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カミノ

第七十九話 カミノ


⸻


 神野親王。


⸻


 その名が夜の火の前に落ちた瞬間、胆沢の空気が凍った。


 誰もすぐには動かなかった。


 松明の火だけが揺れている。


 焼け残った柵の匂い。


 濡れた土の匂い。


 手当てに使った草の匂い。


 その中に、都の衣へ染み込んだ香が、ほんの薄く混じっていた。


⸻


 モレの刃が上がった。


 切っ先は、まっすぐカミノへ向いている。


⸻


 護衛の男たちが身構えた。


 だが、カミノは下がらなかった。


 頭を下げたまま、動かなかった。


⸻


 シンは立ち尽くしていた。


 親王。


 意味だけは分かった。


 帝の血を受ける者。


 都の奥にいるはずの人間。


 こんな夜の胆沢に、少人数で立っていていい身分ではない。


⸻


(偉い人だったんだな)


⸻


 その程度だった。


 それ以上のことは、シンには分からなかった。


 名前を聞いても、歴史の細い筋は浮かばない。


 ただ、都。


 帝。


 平安京。


 そういう大きな言葉の端に、この若い男がつながっているのだと分かっただけだった。


⸻


 最初に動いたのは、スズリだった。


⸻


 スズリが前へ出た。


 珍しかった。


 いつもは後ろにいる。


 人の言葉を聞き、紙へ移し、場の端で火が消えないようにしている。


 だが今は違った。


 紙束を胸に抱えたまま、カミノの前へ出た。


⸻


「何を考えているんですか」


⸻


 強い声だった。


 怒りだけではない。


 恐れもあった。


 礼を失ったことへの恐れではなく、この人がここで殺されるかもしれないという恐れだった。


⸻


「危険すぎます」


⸻


 スズリの指が紙束を強く押さえた。


⸻


「宮様が足を運んでよい場所ではありません」


⸻


 その言葉で、周りの者たちがまた息を呑んだ。


 宮様。


 敵の男ではない。


 使者でもない。


 スズリは、この男がどういう場所に属する人間か知っている。


⸻


 カミノは苦笑した。


 疲れていた。


 目の下には暗いものがある。


 髪は整えられているが、風で乱れていた。


 衣には旅の汚れが残っていた。


 泥。


 煤。


 乾いた草の切れ端。


 都の奥に座っていれば付かないものばかりだった。


⸻


「怒られるだろうとは思っていた」


⸻


「怒ります」


⸻


 スズリは即答した。


⸻


「田村麻呂殿も、怒髪天を突く勢いだったが」


⸻


 カミノは後ろを示した。


 護衛は数人。


 軍勢ではない。


 旗もない。


 衣の上から簡単な防具を付け、弓と短い刀を持っている。


 旅の速さを優先した姿だった。


⸻


「腕の立つ者を付けてくれた」


⸻


 その中に。


⸻


 ワカレがいた。


⸻


 普通にいた。


 完全に護衛の顔をしていた。


 肩に弓をかけ、口元だけいつものように軽い。


⸻


 シンは目を細めた。


⸻


(何やってんだお前)


⸻


 目が合った。


 ワカレは片目を閉じた。


 小さく。笑いながら。


 その仕草だけで、余計なことを言うなという意味も、あとでねという意味も、全部乗っていた。


⸻


 シンは何も言わなかった。


 今は、そこへ突っ込む時ではなかった。


⸻


 アテルイがカミノを見ていた。


 敵を見る目ではない。


 値踏みする目でもない。


 山で、初めて見る足跡を読む時の目だった。


⸻


「中で話す」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


 モレの刃はまだ下がらない。


 アテルイはモレを見た。


 何も言わなかった。


 それだけで、モレはゆっくり刃を下ろした。


⸻


「納得したわけじゃない」


⸻


「知っている」


⸻


 短いやり取りだった。


 それだけで足りていた。


⸻


⸻


 アテルイの天幕に火が入った。


⸻


 炉は小さかった。


 燃やしすぎないよう、炭を選んで置いている。


 火種を守るための火。


 人を集めるための火。


 夜の寒さを追い払うには足りないが、顔を見るには十分だった。


⸻


 胆沢側は、アテルイ、モレ、古老数名。


 タダは外に残り、怪我人と子供を見ている。


 朝廷側は、カミノとスズリ。


 そしてシン。


⸻


 護衛は外に出た。


 ワカレも外へ出たはずだった。


 だが、シンがもう一度入口を見た時には、どこにもいなかった。


⸻


(もういない)


