硯と湯煙
第八十二話 硯と湯煙
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月がなかった。
でも明るい。
星だけがある夜だった。
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湯の音が、岩の間から絶えず続いていた。
湯気が白く立ち上がる。
立ち上がって、春の闇へ溶けていく。
岩肌は濡れていた。
湯の流れた跡だけが、星明かりを受けて薄く光っている。
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硫黄の匂いが鼻の奥にある。
胆沢では嗅いだことのない匂いだった。
腐った卵みたいだ、と一瞬思った。
けれど嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
好きすぎた。
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シンは岩に背を預けて、眼を半分閉じていた。
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(やっぱり温泉だなぁ〜〜)
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何がやっぱりなのか、自分でも分からなかった。
どこで入ったのか。
誰と入ったのか。
そもそも、本当に入ったことがあるのか。
何も思い出せない。
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ただ、体だけが知っていた。
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熱い湯に沈むと、肩が落ちる。
息が長くなる。
膝の奥に溜まった疲れが、ゆっくりほどける。
骨の芯まで温かかった。
旅の疲れが、湯の中へ溶け出していくみたいだった。
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昼間のことを思い出す。
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那須の湯治場が見えた瞬間、シンの足が止まった。
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谷だった。
山の腹が裂けたような場所に、白い湯気がいくつも立っている。
岩の間から湯が湧き、細い流れになって落ち、湯気が夕光の中で白く光っていた。
近づくほど、空気が変わった。
草の匂いより先に、湯の匂いが来る。
土より先に、石の熱が来る。
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木造の建物が谷に沿って並んでいた。
板を渡しただけの足場。
湯へ下りるための細い道。
煙に似た湯気の向こうで、人影が出たり消えたりしている。
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人の声がする。
湯の落ちる音がする。
桶の鳴る音がする。
どこかで誰かが咳をした。
どこかで誰かが笑った。
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あの匂いが来た瞬間、もう頭の中で決まっていた。
絶対に一泊する。
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「今夜はここだ」
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シンが言った。
護衛が顔を見合わせた。
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「予定では――」
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「今夜はここ」
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「しかし」
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「ここ」
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カミノが湯気を見た。
匂いを嗅いだ。
眼が、危険なものを見つけた子供みたいに輝いた。
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「……見たい」
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護衛の顔がさらに曇った。
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結局、泊まることになった。
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温泉は期待通りだった。
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岩を組んだ湯壺に、地から湧いた湯がそのまま流れ込んでいる。
湯は白く濁り、底が見えない。
岩の縁には湯の花が薄くこびりついていた。
湯気の中に手を入れるだけで、皮膚が先に熱を知る。
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蒸し湯も別にあった。
低い小屋の中に熱い湯気を溜める場所で、戸口を開けただけで顔が湿った。
湯治に来ている者たちは慣れた様子だった。
病の者。
傷を抱えた者。
腰を曲げた老人。
旅の埃を浴びた男。
皆、それぞれの沈黙を持っていた。
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入ってすぐ、体の芯から熱が広がっていくような感覚があった。
完璧だった。
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完璧だったが、一つだけ誤算があった。
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「熱い! 熱い! 熱いッ!!」
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カミノだった。
湯へ足を入れた瞬間から叫んでいた。
叫びながらも入ろうとした。
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諦めなかった。
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膝まで入れた。
また叫んだ。
護衛が困り果てた顔で側に立っていた。
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「出た方が」
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「嫌だ! 慣れてみせる!」
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「お体が」
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「熱い!!」
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「では出て下さい」
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「嫌だ!!」
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湯治場の老人が、遠くから黙って見ていた。
たぶん、見慣れている顔だった。
初めて来た者は、大体こうなるのだろう。
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タダはとっくに入っていた。
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入って五分で出た。
熱かったらしい。
しばらく外の岩に座っていた。
大きな体から、湯気が上がっている。
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涼んでから、また入った。
また出た。
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それを静かに繰り返していた。
表情は変わっていなかった。
ただ少し鼻が赤かった。
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そのうち、湯治場の者と何か話し始めた。
湯の値ではない。
薪の値でもない。
干した魚と、塩と、荷に残っていた布の話だった。
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タダは、湯に入っても商人だった。
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スズリは離れたところに立って、湯壺の方を見ていた。
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湯気が揺れている。
人が入っている。
音がする。
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一歩だけ近づいた。
止まった。
また一歩近づいた。
止まった。
今度は下がった。
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「入らないのか」
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シンが聞いた。
湯壺から頭だけ出して聞いた。
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「今日は……見てるだけにします」
