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来訪

第七十八話 来訪


⸻


 腹が重かった。


⸻


 痛みではない。


 もう刺されていない。


 血も流れていない。


 それでも、腹の奥に刃の形だけが残っていた。


⸻


 シンは、息を吸った。


 吸えた。


 それだけで、喉が震えた。


⸻


 炉の火があった。


 客間だった。


 壁にもたれていた。


 昨夜のまま、眠ってしまった姿勢だった。


⸻


 横に、スズリがいた。


⸻


 生きていた。


⸻


 筆を持ったまま、浅く眠っている。


 膝の上には紙があった。


 火種の位置。


 炭倉。


 避難先。


 倉の配置。


 人の名前。


 まだ乱れていない文字が、夜の分だけ積もっていた。


⸻


 肩には、シンの上着が掛かっていた。


 夜明け前に、寒そうだったから貸したものだ。


 その朝だった。


⸻


(ここか)


⸻


 白桃が柵の外へ来る前。


 白雷が落ちる前。


 アテルイが前へ出る前。


 モモの刃が、まだ自分の腹に届いていない朝。


⸻


 戻った。


 間に合うところへ。


⸻


 シンは腹を押さえた。


 指先が震えた。


 押さえても、傷はなかった。


 ないのに、あった。


 体だけが、前の死に置いていかれていなかった。


⸻


「……また、急な顔をしています」


⸻


 スズリが目を開けていた。


 眠そうな声だった。


 でも、目はすぐに冴えた。


⸻


「何かありましたか」


⸻


 シンは答えられなかった。


 スズリが膝の紙を押さえ、上着を肩から落とさないようにした。


 その動きが、あまりに普通だった。


 生きている人間の、朝の動きだった。


⸻


 墨の匂いがした。


 紙の匂いがした。


 炉の煙が、薄く衣にしみていた。


 それに混じって、乾かした草のような、清い匂いがあった。


 強い香ではない。


 近づかなければ分からない。


 でも、一度分かると、息が少し落ち着く匂いだった。


⸻


 シンは、前の最後を思い出した。


 土に落ちた筆。


 墨を拾わなかった手。


 声にならない口。


 破らないって、と動いた唇。


⸻


「シンさん?」


⸻


「悪い」


⸻


「謝ることをする前に謝らないでください」


⸻


 少し怒っていた。


 いや、怒る準備をしていた。


 その顔を見て、シンはかえって苦しくなった。


⸻


「外に行く」


「またですか」


「すぐ戻る」


⸻


 スズリの指が、紙の端を強く押さえた。


⸻


「その言い方、嫌です」


⸻


 シンは止まった。


⸻


「戻ると言う人ほど、戻らない顔をします」


⸻


 前のスズリは知らない。


 自分が死んだことも、目の前で見たことも知らない。


 それなのに、同じ場所を触られた気がした。


⸻


「戻る」


⸻


 シンは言った。


 今度は、言い直すように。


⸻


「破らない」


⸻


 スズリが、まばたきをした。


 言葉の重さが分からない顔だった。


 でも、軽く流さなかった。


⸻


「……では、覚えておきます」


⸻


 上着を脱ごうとした。


 シンは首を振った。


⸻


「まだ寒いだろ」


「でも」


「持っててくれ」


⸻


 スズリは少し黙った。


 そして、上着の前を握った。


⸻


「返す相手がいなくなると困ります」


⸻


 声は静かだった。


 静かだから、刺さった。


⸻


「いる」


⸻


 シンは言った。


 その場しのぎの約束ではなかった。


 自分に命令するための言葉だった。


⸻


⸻


 外は朝だった。


⸻


 まだ燃えていない胆沢があった。


 煙は炊事場からだけ上がっていた。


 子供が眠そうな顔で水を運び、老人が炉の灰をならしていた。


 馬が鼻を鳴らし、犬が人の足元を嗅いで歩いていた。


 弓を確かめる音もあった。


 薪を割る音もあった。


 普通の朝だった。


⸻


 それが、怖かった。


⸻


 シンには、この後の音が聞こえていた。


 白い雷。


 火矢。


 怒号。


 アテルイの槍が軋む音。


 モモが泣く声。


 スズリが、名前を呼ぶ声。


⸻


 まだ何も起きていない場所に、起きたものだけが重なっていた。


⸻


「ワカレ」


⸻


 森の縁で、シンは低く呼んだ。


 返事はなかった。


 木の上にも、下草にも、人の気配はない。


⸻


「ワカレ」


⸻


「朝から声が硬いね」


⸻


 頭上から声が落ちた。


 枝に、ワカレが座っていた。


 金の髪が朝日に薄く光っている。


 片膝を立て、いつもの軽い笑みを浮かべていた。


 けれど目は笑っていなかった。


⸻


「死んだ?」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「腹」


「白桃ちゃん?」


「モモだ」


⸻


 ワカレの笑みが、少しだけ消えた。


⸻


「白雷が落ちた」


 シンは早口になった。


「ビシャモン兵が叫んだ。モモが消えた。アテルイが出た。モモと戦った。アテルイは押し返した。でも兵が矢を射た。モレたちが斬り込んで、混戦になった。俺はモモのところへ走った」


