ビシャモンテン
第七十六話 ビシャモンテン
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炉の火が残っていた。
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シンが目を開けた時、客間はまだ薄暗かった。
夜明け前の青い光が、壁の隙間から細く入っている。
灰の奥で、火種が小さく赤かった。
消えていない。
その赤を見て、シンはまず息を吐いた。
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昨夜のまま眠っていたらしい。
壁にもたれた姿勢のままだった。
首が痛い。
肩も痛い。
それでも、眠れたのだと思うと少し驚いた。
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横でスズリも眠っていた。
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筆を持ったままだった。
紙が膝の上にある。
火種の位置。
炭の場所。
避難先。
倉の配置。
水壺の数。
子供を連れていく者の名。
細い文字が、紙の端まで詰まっていた。
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シンの上衣は、まだスズリの肩にあった。
眠っているせいで少しずれて、白い首筋が見えていた。
髪が頬にかかっている。
寝息は小さい。
筆を握ったままの指だけが、まだ何かを書こうとしているように曲がっていた。
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墨の匂いがした。
紙の匂いがした。
それに、昨日と同じ薄い香が混じっていた。
強くない。
近づかなければ分からない。
けれど一度気づくと、そこにいることが分かる匂いだった。
落ち着く。
そう思ってから、シンは少し目を逸らした。
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(朝から何を考えてんだ)
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紙が膝から滑り落ちかけていた。
シンはそっと手を伸ばした。
受け取ろうとした瞬間、スズリのまつげが動いた。
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目が開いた。
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近かった。
思ったより近かった。
互いに、少しだけ動けなかった。
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「……おはようございます」
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スズリが言った。
声が寝起きで少し掠れていた。
それが妙に普通で、妙に女の人の声だった。
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「おはよう」
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シンは紙を持ったまま答えた。
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「昨日から寝てませんでした」
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「いや、今寝てた」
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「今のは、少し目を閉じていただけです」
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「その理屈、俺もよく使う」
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スズリは起き上がろうとして、肩の上衣に気づいた。
指でつまんだ。
返そうとした。
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「まだいい」
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シンが言った。
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「寒いだろ」
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「あなたも寒いです」
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「俺は、もう慣れた」
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「慣れないでください」
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すぐ返ってきた。
シンは笑いそうになって、少しだけ堪えた。
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「無理しないでください」
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スズリが言った。
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「お互いに」
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短く返すと、スズリは少し黙った。
また少し黙った。
顔を伏せた。
火の赤が、その頬に薄く映っていた。
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「昨日」
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スズリは言いかけて止まった。
筆を持ち直した。
けれど、紙にはすぐ書かなかった。
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「戻ると、言いました」
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「言った」
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「記録しました」
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「圧がすごい」
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「破らないでください」
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静かな声だった。
責めてはいない。
ただ、そこに置くような声だった。
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シンは頷いた。
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「破らない」
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スズリの指が、筆を握ったまま少し緩んだ。
それだけだった。
それだけで、朝の冷たさが少し和らいだ。
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スズリは膝の紙を整えた。
端が少し折れていた。
眠っている間に、自分の手で押さえていたらしい。
細い指が、その折れを丁寧に伸ばす。
爪の際には墨が入っていた。
きれいなだけの手ではなかった。
書くために汚れた手だった。
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「それ」
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シンが言った。
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「落ちないのか」
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スズリは自分の指を見た。
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「落ちます。でも、すぐまた付きます」
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「大変だな」
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「嫌ではありません」
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スズリは静かに言った。
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「残すものに触れている感じがします」
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シンはその手を見た。
昨日、袖をつまんだ手。
今朝、紙を守っていた手。
細くて、冷たくて、思ったより強い手。
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「じゃあ俺も、墨ついた方がいいかな」
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「あなたは、血と泥を減らしてください」
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「はい」
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即答すると、スズリが少し笑った。
その笑いは小さかった。
けれど、炉の火より先に朝が来たように見えた。
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午前のイサワは静かだった。
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子供がいた。
タダが炊き出しをしていた。
炭を運ぶ者がいた。
弓を確かめる者がいた。
柵を直す者がいた。
水を汲む者がいた。
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音はあった。
木を打つ音。
縄を締める音。
器を重ねる音。
子供をなだめる声。
馬の鼻息。
炉の灰を掻く音。
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生活の音だった。
けれど、いつもより低い。
誰も大きく笑わなかった。
誰も長く話さなかった。
必要な言葉だけが、短く飛んでいく。
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シンは外縁を歩いた。
柵の外に目を向ける。
森は動かない。
枝もあまり揺れていない。
鳥の声が少なかった。
風がなかった。
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(静かすぎる)
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悪い静かさだった。
山が息を止めているようだった。
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(来るなら今日だ)
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モレは弓を確かめていた。
弦を指で弾き、音を聞く。
矢羽を見て、曲がったものを外す。
口数は少ない。
その背中に、焦りはなかった。
焦りを出す余裕もないだけかもしれない。
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アテルイは柵の上を見ていた。
火をつけられやすい場所。
人を逃がす隙間。
水を運ぶ道。
その全部を、目だけで確かめている。
声は出さない。
必要な時だけ短く言う。
それで人が動いた。
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スズリは客間と外を行き来していた。
紙を抱え、聞き、書き、また走る。
走ると言っても、彼女の走り方は静かだった。
裾を乱しすぎず、筆を落とさず、それでも遅れない。
すれ違うたび、薄い香がシンの横を過ぎた。
そのたびに、胸の奥の硬いものが少しだけほどける。
まずいな、とシンは思った。
戦の前に、人の匂いで落ち着いている。
けれど、それが今の自分を壊さずにいるものでもあった。
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昼。
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桃の香りが来た。
