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硯の隣

第七十五話 硯の隣


⸻


 山は静かだった。


⸻


 鳥が飛んでいた。


 木の葉が揺れていた。


 煙はなかった。


 炎はなかった。


⸻


(まだ燃えてない)


⸻


 それだけで、シンは少し息ができた。


 体のどこかには、まだ火の記憶が残っている。


 煙を吸った喉の苦さ。


 紙束を抱えた腕の重さ。


 燃え落ちる梁の音。


 けれど目の前の山は、まだ朝の冷気の中にあった。


⸻


(今度は残す)


⸻


 イサワの柵が見えた。


 焼けていない木。


 まだ人の手で直せる木。


 まだ、ここにあるもの。


⸻


⸻


 戻ると、スズリが入口にいた。


⸻


 筆を持ったまま立っていた。


 珍しかった。


 いつもは客間か炉のそばで、紙を広げ、静かに人の言葉を拾っている。


 入口で誰かを待つような立ち方はしない。


 そのスズリが、朝の冷気の中で肩を強張らせていた。


⸻


「急に飛び出して」


⸻


 声は低かった。


 怒っている声だった。


 けれど、その下に心配があった。


⸻


「何だったんですか」


⸻


 シンは口を開いた。


 死に戻りは言えない。


 ワカレのことも言えない。


 白桃のことも、まだ全部は言えない。


⸻


「悪い」


⸻


「悪いで済むなら、私は紙を破りません」


⸻


 スズリは言ってから、自分で少し驚いたように目を伏せた。


 紙を破る。


 記録する者にとって、それは軽い言葉ではない。


⸻


「破ったのか」


⸻


「破っていません」


⸻


「だよな」


⸻


「でも、破りたくなりました」


⸻


 シンは黙った。


 冗談で逃げるには、スズリの声が近すぎた。


 筆を握る指が白い。


 袖口に墨が少しついている。


 いつもなら、こんな汚れ方はしない。


⸻


「言えないことですか」


⸻


「今は」


⸻


 スズリの目が揺れた。


 責める目ではなかった。


 置いていかれた者の目だった。


⸻


「神野様も、よくそう言います」


⸻


「カミノが?」


⸻


「今は言えない。まだ定かではない。書くな。残すな。そう言って、危ないところだけ自分で抱えます」


⸻


 スズリは息を吸った。


 近づいた拍子に、かすかな香の匂いがした。


 強い香ではない。


 紙と墨の匂いに、乾いた草と、衣に移った薄い香が混じっている。


 都の邸で焚くような甘さではなかった。


 山の空気の中でも浮かず、そばにいると呼吸が少し落ち着く匂いだった。


⸻


「そういう方は、後からよく怪我をします」


⸻


「俺はカミノほど女癖悪くないぞ」


⸻


 言ってから、失敗したと思った。


 スズリは笑わなかった。


⸻


「笑ってごまかさないでください」


⸻


「……ごめん」


⸻


 スズリはシンの袖を見た。


 枯れ葉がついていた。


 手の甲に細い傷もあった。


⸻


「手を」


⸻


「え」


⸻


「見せてください」


⸻


 シンは言われるまま手を出した。


 スズリは袖から小さな布を取り出し、傷の周りについた土を拭った。


 指先が触れた。


 冷たかった。


 けれど触れ方は丁寧で、妙にやわらかかった。


⸻


「血は少ないです」


⸻


「大げさだな」


⸻


「大げさに残しておけば、小さく済むこともあります」


⸻


 スズリは布をしまった。


 その手が離れるのが、少しだけ惜しいと思った。


 思ってから、シンは目を逸らした。


⸻


(何やってんだ、俺)