⸻


(早すぎるだろ)


⸻


 誰も気づいていない。


 いつものことだった。


⸻


 天幕の中は重かった。


 夜がまだ体に残っている。


 白雷。


 火矢。


 混戦。


 白桃の気配。


 シンの体には、死んだ時の痛みがまだ沈んでいた。


 腹の奥に、冷たいものがある。


 刺された場所はもう裂けていない。


 だが、体は覚えている。


⸻


 スズリも黙っていた。


 紙束を膝の上に置いている。


 筆は持っている。


 だが、まだ書いていない。


 カミノがいるからではなかった。


 シンが死ぬところを、見た体でここにいるからだった。


 この周回でシンは生きている。


 それでも、スズリの目には、少し前の別の死が薄く残っているように見えた。


 もちろん、スズリは覚えていない。


 覚えているのはシンだけだ。


 けれど、シンはその目を見ると、喉が詰まった。


⸻


 モレが口を開いた。


⸻


「親王が自ら来るわけがない」


⸻


 低い声だった。


 疑いというより、拒絶だった。


⸻


「嘘だ」


⸻


 カミノは静かだった。


 すぐには否定しなかった。


 否定より先に、モレの怒りを受けると決めている顔だった。


⸻


「東宮は、私の兄です」


⸻


 天幕の中の空気が少し動いた。


 スズリが目を伏せた。


 古老の一人が、炉の火を見た。


⸻


「私には、少しだけ動ける隙があります」


⸻


 カミノは続けた。


⸻


「正式な使者ではありません」


⸻


 その言葉に、モレの眉が動いた。


⸻


「正式なら、文が要る。旗が要る。人数が要る。都の手続きが要る。そうなれば、ここへ来る前に誰かが止めます」


⸻


 カミノは自分の膝の上に置いた手を見た。


⸻


「だから、私は私の足で来ました」


⸻


「愚かだな」


⸻


 モレが言った。


⸻


「そうです」


⸻


 カミノは認めた。


 早かった。


 言い訳がなかった。


⸻


「ただ、都で待っていれば、私は紙だけを見ます」


⸻


 少し間があった。


⸻


「火を見ない」


⸻


 また間があった。


⸻


「子供の顔を見ない」


⸻


 シンはカミノを見た。


 若い。


 偉い身分だと分かったあとでも、若い。


 胆沢の火を見て、顔色を変えた若さがある。


 それを隠そうとしているが、隠しきれていない。


⸻


「都から聞く蝦夷ではなく」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「この地そのものを見たかった」