⸻


 腹が重くなった。


 言葉にしただけで、体が思い出した。


⸻


「俺が刺された」


⸻


 ワカレは何も言わなかった。


⸻


「モモは戻りかけた」


「うん」


「泣いた」


「うん」


「でも、俺は死んだ」


⸻


 最後の言葉だけ、声が落ちた。


⸻


「どうすればいい」


⸻


 ワカレは枝から降りた。


 音がほとんどなかった。


 足が土に触れて、ようやくそこに人が立っていると分かった。


⸻


「まず、勝とうとしない」


⸻


「勝たないと終わらないだろ」


「違う。今日は勝つ日じゃない」


⸻


 ワカレは森の奥を見た。


 まだ誰もいないはずの場所を見た。


⸻


「白桃ちゃんは、完全に自由じゃない。でも完全に人形でもない。だから、現場を見る。火を見る。子供を見る。記録を見る。そこに命令とズレがあると、揺れる」


⸻


「揺れた」


「だから上が叩いた」


⸻


 白雷。


 ミカヅチ。


 タケミカヅチ。


 ビシャモンテン。


 名前を変えた同じ手が、またモモを奪った。


⸻


「なら、どうする」


「大きい石を動かすな。小さい石を全部ずらせ」


⸻


 ワカレは指を折った。


⸻


「北倉を空にする」


「火種を炉から離す」


「炭は一か所に置かない」


「記録は三つに分ける」


「子供は奥じゃなく、沢沿いの低い小屋へ移す。煙が上に逃げる場所だ」


「馬は騒ぐから柵の近くに置かない」


「乾いた草と薪束は水のそばへ」


⸻


 速かった。


 ただの思いつきではない。


 もう地形を見ていた声だった。


⸻


「それで止まるのか」


「止まらない」


⸻


 即答だった。


⸻


「でも、逸れる」


⸻


 ワカレは、シンを見た。


⸻


「死ぬ場所を消せ。燃える理由を減らせ。白桃ちゃんが来た時に、命令の対象がそこにないようにする」


⸻


「アテルイは」


「出すな」


⸻


 ワカレの声が少し低くなった。


⸻


「アテルイくんは強い。強すぎる。白桃ちゃんの命令が、彼を中心に組み直されるくらいには」


⸻


 シンは息を呑んだ。


 前の戦いを思い出した。


 白桃が初めて下がった瞬間。


 山のような背。


 誰もが、勝てるかもしれないと思った瞬間。


⸻


 あれが罠だった。


⸻


「勝てそうに見えたところで、全部が戦になる」


 ワカレが言った。


「だから今日は、戦にしない」


⸻


「モレが納得しない」


「納得させなくていい。動かせ」


「アテルイは」


「アテルイくんは、たぶん分かる」


⸻


 ワカレは南を見た。


 山の向こう。


 都ではなく、もっと近い場所。


⸻


「それと、夜まで残れ」


⸻


「夜?」


「南から火じゃないものが来る」


⸻


 シンは眉を寄せた。


⸻


「何がくる」


⸻


 ワカレは答えなかった。


 ただ、いつもの軽い笑みを少しだけ戻した。


⸻


「さあね。でもきっと良い流れになるはずだよ。」


⸻


⸻


 シンは戻った。


⸻


 すぐに人を集めた。


 アテルイ、モレ、スズリ、タダ、炉守りの老人、倉を預かる者、弓手をまとめる者。


 まだ朝飯も済んでいない時間だった。


 それでも全員が来た。


⸻


「配置を変える」


⸻


 シンは言った。


 声が少し急いていた。


 自分でも分かった。


⸻


「北倉を空にする。火種は三つに分ける。炭も移す。記録は一か所に置かない。子供は沢沿いへ」


⸻


「理由は」


⸻


 モレだった。


 予想通りの声だった。


⸻


「昨日より悪い形で来る」


「見たように言うな」


⸻


 シンは黙った。


 見た。


 でも、そのままは言えなかった。


⸻


「嫌な予感では、人は動かせない」


 モレが続けた。


「火種も炭も、動かせば守りが薄くなる。子供を動かすにも人が要る。弓手も割かれる。お前は、何を知っている」


⸻


 シンは腹を押さえそうになった。


 やめた。


⸻


「死ぬ場所を知ってる」


⸻


 場が止まった。


 言いすぎた。


 でも、もう戻せなかった。


⸻


「誰の」


 モレが言った。


⸻


