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降伏

第八十話 降伏


⸻


 朝だった。


⸻


 胆沢は、まだ生きていた。


⸻


 炊事の煙が上がっている。


 汁の匂いがした。


 炭の匂いがした。


 湿った木を避けて、乾いた枝だけを選ぶ手があった。


 炉の灰を掃く音があった。


 馬が鼻息をついた。


 子供が走って、老人に叱られて、また少しだけ走った。


⸻


 山は静かだった。


 鳥がいた。


 煙は炊事のものだけだった。


 燃えていなかった。


⸻


 タダが朝の炊き出しをしていた。


 雑炊だった。


 干肉と根菜が入っている。


 腹に入れば動けるもの。


 そういう飯だった。


⸻


 子供が先に並んでいた。


 タダは無言でよそった。


 少し多めにした。


 器を渡す時、いちばん小さい子の手に、汁がこぼれないよう指を添えた。


 それだけだった。


⸻


 スズリは客間で書いていた。


 寝ていない顔だった。


 けれど筆は止まらない。


 火種の移動。


 炭倉の位置。


 焼けた柵。


 避難した子供の数。


 怪我人の名。


 昨日まで日常だったものが、今日は記録になっていた。


⸻


 炉守りの老人が来た。


 炭を継いだ。


 黙っていた。


 スズリも黙っていた。


 だが二人の間には炉があった。


 火があった。


⸻


 胆沢は、まだここにあった。


⸻


⸻


 カミノが見つからなかった。


⸻


 見張りの一人が、ひどく困った顔をしていた。


 護衛の男たちも同じ顔だった。


 都の人間らしく、姿勢だけは崩していない。


 だが目が泳いでいる。


⸻


「いなくなったのか」


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 シンが聞くと、護衛の一人が喉を詰まらせた。


⸻


「いえ」


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 少し間があった。


⸻


「目の届くところには、いるはずで」


⸻


「それ、いないって言わないか」


⸻


 護衛は黙った。


 言い返せない顔だった。


⸻


 シンは集落を歩いた。


 天幕を見た。


 炊事場を見た。


 馬の囲いを見た。


 倉の裏を見た。


⸻


 いた。


⸻


 炭倉の前だった。


 カミノがしゃがみ込んで、倉の奥を覗いている。


 片手には小さな板。


 もう片手には筆。


 服の裾には炭の粉がついていた。


⸻


 古老が横に立っていた。


 困っている。


 かなり困っている。


⸻


「これは、どれほどもつ」


⸻


 カミノが聞いた。


⸻


「炊く量による」


⸻


 古老が答えた。


⸻


「昨日と同じ量なら」


⸻


「昨日と同じ日は、もう来ん」


⸻


 カミノは止まった。


 それから、真顔で板へ書いた。


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「昨日と同じ日は来ない」


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「それは記録するところか」


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 シンが言った。


⸻


 カミノは振り向いた。


 真顔だった。


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「大事だ」


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「炭の量を聞いてたんじゃないのか」


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「それも大事だ」


⸻


 答えになっていなかった。


 だが、妙に強かった。


⸻


 後ろから護衛が駆けてきた。


 息を殺している。


 走ってはいけない場所で走ってしまった顔だった。


⸻


「宮様」


⸻


「静かに。いま炭の話を聞いている」


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「それは承知しておりますが」