⸻


 アテルイが短く笑った。


 疲れた笑いだった。


 だが、本物だった。


⸻


「好奇心か」


⸻


「勝てませんでした」


⸻


 カミノが言った。


⸻


 アテルイは頷いた。


⸻


「分かる」


⸻


 意外なほど、穏やかな声だった。


⸻


「勝てない時がある」


⸻


 カミノも少し笑った。


 その笑いで、天幕の中の空気がわずかに動いた。


 だが、緩みきる前に、モレが口を開いた。


⸻


「それで」


⸻


 刃は膝の上に置かれている。


 抜いてはいない。


 しかし、いつでも抜ける。


⸻


「見物のために来たわけではないだろう」


⸻


「はい」


⸻


 カミノの顔が戻った。


 柔らかさが消える。


 都の言葉を扱う人間の顔になった。


⸻


「田村麻呂殿は、和を探しています」


⸻


 誰も動かなかった。


⸻


「兵は疲れています。馬も痩せています。遠い地へ米を送り続けることは簡単ではありません。道は長く、山は深く、雨が降れば荷は遅れます。冬が近づけば、さらに鈍ります」


⸻


 言葉は多くなかった。


 だが、紙の上の数字ではない。


 実際に歩いてきた者の言葉だった。


⸻


「それでも、戦を止めたい者ばかりではありません」


⸻


 カミノは一度、スズリを見た。


 それから、アテルイを見た。


⸻


「都の一部で、戦を強く押している者がいます」


⸻


「蝦夷を討て、と」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「土地を押さえよ、と」


⸻


「金を押さえよ、と」


⸻


 金。


 炉の火が小さく鳴った。


 古老の一人が目を伏せた。


 胆沢の山に眠るもの。


 都が遠くから欲しがるもの。


 人を数字に変えるもの。


⸻


「田村麻呂殿は、それを望んでいません」


⸻


「ではなぜ来る」


⸻


 モレの声が低くなった。


⸻


「望んでいなくても、兵は来た」


⸻


 カミノは黙った。


⸻


「山を焼いた」


⸻


 モレが立った。


 腰掛けが鳴る。


 炉の火が揺れた。


⸻


「子供が逃げた」


⸻


 誰も止めなかった。


 止められなかった。


⸻


「老人が火種を抱えて走った」


⸻


 モレの声は荒くない。


 静かだった。


 静かな分だけ、重かった。


⸻


「倉が焼けた」


⸻


「家が焼けた」


⸻


「墓も、道も、名前を呼ぶ声も、煙になった」


⸻


 カミノは動かなかった。


 スズリの筆が止まっていた。


 シンも息を詰めた。


⸻


「今さら話せと言うか!!」


⸻


 モレの目に殺気があった。


 カミノへ向けたものだった。


 朝廷へ向けたものだった。


 それ以上に、どうにもできない自分へ向けたものにも見えた。


⸻


「話せば、死んだ者が戻るのか!!」


⸻


 カミノは何も言わなかった。


 謝らなかった。


 言い訳もしなかった。


 謝れば済むと思っていない顔だった。


⸻


 長い沈黙が落ちた。


⸻


 炉の火が炭を噛む音だけがした。


⸻


「モレ」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


 モレは振り向かなかった。


 まだカミノを見ていた。


⸻


「モレ」


⸻


 二度目。


 今度は、モレが目だけを動かした。


⸻


 アテルイは座ったままだった。


 戦で傷ついた体は、まだ衣の下で血を滲ませている。


 肩も、腕も、脇腹も痛むはずだった。


 それでも、声は揺れていなかった。


⸻


「俺と一緒に死んでいいのは」


⸻


 天幕が止まった。


⸻


「お前だけだ」


⸻


 モレの顔が固まった。


 スズリが息を止めた。


 カミノも動かなかった。


 シンは、胸の奥を掴まれたようになった。


⸻


 アテルイは続けた。


⸻


「皆まで連れていくな」


⸻


「山まで連れていくな」


⸻


「俺が間違えたら、お前が止めろ」


⸻


 モレの口が少し開いた。


 すぐに閉じた。


⸻


「俺が死に急ぐなら、殴れ」


⸻


 アテルイは火を見た。


 火の奥に、燃えた山があるように見ていた。


⸻


「俺がお前を置いて死ぬなら、怒れ」


⸻


 モレの拳が震えた。


⸻


「だが、民を怒りに巻き込むな」


⸻


 少し間があった。


⸻


「生きて怒れ」


⸻


 その言葉で、モレの顔が崩れた。


 一瞬だけだった。


 泣いたわけではない。


 涙も落ちていない。


 だが、怒りの奥にあったものが見えた。


 恐れ。


 アテルイを失う恐れ。


 ずっと隣に立ってきた男が、いつか自分より前で死ぬことを、もう何度も想像してきた顔だった。


⸻


「……何を言ってる」


⸻


 モレの声が掠れた。


⸻


「馬鹿か」


⸻


 アテルイは笑わなかった。


 ただ、モレを見ていた。


⸻


「俺だけを道連れにするつもりか」


