来訪
第七十八話 来訪
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腹が重かった。
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痛みではない。
もう刺されていない。
血も流れていない。
それでも、腹の奥に刃の形だけが残っていた。
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シンは、息を吸った。
吸えた。
それだけで、喉が震えた。
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炉の火があった。
客間だった。
壁にもたれていた。
昨夜のまま、眠ってしまった姿勢だった。
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横に、スズリがいた。
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生きていた。
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筆を持ったまま、浅く眠っている。
膝の上には紙があった。
火種の位置。
炭倉。
避難先。
倉の配置。
人の名前。
まだ乱れていない文字が、夜の分だけ積もっていた。
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肩には、シンの上着が掛かっていた。
夜明け前に、寒そうだったから貸したものだ。
その朝だった。
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(ここか)
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白桃が柵の外へ来る前。
白雷が落ちる前。
アテルイが前へ出る前。
モモの刃が、まだ自分の腹に届いていない朝。
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戻った。
間に合うところへ。
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シンは腹を押さえた。
指先が震えた。
押さえても、傷はなかった。
ないのに、あった。
体だけが、前の死に置いていかれていなかった。
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「……また、急な顔をしています」
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スズリが目を開けていた。
眠そうな声だった。
でも、目はすぐに冴えた。
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「何かありましたか」
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シンは答えられなかった。
スズリが膝の紙を押さえ、上着を肩から落とさないようにした。
その動きが、あまりに普通だった。
生きている人間の、朝の動きだった。
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墨の匂いがした。
紙の匂いがした。
炉の煙が、薄く衣にしみていた。
それに混じって、乾かした草のような、清い匂いがあった。
強い香ではない。
近づかなければ分からない。
でも、一度分かると、息が少し落ち着く匂いだった。
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シンは、前の最後を思い出した。
土に落ちた筆。
墨を拾わなかった手。
声にならない口。
破らないって、と動いた唇。
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「シンさん?」
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「悪い」
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「謝ることをする前に謝らないでください」
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少し怒っていた。
いや、怒る準備をしていた。
その顔を見て、シンはかえって苦しくなった。
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「外に行く」
「またですか」
「すぐ戻る」
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スズリの指が、紙の端を強く押さえた。
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「その言い方、嫌です」
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シンは止まった。
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「戻ると言う人ほど、戻らない顔をします」
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前のスズリは知らない。
自分が死んだことも、目の前で見たことも知らない。
それなのに、同じ場所を触られた気がした。
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「戻る」
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シンは言った。
今度は、言い直すように。
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「破らない」
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スズリが、まばたきをした。
言葉の重さが分からない顔だった。
でも、軽く流さなかった。
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「……では、覚えておきます」
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上着を脱ごうとした。
シンは首を振った。
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「まだ寒いだろ」
「でも」
「持っててくれ」
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スズリは少し黙った。
そして、上着の前を握った。
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「返す相手がいなくなると困ります」
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声は静かだった。
静かだから、刺さった。
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「いる」
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シンは言った。
その場しのぎの約束ではなかった。
自分に命令するための言葉だった。
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外は朝だった。
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まだ燃えていない胆沢があった。
煙は炊事場からだけ上がっていた。
子供が眠そうな顔で水を運び、老人が炉の灰をならしていた。
馬が鼻を鳴らし、犬が人の足元を嗅いで歩いていた。
弓を確かめる音もあった。
薪を割る音もあった。
普通の朝だった。
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それが、怖かった。
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シンには、この後の音が聞こえていた。
白い雷。
火矢。
怒号。
アテルイの槍が軋む音。
モモが泣く声。
スズリが、名前を呼ぶ声。
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まだ何も起きていない場所に、起きたものだけが重なっていた。
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「ワカレ」
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森の縁で、シンは低く呼んだ。
返事はなかった。
木の上にも、下草にも、人の気配はない。
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「ワカレ」
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「朝から声が硬いね」
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頭上から声が落ちた。
枝に、ワカレが座っていた。
金の髪が朝日に薄く光っている。
片膝を立て、いつもの軽い笑みを浮かべていた。
けれど目は笑っていなかった。
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「死んだ?」
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シンは頷いた。
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「腹」
「白桃ちゃん?」
「モモだ」
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ワカレの笑みが、少しだけ消えた。
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「白雷が落ちた」
シンは早口になった。
「ビシャモン兵が叫んだ。モモが消えた。アテルイが出た。モモと戦った。アテルイは押し返した。でも兵が矢を射た。モレたちが斬り込んで、混戦になった。俺はモモのところへ走った」
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腹が重くなった。
言葉にしただけで、体が思い出した。
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「俺が刺された」
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ワカレは何も言わなかった。
