平安京
第七十四話 平安京
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それは、胆沢の山が燃えるより幾日か前の都だった。
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牛車が通った。
車輪が乾いた土を噛み、ゆっくりと音を立てる。
牛の首にかけられた緒が揺れた。
従者が前を歩き、道の者を退ける。
人が避ける。
荷が寄せられる。
また人が流れを戻す。
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土の匂いがした。
牛の匂いがした。
木を削る匂いがした。
遠くで、瓦を運ぶ音がした。
まだ乾ききっていない土器と、削られた材木と、人の汗の匂いが混じっていた。
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木が積まれていた。
石が積まれていた。
縄で結ばれた材が、牛の背と人の肩で運ばれていく。
どこかで柱が立てられ、どこかで溝が掘られ、どこかで古い仮屋が崩されていた。
人が動いていた。
また人が動いていた。
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平安京は大きかった。
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そして、まだ完成していなかった。
名はもう都だった。
帝はすでにここにいる。
朝廷もここで動いている。
だが都そのものは、今も伸び続けていた。
道は広く、区画はまっすぐで、朱雀大路は人の目を奪うほど大きい。
それでも端へ行けば、まだ土が見えた。
材が見えた。
人足の背が見えた。
都は、完成した器ではなく、作られ続ける巨大な体だった。
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市に声があった。
布があった。
魚があった。
塩の匂いがした。
焼いた匂いがした。
干したものを売る声。
値を下げろと言う声。
役人の目を気にして小さくなる声。
どれも胆沢の交易場とは違った。
ここでは品物は、すでに都の口へ入るものとして並んでいた。
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雪は来ていなかった。
だが空は重かった。
冬の手前の空だった。
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どこかの邸から、笛の音がした。
宴の音だった。
細い音が、濁った土の匂いの上を滑っていく。
誰かが笑った。
誰かが杯を傾けた。
誰かが、北の話をしたかもしれない。
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北の地の戦を、誰も知らなかった。
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正確には、知っていた。
地図の上の話として知っていた。
遠い山の名前として知っていた。
奏上に載る文字として知っていた。
米、布、兵、馬、矢、日数。
戦費の数字として知っていた。
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だが、誰も見ていなかった。
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炎を見ていなかった。
煙を嗅いでいなかった。
焼けた喉で名前を呼ぶ声を聞いていなかった。
白い衣が火の中で止まるところも。
記録の紙束を抱えて死ぬ少年も。
山が、どれほど静かになるかも。
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都は動いていた。
華やかだった。
息苦しかった。
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「蝦夷を屈服させねば、朝廷の威信が揺らぎます」
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中務少輔、藤原仲成は断言した。
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殿舎の中だった。
灯が並んでいる。
絹の匂いがした。
墨の匂いがした。
焼いた香の匂いが、衣に薄く移っていた。
外の土と木と汗の匂いは、ここまでは入ってこない。
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几帳の影が揺れた。
文机の上には、北からの報告がいくつも置かれている。
どれも薄い紙だった。
だが、その紙の向こうで動く人間は薄くない。
死ぬ時は厚く血を流す。
しかしここでは、墨の濃淡に変わっていた。
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東宮、安殿親王は畳の上で膝を抱えていた。
若い顔だった。
目がよく動いた。
落ち着かない。
誰かの言葉を聞いているようで、別の誰かの顔を思い浮かべている。
近くにいる者を信じ切れず、遠くにいる者を疑う目だった。
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「東の金を押さえねば、国は立ちゆかぬ」
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仲成はよく喋った。
滑らかだった。
止まらなかった。
言葉は整っていた。
整っている分だけ、どこかで刃のようだった。
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「陸奥は、ただ遠い土地ではございません。金、馬、鉄、良材。道を押さえ、柵を進めねば、いずれ都の手から離れます」
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安殿親王の目が動いた。
金という言葉に反応したのか。
都の手、という言葉に反応したのか。
それとも、手から離れるという言葉が、別の不安を撫でたのか。
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「主上のご指示を仰ぎたく」
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桓武天皇は端に座っていた。
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老いていた。
かつての苛烈さは、声の奥に残っていた。
だが体は重そうだった。
手がわずかに震える。
呼吸も深くない。
それでも、国への執念だけは落ちていなかった。
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遷都。
造営。
征夷。
寺。
道。
記録。
桓武の中で、国はまだ動かされるべきものだった。
止まれば崩れる。
進めば血が出る。
そのどちらも知っている顔だった。
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「……続けよ」
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それだけだった。
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仲成は続けた。
安殿は聞いていた。
だが、どこかへ行っていた。
猜疑心の中を歩いていた。
誰が自分を軽んじているのか。
誰が父帝へ近いのか。
誰が自分から何を奪うのか。
その数を、心の中で数えているようだった。
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兵の声は届かなかった。
火の匂いも届かなかった。
誰が死んでいるかも、届かなかった。
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夜。
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仲成は別の邸へ入った。
表の門ではなかった。
人の少ない側から入り、灯の少ない廊を通る。
従者は途中で下がった。
奥には、薄い御簾が下りていた。
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香の匂いが濃かった。
昼の殿舎よりも甘い。
甘いのに、どこか冷たい匂いだった。
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「よく喋りましたね」
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御簾の奥から声がした。
女の声だった。
柔らかい。
だが、柔らかいものほど喉の奥へ入り込みやすい。
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「必要なことです」