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固い声だった。
湯気の向こうで立っているスズリは、どこか緊張した顔をしていた。
手には小さな包みを抱えている。
紙と、筆と、硯だった。
湯の匂いも、岩の形も、人の声も、全部逃がさないように持っていた。
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シンは何も言わなかった。
了解した。
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夕飯はタダが仕切った。
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湯治場の料理人と何かを交渉していた。
交渉というより、気づいたら火の側に場所ができていた。
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干肉が出た。
野菜が出た。
山菜が出た。
粟を混ぜた飯も少し出た。
塩気のある汁は、旅の体にやけに染みた。
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火の傍で食べた。
久しぶりにまともな旅の飯だった。
カミノが全部に感想を言った。
山菜の苦みにも言った。
汁の塩にも言った。
椀の木目にも言った。
湯治場の者の手つきにも言った。
誰も止めなかった。
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止めるのが無駄だと皆分かっていた。
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スズリは火の端で、膝の上に紙を置いていた。
硯に少し水を落とす。
墨を擦る音がした。
小さな音だった。
湯の音と火の音に混じれば、すぐ消えるくらいの音だった。
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でもシンには聞こえた。
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しゃり。
しゃり。
しゃり。
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胆沢の炉のそばでも、同じ音を聞いた気がした。
炭の粉。
墨。
紙。
残すもの。
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スズリは食べながら、時々書いた。
湯気の出る谷。
熱すぎる湯。
叫ぶ宮様。
赤い鼻の大男。
それから、湯壺で死んだような顔をしているシン。
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「それは書かなくてよくないか」
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「残します」
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「残さなくていいものもある」
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「あります」
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「あるんだ」
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スズリは、ほんの少しだけ笑った。
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その笑い方を見て、シンは少し息が止まった。
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そして今だった。
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全員が眠った。
星だけがある。
湯の音だけがある。
誰もいない。
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最高だった。
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シンは岩へ背を預けた。
両腕を広げる。
夜風が気持ちいい。
昼の熱が岩に残っている。
けれど空気は冷たくて、頬だけが少し冷える。
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静かだった。
ようやく静かだった。
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(誰もいない)
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(完璧)
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(今度こそ俺の温泉だ)
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後ろで小さな水音がした。
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でも気にしなかった。
お湯だろと思った。
岩の隙間だろと思った。
誰もいないのだから当然だった。
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一方その頃。
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湯気の向こう。
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スズリも同じことを考えていた。
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(誰もいませんよね)
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(大丈夫ですよね)
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(少しだけです)
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昼は無理だった。
でも気になった。
入ってみたかった。
湯の匂いが、ずっと袖に残っていた。
皆が眠ってからも、耳の奥で湯の音がしていた。
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だから戻ってきた。
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爽やかな春風が吹いた。
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湯気が流れた。
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消えた。
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見えた。
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目が合った。
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止まった。
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「ぎゃーーーーー!!」
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二人同時だった。
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「何でいるんですか!!」
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「そっちこそ何でいるんだ!!」
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「誰もいないと思ったんです!!」
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「俺もだよ!!」
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スズリが後ろへ下がる。
シンは逆方向へ逃げる。
逃げ場が無かった。
湯壺は丸い。
岩は滑る。
湯は熱い。
夜は星しかない。
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「見ました!?」
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「見てない!!」
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「本当ですか!?」
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「たぶん!!」
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「たぶんは駄目です!!」
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シンは慌てて空を向いた。
星しか無かった。
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スズリも最高だった。
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馬鹿。
違う。
違くないが。
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シンは一瞬で湯当たりした。
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スズリも耳まで赤かった。
