白桃 対 北天
第七十七話 白桃 対 北天
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十歩だった。
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白桃とアテルイ。
その間にあるのは、十歩の土だけだった。
だがシンには、その十歩が山一つぶんに見えた。
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鳥はいなかった。
犬は腹を地面につけている。
馬が囲いの板を蹴り、鼻息を荒くした。
白い雷が続いていた。
山の色が抜けていた。
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白桃はフツを構えている。
刃は白い光を受けて、濡れていないのに濡れて見えた。
足元の草は動かない。
風が止まっているからだ。
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アテルイは、長柄の槍を持っていた。
豪奢なものではない。
飾りもない。
柄は使い込まれ、手の当たるところだけ艶が出ている。
穂先は鋭く、けれど白桃の刃ほど美しくはなかった。
山の道具だった。
獣を追い、人を守り、雪と泥を知っている道具だった。
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モレが半歩、前へ出ようとした。
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アテルイが左手を出した。
見るな、とも。
来るな、とも言わなかった。
ただ手を出した。
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モレは止まった。
喉の奥で、低く息を殺した。
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「民を頼む」
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アテルイが言った。
モレへ向けた言葉だった。
同時に、胆沢の者たち全員へ向けた言葉でもあった。
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「アレは、俺が見る」
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シンはその背を見た。
大きい背ではない。
いや、大きい。
体の大きさではない。
その背の後ろに、炉があった。
火種があった。
子供がいた。
水を運ぶ女がいた。
墨を抱えたスズリがいた。
怒鳴らずに人を動かし、笑わずに不安を受け止め、戦いたくない相手とも戦うと決めた男がいた。
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アテルイが前へ出る。
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それだけで、胆沢の空気が変わった。
誰も歓声を上げなかった。
誰も名を呼ばなかった。
ただ、息を止めた。
この背中が前へ出る時は、本当に戻れない時なのだと、皆が知っていた。
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モレが歯を噛みしめた。
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「……見てろ」
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誰に言ったのか分からない声だった。
シンか。
自分か。
白桃か。
山か。
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「あれが、俺たちの前に立ってきた背だ」
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それだけだった。
余計な名はいらなかった。
アテルイは、アテルイだった。
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白桃が動いた。
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速かった。
速い、という言葉が遅かった。
白い衣が揺れたと思った時には、刃がアテルイの喉へ来ていた。
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アテルイは下がらなかった。
前にも出なかった。
首だけをほんの少し倒し、槍の柄を立てた。
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硬い音がした。
刃が柄を削った。
木屑が白い光の中へ散った。
アテルイの頬に細い血が走る。
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白桃は止まらない。
刃が柄を滑った。
そのまま手首を返し、下から肋を狙った。
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アテルイの膝が沈んだ。
泥を踏むように。
獣の突進を受ける時のように。
体の高さを変え、肩で柄を押し、刃の道をずらした。
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衣が裂けた。
皮膚も裂けた。
だが腹には届かなかった。
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白桃が消えた。
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次の瞬間、アテルイの背後にいた。
誰かが悲鳴を飲み込んだ。
シンも声が出なかった。
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アテルイは振り返らなかった。
見ていなかったはずなのに、槍の石突きを後ろへ落とした。
白桃の足首の前。
踏み込む先。
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白桃の足が、ほんの少し止まった。
止まったというより、踏む場所を失った。
アテルイはその一瞬だけで体を回した。
肩。
腰。
膝。
足の裏。
山道を下る時と同じ順番で、体の重さが動いた。
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槍が横へ走る。
刃ではない。
柄だった。
白桃の腹ではなく、肘を打った。
白桃の腕が流れた。
フツの切っ先が、空を裂く。
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白桃が一歩下がった。
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本当に、一歩だけだった。
けれど、下がった。
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胆沢の者たちが息を呑んだ。
モレの目が見開かれた。
タダが動きかけて、止まった。
スズリの筆が、紙の上で止まったまま震えていた。
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シンは見ていた。
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(読んだ)
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速さではない。
力でもない。
白桃は速い。
白桃は正確だ。
白桃は人間の躊躇を持たない。
だが、地面を踏む。
刃を振る。
体の重さが移る。
たとえどれほど異常でも、今ここでは足を持つ。
腕を持つ。
間合いを持つ。
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アテルイは、それを見ていた。
山で鹿が跳ぶ前の肩。
熊が立つ前の爪。
雪の斜面で崩れる一瞬。
馬が怯える時の耳。
子供が泣き出す前の息。
そういうものを、ずっと見てきた目だった。
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白桃がまた動いた。
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二撃目は横だった。
近くの木の幹が、途中から斜めに落ちた。