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 護衛が足元を見た。


 カミノの衣の裾が黒い。


 かなり黒い。


⸻


「その御衣が」


⸻


「洗えばよい」


⸻


 古老がぼそりと言った。


⸻


「炭は落ちんぞ」


⸻


 護衛の顔から血の気が引いた。


 カミノはまた書いた。


⸻


「炭は落ちにくい」


⸻


「それも記録するのかよ」


⸻


「都では誰も知らない」


⸻


 シンは一瞬、返す言葉を失った。


 確かにそうかもしれなかった。


⸻


 カミノは立ち上がった。


 次は炉を見たい、と言った。


 古老が、またか、という顔をした。


 護衛が、まだ続くのか、という顔をした。


 スズリがいつの間にか後ろにいて、深くため息をついた。


⸻


「宮様」


⸻


「スズリ。火種袋の結び方を見たい」


⸻


「会談前です」


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「だから今しか見られない」


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「その理屈を万能にしないでください」


⸻


 カミノは少し考えた。


⸻


「万能ではない」


⸻


「では」


⸻


「だいたい有効だ」


⸻


 スズリは目を閉じた。


 シンは少し笑った。


 護衛は笑わなかった。


 笑っていいのか分からない顔だった。


⸻


⸻


 カミノは本当に、縦横無尽に見て回った。


⸻


 炊事場。


 火種を分ける小屋。


 昨日の火で焦げた柵。


 水を汲む場所。


 子供を隠した奥の小屋。


 馬の囲い。


 弓を干す軒先。


 炭を砕く石。


 灰を捨てずに集める穴。


⸻


 行く先々で、胆沢の民が止まった。


 都から来た親王が、なぜ灰を覗いているのか。


 なぜ根菜の皮を見ているのか。


 なぜ子供が食べ残した雑炊の底を見ているのか。


 誰にも分からなかった。


⸻


「それは食べ残しだ」


⸻


 タダが言った。


⸻


「なぜ残した」


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 カミノが聞いた。


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「熱かった」


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 子供が答えた。


⸻


 カミノは書いた。


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「熱いものは子供が残す」


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「それは国の記録に要るのか」


⸻


 シンが言った。


⸻


 カミノは真顔で答えた。


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「要る」


⸻


 タダが少しだけ笑った。


 子供も笑った。


 護衛だけが笑わなかった。


 自分たちの主が、子供の食べ残しを国家の記録にしようとしている現実を、まだ受け止めきれていない顔だった。


⸻


 次に、カミノは馬の囲いへ入ろうとした。


 馬が嫌がった。


 強く嫌がった。


 護衛が止めた。


 馬の世話をしていた若者も止めた。


 カミノだけが、なぜ止められるのか分からない顔だった。


⸻


「蹴られます」


⸻


 若者が言った。


⸻


「どの程度」


⸻


「死ぬ程度」


⸻


 カミノは書こうとした。


⸻


「書かなくていいです」


⸻


 スズリが止めた。


⸻


 カミノは少し不服そうだった。


⸻


「重要だ」


⸻


「重要ですが、今は入らないでください」


⸻


 シンは護衛を見た。


 護衛の男は、遠い目をしていた。


 昨日の戦より、今の方が疲れている顔だった。


⸻


 アテルイが遠くから見ていた。


 少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 すぐに顔を戻した。


 だが確かに笑った。


⸻


(好奇心同士か)


