境
第八十三話 境
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那須を出てから、数日が過ぎた。
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湯の匂いは、とっくに袖から消えた。
それでも、ふとした時に思い出す。
岩に背を預けた熱。
湯気の向こうで聞こえたスズリの声。
胆沢ではない夜の静けさ。
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旅は続いていた。
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東山道を西へ進む。
道は、ただの土ではなかった。
人が踏み、馬が踏み、荷が通り、文が通り、命令が通る。
踏み固められた場所は硬く、雨の残った窪みには空が映った。
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春の田があった。
水路があった。
苗代を覗く女がいて、畦を直す男がいた。
子供が泥へ足を取られて、叱られていた。
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胆沢にも人はいた。
火も、畑も、笑い声もあった。
けれど、ここは違った。
道が、人を運んでいる。
人が道を歩いているというより、道そのものが国の中へ人を流しているようだった。
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タダは、その流れに完全に乗っていた。
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村へ入る。
荷を下ろす。
干肉を見せる。
塩を少し舐めさせる。
鍋の底を叩く。
気づくと、もう商談が終わっている。
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「早すぎるだろ」
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シンが言った時には、タダは干した草を荷へ入れていた。
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「必要なものだ」
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「何に」
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「必要な時に分かる」
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「それ言えば何でも通ると思ってないか」
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「通っている」
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実際、通っていた。
ずるかった。
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カミノは、村ごとに消えた。
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田を見る。
水路を見る。
鍬を見る。
馬を見る。
屋根を見る。
子供の遊びまで見る。
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護衛が追う。
カミノが曲がる。
護衛も曲がる。
カミノが戻る。
護衛が通り過ぎる。
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「宮様!?」
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「ここだ」
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「なぜ後ろに」
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「面白い石があった」
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「石より前を見てください」
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「前にも石はある」
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「そういう意味ではございません」
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護衛は日に日に老けていった。
胆沢で戦を越えた顔より、村でカミノを追う顔の方が疲れていた。
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スズリは、その横で記録を続けていた。
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村の形。
水の流れ。
田の使い方。
道の状態。
石の位置。
人の顔。
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全部書いた。
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カミノも書いた。
速かった。
速すぎた。
見る、聞く、書くがほとんど同時だった。
雑に見える。
だが、近くで見ると字は乱れていなかった。
線が走り、跳ね、流れているのに、美しい。
風が紙の上を通ったみたいな字だった。
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スズリの字は違った。
丁寧だった。
正確だった。
水の深さを測るように、一画ずつ置いていく。
急がない。
けれど逃がさない。
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「二人とも、同じものを書いてるのか」
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シンが聞くと、カミノが板から目を上げずに答えた。
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「私は見た勢いを書く」
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次にスズリが、筆先を整えてから言った。
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「私は、後で確かめられるように書きます」
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「なるほど」
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分かったような顔をした。
半分くらいしか分かっていなかった。
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さらに日を重ねると、空気が変わった。
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山が近くなった。
しかし胆沢の山とは違う。
低く広い山並みが幾重にも続き、その間に水が光る。
湿った草地があり、葦が揺れ、湖の匂いが風に混じった。
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諏訪のあたりだと、カミノが言った。
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「この辺りは古い」
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馬を並べながら、カミノが周囲を見る。
湖の方を見ているのに、目は水だけを見ていない。
道も、山も、田も、人もまとめて見ていた。
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「東山道の要所だ。東国と都をつなぐ幹でもあるし、山を越える道の結び目でもある」
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「人が集まる場所か」
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「そうだ。人が集まれば、荷も集まる。荷が集まれば、言葉も集まる。言葉が集まれば、神も増える」
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「神が増える?」
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シンが聞き返すと、スズリが少し前から振り向いた。
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「古い祀りが、残りやすい土地なのだと思います」
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スズリは道脇の石へ目を落とした。
小さな石だった。
誰かが置いた石。
雨と苔に削られながら、それでも道の角に立っている。
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「山を越える場所には、境があります。ここから先は別の土地だと、人は感じます。だから石を置く。手を合わせる。通ってよいか、戻れるか、そういうことを確かめる」
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「道の許し、みたいなものか」
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「たぶん」
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スズリは断定しなかった。
その代わり、石の形を紙へ写した。
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カミノが頷いた。
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「都の書に載る神だけが、神ではない。こういう土地には、名が整えられる前からいるものがある」
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「名前がない神?」
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「名前が後から追いつく神だ」
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シンは、道脇の石を見た。
ただの石に見える。
でも、ただの石ではないと言われれば、そんな気もした。
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山の風が吹いた。
遠くで鹿が鳴いた。
水の音が、あちらこちらから来た。
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この土地では、道が一本ではない。
今、人が使う道。
昔、人が使った道。
人より先に獣が歩いた道。
道ではなくなっても、まだ覚えられている道。
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それらが山の肌に重なっていた。
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その夜、野営になった。
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湖から少し離れた、山裾の平らな場所だった。
火を起こすには枝が湿っていたが、タダはどこからか乾いた薪を出した。
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「持ってたのか」
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「必要なものだ」
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「出た」
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「よく出る言葉は役に立つ」
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シンは負けた。
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火がつく。
カミノが板に書く。
スズリが紙に書く。
護衛はカミノが動かないことに、深い安堵を覚えている顔だった。
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飯の後、シンは一人で火から離れた。
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桃の香りがした。
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木の間だった。
白い気配がある。