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仲成は座った。
頭を下げるほどではない。
だが、身内に見せる顔でもなかった。
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御簾の向こうに、藤原薬子がいた。
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公の場へ堂々と出る女ではなかった。
少なくとも、今はそうだった。
東宮の奥に近づきすぎた女。
桓武の目に、危ういものとして映った女。
それでも、完全には遠ざけられない女。
人の心に入る道を知っている女だった。
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「殿下は」
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薬子が聞いた。
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「揺れておられます」
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「揺れる方が、動かしやすい」
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仲成は答えなかった。
御簾の奥で、衣が小さく擦れる音がした。
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「北は遠いわ」
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薬子の声は、歌うようだった。
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「遠い場所で燃える火は、都から見れば、ただの明かりに見える」
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「火が大きすぎれば、こちらへ煙が来ます」
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「なら、その前に名前をつければよいのです」
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仲成が顔を上げた。
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「名前を」
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「鬼。朝敵。神敵。何でもよいでしょう。名がつけば、人は見ずに済む」
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薬子は静かに言った。
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「白桃様の名も、よく広がっています」
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「あれは、兵を熱くしすぎます」
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「熱がなければ、人は遠くまで歩きません」
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御簾の奥で、薬子が少し笑った気配がした。
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「神の使いが北へ現れる。鬼がそれを惑わす。ならば討たねばならない。分かりやすい話です」
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「田村麻呂殿は嫌がるでしょう」
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「だから田村麻呂殿より先に、兵が動くのでしょう」
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仲成は黙った。
薬子の言葉は、命令ではなかった。
命令ではないから、形に残らない。
だが、残らない言葉ほど、人の中で長く働くことがある。
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「兄上」
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薬子が言った。
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「都で勝つには、北で火が要ります」
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仲成は御簾を見た。
薄い布の向こうに、女の輪郭だけがあった。
その輪郭は、火に照らされていないのに、どこか白く見えた。
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一方。
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従五位下・式部少丞、藤原緒嗣。
彼は自らの政務室で文を書いていた。
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灯は一つだった。
夜だった。
墨が荒れていた。
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珍しかった。
緒嗣の文字は、いつも整っていた。
整えることに慣れていた。
感情を紙へ落とす前に、形を整える男だった。
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今日は荒れていた。
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筆を止めた。
また動かした。
止めた。
また動かした。
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徴税。
兵站。
遷都。
征夷。
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全部の数字が、頭の中で動いていた。
造営に取られる人夫。
北へ送られる兵。
道で消える米。
馬の飼葉。
運ぶための人間。
運ぶ人間を食わせるための米。
その米を出すための里。
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紙の上では、数は整う。
だが数の下には、背がある。
肩がある。
手がある。
疲れた人間がいる。
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(これ以上戦を広げれば、国が壊れる)
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分かっていた。
数字を見れば分かった。
人を見れば分かった。
都の造営も、北の戦も、同じ人間の背に乗っている。
どちらも帝の大事だった。
どちらも国のためと言われた。
だが背は一つしかない。
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それでも誰も止まらなかった。
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緒嗣は書いた。
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『独断専行を抑えよ』
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書いた。
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『田村麻呂殿と協力されたし』
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書いた。
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『戦を広げれば朝廷が割れる』
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手が止まった。
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この一文は重すぎる。
だが、軽く書けば届かない。
文は北へ着くまでに時間を失う。
都で書いた今は、北ではもう古いかもしれない。
使者が駅家を継ぎ、馬を替え、山を越え、川を渡っても、墨は火より遅い。
文が届く頃には、もう人が死んでいるかもしれない。
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緒嗣は火を見た。
灯が揺れていた。
揺れて、揺れて、揺れていた。
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また書いた。
