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灰になった朝

第七十三話 灰になった朝


⸻


 吐いた。


⸻


 森へ出た瞬間、シンはその場で膝をついた。


 手を地面につく。


 湿った土が指の間に入った。


 朝露を含んだ草が、手の甲に触れる。


 冷たいはずだった。


 それなのに、皮膚の奥だけがまだ熱かった。


⸻


 胃の中は空だった。


 何も出ない。


 喉だけが勝手に絞られ、胸が何度も持ち上がった。


 焼けた時の煙が、まだ体のどこかに残っている気がした。


 吐くたびに、灰の味がした。


⸻


 呼吸がうまく入らなかった。


 吸えば、喉の奥が痛む。


 痛むはずがない。


 今の喉は焼けていない。


 今の肺には煙も入っていない。


 それでも体は、さっきまで燃えていたことを覚えていた。


⸻


 煙の匂いがした。


 ないはずの匂いだった。


 朝の森は湿っていて、土と葉と水の匂いがする。


 だがシンの鼻の奥には、焦げた木と、焼けた紙と、自分の髪が燃える匂いが残っていた。


⸻


 皮膚の裏側に、炎が残っていた。


 手の甲。


 首。


 背中。


 胸。


 火に触れた場所が、順番に思い出す。


 熱い。


 熱い。


 もう熱くないのに、熱い。


⸻


「うわぁ」


⸻


 頭の上から声がした。


⸻


「今回は酷いねぇ」


⸻


 シンは顔を上げられなかった。


 喉の奥で、また空の吐き気が動いた。


⸻


 ワカレが枝の上に座っていた。


 足をぶらぶらさせながら、面白くもなさそうにシンを見下ろしている。


 朝の光が、金色の髪を薄く照らしていた。


 軽い姿だった。


 こんな朝に、場違いなくらい軽かった。


⸻


「焼け死ぬの、しばらく残るんだよね」


⸻


 シンは答えなかった。


 答えるための息がなかった。


⸻


 時間があった。


⸻


 焼けながら、ちゃんと時間があった。


⸻


 今までの死と違った。


 首を斬られた時は、一瞬だった。


 落ちた時も、刺された時も、最後はすぐ暗くなった。


 痛みはあった。


 恐怖もあった。


 だが、終わりが来るのは早かった。


⸻


 今回は違った。


⸻


 体が別のものへ変わっていく感覚があった。


 肉が肉でなくなる。


 皮膚が皮膚でなくなる。


 息が息でなくなる。


 自分が、自分のまま燃えて、炭になっていく。


 その時間があった。


⸻


 最後に見たのは、モモの目だった。


⸻


 泣いていた。


 人間の目で、泣いていた。


⸻


「焼けるの、つらいよねぇ」


⸻


 また声が落ちてきた。


 同じ軽さだった。


 けれど、そこにほんの少しだけ、知っている者の響きが混じっていた。


⸻


 シンはようやく見上げた。


 ワカレは枝の上で足を揺らしている。


 笑っていた。


 だが、目だけは笑っていなかった。


⸻


「何で分かる」


⸻


 声は掠れていた。


 焼けていない喉から、焼けたみたいな声が出た。


⸻


 ワカレは笑った。


 答えなかった。


⸻


「お前、何者なんだ」


⸻


「古道」


⸻


 ワカレはあっさり言った。


⸻


「ただのサル。道案内。まぁ、色々だよ」


⸻


 全部冗談みたいだった。


 軽かった。