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誰より先に、シンが気づいた。
次にモレが顔を上げた。
アテルイが手を上げる。
弓を構えかけた者たちが、そこで止まった。
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白桃がいた。
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今日はさらに近かった。
柵のすぐ外だった。
白い衣。
黒髪。
桃の髪飾り。
左腰のフツ。
刃は抜いていない。
手もかけていない。
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見ていた。
炉を。
墨を。
子供を。
火種袋を。
そして、スズリの筆を。
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「……すみ」
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白桃が言った。
スズリが止まった。
自分の筆を見た。
それから、白桃を見た。
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「墨です」
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白桃は動かなかった。
ただ見ていた。
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「……残る?」
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今までと違う言葉だった。
シンは少し驚いた。
スズリも息を止めた。
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「残ります」
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スズリが答えた。
声は震えていなかった。
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「墨で書けば、残ります。紙が燃えなければ。誰かが持っていれば」
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白桃の目が、紙から火へ動いた。
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「……燃える」
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「燃やさない」
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シンが言った。
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白桃がシンを見た。
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「火も、人も、残す」
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「……山」
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「残す」
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「……人」
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「残す」
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桃の香りが強くなった。
白桃の指が、ほんの少し曲がった。
何かを掴もうとして、掴めない指だった。
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「……シン」
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モモの声だった。
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「うん」
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シンは一歩近づいた。
モレが息を詰めた。
アテルイは動かなかった。
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「……また、いなくなる?」
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シンは止まった。
その質問は初めてだった。
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「行かない」
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短く答えた。
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「今は行かない」
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白桃の目が揺れた。
いや、モモの目だった。
焦点が戻っている。
遠くではなく、シンを見ている。
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「……よかった」
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完全にモモだった。
短くて、不器用で、感情を分類しきれていない声。
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「シン」
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シンは息を呑んだ。
その呼び方だった。
白桃の報告ではない。
対象確認でもない。
ただ、シンを呼ぶ声。
モモらしい、あの短い声だった。
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「……空腹状態?」
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「え」
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「シン、朝から未摂食」
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シンは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
分かってから、胸が詰まった。
それは昔のモモだった。
何かを食べるシンを見ると、必要量だの確認だのと言いながら、結局食べ物を見ていたモモ。
鹿肉を二枚目まで食べても、判定は未確定だと言い張ったモモ。
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「見てたのか」
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「……聴取している」
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「それ、聞こえてたって意味だろ」
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「訂正不要」
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その言い方だった。
シンは笑いそうになった。
笑えば壊れそうで、笑えなかった。
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「あとで食う」
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「……根拠薄弱」
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「信用ないな」
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「過去の観測結果」
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白桃の顔で。
けれど声は、昔のモモだった。
短く、ずれていて、妙に現実的で。
それなのに、誰よりもシンを見ている声だった。
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「確認継続」
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「何を」
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「シンが食べるか」
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「監視じゃん」
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「確認」
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シンはもう、返せなかった。
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たったそれだけの応酬で、遠い春の雨が戻ってきた。
鹿肉の匂い。
炉の煙。
子供たちの笑い声。
モモが、肉を見つめながら言った声。
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シンの胸の奥が熱くなった。
戻っている。
全部ではない。
けれど戻っている。
言葉が。
癖が。
シンを見る目が。
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(行ける)
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シンは思った。
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(戻れる)
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スズリが、その場面を見ていた。
筆は動いていなかった。
彼女の目に、痛みがあった。
それでも目を逸らさなかった。
書く者としてではなく、今ここにいる者として見ていた。
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「モモ」
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シンは呼んだ。
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「こっちへ」
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モモの足が、半歩動いた。
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その瞬間。
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風が止まった。
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完全に止まった。
鳥の声が消えた。
犬が伏せた。
馬が鳴いた。
馬の目が白くなった。
炉の火が揺れなくなった。
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「下がれ」
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アテルイが叫んだ。
体が先に知っていた声だった。
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雷が落ちた。
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山が白くなった。
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音がおかしかった。
自然の雷ではなかった。
白かった。
無機質だった。
温度がなかった。
怒りもなかった。
ただ、白かった。
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シンは止まった。
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知っていた。
この白さを知っていた。
この無音を知っていた。
目の奥だけを焼くような、冷たい光を知っていた。
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第一の時代。
モモを強制的に動かし、何度もシンを斬らせた。
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第二の時代。