「俺の」


⸻


 沈黙が落ちた。


 スズリの筆が、紙の上で止まった。


 タダだけが、目を伏せなかった。


⸻


 アテルイがシンを見ていた。


 長く。


 怒るでも、疑うでもなかった。


 山の天気を見るような目だった。


⸻


「お前は、まだ来ていない煙を嗅いでいる」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


 シンは答えなかった。


⸻


「なら、やれ」


⸻


 モレがアテルイを見た。


⸻


「アテルイ」


「やれ」


⸻


 アテルイは繰り返した。


 それだけで、場が動いた。


⸻


「ただし」


 アテルイは続けた。


「子供の場所は、スズリが記せ。老人に道を見せろ。火種は炉守りが分ける。シンは走るな。指示を出せ」


⸻


「走る」


「走るな」


⸻


 静かな声だった。


 強かった。


⸻


「お前が倒れれば、皆が迷う」


⸻


 前の死を知らないはずなのに。


 アテルイは、そこだけを見抜いた。


⸻


 モレは舌打ちをした。


⸻


「納得はしていない」


「それでいい」


 アテルイが言った。


「納得より先に動け」


⸻


 モレは立ち上がった。


 怒った顔のまま、外へ出た。


 その後ろへ、若い手勢が続いた。


⸻


 胆沢が動いた。


⸻


⸻


 午前のうちに、北倉は空になった。


⸻


 干肉、穀、塩、皮袋。


 運べるものは奥へ。


 運べないものは土間へ下ろし、湿った筵をかぶせた。


 乾いた草は水場のそばへ移した。


 薪束はばらし、火が一度に食いつかないようにした。


⸻


 火種は三つに分けた。


 炉守りの老人が、小さな炭を灰に埋め、皮袋へ入れた。


 ひとつは沢沿いへ。


 ひとつは南の窪地へ。


 ひとつは、スズリが記した別の場所へ。


⸻


「ここは書かないのか」


 シンが聞いた。


⸻


「書きます」


 スズリは言った。


「でも、誰が見ても分かるようには書きません」


⸻


 紙の端に、小さな印を入れた。


 地図ではない。


 ただの点に見えた。


⸻


「読めるのか」


「私が生きていれば」


⸻


 その言い方に、シンは顔を上げた。


 スズリも気づいた。


 ほんの少し、目を伏せた。


⸻


「……生きています」


⸻


 自分に言うような声だった。


⸻


「生きて、読みます」


⸻


 シンは頷いた。


 それ以上言うと、声が壊れそうだった。


⸻


 子供たちは、沢沿いの低い小屋へ移された。


 泣く子もいた。


 嫌がる子もいた。


 タダが一人を肩に乗せると、別の子が笑った。


 その笑いが移って、少しだけ空気が緩んだ。


⸻


 モレは笑わなかった。


 弓手の位置を変え、柵の影に伏せさせ、余計な火を消して回った。


 怒っているのに、仕事は速かった。


⸻


「おい」


 すれ違いざま、モレがシンを呼んだ。


⸻


「はい」


「お前の嫌な予感が外れたら、殴る」


⸻


「外れたら、それでいい」


⸻


 モレは眉を寄せた。


 少しだけ、言葉を失った顔をした。


⸻


「……外れろ」


⸻


 それだけ言って、また歩いた。


⸻


⸻


 昼を過ぎると、森が黙った。


⸻


 鳥の声が減った。


 犬が地面を嗅がなくなった。


 馬が落ち着かず、柵から離した囲いの中で足を踏み替えている。


⸻


 シンは、何度も森を見た。


 白桃はまだ来ない。


 来ないことが、逆に怖かった。


⸻


 スズリが横に来た。


 肩にはまだ、シンの上着があった。


⸻


「返した方が動きやすいです」


「寒くないのか」


「寒いです」


⸻


 正直だった。


 シンは少し笑いそうになった。


⸻


「なら持ってて」


「では、返すまで死なないでください」


⸻


 軽く言ったようで、軽くなかった。


 スズリは森を見ていた。


 シンを見なかった。


⸻


「さっき、死ぬ場所を知っていると言いました」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「私は、聞きません」


