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いい日、旅立ち

第八十一話 いい日、旅立ち


⸻


 雪は、思ったより長く残った。


⸻


 胆沢の山が白く閉じるたび、道は消えた。


 人は足を止める。


 荷も止まる。


 文も止まる。


 馬の蹄も、雪の深い道では音を失った。


⸻


 降ったから終わり、ではなかった。


 誰が残るのか。


 誰が山へ帰るのか。


 誰が朝廷へ従うのか。


 誰が武を預けるのか。


 誰が炉を守るのか。


 誰が子供を連れて奥へ移るのか。


⸻


 決めることが多すぎた。


 人が多すぎた。


 生き残ったものが多すぎた。


 だから、簡単には終わらなかった。


⸻


 田村麻呂は、アテルイとモレの助命を願う文を書いた。


⸻


 都へ向かった使者は、雪の向こうへ消えた。


 返事はすぐには来ない。


 一つ送れば、景色が変わる。


 待っている間に雪が降る。


 雪が止めば、また別の者が走る。


⸻


 その間に、胆沢城の整備が進んだ。


 柵が立った。


 倉が増えた。


 道が直された。


 土が踏み固められた。


 兵が通る。


 役人が通る。


 胆沢の者も通る。


⸻


 戦場だった土地は、少しずつ別の顔になっていった。


⸻


 刃は減った。


 代わりに紙が増えた。


 声が減った。


 代わりに名が書かれた。


 戦う場所が、山から書状へ移っただけだった。


⸻


 スズリの紙束も増えた。


 炭も減った。


 墨も減った。


 その分だけ、胆沢が紙の中へ移っていった。


⸻


 冬は、そのまま過ぎていった。


⸻


⸻


 春が来た。


⸻


 雪が落ちる。


 川が動く。


 山肌に緑が戻り始める。


 朝の風に、冷たさより水の匂いが混じるようになった。


⸻


 鳥が戻った。


 雪の下で眠っていた草が、泥を割って出た。


 炊事場の煙も、冬より少し高く上がる。


 人の肩から、こわばりが少しだけ抜けた。


⸻


 胆沢にも、ようやく春が来ていた。


⸻


⸻


 出立の日、集落には薄い霧が流れていた。


⸻


 炊事の煙が上がる。


 汁の匂いがした。


 炉守りの老人は、火種袋を抱えて立っていた。


 旅に出る者へ渡すわけではない。


 ここに残る火を、見せるためだった。


⸻


 子供たちは騒がなかった。


 いつもなら荷車の周りを走る。


 馬の尻尾を触ろうとして叱られる。


 タダの荷を勝手に覗こうとする。


 けれど今日は違った。


 ただ見ていた。


⸻


 静かな朝だった。


⸻


 モレは遠くにいた。


⸻


 腕を組んだまま、こちらを見ない。


 見送りに来た顔ではない。


 だが、帰る気配もなかった。


 背中が硬い。


 山の岩みたいに硬い。


⸻


 アテルイはさらに向こうにいた。


⸻


 山を見ていた。


 最後まで振り返らない。


 シンも呼ばなかった。


 呼べば、何かが決まってしまう気がした。


 今はまだ、その時ではない。


⸻


 荷車が軋んだ。


⸻


 振り向く。


⸻


 当然みたいな顔で、タダがいた。


 干肉。


 塩。


 鍋。


 布。


 薬草。


 木椀。


 縄。


 何に使うのか分からない皮の袋。


⸻


 見事なまでの商人だった。


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「何でいる」


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「行商」


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「いやイサワ残れよ!」


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「都の方が売れる」


⸻


 即答だった。


 迷いがなかった。


 この男は本当に、戦場の翌日でも値段のことを考えられる。


 それが妙に頼もしかった。


⸻


 後ろでスズリが笑った。


 久しぶりに、声が少しだけ軽かった。


⸻


「最初から来る気だったんじゃないですか」


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「失礼だな」


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「違うんですか」