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「モモ」
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呼ぶと、影が動いた。
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白桃ではなかった。
完全にモモでもなかった。
刃はない。
命令の目でもない。
けれど、安定していない。
揺れている。
迷っている。
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「……シン」
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声は、少し遅れて出てきた。
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「自分で来たのか」
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モモはすぐ答えなかった。
白い指が、衣の端を掴む。
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「……分からない」
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「命令か」
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「……そうかもしれない」
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桃の香りが、風に揺れた。
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「違うかもしれない」
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「モモ」
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「気付いたら、いた」
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その言葉も、少し遅れた。
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「……でも」
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モモはシンを見た。
冷たい目ではなかった。
遠くから戻ってきたみたいな目だった。
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「来たかった気もする」
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それだけだった。
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シンは黙った。
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命令だけではない。
でも、本人にも分かっていない。
白桃の中にモモが残っているのか。
モモの中に白桃が刺さったままなのか。
シンには分からなかった。
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ただ、今ここにいるモモは、シンを斬ろうとしていなかった。
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少し離れた場所に、男がいた。
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いつからそこにいたのか分からなかった。
気付いた時には、古い石の脇に立っていた。
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細身の男だった。
白髪。
杖。
人間の形をしている。
けれど、人間の気配ではない。
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シンは息を止めた。
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見覚えがあった。
ずっと前。
五百年以上前。
道の上で会った。
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「……ミチヌシ」
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男は、少しだけ首を傾けた。
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「久しい」
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静かな声だった。
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「アンタも、やっぱりいるんだな」
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「いる」
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ミチヌシは石を見た。
石の脇に落ちていた鹿の骨を見た。
山を見た。
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「ここは古い」
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それだけで、風の音が変わった気がした。
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「人が来る前に、鹿が歩いた」
「鹿が歩く前に、水が流れた」
「水が流れる前に、山があった」
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ミチヌシは石へ触れた。
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「鹿が踏む」
「人が踏む」
「何度も踏む」
「道になる」
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モモの目が、わずかに動いた。
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「古い、道の神格化」
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小さな声だった。
モモの中の知識が、現地の景色と結びつこうとしている。
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「峠。境界。石。鹿。山の民。後世の信仰では、いくつかの名に分かれる。あるいは、混ざる。中央の神話には完全に回収されない古層……」
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そこで一度、言葉が止まった。
モモはミチヌシを見た。
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「あなたは、その単純な別名ではない」
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ミチヌシは否定しなかった。
肯定もしなかった。
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「人は名を付ける」
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ミチヌシが言った。
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「名が付けば、呼べる」
「呼べば、形が寄る」
「だが、名より先に道はある」
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モモの指が震えた。
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「ミチヌシは、名前じゃない」
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「そうだ」
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「役割」
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「近い」
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ミチヌシは、そこで初めてモモを見た。
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「お前も、名を付けられたな」
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モモの顔が止まった。
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「モモ」
「白桃」
「神使」
「刃」
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言葉が一つずつ落ちた。
落ちるたびに、モモの目の奥で何かが揺れた。
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「名は、縛る」
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ミチヌシは言った。
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「だが、名だけではない」
「歩いた道も残る」
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モモは唇を開いた。
けれど、すぐには声が出なかった。
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「……私は」
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そこまで言って、止まる。
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「私は、何の上を歩いたの」
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シンは胸が詰まった。
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ミチヌシは答えなかった。
答えを渡すために来たのではない。
それは、シンにも分かった。
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「ワカレにも会った」
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シンが言った。
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ミチヌシの目が、少しだけ山の奥へ動いた。
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「奴は流れている」
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「いつも通りか」
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「いつも通りだ」
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それだけだった。
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「ミチヌシとワカレは、違うのか」
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モモが聞いた。
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「同じ道だ」
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ミチヌシは答えた。
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「俺は、戻る道」
「奴は、分かれる道」
「俺は、土地に残る」
「奴は、流れに乗る」
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シンはワカレの笑い方を思い出した。
川の上。
枝の上。
いつも軽く、いつも遠い。
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「どちらも道だ」
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ミチヌシは続けた。
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「帰る場所がなければ、分かれられない」
「分かれる先がなければ、道は腐る」