⸻


 モモがいる。


 白桃の奥で、壊れかけながら、まだいる。


 そのことは変わらない。


 変わらないのに、今の手の温度も消えなかった。


⸻


「あなたが急に消えると、困ります」


⸻


「作戦的に?」


⸻


「それもあります」


⸻


「それ以外も?」


⸻


 スズリはすぐには答えなかった。


 視線を落とし、筆の先を見た。


⸻


「記録に、困ります」


⸻


「俺の?」


⸻


「はい」


⸻


 短い答えだった。


 けれど、短いぶんだけ逃げ場がなかった。


⸻


「まだ、書き終えていません」


⸻


 胸の奥で、何かが鈍く鳴った。


 遠い記憶ではない。


 今ここにいる女の声だった。


⸻


「勝手に終わらないでください」


⸻


「努力する」


⸻


「信用できません」


⸻


「さっき別の人にも言われた気がする」


⸻


「別の人?」


⸻


「山の気配」


⸻


「またごまかしましたね」


⸻


 今度は、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いで、朝の冷気が少し緩んだ。


⸻


「中へ。皆が待っています」


⸻


 スズリは筆を持ち直した。


 歩き出す横顔は、まだ怒っていた。


 けれど肩の力は、少しだけ抜けていた。


 シンはその横に並ぶ。


 墨と薄い香の匂いが、もう一度近くなった。


⸻


⸻


 午前のうちに、イサワが動き始めた。


⸻


 アテルイが指示を出した。


 怒鳴らなかった。


 叫ばなかった。


 静かな声だった。


 それでも全員が動いた。


⸻


 北倉の荷を整理した。


 干した稗と粟の袋を奥へ移した。


 塩の袋は二つに分けた。


 一つが奪われても、もう一つが残るように。


 子供を奥へ移した。


 泣く子を年上の子が抱いた。


 老人の避難先を確認した。


 歩ける者。


 杖が要る者。


 背負わねばならない者。


 名前を聞き、顔を見て、誰が誰を連れていくかを決めた。


⸻


 火種を確保した。


 炉の奥から赤い芯を取り出し、灰をかぶせ、炭と一緒に小さな土器へ移す。


 それを藁と樹皮で包み、革袋に入れる。


 熱すぎれば袋が焦げる。


 弱すぎれば消える。


 炉守りの老人たちは、指先で灰を押し、火の息を確かめた。


⸻


 炭を運んだ。


 水を増やした。


 柵を補修した。


 馬を奥の囲いへ移した。


 炊事場では、女たちが大きな鍋をかけていた。


 湯気が上がる。


 粥の匂いが、冷えた空気の中に広がる。


 誰かが子供を叱り、誰かが笑った。


 怖さは消えない。


 けれど、手を動かす者の中にだけ残る明るさがあった。


⸻


「戦の準備じゃない」


⸻


 アテルイが言った。


 誰か一人へ向けた言葉ではなかった。


⸻


「残る準備だ」


⸻


 その言葉で、イサワの空気が少し変わった。


 逃げるためではない。


 滅びるためでもない。


 残るために動く。


 皆が黙って、それを受け取った。


⸻


⸻


 昼前に、小さな会議があった。


⸻


 客間に集まった。


 アテルイ。


 モレ。


 シン。


 スズリ。


 古老数人。


 炉守りの老人。


 床には粗い地図が広げられていた。


 川。


 柵。


 倉。


 子供を逃がす道。


 老人を隠す沢。


 馬を通せる細い坂。


 火種を分ける場所。


⸻


「一つ頼みがある」


⸻


 シンは言った。


 全員がこちらを見た。


⸻


「白い女が来ても、すぐ攻撃しないでくれ」


⸻


 空気が止まった。


 炉の中で、小さく炭が割れた。


⸻


「何を言っている」


⸻


 モレが言った。


 低い声だった。


⸻


「あれは敵だ」


⸻


「でも完全には敵じゃない」