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「半分くらい」


⸻


「来る気じゃないですか……」


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 その横で。


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 カミノが荷車を覗いていた。


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「面白いな!」


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「何が」


⸻


「全部!」


⸻


 真顔だった。


 干肉を見る。


 鍋を見る。


 布をめくる。


 薬草の匂いを嗅ぐ。


 塩の包みを持ち上げて、重さを確かめる。


⸻


 護衛が青ざめた。


⸻


「宮様」


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「これは何だ」


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「馬へ」


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「嫌だ」


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「嫌じゃありません」


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「見たい!」


⸻


 護衛が頭を抱えた。


 もう何度目か分からない仕草だった。


 胆沢へ来た時より、護衛たちは明らかに老けていた。


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


 これが本来のカミノなのだと思った。


 会談の時だけ、少し背伸びしていたのかもしれない。


 本当は、好奇心の塊みたいな男だった。


 ただし、その好奇心が軽いだけではないことを、シンはもう知っている。


 見たいから見る。


 面白いから覗く。


 けれど、その奥に、見なければならないという責任がある。


⸻


 カミノは塩の包みを戻した。


 少しだけ、丁寧に。


⸻


 その時、子供の一人が前へ出た。


⸻


 昨日までタダの雑炊に一番で並んでいた子だった。


 手には、小さな木片があった。


 焼けた柵の欠片ではない。


 新しく削った木だった。


 不器用な線で、何かが刻まれている。


⸻


「これ」


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 子供はシンに差し出した。


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「お守り?」


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 シンが聞くと、子供は首を振った。


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「しるし」


⸻


「しるし」


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「帰ってきたら返して」


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 シンは少し黙った。


 受け取っていいのか迷った。


 返せる保証など、どこにもなかった。


 それでも、子供は差し出した手を引っ込めなかった。


⸻


「分かった」


⸻


 シンは受け取った。


 木片は軽かった。


 軽すぎて、かえって重かった。


⸻


 それを見ていた別の女が、スズリへ小さな包みを渡した。


 乾かした草。


 炭の粉。


 細い紐。


 旅で使えるよう、きつく結んであった。


⸻


「紙が湿ったら、火に近づけすぎるな」


⸻


 女が言った。


⸻


「燃える」


⸻


「はい」


⸻


 スズリは両手で受け取った。


⸻


「墨が薄くなったら、炭を少し混ぜろ」


⸻


「はい」


⸻


「泣いたら、紙から顔を離せ」


⸻


 スズリの手が止まった。


⸻


 女は何も言わなかった。