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『急げ』
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それは公文書の言葉ではなかった。
それでも、書いた。
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都を出た文は、すぐに北へ届くわけではない。
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使者は夜明けを待たずに出た。
駅鈴を持つ者ではなかった。
正式な勅の使いでもない。
緒嗣の息がかかった、速く走れる者だった。
それでも、道は短くならない。
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山城を出る。
近江へ向かう。
東山道へ入る。
駅家で馬を替える。
夜は危うい道を避ける。
雨が降れば遅れる。
橋が落ちれば回る。
関で止められれば名を出す。
名が通らなければ、さらに遅れる。
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文は軽い。
だが、文を運ぶ人間は重い体を持っている。
腹も減る。
眠くもなる。
足も痛む。
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都で書かれた一行は、北へ向かう間に何度も夜を越えた。
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そして。
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都から遠く離れた北の地。
坂上田村麻呂の本陣。
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そこでは、都の文より先に火の報せが届いていた。
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風が来た。
冷たかった。
冬の手前の風だった。
雪の匂いが混じっていた。
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陣は静かだった。
夜の陣だった。
炊事の煙が薄く残っている。
馬の鼻息が聞こえた。
兵の足音が遠くにあった。
時折、革を締め直す音がする。
誰かが咳をした。
すぐに黙った。
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田村麻呂は火の前に座っていた。
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怒鳴らなかった。
叱らなかった。
何も言わなかった。
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それが一番重かった。
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報告の男は、まだそこにいた。
立ったまま、下を向いている。
足元の土が濡れていた。
走ってきた汗なのか。
川を渡った水なのか。
分からなかった。
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「……以上です」
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「分かった」
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それだけだった。
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男が下がった。
下がる時、膝が少し揺れた。
田村麻呂は見ていた。
何も言わなかった。
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火を見た。
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補給線が長かった。
兵が疲れていた。
補給の兵も疲れていた。
馬も痩せ始めている。
道はぬかるむ。
川は冷える。
山は、知らない者の足を飲む。
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胆沢を本格的に攻めれば、泥沼になる。
分かっていた。
最初から分かっていた。
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それでも強硬派が動いていた。
命令を越えて動いていた。
止める前に火をつける者がいる。
都で言葉が整う前に、北で矢を放つ者がいる。
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止められなかった。
都が遠すぎた。
声が届くまでに、もう動いていた。
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「また勝手に動いたか」
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カミノの声だった。
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文を読んでいた。
都からの文だった。
緒嗣の文だった。
墨が荒れていた。
日付を見れば、何日も前に書かれたものだと分かる。
今ここで読んでいる時には、もう古い。
だが古い文ほど、今の遅れをはっきり見せる。
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「……はい」
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「止められるか」
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「難しいかと」
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短かった。
二人とも、状況を理解していた。
説明は要らなかった。
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カミノはもう一度文を読んだ。
徹夜続きだった。
目が乾いている。
胃が重い。
舌の奥が苦い。
眠ればいいと体は言う。
眠れば間に合わないと頭が言う。
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密偵の報告も来ていた。
強硬派が命令を無視して動いている。
仲成側の動きも見えている。
東宮の周辺がざわついている。
薬子の名が、表に出ない場所で囁かれている。
都の中で何かが割れ始めている。
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全部が同時に動いていた。
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「白桃様の報告もあります」
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別の者が言った。
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田村麻呂の顔が変わった。
露骨に嫌な顔をした。
珍しかった。
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生き残った兵が進み出た。
目が熱かった。
恐怖が熱に変わり、熱が信仰のようなものに変わっている顔だった。
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「白桃様が現れました」
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声が大きかった。
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「鬼どもが混乱しています」
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田村麻呂は何も言わなかった。
カミノも黙った。
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「胆沢内部に、白桃様へ近づく男がいます」
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兵は続けた。
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「妖言で神使を惑わせている疑いがあります。射手が一度、その男を射抜いたとの報告も」
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カミノの顔色が変わった。