湯気の向こうへ逃げた。
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春風がもう一回来た。
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今度は二人とも身構えた。
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湯気は消えなかった。
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二人とも少し安心した。
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「……あつい」
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スズリの声だった。
小さく、驚いた声だった。
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シンも落ち着いて少し笑った。
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「……そりゃ温泉だからな」
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「こんなに熱いんですね」
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「好きか」
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少し間があった。
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「……分かりません。でも」
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また間があった。
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「悪くない気がします」
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湯気が流れた。
今度は、二人の間を隠すように流れた。
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春の夜風が来た。
硫黄と、水と、どこかから来る草の匂いが混ざった。
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シンは湯の中で膝を抱えた。
スズリも、少し離れたところで湯に沈んでいるらしかった。
姿は見えない。
声だけがする。
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「胆沢にも、こういう湯があればよかったな」
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言ってから、しまったと思った。
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湯の音だけが続いた。
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「……そうですね」
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スズリの声は、さっきより柔らかかった。
でも、少し遠かった。
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「火の匂いとは違います」
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「ああ」
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「でも、残りますね。この匂い」
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「服にも残るぞ」
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「紙にも残るでしょうか」
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「残るんじゃないか」
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「では、書けます」
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シンは眼を閉じた。
湯の熱が首まで来ている。
旅の疲れが抜ける。
でも、胸の奥に残っているものは抜けなかった。
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焼けた胆沢。
旅立つアテルイ。
何も言わなかったモレ。
火種袋を見せた老人。
子供が渡してきた木片。
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それらは、湯に溶けなかった。
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「シンさん」
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「ん」
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「都にも、湯はありますか」
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「分からん」
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正直に答えた。
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「でも、人は多そうだ」
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「はい」
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「面倒も多そうだ」
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「はい」
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「怖いか」
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スズリはすぐには答えなかった。
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「……怖いです」
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湯の音が、一つ大きく聞こえた。
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「でも、見ます」
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声は震えていなかった。
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「見て、書きます」
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シンは空を見た。
星があった。
胆沢で見た星と同じだった。
でも、ここはもう胆沢ではなかった。
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「頼む」
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「はい」
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それきり、二人とも黙った。
湯煙だけが動いた。
硯に落とした水みたいに、夜が静かに揺れていた。
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翌朝、那須を出た。
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湯治場の朝は早かった。
湯気は夜より濃く、谷の底に白く溜まっていた。
湯へ向かう者がいる。
杖をつく者がいる。
荷をまとめる者がいる。
湯の神に手を合わせる者がいる。
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カミノは最後まで振り返っていた。
護衛は、振り返らせないように馬を進めていた。
タダは湯治場の者から何か包みを受け取っていた。
売り物なのか、土産なのか、シンには分からなかった。
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スズリは袖を少し嗅いだ。
顔をしかめた。
それから紙を開き、何かを書いた。
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硫黄。
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たぶん、そう書いた。
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東国は広かった。
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山が遠くなった。
代わりに空が大きくなった。
道は、北の山の道とは違っていた。
人が歩き、馬が通り、荷が動くための道だった。
踏み固められた土が続き、ところどころに石が混じる。
雨の名残がある場所では、轍に水が光っていた。
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田があった。