 ただ、スズリの肩を一度だけ叩いた。


 強くない。


 けれど、逃げられない重さがあった。


⸻


 スズリは頭を下げた。


 紙束を抱えたまま。


⸻


「残します」


⸻


 小さな声だった。


⸻


「聞いたことも」


⸻


 また一人、老人が前へ出た。


 炉守りの老人だった。


 火種袋を抱えている。


 袋の口を開いた。


 中の火を見せる。


 赤いものが、灰の奥で息をしていた。


⸻


「持ってはいくな」


⸻


 老人が言った。


⸻


「これはここに残る火だ」


⸻


 スズリは頷いた。


⸻


「だが、覚えていけ」


⸻


 老人は火種袋を閉じた。


 それから、黒くなった指でスズリの筆箱に触れた。


⸻


「火は炭になる」


⸻


 スズリの目が揺れた。


⸻


「炭は砕ける」


⸻


 老人は続けた。


⸻


「砕ければ墨になる」


⸻


 スズリの唇が、同じ言葉をなぞった。


⸻


「墨になれば残る」


⸻


 老人は頷いた。


⸻


「泣いても書け」


⸻


 スズリは返事をしようとした。


 声が出なかった。


 何度か息を吸って、ようやく言った。


⸻


「書きます」


⸻


 老人はスズリの頭に手を置いた。


 父親のようでも、師のようでもなかった。


 炉の火を次の手へ移す者の手だった。


⸻


「なら行け」


⸻


 スズリは深く頭を下げた。


 紙束を抱える腕に、力が入った。


 その紙束は、もう荷ではなかった。


 胆沢そのものだった。


⸻


 タダの荷にも、次々と小さなものが足された。


 干した山菜。


 子供が拾った丸い石。


 誰かが編んだ紐。


 火傷に塗る草。


 旅の途中で腹を壊したら飲めと言われた苦い根。


⸻


「売り物じゃないぞ」


⸻


 女の一人が言った。


⸻


「分かってる」


⸻


 タダは答えた。


 いつもの顔だった。


 でも、荷を積む手は少しだけ丁寧だった。


⸻


 カミノはその全部を見ていた。


 板へ書こうとして、やめた。


 今だけは、書くより先に頭を下げた。


 護衛も慌てて頭を下げた。


 胆沢の者たちは、少し困った顔をした。


 都の高い人間に頭を下げられることに、慣れていなかった。


⸻


「行こう」


⸻


 そう言ったのは、アテルイだった。


⸻


 振り向いていなかった。


 山を見たまま言った。


⸻


 モレが顔を上げた。


 何かを言いかけた。


 言わなかった。


⸻


 シンは、アテルイの背を見た。


 そして頭を下げた。


 言葉は出なかった。


⸻


 スズリも頭を下げた。


 紙束を胸に抱えたまま。


⸻


 タダが荷車の縄を持った。


 カミノがようやく馬へ向かう。


 護衛が、ほっとした顔をした。


 その直後、カミノが道端の草を見て立ち止まった。


⸻


 護衛の顔から、また色が消えた。


⸻


⸻


 田村麻呂本隊とは距離を取った。


 アテルイたちとも別だった。


 こちらは、護衛と従者を含めた小さな旅だった。


⸻


 春の陸奥を南へ下る。


⸻


 山にはまだ雪が残っていた。


 麓には若葉が出始めている。


 雪解け水を集めた川が光る。


 踏む土は柔らかく、時々足を取られた。


⸻


 風が柔らかい。


 鳥が戻っていた。


 鹿が跳ねる。


 遠くの森へ消える。


⸻


 冬の間、全部死んだみたいだった景色が、少しずつ起き上がっていた。


 そういう季節だった。


⸻


 スズリは少し前を歩いていた。


 紙束を胸に抱え、時々立ち止まっては道端の木や、流れの変わった小川を見ている。


 書くわけではない。


 今はまだ見ているだけだった。


⸻


「スズリの家は」


⸻


 カミノが言った。


 シンにだけ聞こえる声だった。


⸻


「代々、記録をする家だ」


⸻


 シンはスズリの背を見た。


⸻


「そんなに大きい家じゃない。本来なら、私の側に付くような身分でもない」


⸻


「じゃあ、なんで」


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「字がよかった」


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 カミノは短く言った。


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「文もよかった。あまりに美しかった」