太い幹だった。
乾いた音もなく、ただずれた。
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アテルイは半歩だけ動いた。
避けたのではない。
斬られる場所から、斬られても死なない場所へずれた。
肩口が割れた。
血が飛んだ。
だが首は残った。
胸も残った。
槍も残った。
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「アテルイ!」
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モレが叫んだ。
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「来るな」
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アテルイの声は低かった。
痛みがない声ではない。
痛みを置く場所を知っている声だった。
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「お前まで入れば、守るものが増える」
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モレは動けなかった。
拳を握りしめる。
指が白くなる。
それでも、動かなかった。
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白桃の三撃目。
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正面。
最短。
目を閉じれば、もう死ぬ速さだった。
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アテルイは目を閉じなかった。
槍を引いた。
受けるには遅い。
避けるには近い。
だから、前へ出た。
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刃が腕を裂いた。
アテルイの血が、白い光の中で黒く飛んだ。
同時に、槍の柄が白桃の手首へ入った。
肘ではない。
刃を殺す場所。
力が乗る前の、細い継ぎ目。
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フツの軌道が下へ落ちた。
土が裂けた。
泥が跳ねた。
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白桃の目が、初めてわずかに動いた。
人間の驚きではない。
計算のずれを見る目だった。
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アテルイは追わなかった。
攻め切らなかった。
槍を戻し、呼吸を置いた。
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(勝とうとしてない)
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シンは思った。
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(守ってる)
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アテルイは勝とうとしていなかった。
白桃を殺そうともしていなかった。
自分が倒れない場所に立ち続けている。
白桃の刃を、柵へ行かせない。
火種へ行かせない。
子供へ行かせない。
シンへ行かせない。
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父のようだった。
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血を流しながら、子供の前に立つ父。
山火事の前で、水の道を作る父。
獣が近づけば、自分が先に噛まれる場所へ出る父。
それを誇らない。
泣かせない。
ただ当然のように立つ。
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アテルイは、そういう強さだった。
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白桃が速くなった。
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四撃目。
五撃目。
六撃目。
数えることに意味がなくなる。
白い衣が裂けた光のように回る。
フツの刃が、木を裂き、土を抉り、柵の先を削った。
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アテルイはすべてを避けたわけではない。
避けられるものではなかった。
腕が裂ける。
脇腹が開く。
腿に血が走る。
肩の肉が飛ぶ。
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それでも、致命の線だけを外した。
喉。
心臓。
腹の深いところ。
膝の裏。
白桃が欲しがる場所だけを渡さない。
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山で生きる者の動きだった。
岩から落ちそうになった体を、指一本で戻す動き。
川に足を取られた時、流れに逆らわず斜めへ逃がす動き。
獣の牙を止めるのではなく、噛ませる位置を変える動き。
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白桃は異常だった。
だがアテルイは、異常なものを山の中へ落とし込んでいた。
速すぎる獣。
冷たすぎる雷。
そう見ている。
そう見れば、まだ人の体で相手ができる。
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白桃の七撃目。
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アテルイが初めて、先に動いた。
踏み込む前の白桃の足元へ、槍の石突きを打った。
地面を打ったのだ。
白桃ではない。
白桃が踏むはずの土。
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土が崩れた。
ほんのわずかに。
普通なら何の意味もない崩れ。
だが白桃の踏み込みは、正確すぎた。
正確な足は、狂った土に弱い。
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白桃の体が、半寸だけ流れた。
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アテルイの槍が伸びる。
穂先ではない。
柄の中ほど。
白桃の肩を押した。
突くのではなく、山道で転ぶ者を押し戻すように。
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白桃が二歩、下がった。
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今度は、誰かが声を漏らした。
勝った、と言いかけた声だった。
すぐに消えた。
まだ勝っていない。
誰も分かっていた。
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それでも。
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完全な白桃が、アテルイに下げられた。
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シンの胸が震えた。
モレは顔を歪めていた。
涙ではない。
笑いでもない。
自分が前に出られない悔しさと、前に出ている男への信頼が、同じ顔に乗っていた。
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「見たか」
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モレが低く言った。
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「あれが、アテルイだ」
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シンは答えられなかった。
ただ見ていた。
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白桃が止まった。
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刃を下げたわけではない。