⸻


 シンは思った。


⸻


 ワカレなら、たぶん笑い転げていた。


 そう思った。


 だがワカレはいなかった。


 こういう時だけ、いない。


⸻


⸻


 笑いが消えたのは、焼け跡へ来た時だった。


⸻


 柵の一部が黒くなっている。


 土も黒い。


 火矢が刺さった跡がまだ残っていた。


 焼けた木は水を含み、嫌な匂いを出している。


 炊事の煙とは違った。


 生活の匂いではない。


 奪うための火の匂いだった。


⸻


 カミノは黙った。


 板に何も書かなかった。


 護衛も黙った。


 スズリも筆を止めた。


⸻


 焼け跡のそばに、子供がいた。


 黒くなった柱を、指で触っていた。


 タダがそれに気づき、静かに抱き上げて離した。


 子供は泣かなかった。


 泣く前に、タダの肩へ顔を埋めた。


⸻


 カミノの目が、その動きを追った。


⸻


「都では」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「焼けた柵は、焼けた柵と書かれる」


⸻


 誰も答えなかった。


⸻


「焼けた柱に触る子のことは、書かれない」


⸻


 カミノは板を握った。


 強く握った。


⸻


「だから見る」


⸻


 軽さは消えていた。


 真面目な顔だった。


 昨日の天幕で、古い白桃の話をした時と同じ顔だった。


⸻


「都にいるだけでは、国は見えない」


⸻


 カミノは焼けた柵を見た。


 それから、タダに抱かれた子供を見た。


⸻


「ここも国の一部だと言うなら」


⸻


 少し間があった。


⸻


「これを見ずに、国を語ってはいけない」


⸻


 シンは何も言わなかった。


 スズリも何も言わなかった。


 護衛の一人が、目を伏せた。


⸻


 カミノは、ようやく板へ書いた。


 ゆっくりと。


 一文字ずつ。


⸻


 その字は、さっきまでより重かった。


⸻


⸻


 昼前に、会談の場へ向かった。


⸻


 胆沢と田村麻呂の本陣の中間だった。


 開けた場所だった。


 木がない。


 見晴らしがある。


 風が通る。


 隠れるには向かない。


 裏切るにも向かない。


⸻


 胆沢側は、アテルイとモレ。


 少し離れて、シンとスズリ。


 カミノもいた。


 護衛はさらに後ろに下がった。


⸻


 ヤマト側は、坂上田村麻呂。


 少数の護衛。


 旗は低く置かれていた。


 武器は持っている。


 だが、見せつけてはいない。


⸻


 田村麻呂は大きかった。


 体だけではない。


 立ち方だった。


 人を率いてきた者の重さがあった。


 勝ってきた者の重さもあった。


 その重さを、どこかで嫌っているような目もあった。


⸻


 アテルイが前へ出た。


 昨日の傷は隠しきれていない。


 肩の動きが少し硬い。


 それでも、歩き方は変わらなかった。


 山を背負うように歩いた。


⸻


 二人が向き合った。


⸻


 しばらく何もなかった。


 風が来た。


 冬の手前の風だった。


⸻


「長かった」


⸻


 田村麻呂が言った。


⸻


「ああ」


⸻


 アテルイが答えた。


⸻


 それだけで、二人の間にあった年月が動いた。


 戦。


 山。


 柵。


 米。


 矢。


 逃げた者。


 追った者。


 戻らなかった者。


 言葉にしなかったものが、風の中に並んだ。


⸻


「終わらせたい」


⸻


「同じだ」


⸻


 また沈黙があった。


 長くはない。


 だが、誰も割って入れなかった。


⸻


 田村麻呂は、アテルイの傷を見た。


 アテルイは、田村麻呂の目を見た。


 そこに嘘があるかどうかではない。


 この男が、嘘をつく暇のない場所まで来ているかどうか。


 それを見ていた。


⸻


「滅ぼしたくない」


⸻


 田村麻呂が言った。


⸻


「死なせたくない」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


 また沈黙。


⸻


 短いやり取りだった。


 足りないほど短かった。


 けれど足りていた。


 長く言えば、崩れるものがある。


 言い訳に聞こえるものがある。


 だから二人は、それ以上を重ねなかった。


⸻


 田村麻呂がわずかに頭を下げた。


 征服者の礼ではなかった。


 武人の礼だった。


 同じものを失ってきた者への礼だった。


⸻


 アテルイが口を開いた。


⸻


「降る」


⸻


 大きな声ではなかった。


 叫びでもなかった。


 それでも、全員に届いた。


⸻


 モレの指が動いた。


 拳になった。


 白くなった。


⸻


 田村麻呂は、すぐには答えなかった。


 その沈黙が、軽く受け取らないという返事だった。


⸻


「受ける」


⸻


 それだけだった。


⸻


 アテルイは続けた。


⸻