タケヒコ達が口にした名。
ミカヅチ。
雷が来ると、全部変わる。
そう思った。
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第三の時代。
ミサネの神託の奥にいたもの。
白桃の体を使い、アサメへ死を与え、モモの腕を押したもの。
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タケミカヅチ。
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そして今。
ビシャモンテン。
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(名前が増えただけだ)
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シンは歯を食いしばった。
神の名を被る。
時代ごとに顔を変える。
人の祈りと恐れを、器にする。
詳しい仕組みなど分からない。
それでも、分かることがあった。
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(白雷の中身は、同じだ)
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白桃が止まった。
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桃の香りが消えた。
一瞬で消えた。
さっきまでいた。
確かにいた。
墨を見ていた。
残るかと聞いた。
よかったと言った。
確認、と言った。
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全部、消えた。
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目から感情が抜けた。
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「……再接続」
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白桃が言った。
機械の声だった。
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「……上位命令確認」
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「……修正再開」
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「モモ!!」
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シンが叫んだ。
反応はなかった。
モモが消えていた。
桃の香りも。
揺れも。
声も。
全部消えていた。
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スズリが壁際まで下がった。
紙を抱えている。
震えていた。
けれど紙を離さなかった。
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モレが短刀を抜いた。
アテルイが弓を下ろした。
森の奥から、声が来た。
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「毘沙門天様!!」
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叫びだった。
熱すぎた。
人の喉から出ているのに、人の温度ではなかった。
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「神使が戻った!!」
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「鬼を討て!!」
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「穢れを断て!!」
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松明が揺れた。
矢が構えられた。
盾が鳴った。
乾いた薪を背負った者が走り出す。
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シンは見た。
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(操られてる)
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侵略だけではない。
狂信だけでもない。
何かを流し込まれていた。
熱だけ。
行先だけ。
怒りだけ。
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(こいつらも、もう人のままじゃいられない)
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だが矢は飛ぶ。
火はつく。
同情している間に、山は燃える。
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白桃が動いた。
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一直線だった。
迷いがなかった。
向かう先は、はっきりしていた。
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アテルイ。
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モレが前に出た。
早かった。
白桃の進路へ体を入れる。
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「お前は下がれ」
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アテルイが言った。
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「嫌だ」
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即答だった。
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「下がれ、モレ」
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モレは動かなかった。
短刀を構えた。
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「俺が見る」
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アテルイが前へ出た。
モレの肩を押した。
力任せではない。
だが、退けという重さがあった。
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モレの顔が歪んだ。
悔しさではない。
怒りでもない。
分かっている顔だった。
この場で、誰が前へ出るべきか。
誰が胆沢そのものとして立つべきか。
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モレは一歩、下がった。
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その一歩で、周りの音が変わった。
弓を引いていた者が息を止める。
水を運んでいた女が、桶を置く。
子供を抱えた老人が、目だけで前を見る。
タダが炊き出しの柄杓を置いた。
スズリが紙を抱えたまま、筆を止めた。
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アテルイが戦う。
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その意味を、胆沢の者は全員知っていた。
この男は、誰よりも前に出られる男だった。
だが、軽く前へ出る男ではなかった。
人を動かし、道を見て、火を守り、退く場所を残してきた男。
そのアテルイが、自分の足で白桃の前へ出た。
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いよいよだった。
山が、その一歩を見ていた。
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白桃が止まった。
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十歩。
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二人が向き合った。
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白い衣の少女。
胆沢を背負う男。
その間に、冷たい光の残りが揺れていた。
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そこに、モモはいなかった。
さっきシンの空腹を見ていた目はない。
鹿肉の味を確認しようとした声もない。
袖を引くような迷いもない。
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完全な白桃だった。
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人を見ていない。
土地を見ていない。
目標を見ている。
修正すべき点として、アテルイを見ている。
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シンは動けなかった。
モモ。
白桃。
タケミカヅチ。
ビシャモンテン。
別々だったものが、一本の白い線で繋がっていく。
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また雷が来た。
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山が白くなった。
柵の影が消えた。
人の顔から色が抜けた。
火だけが、赤を失って白く見えた。
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白桃がフツを抜いた。
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「……胆沢修正開始」
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アテルイは弓を置いた。
近い間合いの姿勢を取った。
顔が変わった。
守る者の顔だった。
今まで守ってきた全部を、背に置いた顔だった。
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彼の後ろに、胆沢があった。
炉があった。
火種があった。
子供がいた。
墨があった。
書きかけの紙があった。
死なせないと決めたものが、全部あった。
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アテルイは一度だけ、足元の土を踏み直した。
逃げるためではない。
受けるためでもない。
前へ出るためだった。
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一瞬だけ。
誰かが笑った気がした。
森の奥か。
雷の中か。
白い名の向こうか。
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(……ビシャモンテン)
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シンの中で何かが叫んだ。
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(駄目だ)
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(今度は止める)
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(アテルイも)
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(モモも)
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山が白かった。
雷が続いていた。
温度はなかった。
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完全な白桃が、抜刀されたフツを構えた。
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そして踏み込んだ。
雷のように。一直線に。
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アテルイは、それを迎え撃った。
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(第七十七話へ)