構えを解いたわけでもない。
だが、止まった。
視線が、アテルイからわずかに外れた。
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シンへ。
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シンは息を吸った。
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「モモ」
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声が出た。
出してはいけない声かもしれなかった。
けれど、出た。
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白桃の瞳が揺れた。
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「……シン」
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声が戻った。
細かった。
けれど、戻った。
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「……熱」
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モモが言った。
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「……血。土。火」
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言葉がばらばらだった。
でも、白桃の報告ではなかった。
感じたものを、まだ名前にできないまま並べている声だった。
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「モモ」
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シンはもう一度呼んだ。
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「……山、強い」
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モモの目が、アテルイを見た。
初めて、目標としてではなく見た。
そこに立つ人間として。
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「うん」
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シンは頷いた。
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「強い」
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アテルイは呼吸を乱していた。
血が腕を伝い、槍の柄を濡らしている。
それでも立っている。
白桃から目を離さない。
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桃の香りが戻った。
微かに。
けれど確かに。
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(まだいる)
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シンは思った。
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(消えてない)
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(戻れる)
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スズリが息を吸う音が聞こえた。
タダが一歩、前へ出た音も。
モレが短刀を握り直す音も。
全員が、その一瞬に賭けかけていた。
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雷が落ちた。
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森だった。
白い光が、木々の間を縫うように走った。
自然の雷ではない。
燃やすための熱ではなく、命令を通すための白だった。
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叫びが来た。
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「毘沙門天様!!」
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「鬼を討て!!」
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「神使を守れ!!」
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泣いている声もあった。
笑っている声もあった。
恐怖と熱が混ざり、人間の声から人間の形を奪っていた。
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弓鳴りがした。
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一本ではなかった。
森の縁から、矢が来た。
アテルイへ向かって。
白桃と向き合っている、アテルイの背へ。
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「アテルイ!」
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誰かが叫んだ。
アテルイは振り向かなかった。
白桃から目を離さなかった。
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槍の柄が跳ねた。
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一矢。
叩き落とした。
二本目は石突きで払った。
三本目は体の角度だけで外した。
四本目は、白桃の刃を受けた反動のまま柄を返し、空中で折った。
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見ていなかった。
矢を見ていなかった。
それでも落とした。
弦の音。
矢羽が空気を裂く音。
白雷で止まった風の中に生まれる、細い乱れ。
それを聞いていた。
山の獣の足音を聞くように。
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白桃から目を離さないまま。
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矢の一本が、アテルイの後ろへ抜けた。
子供を抱えた老人の方へ。
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モレが動いた。
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短刀が光った。
矢が折れた。
折れた矢を見た瞬間、モレの顔が変わった。
今まで押し殺していたものが、全部燃え上がった顔だった。
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「貴様ら……」
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低かった。
低すぎて、周りの者が息を止めた。
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「あいつが見ている時に」
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モレは森を見た。
白い光の奥で、毘沙門の兵がまた弓を上げている。
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「邪魔をするな!!」
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次の瞬間、モレが走った。
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手勢が続いた。
盾を持つ者。
短い槍を持つ者。
斧を持つ者。