水路があった。
田植えの準備をしている村があった。
畦を直す男がいる。
苗代の水を見る女がいる。
泥の中で足を取られながら、子供が叱られている。
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人が多かった。
流れが速かった。
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胆沢にも人はいた。
火も、畑も、笑い声もあった。
けれど、ここは違った。
道そのものが、人を運んでいた。
人が道を歩いているのではない。
道が、人をどこかへ連れていく。
そんな感じがした。
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タダは村のたびに商売した。
タダが声をかけると、なぜか買う側も値段で揉めなかった。
交渉しているのかどうかも分からない間に終わっていた。
干した山菜が布に変わる。
塩が古い道具に変わる。
小さな鉄片が、誰かの笑顔に変わる。
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カミノは村のたびに消えた。
水路を見ていた。
田の土を見ていた。
農具を借りて試していた。
駅家の馬を見に行こうとして止められた。
橋の杭を数えようとして止められた。
護衛が泣きそうな顔をしていた。
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それでもカミノは見た。
国府へ続く道。
租を運ぶ荷。
役人の目。
村人の肩。
水の取り合いで荒れた畦。
それらを、遊びではない顔で見た。
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スズリは記録を続けていた。
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村の形。
土地の使い方。
水の流れ。
道の状態。
駅の場所。
馬の数。
荷の向き。
人の顔。
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全部書いた。
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胆沢でしていたことと、やっていることは変わらなかった。
けれど、書く速度が少し速くなっていた気がした。
迷いが減ったのではない。
迷いごと書くようになったのだと思った。
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さらに日を重ねていくと、山が戻ってきた。
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信濃口。
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東国の平野の端で、道が山へ向かって折れ曲がり始めた。
木が増えた。
鳥が増えた。
水の音が多くなった。
空気が変わった。
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平らだった道が、少しずつ息を切らし始める。
沢が道を横切る。
湿った石が浮く。
馬の足が遅くなる。
荷を背負った者の肩が沈む。
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山の影は早かった。
夕方になる前から、木々の根元に暗さが溜まる。
谷の奥から冷たい風が来る。
その風には、湿った葉と古い土の匂いがあった。
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シンは少し安心した。
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山が近い。
逃げられる。
隠れられる。
イサワでの感覚が少し戻ってきた。
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でも同時に、別のことも分かった。
この山道も、逃げ道ではない。
都へ続く道だ。
北へも南へも、人と命令と荷を運ぶ道だ。
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カミノが馬を並べてきた。
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「ここから山道が続く」
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「道理で」
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「東山道の要所だ。東国と都を繋ぐ幹だな」
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「人が集まる」
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「そうだ」
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少し間があった。
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「山側の論理と都側の論理が混ざる場所でもある」
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シンはその言葉を聞いて、胆沢の会談を思い出した。
アテルイと田村麻呂が向き合った場所を思い出した。
あそこもそういう場所だったかもしれない、と思った。
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山と国。
火と紙。
人と道。
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どちらか一つでは、残らない。
でも混ざれば、必ず傷ができる。
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道が続いた。
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夕方になった頃、分岐があった。
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古い道だった。
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主道から少し外れた細い道で、獣道とまでは言わない。
けれど、人の手が薄くなった道だった。
草が侵食していた。
石が浮いていた。
踏み跡はある。
あるが、今の道ではない。
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誰も気にしなかった。
カミノも通り過ぎた。
タダも通り過ぎた。
護衛も通り過ぎた。
馬も通り過ぎた。
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シンだけ止まった。
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分岐の角に、小さな石が置いてあった。
祠と呼ぶには小さすぎた。
ただ岩が一つ、道の脇に置かれているだけだった。
でも誰かが置いた石だった。
形が丁寧すぎた。
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長い年月で苔が乗っていた。
風雨に削られて角が丸い。
根が抱くように絡んでいる。
それでも倒れていなかった。
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ちゃんと立っていた。
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シンは何か見覚えがある気がした。
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どこかで見た。
どこだったか。
思い出しかけた。
でも来なかった。
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ただ、胸の奥だけが先に反応した。
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風が来た。
山の風だった。
遠くで何かが鳴いた。
鈴かもしれなかった。
鳥かもしれなかった。
分からなかった。
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(いる)
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思った。
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(近い)
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「シンさん!」
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スズリの声が後ろから来た。
列が先へ行っていた。
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シンは石を見た。
石は動かなかった。
ただそこにあった。
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前へ歩いた。
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風がもう一度吹く。
山の匂いだった。
どこか懐かしかった。
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その匂いの奥に、ほんの少しだけ。
桃の匂いがした気がした。
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(第八十三話へ)