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「モモは戻りかけた」
「うん」
「泣いた」
「うん」
「でも、俺は死んだ」
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最後の言葉だけ、声が落ちた。
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「どうすればいい」
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ワカレは枝から降りた。
音がほとんどなかった。
足が土に触れて、ようやくそこに人が立っていると分かった。
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「まず、勝とうとしない」
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「勝たないと終わらないだろ」
「違う。今日は勝つ日じゃない」
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ワカレは森の奥を見た。
まだ誰もいないはずの場所を見た。
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「白桃ちゃんは、完全に自由じゃない。でも完全に人形でもない。だから、現場を見る。火を見る。子供を見る。記録を見る。そこに命令とズレがあると、揺れる」
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「揺れた」
「だから上が叩いた」
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白雷。
ミカヅチ。
タケミカヅチ。
ビシャモンテン。
名前を変えた同じ手が、またモモを奪った。
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「なら、どうする」
「大きい石を動かすな。小さい石を全部ずらせ」
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ワカレは指を折った。
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「北倉を空にする」
「火種を炉から離す」
「炭は一か所に置かない」
「記録は三つに分ける」
「子供は奥じゃなく、沢沿いの低い小屋へ移す。煙が上に逃げる場所だ」
「馬は騒ぐから柵の近くに置かない」
「乾いた草と薪束は水のそばへ」
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速かった。
ただの思いつきではない。
もう地形を見ていた声だった。
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「それで止まるのか」
「止まらない」
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即答だった。
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「でも、逸れる」
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ワカレは、シンを見た。
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「死ぬ場所を消せ。燃える理由を減らせ。白桃ちゃんが来た時に、命令の対象がそこにないようにする」
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「アテルイは」
「出すな」
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ワカレの声が少し低くなった。
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「アテルイくんは強い。強すぎる。白桃ちゃんの命令が、彼を中心に組み直されるくらいには」
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シンは息を呑んだ。
前の戦いを思い出した。
白桃が初めて下がった瞬間。
山のような背。
誰もが、勝てるかもしれないと思った瞬間。
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あれが罠だった。
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「勝てそうに見えたところで、全部が戦になる」
ワカレが言った。
「だから今日は、戦にしない」
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「モレが納得しない」
「納得させなくていい。動かせ」
「アテルイは」
「アテルイくんは、たぶん分かる」
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ワカレは南を見た。
山の向こう。
都ではなく、もっと近い場所。
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「それと、夜まで残れ」
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「夜?」
「南から火じゃないものが来る」
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シンは眉を寄せた。
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「何がくる」
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ワカレは答えなかった。
ただ、いつもの軽い笑みを少しだけ戻した。
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「さあね。でもきっと良い流れになるはずだよ。」
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シンは戻った。
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すぐに人を集めた。
アテルイ、モレ、スズリ、タダ、炉守りの老人、倉を預かる者、弓手をまとめる者。
まだ朝飯も済んでいない時間だった。
それでも全員が来た。
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「配置を変える」
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シンは言った。
声が少し急いていた。
自分でも分かった。
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「北倉を空にする。火種は三つに分ける。炭も移す。記録は一か所に置かない。子供は沢沿いへ」
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「理由は」
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モレだった。
予想通りの声だった。
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「昨日より悪い形で来る」
「見たように言うな」
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シンは黙った。
見た。
でも、そのままは言えなかった。
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「嫌な予感では、人は動かせない」
モレが続けた。
「火種も炭も、動かせば守りが薄くなる。子供を動かすにも人が要る。弓手も割かれる。お前は、何を知っている」
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シンは腹を押さえそうになった。
やめた。
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「死ぬ場所を知ってる」
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場が止まった。
言いすぎた。
でも、もう戻せなかった。
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「誰の」
モレが言った。
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「俺の」
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沈黙が落ちた。
スズリの筆が、紙の上で止まった。
タダだけが、目を伏せなかった。
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アテルイがシンを見ていた。
長く。
怒るでも、疑うでもなかった。
山の天気を見るような目だった。
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「お前は、まだ来ていない煙を嗅いでいる」
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アテルイが言った。
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シンは答えなかった。
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「なら、やれ」
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モレがアテルイを見た。
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「アテルイ」
「やれ」
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アテルイは繰り返した。
それだけで、場が動いた。
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「ただし」
アテルイは続けた。
「子供の場所は、スズリが記せ。老人に道を見せろ。火種は炉守りが分ける。シンは走るな。指示を出せ」
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「走る」
「走るな」
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静かな声だった。