火消しの水桶を捨て、縄を放り、柵の脇から森へ飛び出す者。
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怒号が上がった。
弓弦が鳴った。
盾に矢が当たった。
木の幹に刃が入った。
松明が倒れ、濡れた草から煙が上がる。
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戦が、広がった。
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もう一騎打ちだけではなかった。
白桃とアテルイの十歩の外側で、胆沢と毘沙門の兵がぶつかった。
人が倒れる。
人が叫ぶ。
盾が割れる。
矢が飛ぶ。
誰かが火を踏み消し、誰かがその背を守る。
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混乱だった。
だが、その混乱が一瞬だけ、白桃とアテルイの間に隙間を作った。
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白桃が止まった。
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「……上位命令更新」
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機械の声だった。
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「……修正継続」
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桃の香りが消えた。
また全部消えた。
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白桃の視線が動いた。
アテルイではなかった。
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シンだった。
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(俺か)
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理解だけが先に来た。
白桃を揺らしたもの。
命令を止めるもの。
モモを戻すもの。
それを、上位命令は見つけた。
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シン。
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「シン!!」
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モレが叫んだ。
森の中からだった。
毘沙門の兵と斬り結びながら。
血を浴びながら。
それでも、シンを見ていた。
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シンは走った。
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逃げるためではなかった。
白桃が来る前に隠れるためでもなかった。
モモのところへ。
さっき、山が強いと言った声のところへ。
桃の香りが消えた、その中心へ。
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周りは混戦だった。
矢が飛んだ。
盾がぶつかった。
モレが毘沙門の兵を押し返し、別の男が松明を蹴り飛ばした。
タダが子供の前に立ち、倒れた兵の盾を拾い上げた。
スズリの声が聞こえた。
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「シンさん!」
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初めて聞くほど、切れた声だった。
記録する声ではない。
人を呼び止める声だった。
⸻
それでも、シンは止まらなかった。
止まれば、白桃がアテルイへ戻る。
止まれば、モモがまた沈む。
⸻
白桃が消えた。
⸻
見えなかった。
見えないのに、来る場所だけは分かった。
体の奥が覚えていた。
何度も死んだ体が、先に震えた。
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アテルイが飛び込んだ。
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走るシンと、白桃の間へ。
血だらけの体で。
まだ立つだけでも重いはずの体で。
槍の柄を横にして、白桃の刃を受けた。
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止まらなかった。
⸻
槍が軋んだ。
柄が裂けた。
アテルイの足が土へ沈む。
膝が曲がる。
肩が落ちる。
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それでも、アテルイは声を出さなかった。
歯を見せ、息を吐き、土を噛むように踏みとどまった。
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白桃の刃は、槍ごとアテルイを押していた。
その先に、走ってきたシンがいる。
アテルイはシンを守っている。
だが、このままではアテルイが割れる。
槍が折れた瞬間、刃はアテルイの胸へ入る。
次にシンへ届く。
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シンには分かった。
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ここでアテルイが死ねば、胆沢が折れる。
山が折れる。
モレが狂う。
スズリの紙は、守るものではなく、死んだものを書く紙になる。
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そして、モモは戻らない。
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白桃がアテルイを殺せば、完全に白桃になる。
けれど。
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シンを斬れば。
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あの子は止まる。
止まってしまう。
嫌でも。
壊れても。
涙を流してでも。
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(ごめん)
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誰へ向けた謝罪か分からなかった。
スズリか。
アテルイか。
モモか。
自分か。
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(戻るって言った)
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スズリの声が胸を刺した。
破らないでください。
記録します。
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(戻る)
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シンは止まらなかった。
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理由は二つあった。
アテルイを死なせない。
モモを止める。
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どちらかではなかった。
両方だった。
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シンはアテルイの腕の下へ、体を滑り込ませた。
槍が割れる音がした。
アテルイの目が見開かれる。
⸻
「馬鹿者」
⸻
アテルイの声が、すぐ近くでした。
怒鳴り声ではなかった。
父が子を叱る声だった。
間に合わないと知って、それでも叱る声だった。
⸻
「ごめん」
⸻
シンは言った。
声になったかは分からない。
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白桃の刃が入った。
⸻
腹の下。
そこから胸の奥へ。
熱ではなく、まず冷たさが来た。
体の中へ、冬の川を流し込まれたようだった。
遅れて熱が来た。
内側が裂ける熱。
血が上がる。