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声には出さなかった。
出せなかった。
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(もう始まっている)
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兵はまだ喋っていた。
白桃様。
神使。
鬼。
妖言。
討つべし。
言葉だけが熱を持っている。
カミノは途中から聞いていなかった。
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男の顔が浮かんだ。
軽口を叩く男。
怖がりの男。
食い意地の張った男。
死んでも、また無茶をする男。
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胆沢にいる。
あの男なら、また火の中へ入る。
あの男なら、白桃へ近づく。
止めろと言っても、止まらない。
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カミノは文を握った。
紙がわずかに鳴った。
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夜が深くなった。
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陣が静まった。
炊事の煙が消えた。
火だけが残った。
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田村麻呂とカミノだけになった。
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「このままでは、胆沢も朝廷も壊れます」
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カミノが言った。
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田村麻呂は否定しなかった。
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「だから止めたいのだろう」
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「……はい」
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「アテルイも、同じ顔をしていた」
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カミノは少し黙った。
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田村麻呂は火を見ていた。
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「戦いたい男ではない」
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静かだった。
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「だが守るためなら、最後まで戦う」
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火が揺れた。
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「だからこそ厄介だ」
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否定ではなかった。
軽蔑でもなかった。
理解だった。
重い、理解だった。
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カミノは何も言えなかった。
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「こちらも同じだ」
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田村麻呂は続けた。
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「守ると言って、攻める。国のためと言って、人を燃やす。言葉はいつも、刃より先に人を斬る」
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カミノは火を見た。
赤い芯が、灰の奥で小さく揺れている。
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「では、どうします」
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田村麻呂は少しだけ目を伏せた。
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「使者を出す。強硬派へは退けと命じる。だが間に合うとは思うな」
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「……はい」
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「それでも出す」
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その声は、命令だった。
同時に、自分へ言い聞かせる声でもあった。
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陣の外に出た。
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北風が来た。
冬の手前の風だった。
空に星があった。
都で見る星より、冷たく見えた。
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遠くに山があった。
陸奥の山だった。
胆沢の方角だった。
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カミノは山を見た。
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(間に合え)
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誰へ向けた言葉か、分からなかった。
シンか。
モモか。
アテルイか。
胆沢か。
田村麻呂か。
都か。
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全部だった。
誰でもなかった。
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風が来た。
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その中に、桃の香りがした。
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カミノが振り返った。
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誰もいなかった。
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陣の外れ。
一瞬だけ。
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白い影が、立っていた。
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黒髪。
白い衣。
桃の髪飾り。
左腰のフツ。
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遠いはずのものが、そこにいた。
胆沢にいるはずのものが、風の端に滲んでいた。
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次の瞬間には消えていた。
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カミノの表情が消えた。
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(……来ている)
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都だけではなかった。
胆沢だけでもなかった。
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何かが。
この国全体へ、滲み始めていた。
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星が冷たかった。
風が続いた。
山は動かなかった。
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(第七十五話へ)