⸻


 風が少し動いた。


 上着の裾が揺れた。


⸻


「聞いたら、たぶん書かなければならなくなる」


⸻


 スズリは、ようやくシンを見た。


⸻


「今は、書くより先に、生きてほしいです」


⸻


 シンの胸が詰まった。


 答えを探す前に、遠くで音がした。


⸻


 木を打つ音。


 人の足音。


 低い声。


⸻


 来た。


⸻


⸻


 夕方。


 火矢が飛んだ。


⸻


 一本目は、北倉へ刺さった。


 前と同じ場所だった。


⸻


 だが、燃えるものがなかった。


 乾いた草も、積んだ荷も、油を含んだ皮もない。


 矢は空の土間へ落ち、湿った筵の端を焦がしただけだった。


⸻


「水!」


 モレが叫んだ。


⸻


 人が走った。


 桶が渡った。


 煙は上がったが、炎にはならなかった。


⸻


 二本目は柵へ。


 三本目は薪場へ。


 けれど薪はばらされ、水場の近くにあった。


 火は食いつけず、くすぶって終わった。


⸻


 森の外から、叫びが来た。


⸻


「毘沙門天の加護ぞある!」


「鬼を討て!」


「穢れを断て!」


⸻


 声は熱かった。


 熱いのに、乱れていた。


 燃え上がるはずの場所が燃えない。


 走り出すはずの人が、走らない。


 泣くはずの子供の声が、そこにない。


 それだけで、攻める側の足が一拍ずれた。


⸻


 白雷が落ちた。


⸻


 山が白くなった。


 音が遅れた。


 温度のない光が、木々の間を舐めた。


⸻


 シンの腹が、強く痛んだ。


 傷はない。


 それでも体が、また刺されると思った。


⸻


「来るな」


 アテルイが言った。


⸻


 誰へ向けた言葉でもなかった。


 胆沢の全員へ向けた言葉だった。


⸻


 だが、アテルイ自身が一歩、前へ出ようとした。


⸻


「出ないでくれ」


⸻


 シンは叫んでいた。


 思ったより強い声が出た。


⸻


 アテルイが止まった。


 モレが振り向いた。


⸻


「またか」


 モレの声は低かった。


「今度は何だ」


⸻


「今、出たら白桃はあんたを見る」


⸻


 シンはアテルイを見た。


⸻


「あんたは強い。強すぎる。だから命令が、あんたを中心に組み直される」


⸻


 モレが顔を歪めた。


 信じていない。


 でも、前に出なかった。


⸻


 アテルイは森を見ていた。


 白い光の奥を。


 まだ姿のない白桃を。


⸻


「俺が出れば、戦になるか」


「なる」


⸻


「俺が出なければ」


「少しだけ、ずれる」


⸻


 アテルイは頷いた。


⸻


「なら、ずらせ」


⸻


 その言葉だけで、モレは唇を噛んだ。


 従った。


 アテルイも動かなかった。


 槍は持っている。


 だが、前には出ない。


 山が、あえて動かないでいるようだった。


⸻


 やがて、白桃が来た。


⸻


 森の外縁。


 柵の向こう。


 白装束。


 黒い髪。


 フツはまだ抜かれていない。


⸻


 目は、機械の目だった。


 けれど完全に空ではなかった。


 その奥で、何かが遅れて瞬くように揺れていた。


⸻


 白桃は、北倉を見た。


 空だった。


 火種の袋があった場所を見た。


 なかった。


 炭倉を見た。


 分けられていた。


 子供がいた場所を見た。


 声はなかった。


 記録の紙が積まれていた場所を見た。


 何もなかった。


⸻


「……対象」


⸻


 白桃の声が落ちた。


⸻


「……胆沢」


⸻


 森の向こうで、兵が叫んでいた。


 鬼を討て。


 神使を守れ。


 穢れを断て。


 声は近い。


 でも白桃は、動かなかった。


⸻


 桃の香りが、薄く来た。


⸻


「モモ」


⸻


 シンは呼んだ。


 近づかなかった。


 ワカレの言葉を思い出していた。


 勝とうとするな。


 戦にするな。


⸻


 白桃の目が、シンへ向いた。


⸻


「……シン」


⸻


 声が少しだけ違った。


 硬い殻の内側から、昔の声が指先だけ出したようだった。


⸻


「残した」


 シンは言った。