⸻


「お前なら文句を言いながら来る」


⸻


「当たり前だ」


⸻


 モレは吐き捨てた。


 だが、声は震えていた。


⸻


「お前一人で死なせるか」


⸻


 アテルイの目が少しだけ細くなった。


 笑いに近かった。


 長い時間を共に歩いてきた者だけが分かる、ほんの短い表情だった。


⸻


「なら、つきあえ」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「死ぬ方じゃない」


⸻


 モレは黙った。


⸻


「残す方に」


⸻


 炉の火が揺れた。


 その小さな揺れが、天幕の全員の顔を順に照らした。


⸻


 モレは長く黙っていた。


 やがて、ゆっくり座った。


⸻


「……分かった」


⸻


 短かった。


 だが、それで十分だった。


⸻


「俺はまだ、朝廷を信じていない」


⸻


 モレはカミノを見た。


⸻


「お前も信じていない」


⸻


「当然です」


⸻


 カミノは静かに返した。


⸻


「信じられることを、私はまだしていません」


⸻


 モレは鼻で息を吐いた。


⸻


「だが、アテルイが行くなら見届ける」


⸻


 少し間があった。


⸻


「おかしな真似をすれば、斬る」


⸻


「承知しました」


⸻


 天幕の空気が、少しだけ戻った。


 古老の一人が深く息を吐く。


 スズリの筆が、ようやく紙の上を動いた。


 さらさらと音がする。


 その音が、場を支え直した。


⸻


 カミノが口を開いた。


⸻


「田村麻呂殿も、私も、お二人を死なせたくありません」


⸻


 モレの目が鋭くなった。


⸻


「もちろん、他の民もです」


⸻


 カミノは言い直さなかった。


 付け足しでもなかった。


 順番を間違えたことを自分で分かっている顔だった。


⸻


「名を貶めることもさせません」


⸻


「名か」


⸻


 モレが低く言った。


⸻


「名など、勝った側が好きに書く」


⸻


 スズリの筆が止まった。


⸻


「山を焼いた側が、山を救ったと書く」


⸻


「奪った側が、与えたと書く」


⸻


「殺した側が、鎮めたと書く」


⸻


 モレの声は静かだった。


 さっきよりも静かだった。


 だが、今度はカミノだけへ向けられていない。


 紙そのものへ向けられていた。


⸻


「そうなれば」


⸻


 モレは火を見た。


⸻


「山も、人も、炉も、何があったかも」


⸻


「全部消える」


⸻


 カミノはスズリを見た。


⸻


「だから、硯がいるのです」


⸻


 スズリが顔を上げた。


⸻


「火を残すために」


⸻


 カミノの声は静かだった。


 命令ではない。


 頼みでもない。


 事実を置く声だった。


⸻


 スズリは動かなかった。


 炉の火を見た。


 炭を見た。


 筆先の墨を見た。


⸻


 火は炭になる。


 炭は砕ける。


 砕ければ墨になる。


 墨になれば残る。


⸻


 老人の声が戻ってきた。


 客間の火の前だった。


 シンが、消させないと言った夜だった。


⸻


 スズリは紙束を抱え直した。


 強く。


 胸の前で。


⸻


「残します」


⸻


 声が出た。


 大きくはない。


 だが、天幕の隅まで届いた。


⸻


「全部残します」


⸻


 筆を握る指が震えていた。


 それでも、離さなかった。


⸻


「都の紙に載らなくても」


⸻


 スズリは言った。


⸻


「勝った者の言葉で塗られても」


⸻


「ここで何があったか、残します」


⸻


 少し間があった。


⸻


「消させません」


⸻


 シンはスズリを見た。


 火の明かりが、彼女の頬を照らしている。


 泣いてはいなかった。


 だが目が光っていた。


 怒りでも、恐れでも、悲しみでもある光だった。


 その全部を筆へ移すと決めた人の顔だった。


⸻


 アテルイがスズリを見た。


 モレも見た。


 古老たちも見た。


⸻


 小さな女が、紙束を抱えている。


 武器ではない。


 盾でもない。


 だが、そこに胆沢の火があると、全員が分かった。


⸻


「会おう」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「坂上田村麻呂と」


⸻


 カミノが目を上げた。


⸻


「話してみたい」


⸻


 モレは渋い顔をした。


 だが何も言わなかった。


 それが了承だった。


⸻


「二日後」


⸻


 カミノが言った。


⸻


「胆沢と陣の中間へ、場を設けます」


⸻


「少人数だ」


⸻


 モレが言った。


⸻


「こちらも、そちらも」


⸻


「はい」


⸻


 カミノは頷いた。


⸻


「文は後から来る」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「都の文も、田村麻呂の文も、山を走る足より遅い」