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シンは少し黙った。
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「俺たちは」
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言葉を探した。
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「俺とモモは、道なのか」
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「違う」
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即答だった。
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「なら、何だ」
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「分からん」
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「分からんのかよ」
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「分からん」
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ミチヌシは平然としていた。
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「だが、空ではない」
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風が止まった。
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「重さがある」
「お前たちは、何かを運んでいる」
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モモがシンを見た。
シンもモモを見た。
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何を。
誰を。
どこへ。
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答えは出なかった。
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その時だった。
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森の音が消えた。
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虫の音が消えた。
鳥が黙った。
沢の音だけが、妙に遠くなった。
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ミチヌシが、石から手を離した。
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「近い」
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低い声だった。
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「山を裂くものが来る」
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シンの背中に冷たいものが走った。
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「昔は、別の名で来た」
「今は、また別の名で来る」
「だが、道を一つにしたがる匂いは同じだ」
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モモが顔を上げた。
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「道を一つに……」
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言葉が、モモの中で何かに触れた。
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「武の神。雷。国譲り。征服神格。中央集権化された神話体系。東北制圧期における後世神託名との構造的類似。白桃運用名との――」
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そこで、モモの声が割れた。
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耳鳴りのような音がした。
実際に鳴ったのか、シンの頭の中だけだったのか分からなかった。
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「モモ?」
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モモが額を押さえた。
白い指が震えている。
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「……違う」
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声が低くなった。
モモの声なのに、どこか遠い。
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「そこは、見てはいけない」
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「誰が言ってる」
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「分からない」
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モモの目が揺れた。
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「でも、塞がれる」
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桃の香りが濃くなった。
甘いのに、息が詰まる。
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「タケミカヅチ」
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シンが言った。
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口にした瞬間、胸の奥で何かが繋がった。
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ユナ達の時代。
タケヒコの向こうにあった、武と秩序の名。
アサメ達の時代。
ミサネの神託と白い雷。
そして今。
毘沙門天の名で兵を動かし、白桃を刃として使うもの。
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名は違う。
時代も違う。
祀られ方も違う。
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でも、働きが同じだった。
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人の迷いを消す。
恐れを信仰へ変える。
道を一つにする。
外れたものを、鬼として斬らせる。
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「タケミカヅチと、ビシャモンテンは」
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シンは息を吸った。
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「同じものなのか、お前を……」
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モモの体が跳ねた。
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「言わないで」
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それは、ほとんど悲鳴だった。
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「シン、だめ」
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昔のモモの声に近かった。
命令ではない。
制止だった。
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「そこを見ると、来る」
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「何が」
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「白い、意思……」
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モモの瞳の奥に、白い光が走った。
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「私が、私でいられなくなる」
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シンは一歩近づいた。
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「モモ」
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モモも一歩下がった。
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「来たかった」
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声が震えていた。
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「でも、もう駄目」
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指が、見えない糸に引かれるように動く。
顔から表情が抜けていく。
さっきまで揺れていた目が、少しずつ冷えていく。
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「命令が」
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「モモ!」
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「戻る」
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桃の香りが、風に裂けた。
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モモは最後に、シンを見た。
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「……気をつけて」
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その声だけは、モモだった。
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次の瞬間、白い気配が木の間へほどけた。
そこには何も残っていなかった。
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桃の香りだけが、薄く残った。
それもすぐ、山の風へ溶けた。
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シンはしばらく動けなかった。
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ミチヌシは石の脇に立ったままだった。
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「止められないのか」
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シンが言った。
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「俺は、道を動かすものではない」
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「道の存在なんだろ」
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「だからだ」
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ミチヌシは山を見た。
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「人が歩く」
「名が積もる」
「国が線を引く」
「神の名で、道を縛る」
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石の上の苔が、夜露を受けて光っていた。