息が止まる。
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足が消えた。
膝が消えた。
地面の感触が遠のいた。
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それでも倒れなかった。
倒れたくなかった。
⸻
目の前に、白桃の顔があった。
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白桃が止まっていた。
刃を入れたまま。
動けずに。
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桃の香りが戻った。
ひどく近く。
血の匂いより近く。
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「……シン」
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モモの声だった。
⸻
「……熱」
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震えた声だった。
⸻
「……血」
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白桃が刃を見た。
自分の手を見た。
そこにシンの血があった。
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「……違」
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声が崩れた。
⸻
「……わたし」
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モモだった。
完全にモモだった。
けれど、完全に戻ったからこそ、今してしまったことを見ていた。
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両目から涙が落ちた。
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「……いや」
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その一語は、白桃の言葉ではなかった。
命令でも、報告でも、分類でもなかった。
ただの拒絶だった。
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白桃が一歩下がった。
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初めてだった。
相手の力で下がったのではない。
自分のしたことから、下がった。
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フツが抜けた。
血が溢れた。
シンの体が揺れる。
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アテルイが抱えようとした。
タダが走ってくる。
モレが叫ぶ。
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「シンさん」
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スズリの声だった。
小さかった。
最初は、声にもなっていなかった。
何かを読み間違えた時みたいに、ただ名前の形だけを口で作っていた。
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「シンさんっ!」
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二度目で、声になった。
震えていた。
筆を持つ手ではなく、人の死に触れた手の震えだった。
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スズリの紙が、手から落ちた。
筆も落ちた。
黒い墨が土へ散った。
墨は、血のそばで黒く広がった。
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「戻るって……」
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スズリが言った。
誰にも届かないほど細い声だった。
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「言ったのに……」
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シンは倒れた。
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空が見えた。
白かった。
雷がまだ来ていた。
でも遠かった。
山も白かった。
でも遠かった。
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近かったのは、桃の香りだけだった。
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モモが止まっていた。
泣いていた。
迷子の少女のように。
人間の顔で。
自分が殺したものを、見てしまった顔で。
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「……シン」
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声が遠い。
でも届いた。
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(戻った)
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シンは思った。
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(今、戻った)
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なら、無駄じゃない。
そう思いたかった。
そう思わなければ、痛すぎた。
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(次こそ)
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アテルイは立っていた。
生きていた。
血だらけで、まだ槍を握っていた。
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(よかった)
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スズリが見えた。
口が動いている。
何かを言っている。
名前だった。
何度も。
何度も。
記録するためではなく、呼び戻すために。
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スズリは膝をついていた。
落ちた紙を拾わなかった。
筆も拾わなかった。
墨が土へ吸われていくのも見ていなかった。
ただ、シンを見ていた。
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目が大きく開いていた。
泣くより前の顔だった。
泣くことすら、まだ体が思い出せない顔だった。
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「破らないって」
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唇が、そう動いた気がした。
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(戻る)
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約束は、まだ終わっていない。
そう思った。
思いたかった。
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モモの涙が、シンの頬へ落ちた。
熱かった。
⸻
視界が白くなった。
⸻
最後に見えたのは。
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泣いているモモだった。
⸻
――死んだ。
⸻
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(第七十八話へ)