 いつもの調子だった。


⸻


 だが一瞬だけ、目が変わった。


⸻


 古い目だった。


 笑いの形をしていない目だった。


 山道も、焼けた集落も、死に戻る者も、ずっと前から見てきたような目だった。


⸻


 すぐ戻った。


⸻


「今回は少し助言してもいいかなって」


⸻


「何でだ」


⸻


「前、二回殺しちゃったし」


⸻


 シンはワカレを見上げた。


⸻


 信用はできなかった。


 軽すぎた。


 何を知っていて、どこまで見えているのかも分からない。


 こちらが死んだ回数を、どこから数えているのかも分からない。


⸻


 でも。


⸻


 昨日、白桃は泣いた。


⸻


 モモが戻りかけていた。


 消えていなかった。


 それだけが、今のシンには一番大きかった。


⸻


 シンは立ち上がった。


 膝が震えた。


 立つだけで、燃えた背中が軋む気がした。


 それでも立った。


⸻


「おいおい、話聞いてる?」


⸻


 ワカレが笑った。


⸻


 シンは答えなかった。


 森へ向かった。


⸻


 今はワカレより先に、確かめたいことがあった。


⸻


⸻


 朝霧の中に、桃の香りがした。


⸻


 シンは止まった。


⸻


 木立の向こうだった。


 白い影があった。


 白装束。


 黒髪。


 朝の光が、薄くその輪郭を照らしている。


 昨日の炎の中とは違う。


 赤く染まっていない。


 煙に霞んでいない。


 白い衣は、朝霧の中で静かに浮かんでいた。


⸻


 左腰にフツがある。


 黒髪の横に、桃の髪飾りがある。


 風が来るたびに、髪の先が少し揺れる。


 人間のようで、人間ではない。


 けれど昨日より、遠くなかった。


 シンは、胸の奥でまだ燃えている痛みを抱えたまま、その白を見ていた。


 昨日は炎の向こうだった。


 崩れる梁と煙の向こうにいて、最後に目だけが残った。


 今は朝霧の中にいる。


 手を伸ばせば届きそうな距離にいる。


 それだけで、ひどく怖かった。


 近いのに、まだ彼女の内側へは届いていない。


⸻


 昨日より静かだった。


⸻


「モモ」


⸻


 白桃は振り向いた。


⸻


「……シン」


⸻


 認識が早かった。


 昨日と違った。


 対象確認でも、報告でもない。


 名前だった。


 まだ冷たい。


 まだ遠い。


 それでも、名前だった。


⸻


 シンの胸が痛んだ。


⸻


「思い出せるか」


⸻


 白桃の瞳が揺れた。


 桃の香りが強くなる。


 朝の湿った空気の中で、その匂いだけがはっきりした。


⸻


「……火」


⸻


 短かった。


 だがモモの声だった。


⸻


 少し間があった。


⸻


「……山……燃えてた……」


⸻


 声が揺れていた。


 言葉を拾うたびに、どこかで痛んでいるようだった。


⸻


 炉の火。


 イサワの柵。


 焼け落ちる屋根。


 炎の中で立っていたシン。


 抱えた紙束。


 落ちた涙。


 それらが一つずつ戻るのではなく、燃えた木片みたいに混ざり合って出てくる。


⸻


「そうだ」


⸻


 シンは言った。


⸻


「でも残った」


⸻


 白桃は動かなかった。


⸻


「火は残った」


⸻


 桃の香りが、また揺れた。


⸻


「……シン」


⸻