「イサワを残せ」


⸻


 田村麻呂は頷いた。


⸻


「火を」


⸻


 また頷いた。


⸻


「人を」


⸻


「尽くす」


⸻


 約束ではなかった。


 誓いでもなかった。


 田村麻呂には、全てを決められる力がない。


 都がある。


 上がある。


 欲がある。


 白い雷の影も、まだ消えていない。


⸻


 だが、その言葉は逃げではなかった。


 できることをする。


 できないことを、できると言わない。


 それだけだった。


 だから届いた。


⸻


 アテルイは一度だけ、目を伏せた。


 それで会談は終わった。


⸻


⸻


 モレは動かなかった。


⸻


 声を上げなかった。


 止めなかった。


 刃も抜かなかった。


 拳だけが白かった。


⸻


 分かっていた。


 モレにも分かっていた。


 アテルイが立ち続ければ、胆沢は最後まで戦える。


 戦えるだけだ。


 勝てるとは限らない。


 勝てたとしても、残るものは少ない。


 火は消え、子供は散り、名は敵の紙に潰される。


⸻


 だから、アテルイは正しい。


⸻


 その正しさが、モレの胸を折っていた。


⸻


 間違っているなら怒れた。


 愚かなら止められた。


 裏切りなら斬れた。


 だが、これは違う。


 アテルイは逃げていない。


 負けを選んでいるのでもない。


 残すために、自分を差し出している。


⸻


 モレには、それが分かってしまった。


 分かる自分が、悔しかった。


 分からないまま怒れたら、どれほど楽だったか。


⸻


 唇を噛んでいた。


 血が少し出た。


 地面へ落ちた。


⸻


 アテルイが横に来た。


 声をかけなかった。


 ただ横に立った。


⸻


「つきあえ」


⸻


 低かった。


⸻


「最後まで」


⸻


 モレは前を見たまま言った。


⸻


「分かってる」


⸻


 少し間があった。


⸻


「分かってるから、嫌なんだ」


⸻


 アテルイは何も言わなかった。


 肩を叩きもしなかった。


 慰めもしなかった。


 横にいた。


⸻


 それだけで、モレの顔が歪んだ。


 泣く顔ではなかった。


 怒る顔でもなかった。


 子供の頃から隣にいた男を、今も隣で支えなければならない者の顔だった。


⸻


 シンは見ていた。


 何も言えなかった。


 スズリも書かなかった。


 筆を持ったまま、二人を見ていた。


⸻


⸻


 帰り道で、アテルイがスズリへ言った。


⸻


「残せ」


⸻


 短かった。


 それだけだった。


⸻


 スズリは止まった。


 紙束を抱えていた。


 筆を持っていた。


 墨があった。


⸻


 火は炭になる。


 炭は砕ける。


 砕ければ墨になる。


 墨になれば残る。


⸻


 老人の声が戻ってきた。


 客間の炉の前だった。


 あの夜だった。


⸻


 スズリは紙束を、もう一度強く抱えた。


 胸に押しつけた。


 まるで、それが胆沢そのものになったみたいに。


⸻


 涙が来た。


 初めて来た。


 堪えなかった。


 堪えることをしなかった。


⸻


 声は出さなかった。


 ただ泣いた。


 紙を濡らさないよう、顔を少し横へ向けて。


⸻


 アテルイは見ていた。


 何も言わなかった。


 モレも何も言わなかった。


 カミノも、護衛も、誰も動かなかった。


⸻


 スズリの泣き声のない涙だけが、帰り道に落ちた。


⸻


⸻


 夕方、胆沢へ戻った。


⸻


 炊事の煙があった。


 汁の匂いがした。


 子供が走っていた。


 老人が座っていた。


 炉の火があった。


 炭があった。


 墨があった。


⸻


 全部、残っていた。


⸻


 アテルイは立って、山を見た。


 長く見た。


 振り返らなかった。


 英雄の顔ではなかった。


 王の顔でもなかった。


 ただ山を見ている男の顔だった。


⸻


 モレは少し離れたところにいた。


 背を向けていた。


 手を動かしていた。


 見張りの配置。


 火消しの水。


 子供の寝る場所。


 明日の飯。


 降ると決まっても、夜は来る。


 夜が来るなら、守るものがある。


⸻


 モレは怒っていた。


 負けていた。


 それでも動いていた。


 それが、いちばん苦しそうだった。


⸻


 カミノは最後まで集落を見ていた。


 炉を見た。


 炭倉を見た。


 子供を見た。


 老人を見た。


 焼け跡を見た。


 人が笑うところも見た。


 黙るところも見た。


 全部を見た。


 書き留めた。


 止まらなかった。


⸻


 護衛の一人が、もう諦めた顔で後ろに立っていた。


 朝より少しだけ、胆沢の者に近い顔になっていた。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 胆沢は静かだった。


