


「それ書くのか」


⸻


「使える」


⸻


「どこで」


⸻


「国を考える時に」


⸻


 タダが少しだけカミノを見た。


⸻


「高いぞ」


⸻


「今の言葉に値がつくのか」


⸻


「つく」


⸻


 カミノは真面目に考え始めた。


 護衛が小さく呻いた。


 シンは、少しだけ笑った。


⸻


 笑えたことに、自分で驚いた。


⸻


⸻


 信濃を抜け、美濃へ入る。


 さらに西へ進む頃には、山の気配がまた変わっていた。


⸻


 道は広がったり、狭まったりを繰り返す。


 沢の音が遠ざかり、かわりに人の声が増えた。


 荷馬の列が通る。


 役人の文箱が通る。


 僧らしき者が通る。


 顔を伏せた旅人も通る。


⸻


 通る者は多い。


 だが、皆、どこかで一度止められる気配を帯びていた。


⸻


 関が近いのだと、カミノが言った。


⸻


「不破の関だ。もう昔のような関ではないがな」


⸻


 その名を聞いた時、護衛の背筋が少し伸びた。


 スズリの筆も止まった。


⸻


「都に近いのか」


⸻


「近い」


⸻


 カミノは答えた。


⸻


「まだ都ではない。だが、ここを越えれば、都はもう遠いものではなくなる」


⸻


 その日の夕方、不破関が見えた。


⸻


 土の高まりがあった。


 草に覆われているが、自然の丘ではない。


 人を止めるための土だった。


 古い木柵の跡があり、その脇に新しく足された粗い柵があった。


 見張りもいた。


 道はそこで一度、細く絞られている。


⸻


 通すための場所ではない。


 まず止めるための場所だ。


 名を聞く。荷を見る。顔を見る。文を見る。


 関は廃された。


 けれど、人を疑う目は残っていた。


⸻


 胆沢の柵を思い出した。


 焼けた木。


 弓。


 盾。


 煙。


 白雷。


⸻


 同じ柵ではない。


 同じ戦でもない。


 でも、人を分けるものは、どこか似ていた。


⸻


 関の手前で列が止まった。


 カミノが前へ出る。


 護衛が続く。


 スズリが文を出す。


 タダは、珍しく何も売らずに黙っていた。


⸻


 シンは少し離れた場所で、土塁を見上げた。


⸻


 ここを越えれば、都が近い。


 都へ行けば、決まっているはずのことが待っている。


 アテルイとモレが連れて行かれる。


 助命の願いが出される。


 誰かがそれを退ける。


 首が落ちる。


⸻


 そんな話だったと思う。


 正確な場所も、日も、誰が何を言ったのかも、シンには分からない。


 ただ、結末だけが胸に刺さっている。


⸻


 二人は死ぬ。


⸻


 それが、知っている歴史だった。


⸻


「違う」


⸻


 声が出た。


 自分でも驚くくらい、低い声だった。


⸻


 違う。


 そうはさせない。


 歴史がそう書いているなら、書き換える。


 国家の記録が二人を殺すなら、その前に奪い返す。


 アテルイを死なせない。


 モレを死なせない。


 あの二人を都の面子にも、見せしめにも、誰かの功績にもさせない。


⸻


 それは、ただ助けたいというだけではなかった。


 あの二人が死ぬことで、歴史は一つの形に固まる。


 鬼は討たれた。


 まつろわぬ者は都で裁かれた。


 そういう記録になる。


⸻


 なら、そこを変える。


⸻


 アテルイとモレを死なせない。


 二人を生かして、帰す。


 胆沢へ。


 スズリが書いた火のある場所へ。


 子供が木片を返せと言った場所へ。


⸻


 それができれば、歴史は変わる。


 勝者の記録だけではないものが残る。


 鬼として終わらない道が生まれる。


⸻


 シンは拳を握った。


 指の中に、子供から渡された木片の感触があった。


 実際には荷の中にある。


 でも、手が覚えていた。


⸻


 帰ってきたら返して。


⸻


 あの声が、耳の奥に残っている。


⸻


「返す」


⸻


 シンは呟いた。


⸻


「返しに行く」


⸻


 関の向こうから、風が来た。


 山の匂いではなかった。


 湯の匂いでもなかった。


 火の匂いでもなかった。


⸻


 都へ続く道の匂いだった。


⸻


 シンは顔を上げた。


 不破関の向こうに、夕暮れの空が広がっていた。


 その先に都がある。


 その先に、アテルイとモレの死がある。


⸻


 なら。


⸻


 そこを変える。


⸻


 カミノが戻ってきた。


 スズリも、紙束を抱えてこちらを見る。


 タダは荷縄を直しながら、何も聞かずに待っていた。


⸻


 シンは、三人を見た。


 そして、関の向こうを見た。


⸻


 今度は、ただ見ているだけでは済まない。


⸻


 胸の奥に、矢の冷たさがまだ残っている。


 その冷たさごと、シンは歩き出した。


⸻


 もう、死なせない。


 そこから歴史を変える。


⸻


 消させない。


⸻


⸻


(第八十五話へ)


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