 少し間があった。


 白桃の唇が、ほんの少しだけ震えた。


⸻


「……あつ、かった?」


⸻


 完全にモモだった。


⸻


 シンは少し笑った。


 笑った瞬間、胸の奥が崩れそうになった。


 焼け死んだ苦しさが、初めて苦しさだけでなくなった。


 誰かが、それを聞いてくれた。


 モモが、聞いてくれた。


⸻


「かなりな」


⸻


 声は震えた。


 だが、ちゃんと返せた。


⸻


 白桃の指が、少しだけ動いた。


 柄へ向かう動きではなかった。


 何かを確かめるように、宙へ浮いた。


 炎の中でシンが抱えていた紙束を、思い出しているのか。


 焼けた手を、思い出しているのか。


 それとも、触れていいのか分からないまま、止まっているのか。


⸻


 シンはその手を見た。


 あの手に殺された。


 あの手が震えた。


 あの手が、今、迷っている。


⸻


「モモ」


⸻


 もう一度呼んだ。


⸻


 白桃の瞳に、朝の光が入った。


 色硝子のような冷たさの奥で、細い傷みたいなものが光った。


⸻


⸻


 矢が来た。


⸻


 反応できなかった。


⸻


 音を聞いた時には、もう胸に来ていた。


 硬いものが体の中へ入る感覚があった。


 衝撃が遅れて来た。


 胸の中心を、誰かに拳で押し抜かれたようだった。


⸻


 体が後ろへ傾いた。


 足が滑る。


 木の根に背中が当たった。


 倒れた。


 胸に刺さったものが、体の動きに遅れて揺れた。


 それだけで、息が潰れた。


 声にならない声が喉の奥で詰まる。


 手が矢に触れた。


 抜いてはいけないと、知識だけが言った。


 だが体は抜こうとした。


 痛みから逃げようとして、痛みの中心を掴もうとした。


 空が見えた。


 朝の空だった。


 ひどく綺麗だった。


⸻


 声が来た。


⸻


「討った」


⸻


 森の外縁から、複数の足音が来た。


 枝を踏む音。


 草を分ける音。


 弓を持つ者の荒い息。


⸻


「毘沙門天様のお告げ通りだ」


「白桃様を惑わす鬼を射抜いた」


「妖言で神使を穢す者を討ったぞ」


⸻


 興奮していた。


 感情で動いていた。


 怖がってはいなかった。


 勝ったと思っていた。


 自分たちが何を射ったのか、見てもいなかった。


⸻


 白桃が止まった。


⸻


 血を見た。


 倒れているシンを見た。


 桃の香りが乱れた。


 朝霧の中で、甘い匂いが一瞬だけ濃く、苦くなった。


 白桃の足が、半歩だけ動いた。


 近づこうとしたのか。


 止めようとしたのか。


 それとも命令が、動くべき方向を見失ったのか。


 分からなかった。


 ただ、その半歩は確かにシンの方へ出ていた。


⸻


「……シ」


⸻


 それ以上、声にならなかった。


⸻


「近づくな」


⸻


 兵が叫んだ。


⸻


「まだ妖しが残っているかもしれん」


「白桃様を守れ」


⸻


 白桃は動かなかった。


⸻


 見ていた。


 ただ、見ていた。


 兵たちはその沈黙を、神使の静けさだと思ったのかもしれない。


 だがシンには違って見えた。


 白桃の中で、何かが動けずに詰まっていた。


 声にもならず、涙にもならず、ただ目だけがこちらを離れなかった。


⸻


⸻


 体が重かった。


⸻


(今回は矢か)