⸻


 少し間があった。


⸻


「綺麗なだけじゃない。残すべきものを、残す形にできる字だった」


⸻


 シンは、客間の炉の前で筆を走らせていたスズリを思い出した。


 眠りかけても、筆を離さなかった手。


 泣いても紙から顔を離せと言われ、黙って頷いた横顔。


⸻


「だから抜いた」


⸻


「抜いた?」


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「私の側へ置いた」


⸻


 カミノは少しだけ笑った。


 自慢ではなかった。


 見つけたものを、手放さなかった顔だった。


⸻


「家格が低いのにも理由がある」


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 声が少し落ちた。


⸻


「定かではないのだが」


「まつろわぬ民。古い北の民の末だという話もある」


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 シンは足を止めかけた。


⸻


 北の民。


 古い民。


 炉。


 火。


 海。


⸻


 胆沢の古老も語っていた昔話。


 イズモのキジに案内されて、海へ逃れた炉の民。


 記憶の底で言葉がつながる。


⸻


 タダがいた。


 ナギがいた。


 ミコがいた。


 トンチンカンもいた。


 笑い声が甦る。


 彼らの船は確かに海へ出たはずだ。


⸻


 アサメが繋いだ。


 自らの命と引き換えに。


⸻


 雪。


 鉄。


 煙。


 震える手。


 握り返した指。


⸻


 長くは思い出さなかった。


 思い出せば、歩けなくなりそうだった。


⸻


 シンは前を歩くスズリを見た。


 細い背だった。


 だが、その背に火があった。


 どこから来た火なのかは分からない。


 どれだけ遠くを回って、今ここにあるのかも分からない。


⸻


 ただ、残っていた。


⸻


「本人は知ってるのか」


⸻


「さあ」


⸻


 カミノは首を振った。


⸻


「知っていても、言わないだろうな」


⸻


「だろうな」


⸻


 スズリが振り返った。


 二人が何を話しているか、気づいたような顔ではなかった。


 ただ、遅れていますよ、と目で言った。


⸻


 シンは歩き出した。


 カミノも続いた。


⸻


⸻


 村へ寄るたび、カミノは消えた。


⸻


 勝手に消える。


 勝手に戻る。


 戻った時には、だいたい何かを持っている。


 麦の穂。


 壊れた鍬。


 村の子供が拾った石。


 焼き物の欠片。


 時には、なぜか犬の毛まで持っていた。


⸻


「何してた」


⸻


「見ていた」


⸻


「何を」


⸻


「全てを」


⸻


 だいたい答えは同じだった。


⸻


 田を見ていた。


 水路を見ていた。


 村人と話していた。


 子供の遊びを見ていた。


 老人が腰掛ける石の位置まで聞いていた。


⸻


「そんなに面白い……?」


⸻


 シンが聞く。


⸻


「面白い」


⸻


「即答だ」


⸻


「都じゃ見えない」


⸻


 カミノは少し考えた。


⸻


「だから見たい」


⸻


 それだけだった。


 ただ、もうシンは笑わなかった。


 笑えるが、笑いだけでは済ませられなかった。


⸻


 横ではタダがもう商売を始めていた。


 早かった。


 早すぎた。


 村へ着く。


 荷を下ろす。


 干肉を見せる。


 塩を少し舐めさせる。


 鍋の底を叩く。


 いつの間にか、値段の話になっている。


⸻


「旅は商機だ」


⸻


 タダは言った。


⸻


「まだ聞いてない」


⸻


「聞く顔だった」


⸻


 シンは何も言い返せなかった。


⸻


 スズリはその横で、村の女から水路の話を聞いていた。


 タダの商売。


 カミノの見聞。


 スズリの記録。


 全部、別々に動いているのに、なぜか一つの旅になっていた。


⸻


⸻


 数日後、空気が変わった。


⸻


 人が増えていた。


 荷馬が増えた。


 道幅が広がった。


 北で見ていた山道とは、流れが違う。


⸻


 道が、人を飲み込んでいた。


⸻


 白河の関。


⸻


 北と南の境。


⸻


 見張りが立ち、人と荷を数えている。


 関を越える者を、一つずつ確かめていた。