強かった。
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「お前が倒れれば、皆が迷う」
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前の死を知らないはずなのに。
アテルイは、そこだけを見抜いた。
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モレは舌打ちをした。
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「納得はしていない」
「それでいい」
アテルイが言った。
「納得より先に動け」
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モレは立ち上がった。
怒った顔のまま、外へ出た。
その後ろへ、若い手勢が続いた。
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胆沢が動いた。
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午前のうちに、北倉は空になった。
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干肉、穀、塩、皮袋。
運べるものは奥へ。
運べないものは土間へ下ろし、湿った筵をかぶせた。
乾いた草は水場のそばへ移した。
薪束はばらし、火が一度に食いつかないようにした。
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火種は三つに分けた。
炉守りの老人が、小さな炭を灰に埋め、皮袋へ入れた。
ひとつは沢沿いへ。
ひとつは南の窪地へ。
ひとつは、スズリが記した別の場所へ。
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「ここは書かないのか」
シンが聞いた。
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「書きます」
スズリは言った。
「でも、誰が見ても分かるようには書きません」
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紙の端に、小さな印を入れた。
地図ではない。
ただの点に見えた。
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「読めるのか」
「私が生きていれば」
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その言い方に、シンは顔を上げた。
スズリも気づいた。
ほんの少し、目を伏せた。
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「……生きています」
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自分に言うような声だった。
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「生きて、読みます」
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シンは頷いた。
それ以上言うと、声が壊れそうだった。
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子供たちは、沢沿いの低い小屋へ移された。
泣く子もいた。
嫌がる子もいた。
タダが一人を肩に乗せると、別の子が笑った。
その笑いが移って、少しだけ空気が緩んだ。
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モレは笑わなかった。
弓手の位置を変え、柵の影に伏せさせ、余計な火を消して回った。
怒っているのに、仕事は速かった。
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「おい」
すれ違いざま、モレがシンを呼んだ。
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「はい」
「お前の嫌な予感が外れたら、殴る」
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「外れたら、それでいい」
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モレは眉を寄せた。
少しだけ、言葉を失った顔をした。
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「……外れろ」
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それだけ言って、また歩いた。
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昼を過ぎると、森が黙った。
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鳥の声が減った。
犬が地面を嗅がなくなった。
馬が落ち着かず、柵から離した囲いの中で足を踏み替えている。
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シンは、何度も森を見た。
白桃はまだ来ない。
来ないことが、逆に怖かった。
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スズリが横に来た。
肩にはまだ、シンの上着があった。
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「返した方が動きやすいです」
「寒くないのか」
「寒いです」
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正直だった。
シンは少し笑いそうになった。
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「なら持ってて」
「では、返すまで死なないでください」
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軽く言ったようで、軽くなかった。
スズリは森を見ていた。
シンを見なかった。
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「さっき、死ぬ場所を知っていると言いました」
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シンは黙った。
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「私は、聞きません」
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風が少し動いた。
上着の裾が揺れた。
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「聞いたら、たぶん書かなければならなくなる」
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スズリは、ようやくシンを見た。
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「今は、書くより先に、生きてほしいです」
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シンの胸が詰まった。
答えを探す前に、遠くで音がした。
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木を打つ音。
人の足音。
低い声。
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来た。
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夕方。
火矢が飛んだ。
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一本目は、北倉へ刺さった。
前と同じ場所だった。
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だが、燃えるものがなかった。
乾いた草も、積んだ荷も、油を含んだ皮もない。
矢は空の土間へ落ち、湿った筵の端を焦がしただけだった。
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「水!」
モレが叫んだ。
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人が走った。
桶が渡った。
煙は上がったが、炎にはならなかった。
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二本目は柵へ。
三本目は薪場へ。
けれど薪はばらされ、水場の近くにあった。
火は食いつけず、くすぶって終わった。
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森の外から、叫びが来た。
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「毘沙門天の加護ぞある!」
「鬼を討て!」
「穢れを断て!」
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声は熱かった。
熱いのに、乱れていた。
燃え上がるはずの場所が燃えない。
走り出すはずの人が、走らない。
泣くはずの子供の声が、そこにない。
それだけで、攻める側の足が一拍ずれた。
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白雷が落ちた。
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山が白くなった。
音が遅れた。
温度のない光が、木々の間を舐めた。
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シンの腹が、強く痛んだ。
傷はない。
それでも体が、また刺されると思った。
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「来るな」
アテルイが言った。
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誰へ向けた言葉でもなかった。
胆沢の全員へ向けた言葉だった。
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だが、アテルイ自身が一歩、前へ出ようとした。