 炊事の煙が薄く残っていた。


 炉の火がまだあった。


 誰も大きな声を出さなかった。


 皆、知っていた。


 次に来るものを。


⸻


 炉守りの老人が火種袋を確かめていた。


 移動のためではなかった。


 消さないためだった。


 炭を見た。


 灰を見た。


 火を見た。


 それから袋を閉じた。


⸻


 スズリが記録を束ねた。


 増えていた。


 重くなっていた。


 胆沢が増えた分だけ、重くなっていた。


⸻


 シンは外へ出た。


 山を見た。


 冬の手前の山だった。


 煙があった。


 炊事の煙だった。


 火はなかった。


 燃えていなかった。


⸻


 桃の香りはなかった。


⸻


 でも、どこかにあった気がした。


 かすかに。


 ほとんど気のせいみたいに。


⸻


 森の縁へ歩いた。


⸻


 見張りが止めようとした。


 シンは手を上げた。


 遠くへは行かない。


 そういう意味だった。


⸻


 木々の間は暗かった。


 風が葉を揺らす。


 夜の土の匂いがした。


⸻


 その奥に。


⸻


 桃の香りが来た。


⸻


 白い影があった。


 昨日より遠い。


 でも逃げてはいない。


 刃はなかった。


 フツの白い光もない。


 ただ、木立の向こうに立っていた。


⸻


「モモ」


⸻


 シンが呼んだ。


⸻


 白い影が少しだけ動いた。


 顔がこちらを向いた。


⸻


「……シン」


⸻


 声は小さかった。


 機械の声ではなかった。


 けれど完全なモモでもなかった。


 遠くから、泥の中の石を拾い上げるみたいに、ひとつずつ言葉を探している声だった。


⸻


「今日は、戦わない」


⸻


 シンが言った。


⸻


 白い影は黙った。


 桃の香りが、少し強くなった。


⸻


「アテルイは降る」


⸻


 言ってから、胸が重くなった。


 自分で決めたことではない。


 止められることでもない。


 それでも、その言葉は重かった。


⸻


「イサワを残すために」


⸻


 モモは長く黙っていた。


⸻


「……のこす」


⸻


 前にも聞いた言葉だった。


 けれど今日は、少し違った。


 意味をなぞっているだけではない。


 その言葉を、どこかで持とうとしているように聞こえた。


⸻


「ああ」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「火も」


⸻


 モモが言った。


⸻


「火も」


⸻


「紙」


⸻


「紙も」


⸻


「人」


⸻


「人も」


⸻


 モモは目を伏せた。


 その動きが、ひどく人間に見えた。


⸻


「……シンは」


⸻


 そこで言葉が止まった。


 シンは待った。


 急かさなかった。


⸻


「……残る?」


⸻


 胸の奥が痛んだ。


 何度も聞きたかった問いだった。


 何度も答えたかった問いだった。


⸻


「残る」


⸻


 シンは言った。


⸻


「俺は、ここにいる」


⸻


 嘘ではなかった。


 今は。


 この夜は。


 この火のある間は。


⸻


 モモの指が動いた。


 何かを掴もうとして、掴めなかった指だった。


⸻


「……よかった」


⸻


 とても小さい声だった。


 昔のモモに近かった。


 完全には戻っていない。


 それでも、戻ろうとしている声だった。


⸻


 シンは森を見た。


 白い影を見た。


⸻


(もう、使わせない)


⸻


 怒りはまだあった。


 だが今は、火の形をしていた。


 消えない火。


 誰にも見えない場所で、炭の奥に残る火。


⸻


 モモが一歩、下がった。


⸻


「……また」


⸻


 それだけ言った。


 続きはなかった。


⸻


「また」


⸻


 シンが返した。


⸻


 モモは森へ戻った。


 白い影が木々の間へ溶けた。


 桃の香りが残った。


 少しだけ残った。


 それから、夜の土の匂いに混じった。


⸻


 シンはしばらく動かなかった。


⸻


 背後で、胆沢の炉の火が揺れていた。


 風の中で揺れて。


 揺れて。


 消えなかった。


⸻


 火は残った。


 まだ、残っていた。


⸻


⸻


(第八十一話へ)


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