⸻


「嘘だ」


⸻


 モレの目が険しくなった。


⸻


「昨日見ただろ。あれは人間じゃない。山を殺せる目をしていた」


⸻


「知ってる」


⸻


「知っていて言うのか」


⸻


「知ってるから言う」


⸻


 モレの肩がわずかに動いた。


 アテルイは止めなかった。


 ただ見ていた。


⸻


「それでも、話せる」


⸻


「根拠は」


⸻


 少し間があった。


 あるのは、声だった。


 涙だった。


 炎越しに揺れた目だった。


⸻


「知り合いだ」


⸻


 スズリの筆が止まった。


 紙の上で、墨が小さく滲んだ。


⸻


「嘘じゃない。俺なら止められる」


⸻


 言った瞬間、自分でも怖くなった。


 止められたものなど、まだ一つもない。


 それでも言わなければ、誰も待てない。


 待てなければ、白桃はまた敵になる。


⸻


 沈黙があった。


⸻


「いい」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「昨日止まった。お前も見ただろ」


⸻


 モレは黙った。


⸻


「止まるなら人だ」


⸻


 アテルイは言った。


⸻


「人なら話す」


⸻


 それは甘さではなかった。


 この土地で生きてきた者の、ぎりぎりの理屈だった。


 止まるなら見る。


 見てから決める。


⸻


 アテルイはシンを見た。


⸻


「任せる」


⸻


 重い言葉だった。


 命を預ける言葉だった。


⸻


 モレは最後だけ、シンへ向けて言った。


⸻


「死ぬなよ」


⸻


「努力する」


⸻


「信用できん返事だ」


⸻


 空気が少し緩んだ。


 だが、スズリだけは笑わなかった。


 “知り合い”という言葉が、彼女の中に残っていた。


 聞かなかった。


 けれど、残った。


⸻


⸻


 昼になった。


⸻


 タダが炊き出しをしていた。


 稗を混ぜた粥だった。


 干肉が少し。


 塩が少し。


 体を動かすための匂いだった。


⸻


 子供が並んでいた。


 老人が並んでいた。


 縄を結び終えた男が並んでいた。


 水を運んできた女が、壺を置いてから並んだ。


 タダは無言で配った。


 子供には柔らかいところを渡す。


 老人には塩を少し控える。


 泣いている子の頭を撫でる。


 また次へ向かう。


⸻


 それだけなのに、列は崩れなかった。


 器を受け取るたび、日常が一つずつ戻るようだった。


⸻


「飯って、強いな」


⸻


 シンが呟いた。


 隣にいたスズリが、少しだけ顔を上げた。


⸻


「はい」


⸻


「腹減ってる時に世界救えって言われても、無理だもんな」


⸻


「世界は分かりませんが、帳面は書けません」


⸻


「スズリも食った?」


⸻


「あとで」


⸻


「そのあとで、だいたい来ないやつ」


⸻


 シンはタダから器を二つ受け取った。


 一つをスズリへ差し出す。


⸻


「記録係が倒れたら困る」


⸻


「私は」


⸻


「書き終えてないんだろ、俺のこと」


⸻


 スズリが止まった。


 それから、小さく器を受け取った。


⸻


「……そういう返しは、卑怯です」


⸻


「俺、わりと卑怯だよ」


⸻


「記録しておきます」


⸻


 二人は少し離れた木のそばに座った。


 近くでは、子供たちが粥をすすっている。


 誰かが熱くて舌を出し、周りが小さく笑った。


 女が赤子を抱いて、器を傾ける。


 男たちは食べながら柵の方を見ている。


 手は休んでいるのに、目は休んでいない。


⸻


 これが最後の日常かもしれない。


⸻


 シンはそう思って、すぐに打ち消した。


 最後にしないために動いている。


 粥の湯気が顔に当たった。


 隣のスズリから、また薄い香がした。