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「出ないでくれ」
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シンは叫んでいた。
思ったより強い声が出た。
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アテルイが止まった。
モレが振り向いた。
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「またか」
モレの声は低かった。
「今度は何だ」
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「今、出たら白桃はあんたを見る」
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シンはアテルイを見た。
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「あんたは強い。強すぎる。だから命令が、あんたを中心に組み直される」
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モレが顔を歪めた。
信じていない。
でも、前に出なかった。
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アテルイは森を見ていた。
白い光の奥を。
まだ姿のない白桃を。
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「俺が出れば、戦になるか」
「なる」
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「俺が出なければ」
「少しだけ、ずれる」
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アテルイは頷いた。
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「なら、ずらせ」
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その言葉だけで、モレは唇を噛んだ。
従った。
アテルイも動かなかった。
槍は持っている。
だが、前には出ない。
山が、あえて動かないでいるようだった。
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やがて、白桃が来た。
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森の外縁。
柵の向こう。
白装束。
黒い髪。
フツはまだ抜かれていない。
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目は、機械の目だった。
けれど完全に空ではなかった。
その奥で、何かが遅れて瞬くように揺れていた。
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白桃は、北倉を見た。
空だった。
火種の袋があった場所を見た。
なかった。
炭倉を見た。
分けられていた。
子供がいた場所を見た。
声はなかった。
記録の紙が積まれていた場所を見た。
何もなかった。
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「……対象」
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白桃の声が落ちた。
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「……胆沢」
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森の向こうで、兵が叫んでいた。
鬼を討て。
神使を守れ。
穢れを断て。
声は近い。
でも白桃は、動かなかった。
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桃の香りが、薄く来た。
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「モモ」
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シンは呼んだ。
近づかなかった。
ワカレの言葉を思い出していた。
勝とうとするな。
戦にするな。
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白桃の目が、シンへ向いた。
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「……シン」
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声が少しだけ違った。
硬い殻の内側から、昔の声が指先だけ出したようだった。
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「残した」
シンは言った。
「火も、墨も、人も」
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白桃の瞳が揺れた。
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「……確認」
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白桃は言った。
昔のモモに似た言葉だった。
でも、昔のモモではなかった。
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「……焼失、必要量に達せず」
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桃の香りが少し強くなった。
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「……よかった、の判定」
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シンは息を止めた。
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「命令混濁」
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白桃が、ほんのわずかに首を傾けた。
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「……根拠薄弱」
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モモの言い方だった。
完全ではない。
でも、いた。
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「でも、そうだろ」
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白桃は答えなかった。
手がフツの柄へ触れた。
触れただけだった。
抜かなかった。
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白雷が、もう一度遠くで瞬いた。
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白桃の肩が跳ねた。
目から揺れが消えかけた。
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「……上位命令、再照合」
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シンは歯を食いしばった。
ここで走れば、前と同じになる。
ここでアテルイが出れば、戦になる。
ここでモレが叫べば、矢が来る。
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何もしないことが、こんなに難しいとは思わなかった。
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アテルイは動かなかった。
モレも動かなかった。
スズリは紙を握り、声を殺していた。
タダは子供のいる小屋の前に立っていた。
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白桃は、もう一度空の北倉を見た。
消えていない炉の火を見た。
誰も飛び出さない胆沢を見た。
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「……修正」
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言葉が途切れた。
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「……保留」
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白桃は森へ下がった。
一歩。
もう一歩。
そして、木々の白い光の中へ消えた。
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兵の叫びが混乱した。
「神使様!」
「何故戻られる!」
「追え!」
「いや、命を待て!」
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熱が散った。
火矢はまだ来た。
だが最初の勢いはなかった。
燃える場所がない。
斬り込む合図もない。
白桃が先に立たない。
それだけで、戦は形を失った。
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日が落ちるころ、森の声は遠ざかった。
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胆沢は残っていた。
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夜になった。
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火は鎮まった。
焼けた柵の一部から、まだ細い煙が上がっていた。
怪我人はいた。
腕を射られた者。
煙を吸って咳き込む老人。
転んで膝を割った子供。
それでも、前とは違った。
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火種は戻った。
炭も戻った。
記録も戻った。
子供たちの声も、少しずつ戻った。
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シンは、客間の外で膝に手をついた。
吐き気がした。