 兵がいる。


 役人がいる。


 商人がいる。


 旅の僧らしき者もいた。


 荷を引く者、背負う者、待たされて苛立つ者、慣れた顔で通る者。


 全部が混ざって、関の前で一度止まり、また流れていく。


⸻


 胆沢では、山が道を決めていた。


 ここでは、道が人を決めていた。


⸻


 南へ向かう旅人がいる。


 北へ荷を運ぶ商人がいる。


 文を持つ者もいる。


 刀を隠さない者もいる。


 役目を持つ者は、役目の顔で通る。


 持たない者は、持たない者の顔で待つ。


⸻


 カミノが立ち止まった。


 関の向こうを見ていた。


⸻


「ここから先は、都の匂いが強くなる」


⸻


 声は軽くなかった。


⸻


「北は山が守る。南は道が繋ぐ」


⸻


 少し考えてから続ける。


⸻


「だから皆、ここを欲しがる」


⸻


 シンは振り返った。


 山がある。


 北がある。


 イサワは、もう見えない。


 それでも向こうに残っている気がした。


⸻


 遠くなった。


⸻


 それだけだった。


 それだけなのに、胸の奥が少し痛んだ。


⸻


 スズリは関を見ていた。


 筆を持ったまま。


 書いていなかった。


 見ていた。


 記録する前に、まず見ていた。


⸻


 タダは関の横で、北へ向かう商人に塩を見せていた。


 早い。


 やはり早い。


⸻


「ここでも売るのか」


⸻


「人がいる」


⸻


「理由が強い」


⸻


「商いは人だ」


⸻


 タダは当然のように言った。


⸻


 カミノがその言葉を聞いて、何かを書き留めた。


 護衛がそれを見て、もう何も言わなかった。


 諦めが、人を少し優しくしていた。


⸻


⸻


 その夜は、白河近くで泊まった。


⸻


 風が強かった。


 南へ向かう荷の列は、夜になっても完全には途切れない。


 馬の音が、ずっと遠くで続いていた。


 車輪の音。


 人の咳。


 荷を下ろす声。


 火の前で値を言い合う声。


⸻


 胆沢の夜とは違った。


 人が多い。


 流れが速い。


 眠っていても、どこかで国が動いている。


 そんな夜だった。


⸻


 火を囲む人間の数も違った。


 知らない顔が多い。


 誰もがどこかへ向かっていた。


 誰もが何かを運んでいた。


⸻


 タダはいつの間にか商人たちへ混ざっていた。


 干肉を売っている。


 塩を見せている。


 鍋の話もしている。


 もう笑っている者までいた。


⸻


「早すぎるだろ……」


⸻


 シンが呆れる。


⸻


「旅は商機だ」


⸻


「二回目だぞ、それ」


⸻


「二回使える言葉だ」


⸻


 スズリが笑った。


 疲れているはずなのに、その笑いは少し明るかった。


⸻


 カミノはその横で、別の商人を捕まえていた。


 何を聞いているかと思えば、今度は馬の飼い方だった。


 飼い葉。


 水。


 蹄。


 荷の重さ。


 休ませる間隔。


 聞く量が多すぎる。


⸻


 護衛が頭を抱えていた。


⸻


「宮様、明日も歩きます」


⸻


「だから聞いている」


⸻


「そういう意味ではございません」


⸻


 商人は楽しそうだった。


 相手が誰かを知っているのか、知らないのか。


 たぶん途中からどうでもよくなっていた。


 馬の話を真剣に聞く若い男がいる。


 それだけで十分らしかった。


⸻


⸻


 白河を越えて、三日ほど進んだ。


⸻


 景色は少しずつ変わっていった。


 山が遠くなる。


 代わりに広い野が増える。


 風が強くなる。


 村と村の間も長くなった。


⸻


 春の若葉はまだ残っている。


 けれど胆沢で見た柔らかな緑とは違っていた。


 色が薄い。


 土が乾いている。


 ところどころ岩が顔を出していた。


⸻


 鳥の姿も減っていく。


 最初は気のせいだと思った。


 でも違った。


 歩くほど減る。


 鳴き声も少なくなる。


 虫の音まで消えていく。


⸻


 護衛の一人が、前を見たまま言った。


⸻


「この先は近づきすぎるなよ」


⸻


「何がある」


⸻


「死んだ土地だ」


⸻


 少し進む。


⸻


 道の脇に白い岩が現れた。


 さらに進む。


 今度は地面から湯気が出ていた。


 草が痩せている。


 木も少ない。


 春なのに、その辺りだけ季節が止まっているみたいだった。


⸻