⸻


 カミノは少し目を伏せた。


⸻


「その通りです」


⸻


 即時の約束ではない。


 この場で決めても、明日の火を止める保証にはならない。


 伝令は走る。


 人は迷う。


 途中で矢が飛ぶかもしれない。


 強硬な兵は、自分たちの熱で勝手に動くかもしれない。


 それでも、何もしないよりはましだった。


⸻


「今日は休め」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「明日も残る」


⸻


 それで、会談は終わった。


⸻


⸻


 外へ出ると、夜の冷えが強くなっていた。


⸻


 星があった。


 山は暗い。


 燃えた跡だけが、ところどころ黒く沈んでいる。


 火消しの水が凍るほどではない。


 だが、冬の手前の匂いがした。


⸻


 護衛たちは静かに立っていた。


 ワカレはいなかった。


⸻


(やっぱりいない)


⸻


 シンは少しだけ笑いそうになった。


 笑えなかった。


 体が疲れすぎていた。


⸻


 カミノが横に来た。


 護衛が少し動こうとしたが、カミノが手で止めた。


⸻


 二人は、燃え残った柵の前に立った。


 少し離れたところで、スズリが古老から話を聞いている。


 筆を走らせている。


 夜なのに、まだ書いている。


 シンはそれを見た。


⸻


「アンタ」


⸻


 シンが言った。


⸻


「偉い人だったんだな」


⸻


 カミノは少し笑った。


 疲れた笑いだった。


⸻


「偉くはない」


⸻


「いや、親王って言ってたぞ」


⸻


「偉いとされる血筋に生まれただけだ」


⸻


 シンはカミノを見た。


 皮肉ではない声だった。


 本当に、そう思っている声だった。


⸻


「それでも、周りからすると十分偉い」


⸻


「なら、困ったものだ」


⸻


「困ってるのはこっちだ」


⸻


 カミノはまた少し笑った。


 今度は、さっきよりほんの少しだけ自然だった。


⸻


 沈黙が来た。


 長くはなかった。


 だが、軽い話を続けられるほど、夜は軽くなかった。


⸻


「白桃が来ているらしいが」


⸻


 カミノが言った。


⸻


 シンの表情が変わった。


⸻


「何か知ってるのか」


⸻


「知っている、と言えるほどではない」


⸻


 カミノは森を見た。


 黒い木々。


 その奥に、白いものがまだ潜んでいるような闇。


⸻


「都には、古い話がある」


⸻


 声が低くなった。


 誰にでも聞かせる声ではなかった。


⸻


「まつろわぬ民への刃」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「朝廷が朝廷になるより前から、在ったと云われるものだ」


⸻


 カミノは言葉を選んでいた。


 自分でも信じきっていなかった話を、今、信じざるを得なくなった人間の口調だった。


⸻


「神日本磐余彦尊の御代よりも前から、と」


⸻


 シンは、その名を知らなかった。


 聞いたことのない、硬い名だった。


 けれど、カミノが言おうとしていることは分かった。


⸻


 古い。


⸻


 都よりも。


 朝廷よりも。


 人が国の形を言葉にするよりも、ずっと古い。


⸻


 その頃から、白桃はいた。


⸻


 シンは時代を越えてきた。


 濡れた土を越えた。


 骨を流す川を越えた。


 山の火を越えた。


 雪と鉄と煙を越えた。


⸻


 長い旅だった。


 そう思っていた。


⸻


 違った。


⸻


 シンが飛ばされた時間にも、朝は来ていた。


 火は焚かれた。


 人は生まれ、死に、名を忘れられた。


⸻


 そのどこかに、モモはいた。


⸻


 白桃と呼ばれ。


 神使と呼ばれ。


 刃を持たされ。


 命令の奥へ、涙を押し込められて。


⸻


 シンが何も見られない時間の中で。


 モモだけが、使われ続けていた。


⸻


 何十年も。


 何百年も。


 もっと長く。


⸻


 喉の奥が冷えた。


 その冷えが、腹の底で静かな火に変わった。


⸻


「そんな昔から?」


⸻


 声が低くなった。


⸻


「そう云われている」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「私も半信半疑だった」


⸻


 シンは森を見た。


 桃の香りはない。


 白い影も見えない。


 それでも、そこにいる気がした。


⸻


(モモ)