助かったという感覚は、すぐには来なかった。
死ななかった体が、死んだ記憶に追いつけずにいた。
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「生きていますね」
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スズリが言った。
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シンは顔を上げた。
スズリは上着を着たままだった。
煤が裾についている。
頬にも黒い筋があった。
それなのに、妙に綺麗に見えた。
疲れているのに、目だけが強かった。
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「生きてる」
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シンが言うと、スズリは目を閉じた。
ほんの少しだけ、肩が落ちた。
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「では、返せます」
上着の前をつまんだ。
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「まだいい」
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「また貸してくれるんですか」
「返す相手が必要なんだろ」
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スズリは黙った。
それから、小さく笑った。
笑うと、急に年相応に見えた。
記録係でも、胆沢の目でもなく、朝からずっと怖かった一人の女に見えた。
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「必要です」
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短い言葉だった。
それだけで、シンの腹の重さが少しだけ薄れた。
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その時、見張りの声が飛んだ。
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「南より灯!」
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見張りの声が、夜を裂いた。
客間にいた者たちが、一斉に顔を上げた。
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「数は」
アテルイが言った。
声は低かった。
低いだけで、走り出しかけた者の足が止まった。
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「少ない! 松明、五つ!」
見張りが返した。
「馬、数頭! 旗なし! 弓の弦は外している!」
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モレの目が細くなった。
罠ではない。
だが、罠ではないと言い切れるほど、胆沢の夜は甘くなかった。
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「弦を外して近づく兵などいるか」
「兵ならな」
アテルイは立ち上がった。
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炉の火が揺れた。
外には、まだ焦げた柵の匂いが残っている。
燃え損ねた木。
濡れた土。
血。
その全部の向こうから、南の灯が近づいてきた。
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軍勢ではなかった。
列は短い。
供は少ない。
甲は軽く、馬も疲れていた。
長い道を急いできた者たちの姿だった。
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先頭の男は、柵の手前で馬を降りた。
馬上から見下ろさなかった。
それだけで、モレの眉がわずかに動いた。
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若い男だった。
松明の光に、旅の埃が浮いた。
衣は都のものだった。
けれど、泥で裾が重くなっていた。
顔にも疲れがあった。
隠しきれていなかった。
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それでも、立ち方だけが違った。
背筋。
袖を直す指。
刃を向けられても、すぐには目を逸らさない間。
武人ではない。
山の者でもない。
だが、命令される側だけで育った人間ではなかった。
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スズリが息を呑んだ。
筆を持つ手が止まった。
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知っている。
そういう顔だった。
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モレが刃に手をかけた。
供の一人が動きかける。
若い男が、手だけでそれを止めた。
短い動きだった。
その手に、慣れがあった。
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「坂上田村麻呂殿の陣より参った」
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若い声だった。
だが、震えてはいなかった。
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「使者か」
モレが言った。
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「違います」
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男は答えた。
その一言で、場の温度が変わった。
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「宣旨は持ちません。朝廷の命も負っていません。田村麻呂殿の命で来たのでもありません」
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「なら、何者だ」
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モレの刃が、少し抜けた。
火の光が、刃の腹に走った。
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若い男は、そこで頭巾を取った。
髪に入り込んだ埃が落ちた。
供の者が息を詰めた。
止めたかったのだと、シンにも分かった。
名を明かせば、ただの旅人ではいられなくなる。
ただの使いでもいられなくなる。
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若い男は、それでも前へ出た。
一歩だけ。
柵の内からなら、弓で届く距離だった。
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「諱は、神野」
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シンは、その言葉の重さを正しく知らなかった。
諱。
聞いたことはある。
けれど、この時代の人間がその名を口にする怖さまでは、分からなかった。
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分からなくても、場が教えた。
スズリの顔から血の気が引いた。
古老の一人が、膝を沈めかけた。
モレの刃が、完全に抜けた。
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若い男は続けた。
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「神野親王」
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夜が止まった。
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シンは、その名を知らない。
未来のどの帝に繋がる名なのかも知らない。
都の系図も、皇子たちの争いも、何も知らない。
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ただ、分かった。
帝の血を受ける者が、旗も立てず、詔も持たず、敵の柵の前に立っている。
それが、どれほど危ういことか。
どれほど取り返しのつかないことか。
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モレが半歩前へ出た。
刃の切先が、カミノへ向いた。
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供の者たちが硬くなる。
だが、カミノは下がらなかった。
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スズリは、筆を落としていた。
乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
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タダは動かなかった。
アテルイも動かなかった。
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アテルイだけが、カミノを見ていた。
敵を見る目ではない。
客を見る目でもない。
山の入口に立った者が、本当に山へ入る覚悟を持っているか、量る目だった。
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炉の火が揺れた。
焼け残った胆沢の夜が、その間にあった。
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火のこちらに、アテルイ。
火の向こうに、神野親王。
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山風が吹いた。
冬の手前の匂いがした。
その奥に、桃の香りが一瞬だけ混じった。
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誰も、まだ言葉を継げなかった。
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(第七十九話へ)