 風が変わる。


 鼻の奥へ刺さる匂いが来た。


⸻


 硫黄だった。


⸻


 カミノが足を止めた。


⸻


「駄目です」


⸻


 スズリだった。


 早かった。


 誰よりも早く止めた。


⸻


「まだ何も言っていない」


⸻


「顔に書いてあります」


⸻


「危ない所なんだろう」


⸻


「だから駄目です」


⸻


「少しだけ」


⸻


「駄目です」


⸻


「見なければ分からない」


⸻


「見たら倒れるかもしれません」


⸻


 カミノは黙った。


 理屈で負けた顔ではない。


 行きたい気持ちを、責任で押さえた顔だった。


⸻


 横でタダが笑った。


 シンも笑った。


 護衛は笑わなかった。


 笑う余裕がなかった。


⸻


 カミノだけ、まだ納得していない顔をしていた。


 だが足は動かさなかった。


⸻


 さらに半日ほど進んだ頃だった。


⸻


 谷の向こうに、白いものが見えた。


⸻


 最初は霧かと思った。


 違った。


⸻


 煙だった。


⸻


 いや。


⸻


 湯気だった。


⸻


 風に流されながら、何本も空へ伸びている。


 木造の小さな建物が見えた。


 人の影もあった。


 馬もいる。


 湯を運ぶ者がいて、濡れた布を持つ者がいて、湯気の向こうで誰かが笑った。


⸻


 湯治場だった。


⸻


 その瞬間。


⸻


 また硫黄の匂いが来た。


⸻


 今度は濃い。


⸻


 懐かしかった。


 知っている。


 覚えていないのに、知っている。


 誰と来たのか。


 どこで入ったのか。


 そんなことは何も思い出せない。


 けれど、体が先に知っていた。


 この匂いは、湯だ。


 熱い湯だ。


 足の裏から力が抜ける湯だ。


 冷えた肩がほどける湯だ。


⸻


 シンの顔が変わった。


⸻


「温泉だッッッッ!!」


⸻


 全員が止まった。


⸻


 タダが見る。


 スズリが目を丸くする。


 カミノは首を傾げた。


 護衛も首を傾げた。


 馬まで少し耳を動かした。


⸻


「好きなのか」


⸻


 カミノが聞いた。


⸻


「好きだッッッッ!!」


⸻


 即答だった。


 考える必要がなかった。


 歴史より確かだった。


 記憶より強かった。


 温泉は好きだ。


⸻


「何がいいのだ?」


⸻


「すべてだ!!!」


⸻


 カミノが少し目を輝かせた。


 自分と同じ返答をされたのが、妙に嬉しそうだった。


⸻


「入るのか」


⸻


「入る!」


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「危なくないのですか」


⸻


 スズリが言った。


 声に心配が混じっていた。


⸻


「危ない湯もある」


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 シンは真面目に答えた。


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「でも入れる湯は入れる」


⸻


「当たり前のことを、すごく力強く言いましたね」


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「大事なんだよ」


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 タダが荷車を見た。


 湯治場を見た。


 また荷車を見た。


⸻


「売れるな」


⸻


「お前は本当にぶれないな」


⸻


「湯上がりは塩が売れる」


⸻


「たぶん正しいのが嫌だ」


⸻


 スズリが笑った。


 カミノも笑った。


 護衛は少しだけ笑った。


 ほんの少しだけ。


⸻


 風が吹いた。


 湯煙が揺れる。


 春の夕日が谷へ落ちていく。


⸻


 イサワはもう遠かった。


 アテルイも、モレも、炉の火も、今は山の向こうだった。


 それでも、消えたわけではない。


 スズリの紙にある。


 シンの胸にある。


 タダの荷にも、カミノの板にも、少しずつ混じっている。


⸻


 旅は、始まっていた。


⸻


 そして少しだけ。


 本当に少しだけ。


 楽しくなった。


⸻


⸻


(第八十二話へ)


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