⸻


 怒りがあった。


 悲しみより先に、怒りが来た。


⸻


(今度こそ、終わらせる)


⸻


「今は?」


⸻


「今は、都の奥にいる強硬な者たちが、あれを動かしているように見える」


⸻


「毘沙門天の名を被せて」


⸻


 シンが言った。


⸻


 カミノは頷いた。


⸻


「兵を熱狂させるには、神の名が要る」


⸻


「神じゃない」


⸻


 シンの声は硬かった。


⸻


「あれは神じゃない」


⸻


 カミノはシンを見た。


⸻


「お前は、何か知っているんだな」


⸻


 シンは答えなかった。


 すぐには。


⸻


 森を見た。


 白桃。


 モモ。


 白雷。


 ミカヅチ。


 タケミカヅチ。


 ビシャモンテン。


 時代ごとに名を変え、神の顔を被り、人の歴史へ入り込むもの。


 それに切られ、焼かれ、何度も奪われた。


 でも、その中にモモがいる。


⸻


「知ってる」


⸻


 短く答えた。


⸻


「でも、あれじゃない」


⸻


「あれ、とは」


⸻


「道具じゃない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「兵器でも、神使でも、白桃でもない」


⸻


 少し間があった。


⸻


「モモだ」


⸻


 カミノは黙った。


 否定しなかった。


 笑いもしなかった。


 ただ、その名を受け取った。


⸻


「モモ」


⸻


 カミノが繰り返した。


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「だから、止める」


⸻


「殺すのではなく」


⸻


「殺さない」


⸻


 即答だった。


⸻


 カミノはしばらく黙った。


 夜風が二人の間を抜けた。


⸻


「なら、それも残さないといけない」


⸻


「何を」


⸻


「白桃は、ただの道具ではなかったと」


⸻


 カミノはスズリを見た。


 まだ書いている。


 小さな火のそばで、聞いたことを残している。


⸻


「その内側に、名を呼ばれる人がいたと」


⸻


 シンは何も言えなかった。


 胸の奥が詰まった。


⸻


 カミノは続けた。


⸻


「ただし、急がないといけない」


⸻


 現実の声だった。


⸻


「都の奥にいる強硬な者たちは止まりきっていない。田村麻呂殿が和を求めても、それを嫌う者は必ず動く」


⸻


「二日後まで、もつか」


⸻


「もたせる」


⸻


 カミノは言った。


⸻


「お前たちも」


⸻


「無茶言うな」


⸻


「無茶をしに来た」


⸻


 シンは少しだけ笑った。


 今度は笑えた。


 ひどい夜だった。


 それでも、笑えた。


⸻


 森の奥から、桃の香りが来た。


⸻


 かすかだった。


 けれど、確かに来た。


⸻


 シンは顔を上げた。


 カミノも森を見た。


 スズリの筆が止まる音が、遠くで聞こえた。


⸻


 木々の間に、白い影があった。


 一瞬だけ。


 月の光より白く、雷より静かだった。


⸻


 見ていた。


 こちらを。


 火を。


 紙を。


 アテルイの天幕を。


⸻


 そして、消えた。


⸻


 桃の香りだけが残った。


 血でも、煙でも、香でもない。


 モモの気配だった。


⸻


(まだいる)


⸻


 シンは思った。


⸻


(まだ、消えてない)


⸻


 山風が吹いた。


 火が小さく揺れた。


 スズリがまた筆を動かし始めた。


 天幕の中では、アテルイとモレが低い声で何かを話している。


 怒っている声ではなかった。


 笑っている声でもなかった。


 明日も生きるための声だった。


⸻


 二日後。


 坂上田村麻呂と会う。


⸻


 その前に、夜を越えなければならない。


 山を残さなければならない。


 火を残さなければならない。


 名を残さなければならない。


⸻


 シンは森を見た。


 白い影は、もう見えなかった。


⸻


 それでも、桃の香りはまだ消えていなかった。


⸻


⸻


(第八十話へ)


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