⸻


 妙に冷静だった。


 胸が痛かった。


 息が細くなっていく。


 吸うたびに、矢の周りがきしむ。


 血が服の下で広がるのが分かった。


 熱い。


 だが、炎とは違う熱だった。


⸻


 煙の苦しさではなかった。


 炭になる時間でもなかった。


 体の中心から、少しずつ外へ力が抜けていく死だった。


⸻


 残っているのは。


⸻


『……あつ、かった?』


⸻


 その一言だけだった。


⸻


 モモが戻っていた。


 そこだけが残った。


⸻


 視界が暗くなった。


⸻


 死んだ。


⸻


⸻


 炉の火が燃えていた。


⸻


「……シンさん?」


⸻


 スズリが筆を持ったまま、こちらを見ていた。


 朝だった。


 静かな朝だった。


⸻


 シンは即座に立ち上がった。


 胸を押さえる。


 そこに矢はない。


 血もない。


 だが痛みだけが、まだ体の奥にあった。


 指先が胸の真ん中を探った。


 布は破れていない。


 皮膚も裂けていない。


 それなのに、そこには穴がある気がした。


 息を吸うたびに、見えない矢羽根が胸の中で揺れた。


⸻


 外へ出た。


⸻


「シンさん」


⸻


 スズリの声が後ろで鳴った。


 追いつかなかった。


⸻


⸻


 森の縁に来た。


⸻


 ワカレが同じ枝にいた。


 同じように足を揺らしている。


 笑っていた。


⸻


「ほらね」


⸻


 朝の山を眺めながら言った。


⸻


「今度は矢だ」


⸻


 ワカレは胸を打たれて、うっとした仕草をした。


 軽い。


 軽すぎる。


 シンは立ったまま、黙っていた。


⸻


 死ぬ直前の感覚を、体が覚え始めていた。


 それが一番嫌だった。


 焼ける前に、次の痛みを予想する体になっていく。


 矢が来る前に、胸を庇いたくなる体になっていく。


 死に慣れていくのではない。


 死に汚されていく。


⸻


「……どうすればいい」


⸻


 言葉が出た。


⸻


「モモを止めたい」


⸻


「イサワも守りたい」


⸻


「どうすればいい」


⸻


 初めて、聞いた気がした。


 誰かに、助けを求めた気がした。


⸻


 ワカレの笑いが消えた。


⸻


 初めてだった。


 笑いが完全に消えた。


⸻


 枝から降りた。


 音がしなかった。


 シンの前に立つ。


 背丈は低い。


 体も細い。


 だが、立つと違った。


 道化の皮が落ちていた。


⸻


「まず、ここを離れない」


⸻


 静かな声だった。


⸻


「今、君が山を離れると、たぶん全部間に合わなくなる」


⸻


「全部?」


⸻


「イサワも。白桃ちゃんも。和睦も」


⸻


 シンは黙った。


⸻


「だから今は、ここで時間を作る」


⸻


 ワカレは森の奥を見た。


 いつもの軽い目ではなかった。


⸻


「籠もる。火種を守る。子どもを逃がす」


⸻


 短かった。


 速かった。


 道案内の声だった。


⸻


「白桃ちゃんへの接触は続ける。昨日みたいに、少しずつ戻していく」


⸻


「カミノは」


⸻


「都側は、カミノくんに任せる」


⸻


「何ができる」


⸻


 ワカレは少し笑った。


 笑いは戻ったが、薄かった。


⸻


「まぁ、あの子、都じゃ結構すごい場所にいるしねぇ」


⸻


 少し間があった。


⸻


「今頃、都で一番頭抱えてる頃じゃない?」


⸻


 それ以上は言わなかった。


⸻


「田村麻呂も、本当は潰したくない。アテルイも、まだ切る気じゃない」


⸻


「だから時間を作る」


⸻


「その間に、都の火も消せるかもしれない」


⸻


 ワカレは足元の土を軽く踏んだ。


 そこに道があるわけではない。


 だが、その仕草だけで、シンには見えない道を指しているように見えた。


⸻


「戦って勝つんじゃないよ」


⸻


 ワカレが言った。


⸻


「燃え尽きないようにする。折れないようにする。相手が勝ったと思うまで、こっちが残ってればいい」


⸻


「それで勝ちなのか」


⸻


「勝ちじゃない」


⸻


 即答だった。


⸻


「でも、次へ行ける」


⸻


 シンは聞いていた。


 全部聞いた。


 燃えた体の記憶も、胸を射抜かれた感覚も、まだ残っている。


 それでも聞いた。


⸻


「信用していいのか」


⸻


「良くないよ」


⸻


 即答だった。


⸻


「でも他に道あるかい?」


⸻


 シンは答えなかった。


⸻


 風が来た。


 山が揺れた。


 朝の光が深くなった。


⸻


 桃の香りが、どこからか流れてきた。


⸻


「君は山を守る」


⸻


 ワカレは山の方を向いて言った。


⸻


「カミノくんは都を止める」


⸻


「それで時間を作る」


⸻


 少し間があった。


⸻


「間に合うといいね」


⸻


 笑っていた。


 だが、目だけが笑っていなかった。


⸻


 古い目だった。


 ずっと昔から見続けてきた目だった。


⸻


 シンは答えなかった。


 山を見た。


 朝の山はまだ静かだった。


 火はなかった。


 煙はなかった。


 鳥が一羽、木の間を抜けていった。


⸻


(残す)


⸻


 戻った時から決まっていた。


 だが今、もう一度決めた。


⸻


 山へ向かった。


⸻


(第七十四話へ)

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