「火も、墨も、人も」


⸻


 白桃の瞳が揺れた。


⸻


「……確認」


⸻


 白桃は言った。


 昔のモモに似た言葉だった。


 でも、昔のモモではなかった。


⸻


「……焼失、必要量に達せず」


⸻


 桃の香りが少し強くなった。


⸻


「……よかった、の判定」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「命令混濁」


⸻


 白桃が、ほんのわずかに首を傾けた。


⸻


「……根拠薄弱」


⸻


 モモの言い方だった。


 完全ではない。


 でも、いた。


⸻


「でも、そうだろ」


⸻


 白桃は答えなかった。


 手がフツの柄へ触れた。


 触れただけだった。


 抜かなかった。


⸻


 白雷が、もう一度遠くで瞬いた。


⸻


 白桃の肩が跳ねた。


 目から揺れが消えかけた。


⸻


「……上位命令、再照合」


⸻


 シンは歯を食いしばった。


 ここで走れば、前と同じになる。


 ここでアテルイが出れば、戦になる。


 ここでモレが叫べば、矢が来る。


⸻


 何もしないことが、こんなに難しいとは思わなかった。


⸻


 アテルイは動かなかった。


 モレも動かなかった。


 スズリは紙を握り、声を殺していた。


 タダは子供のいる小屋の前に立っていた。


⸻


 白桃は、もう一度空の北倉を見た。


 消えていない炉の火を見た。


 誰も飛び出さない胆沢を見た。


⸻


「……修正」


⸻


 言葉が途切れた。


⸻


「……保留」


⸻


 白桃は森へ下がった。


 一歩。


 もう一歩。


 そして、木々の白い光の中へ消えた。


⸻


 兵の叫びが混乱した。


「神使様!」


「何故戻られる!」


「追え!」


「いや、命を待て!」


⸻


 熱が散った。


 火矢はまだ来た。


 だが最初の勢いはなかった。


 燃える場所がない。


 斬り込む合図もない。


 白桃が先に立たない。


 それだけで、戦は形を失った。


⸻


 日が落ちるころ、森の声は遠ざかった。


⸻


 胆沢は残っていた。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 火は鎮まった。


 焼けた柵の一部から、まだ細い煙が上がっていた。


 怪我人はいた。


 腕を射られた者。


 煙を吸って咳き込む老人。


 転んで膝を割った子供。


 それでも、前とは違った。


⸻


 火種は戻った。


 炭も戻った。


 記録も戻った。


 子供たちの声も、少しずつ戻った。


⸻


 シンは、客間の外で膝に手をついた。


 吐き気がした。


 助かったという感覚は、すぐには来なかった。


 死ななかった体が、死んだ記憶に追いつけずにいた。


⸻


「生きていますね」


⸻


 スズリが言った。


⸻


 シンは顔を上げた。


 スズリは上着を着たままだった。


 煤が裾についている。


 頬にも黒い筋があった。


 それなのに、妙に綺麗に見えた。


 疲れているのに、目だけが強かった。


⸻


「生きてる」


⸻


 シンが言うと、スズリは目を閉じた。


 ほんの少しだけ、肩が落ちた。


⸻


「では、返せます」


 上着の前をつまんだ。


⸻


「まだいい」


⸻


「また貸してくれるんですか」


「返す相手が必要なんだろ」


⸻


 スズリは黙った。


 それから、小さく笑った。


 笑うと、急に年相応に見えた。


 記録係でも、胆沢の目でもなく、朝からずっと怖かった一人の女に見えた。


⸻


「必要です」


⸻


 短い言葉だった。


 それだけで、シンの腹の重さが少しだけ薄れた。


⸻


 その時、見張りの声が飛んだ。


⸻


「南より灯!」


⸻


 見張りの声が、夜を裂いた。


 客間にいた者たちが、一斉に顔を上げた。


⸻


「数は」


 アテルイが言った。


 声は低かった。


 低いだけで、走り出しかけた者の足が止まった。


⸻


「少ない! 松明、五つ!」


 見張りが返した。


「馬、数頭! 旗なし! 弓の弦は外している!」


⸻


 モレの目が細くなった。