 墨と紙と、温かい粥の匂いに混じるその香は、不思議と胸のざわつきを鎮めた。


 この人の隣は静かだ、とシンは思った。


 戦の前なのに。


 山が燃えるかもしれないのに。


 筆を持つ女の横に座っているだけで、呼吸の速さが少し戻る。


⸻


「白い女の人」


⸻


 スズリが言った。


 シンは器を持つ手を止めた。


⸻


「知り合い、なんですね」


⸻


「うん」


⸻


「大切な人ですか」


⸻


 静かな声だった。


 問い詰める声ではない。


 ただ、知らないままではいられない声。


⸻


「大切だ」


⸻


 スズリは小さく頷いた。


 予想していたような顔だった。


 それでも、聞けば痛いこともある。


⸻


「でも、ここにいる人も大事だ」


⸻


 やっと出た言葉は、それだけだった。


⸻


「それは、私も含まれますか」


⸻


 シンは息を吸った。


 冗談は出なかった。


⸻


「含まれる」


⸻


 スズリの指が、器の縁を強く押した。


 耳の先が、ほんの少し赤かった。


 寒さのせいかもしれない。


 違うかもしれない。


⸻


「そうですか」


⸻


 それだけ言って、スズリは粥を口へ運んだ。


 横顔は静かだった。


 けれど、さっきまでの硬さは少し消えていた。


⸻


 胆沢はまだ生きていた。


 そのことを、シンは粥の温度と、隣にいる女の匂いで知った。


⸻


⸻


 午後、客間でスズリが書いていた。


⸻


 避難先。


 物資。


 戦力。


 地図。


 火種の位置。


 炭の数。


 水壺の数。


 怪我人の名。


 歩けない者の名。


 子供を連れていく者の名。


⸻


 紙が足りなくなるかもしれない。


 そう言うと、スズリは古い紙の余白を使った。


 薄く削った木片にも書いた。


 炭で壁に印をつけた。


 消えてもいい印と、消えてはいけない記録を分けた。


⸻


 炉守りの老人が来た。


 火種の袋を抱えていた。


 老人の手は黒かった。


 爪の間まで煤が入り、皺の奥に火の跡が沈んでいる。


⸻


「火は炭になる」


⸻


 老人が言った。


⸻


「炭は砕ける。砕ければ煤になる。煤を集めて、膠で練れば墨になる」


⸻


 スズリは書きながら聞いていた。


⸻


「墨になれば残る。だが、火が消えれば炭もない」


⸻


 スズリの筆が止まった。


⸻


「火を守ることと、書くことは同じですか」


⸻


「同じではない」


⸻


 老人は首を振った。


⸻


「だが、遠くもない」


⸻


 それだけ言って、老人は立ち上がった。


 火種の袋を抱えたまま、また別の炉へ向かった。


⸻


「消えた後でしか、残せないものもあるんですね」


⸻


 スズリが言った。


⸻


「でも、消えないなら、その方がいい」


⸻


 当たり前の言葉だった。


 当たり前すぎて、誰も言わない言葉だった。


⸻


「消させない」


⸻


 シンが言った。


 スズリが顔を上げた。


⸻


「火も、紙も、人も。全部は無理でも、できるだけ」


⸻


「全部は無理でも」


⸻


 スズリはゆっくり繰り返した。


⸻


「それでも、消させない」


⸻


「うん」


⸻


 スズリの筆先が少し揺れた。


 顔を伏せた。


 何も言わなかった。


 ただ紙の端に、小さく書いた。


⸻


 消させない。


⸻


 すぐに上から線を引いて消した。


 記録としては不適切だと思ったのだろう。


 けれど墨は完全には消えなかった。


 黒い跡が、紙の上に残った。


⸻


 しばらくして、スズリは筆を持ったまま眠っていた。


 シンは少し迷って、自分の上衣を脱ぎ、肩へかけた。


⸻


 スズリのまつげが動いた。


 目が開いた。


⸻


「……寝てません」