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「俺は、それを見ている」
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「見てるだけか」
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「多くはな」
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シンは拳を握った。
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「じゃあ、何で出てきた」
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ミチヌシはシンを見た。
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「お前が、境に立っているからだ」
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それだけだった。
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境。
胆沢と都。
山と国。
モモと白桃。
死ぬ前と、戻った後。
変わらなかった歴史と、変えてしまった歴史。
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全部が、今の自分の足元で重なっている気がした。
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「気をつけろ」
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ミチヌシが言った。
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「名を信じた者は、強い」
「自分で考えなくなる」
「恐れなくなる」
「死ぬことも、殺すことも、正しいと思う」
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シンは顔を上げた。
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男はいなかった。
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石だけがあった。
鹿の骨が一つ、石の脇に置かれていた。
さっきはなかった。
いつ置かれたのか分からなかった。
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風が戻った。
沢の音が戻った。
鳥が一度だけ鳴いた。
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シンは石を見た。
しばらく見た。
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(俺とモモは)
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(何のためにいる)
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答えは来なかった。
でも今日は違う気がした。
ただ生き延びるためではない。
ただ戻るためでもない。
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(変えるため、かもしれない)
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まだ分からない。
でも、初めてそこへ辿り着いた。
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野営へ戻ると、火があった。
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タダは横になっていた。
寝ているのか起きているのか分からない。
カミノはまだ何かを書いていた。
スズリも書いていた。
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何も変わっていなかった。
それが良かった。
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「どこへ行っていた」
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タダが目を閉じたまま聞いた。
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「石を見てた」
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「そうか」
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それ以上は聞かなかった。
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シンは火のそばに座った。
少し遅れて、スズリが顔を上げた。
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「寒くありませんか」
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「ああ」
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「顔色が悪いです」
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「山道だからな」
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「山のせいにしすぎです」
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スズリはそう言って、また筆を落とした。
でも、その後しばらく、筆の音はしなかった。
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シンは火を見た。
火の中に、胆沢の炉が一瞬だけ見えた気がした。
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眠った。
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翌朝だった。
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山道に霧があった。
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深い霧だった。
木の輪郭が溶けている。
近くの枝さえ、半分だけしか見えない。
音が吸われていた。
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馬の息。
荷の軋み。
護衛の足音。
それだけが近い。
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シンは気づいていた。
昨日の石。
昨日の風。
ミチヌシの声。
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近い。
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そう思った。
でも、言葉にならなかった。
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矢が来た。
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護衛の一人が倒れた。
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声も出なかった。
突然だった。
霧の中から黒い線が飛び、首の横へ刺さった。
男は何が起きたか分からない顔のまま、膝から崩れた。
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「伏せろ!」
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誰かが叫んだ。
カミノが馬から引きずり下ろされる。
スズリが紙束を胸に抱えた。
タダが荷を引き寄せる。
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二射目が来た。
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木の幹へ刺さった。
近い。
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三射目。
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護衛の盾に当たった。
乾いた音が霧の中で跳ねた。
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森から声が来た。
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「毘沙門天の加護ぞある!!」
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「鬼の道連れを討て!!」
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「神使を惑わす者を滅せよ!!」
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叫びだった。
信仰の叫びだった。
怒りではない。
理屈でもない。
何かに背を押され、自分の足で走っているつもりの声だった。
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シンは、胸の奥が冷えるのを感じた。
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ミチヌシの言葉。
名を信じた者は、強い。
自分で考えなくなる。
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来た。
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ビシャモンテン。
でも、それだけではない。
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この声の奥に、別の名がある。
雷の名。
武の名。
道を一つにしたがるもの。
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シンは動こうとした。
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来た。
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気付いた時には、もう来ていた。
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衝撃が胸に入った。
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息が止まる。
足が消える。
地面が近くなる。
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霧がある。
草がある。
土の匂いがする。
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遠くで声がした。
スズリの声かもしれなかった。
カミノの声かもしれなかった。
タダの足音かもしれなかった。
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よく聞こえなかった。
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石が見えた。
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道の脇の石だった。
苔が乗っている。
小さい。
それでも倒れていない。
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(近かった)
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思った。
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モモの声が、どこかで残っていた。
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気をつけて。
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遅かった。
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――死んだ。
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(第八十四話へ)