 罠ではない。


 だが、罠ではないと言い切れるほど、胆沢の夜は甘くなかった。


⸻


「弦を外して近づく兵などいるか」


「兵ならな」


 アテルイは立ち上がった。


⸻


 炉の火が揺れた。


 外には、まだ焦げた柵の匂いが残っている。


 燃え損ねた木。


 濡れた土。


 血。


 その全部の向こうから、南の灯が近づいてきた。


⸻


 軍勢ではなかった。


 列は短い。


 供は少ない。


 甲は軽く、馬も疲れていた。


 長い道を急いできた者たちの姿だった。


⸻


 先頭の男は、柵の手前で馬を降りた。


 馬上から見下ろさなかった。


 それだけで、モレの眉がわずかに動いた。


⸻


 若い男だった。


 松明の光に、旅の埃が浮いた。


 衣は都のものだった。


 けれど、泥で裾が重くなっていた。


 顔にも疲れがあった。


 隠しきれていなかった。


⸻


 それでも、立ち方だけが違った。


 背筋。


 袖を直す指。


 刃を向けられても、すぐには目を逸らさない間。


 武人ではない。


 山の者でもない。


 だが、命令される側だけで育った人間ではなかった。


⸻


 スズリが息を呑んだ。


 筆を持つ手が止まった。


⸻


 知っている。


 そういう顔だった。


⸻


 モレが刃に手をかけた。


 供の一人が動きかける。


 若い男が、手だけでそれを止めた。


 短い動きだった。


 その手に、慣れがあった。


⸻


「坂上田村麻呂殿の陣より参った」


⸻


 若い声だった。


 だが、震えてはいなかった。


⸻


「使者か」


 モレが言った。


⸻


「違います」


⸻


 男は答えた。


 その一言で、場の温度が変わった。


⸻


「宣旨は持ちません。朝廷の命も負っていません。田村麻呂殿の命で来たのでもありません」


⸻


「なら、何者だ」


⸻


 モレの刃が、少し抜けた。


 火の光が、刃の腹に走った。


⸻


 若い男は、そこで頭巾を取った。


 髪に入り込んだ埃が落ちた。


 供の者が息を詰めた。


 止めたかったのだと、シンにも分かった。


 名を明かせば、ただの旅人ではいられなくなる。


 ただの使いでもいられなくなる。


⸻


 若い男は、それでも前へ出た。


 一歩だけ。


 柵の内からなら、弓で届く距離だった。


⸻


「諱は、神野」


⸻


 シンは、その言葉の重さを正しく知らなかった。


 諱。


 聞いたことはある。


 けれど、この時代の人間がその名を口にする怖さまでは、分からなかった。


⸻


 分からなくても、場が教えた。


 スズリの顔から血の気が引いた。


 古老の一人が、膝を沈めかけた。


 モレの刃が、完全に抜けた。


⸻


 若い男は続けた。


⸻


「神野親王」


⸻


 夜が止まった。


⸻


 シンは、その名を知らない。


 未来のどの帝に繋がる名なのかも知らない。


 都の系図も、皇子たちの争いも、何も知らない。


⸻


 ただ、分かった。


 帝の血を受ける者が、旗も立てず、詔も持たず、敵の柵の前に立っている。


 それが、どれほど危ういことか。


 どれほど取り返しのつかないことか。


⸻


 モレが半歩前へ出た。


 刃の切先が、カミノへ向いた。


⸻


 供の者たちが硬くなる。


 だが、カミノは下がらなかった。


⸻


 スズリは、筆を落としていた。


 乾いた音が、やけに大きく聞こえた。


⸻


 タダは動かなかった。


 アテルイも動かなかった。


⸻


 アテルイだけが、カミノを見ていた。


 敵を見る目ではない。


 客を見る目でもない。


 山の入口に立った者が、本当に山へ入る覚悟を持っているか、量る目だった。


⸻


 炉の火が揺れた。


 焼け残った胆沢の夜が、その間にあった。


⸻


 火のこちらに、アテルイ。


 火の向こうに、神野親王。


⸻


 山風が吹いた。


 冬の手前の匂いがした。


 その奥に、桃の香りが一瞬だけ混じった。


⸻


 誰も、まだ言葉を継げなかった。


⸻


⸻


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