⸻


「寝言の最初がそれか」


⸻


 スズリは肩の上衣に気づいた。


 返そうとした。


⸻


「返さなくていい。寒いだろ」


⸻


「あなたも寒いでしょう」


⸻


「俺は無駄に動いてるから」


⸻


「無駄ではありません」


⸻


 すぐに返ってきた。


 シンは少し笑った。


⸻


「そこ、否定してくれるんだ」


⸻


「あなたが無駄に動いているなら、私は無駄なものを書いていることになります」


⸻


「それはないな」


⸻


「はい」


⸻


 スズリは上衣を握ったまま、小さく頷いた。


 眠気のせいか、声が柔らかかった。


 近い距離で、その香がまたした。


 シンは、動かないように息をした。


⸻


「残さないと消えます」


⸻


 半分眠ったまま、スズリは言った。


⸻


「消させない」


⸻


 シンが答えた。


⸻


 スズリは少しだけ手を伸ばした。


 迷って、止まりかけて、結局シンの袖をつまんだ。


 ほんの少しだけ。


 弱い力だった。


⸻


「あなたも、消えないでください」


⸻


 シンは動けなかった。


⸻


「……うん」


⸻


 それ以上の言葉は出なかった。


 スズリはすぐに手を離し、顔を伏せた。


 そしてまた筆を取った。


 シンの上衣は、返さなかった。


⸻


⸻


 夕方になった。


⸻


 森の外縁に、桃の香りがした。


⸻


 シンは気づいた。


 モレも気づいた。


 モレが動こうとした。


⸻


 アテルイが手を出した。


⸻


 止まった。


 モレは少し驚いた顔をした。


 昨日なら止めなかった。


 今日は止まった。


⸻


 白桃がいた。


⸻


 白い衣。


 黒髪。


 桃の髪飾り。


 左腰のフツ。


 夕の光の中に、白だけが浮いていた。


 刃は抜いていない。


 ただ立っていた。


⸻


 見ていた。


 火種袋を。


 炉を。


 子供を。


 炊事場を。


 スズリの紙を。


 そして、シンを。


⸻


「……火」


⸻


 白桃が言った。


 命令ではなかった。


 報告でもなかった。


 言葉を思い出す練習みたいだった。


⸻


「……山」


⸻


 少し間があった。


⸻


「……あたたかい」


⸻


 シンは近づいた。


 モレが息を呑んだ。


 アテルイは動かなかった。


 スズリも、筆を持ったまま動かなかった。


 だがその目は、白桃ではなくシンを見ていた。


⸻


「覚えてるか」


⸻


 白桃の瞳が揺れた。


⸻


「……山……燃えてた……」


⸻


 シンは止まった。


 記憶ではない。


 たぶん、記録だ。


 火の中で見たものが、傷のように残っている。


⸻


「……火……消さないで」


⸻


 自分でも、何を言ったか分かっていない顔だった。


 白桃は止まっていた。


⸻


「モモ」


⸻


 シンは呼んだ。


 白桃の指が、わずかに動いた。


⸻


「消さない」


⸻


 シンは言った。


⸻


「火も。山も。お前も」


⸻


 白桃の瞳が揺れた。


 その奥で、誰かが息をした気がした。


⸻


「……シン」


⸻


 声が落ちた。


 夕方の中で、細く。


 けれど確かに。


⸻


 スズリの筆先が、紙に触れた。


 小さく墨が滲んだ。


 今の声を、書いたのかもしれない。


 書けなかったのかもしれない。


⸻


 次の瞬間、白桃の顔から表情が抜けた。


 桃の香りが強くなり、すぐに薄くなる。


 白桃は一歩下がった。


 森へ戻った。


⸻


 誰も追わなかった。


 夕方の炊事場で、粥の湯気だけが上がっていた。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 森の奥で、松明が集まっていた。


 初めは三つだった。


 やがて五つになった。


 さらに奥に、赤い点が増えた。


⸻


 毘沙門の旗があった。


 低い声がした。


 熱い声だった。


 祈りにも、怒号にも似ていた。


⸻


「白桃様が鬼に惑わされている」


⸻


「穢れを断つ」


⸻


「神使を正す」


⸻


 増えていた。


 昨日より多かった。


 矢を持つ者。


 盾を持つ者。


 松明を持つ者。


 荷を背負う者。


 荷の中には、縄があり、油を染み込ませた布があり、乾いた薪があった。


 山を焼くのに、大げさな道具はいらない。


 乾いた木と、風と、火をつける手があれば足りる。


⸻


 報告を聞いたモレは、短く命じた。


 水を増やせ。


 柵の内側に濡れた皮を掛けろ。


 子供を奥へ。


 火種は二つに分けろ。


 弓は無駄に放つな。


 松明持ちを先に見る。


 風下を空けるな。


⸻


 アテルイは森を見ていた。


 動かない山を見るように、動く火を見ていた。


⸻


「来るな」


⸻


 誰かが言った。


 アテルイだったのか。


 モレだったのか。


 シン自身だったのか。


 分からなかった。


⸻


「でも来る」


⸻


 今度はアテルイの声だった。


⸻


⸻


 シンは眠れなかった。


⸻


 客間では、スズリがまだ書いていた。


 シンの上衣はまだ肩にあった。


⸻


「寝ないのか」


⸻


「あなたも」


⸻


「俺はほら、寝ると変な夢見るし」


⸻


「私は、起きていても変な現実を見ています」


⸻


「強い返しだな」


⸻


 スズリは少しだけ笑った。


 疲れた笑いだった。


⸻


「これを書いたら、少し休みます」


⸻


「それ、休まない人の言い方」


⸻


「では、あなたが戻ったら休みます」


⸻


 シンは言葉に詰まった。


 戻ったら。


 それは約束だった。


⸻


「戻る」


⸻


 それでも言った。


⸻


 スズリは筆を止めた。


 火の光が瞳に入っている。


⸻


「記録します」


⸻


「それはちょっと圧があるな」


⸻


「破ったら、残ります」


⸻


「約束破った記録とか最悪だ」


⸻


「だから破らないでください」


⸻


 スズリは紙を押さえた。


 その手の上に、シンは自分の手を置きかけた。


 途中で止めた。


 スズリはその迷いを見ていた。


 そして、自分から少しだけ手をずらした。


 触れてもいい場所を空けるように。


⸻


 シンは、スズリの手の横に指を置いた。


 触れた。


 ほんの少しだけ。


 偶然ではないと分かる距離だった。


⸻


 スズリは逃げなかった。


 紙を見たまま、静かに息をした。


 墨と薄い香が、また近くなった。


⸻


「戻ります」


⸻


 シンが言った。


⸻


「はい」


⸻


 それだけだった。


 それだけで、十分すぎた。


⸻


⸻


 外へ出た。


⸻


 モレが先にいた。


 森を見ていた。


 背中だった。


⸻


「次は来る」


⸻


 モレが言った。


⸻


「白い女を止めるなら、早く止めろ」


⸻


「努力する」


⸻


「だから信用できんと言っている」


⸻


 モレは森から目を離さなかった。


⸻


「だが、待つ」


⸻


 アテルイが来た。


 二人の横に立った。


 森を見た。


 火の点が増えている。


 風は森からこちらへ来ていた。


⸻


「風下か」


⸻


 シンが言った。


⸻


「ああ」


⸻


 アテルイは答えた。


⸻


「向こうも分かっている」


⸻


 山風が来た。


 冬の匂いがした。


 濡れた土。


 枯れ葉。


 遠い煙。


 その中に、桃の香りが微かに混じった。


⸻


 シンは目を閉じた。


 火が見えた。


 白い影が見えた。


 スズリの指が袖をつまむ感触が残っていた。


 戻る。


 そう言った。


 記録された。


 もう、簡単には死ねない。


⸻


(止める)


⸻


 森の奥で、松明が一つ高く掲げられた。


 それに応えるように、別の火が揺れた。


 低い声が、夜の木々の間を這ってくる。


⸻


(今度は燃やさせない)


⸻


 シンは森を見た。


 隣にモレがいた。


 その隣にアテルイがいた。


 背後には胆沢があった。


 火種があった。


 墨があった。


 紙があった。


 粥の匂いが、まだわずかに残っていた。


 スズリの筆が、まだどこかで紙を擦っていた。


⸻


 消させない。


⸻


 山風が吹いた。


 桃の香りが、ひどく淡く混じった。


 遠くの松明が、また一つ増えた。


⸻


⸻


(第七十六話へ)


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