炉火と炭と墨
第七十二話 炉火と炭と墨
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森から松明が来た。
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一つではなかった。
列でもなかった。
闇の奥で、火が一斉にほどけた。
木々の間に赤い点が増え、横へ広がり、低く揺れながら近づいてくる。
火を持った人間の群れだった。
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太鼓が鳴った。
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腹の底を叩くような音だった。
山の音ではない。
川の音でもない。
人を前へ押すための音だった。
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森の向こうから、声が重なった。
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「鬼を滅ぼせ!」
「ヤマトの敵を討て!」
「毘沙門天の加護の下!」
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田村麻呂の兵の声ではなかった。
もっと高い。
もっと熱い。
命令で動いている声ではない。
自分たちの熱に追われている声だった。
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最初に来たのは、矢だった。
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黒い空を、細い火が走った。
矢尻の後ろに巻いた布が燃えている。
油か、松脂か。
火は大きくない。
だが屋根の茅へ落ちるには十分だった。
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火矢が来た。
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屋根へ落ちた。
柵へ刺さった。
地面へ跳ねた。
乾いた草が、ぱっと明るくなった。
誰かが踏み消した。
別の場所で、また火が上がった。
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イサワが動いた。
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アテルイが叫んだ。
それだけで方向が決まった。
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「水。北の屋根」
「馬を奥へ」
「子どもは」
「まだです」
「急げ」
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戦の声ではなかった。
生かすための声だった。
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男たちは弓を取った。
柵の隙間から矢を返す。
女たちは桶を運んだ。
老人は火種を抱え、子どもを数えた。
走れる者は走り、走れない者は座ったまま手を動かした。
火に水をかける。
燃えた草を剥がす。
濡れた皮を屋根へ投げる。
馬の目を布で覆う。
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シンも走った。
炎が上がり始めている屋根の下へ行く。
桶を受け取った。
水を浴びせた。
湯気が白く噴いた。
熱が顔に返ってきた。
また走った。
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森の縁から、盾を持った兵が出てきた。
大きな盾ではない。
体を半分隠すほどの板を前にし、弓を避けながら進んでくる。
その後ろに槍。
さらに後ろに弓。
旗が揺れていた。
毘沙門天の文字。
知らない紋。
白い布。
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田村麻呂の整った軍ではなかった。
列はある。
だが息が合っていない。
前に出たい者が前へ出る。
後ろで叫ぶ者がさらに煽る。
恐怖を怒りで隠した兵たちが、火を盾にして進んでいた。
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それでも数があった。
数は、熱を持つ。
熱は、柵を押す。
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アテルイの弓が鳴った。
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最初の矢で、前列の盾が傾いた。
人ではなく、盾の端を射った。
盾が開く。
そこへイサワの矢が入った。
兵が倒れた。
次の盾が上がる。
アテルイはもう別の場所を見ていた。
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モレが外周へ消えた。
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森から森へ。
柵の影から、倒木の後ろへ。
音がしなかった。
見えたと思った時には、もういない。
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ヤマト兵の叫びだけが上がった。
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「鬼だ!」
「山の鬼め!」
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本当に鬼と呼んでいた。
怖がっていた。
モレは答えなかった。
答える代わりに、結果だけが増えていった。
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膝を斬る。
弓手を潰す。
槍の柄を短刀で払う。
倒れた兵は踏まれ、後ろの兵が乱れる。
乱れたところへ、イサワの矢が飛ぶ。
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モレは大きく斬らなかった。
一人を殺して立ち止まるのではない。
列を崩す。
足を止める。
火を持つ者の手を落とす。
盾の隙間を作る。
山の中で戦う者の強さだった。
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スズリは客間の柱に背を当てて、筆を動かしていた。
手が震えている。
だが止まらなかった。
何が起きているかを書き続けていた。
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火矢の数。
倒れた者の数。
声の方向。
炎の位置。
毘沙門天の旗。
白い布。
モレ、外周。
アテルイ、弓。
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火の粉が飛んできた。
紙の端に落ちた。
小さな穴が開いた。
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スズリは穴を見た。
それでも書いた。
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炉守りの老女が来た。
スズリの横にしゃがんだ。
火種の袋を抱えている。
袋の口は湿った布で巻かれていた。
中に小さな炭火がある。
消えてはいけない火だった。
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「火は炭になる」
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炎の音に混じる声だった。
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「炭は砕けて、墨になる」
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スズリは答えなかった。
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「残せ。」
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老女の声は、火よりも低かった。
火を恐れていない声だった。
火を知っている者の声だった。
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スズリの筆の力が少し変わった。
強くなった。
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タダは後方にいた。
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怪我人を運んでいた。
足を引きずっている男の肩を支え、倉の方へ歩く。
別の手で、泣き出した子どもの背を押した。
大きな体が、火の前で壁のように見えた。
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倉の中には子どもが詰まっていた。
タダが入ると、子どもが少し静かになった。
知っている匂いがしたからかもしれない。
燻製と、汁の匂い。
大鍋の湯気の匂い。
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タダは子どもの頭に手を置いた。
何も言わなかった。
それだけだった。
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突然、桃の香りがした。
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シンは止まった。
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水を持ったまま、止まった。
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柵の内側だった。
もういた。
音がなかった。
気配もなかった。
だが、いた。
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白装束。
黒髪。
桃の髪飾り。
左腰のフツ。
炎が白い衣に映り、薄桃の端を赤く染めていた。
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「モモ」
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シンが叫んだ。
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白桃は止まらなかった。
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今日は止まらなかった。
昨日と違った。
視線がシンを通過した。
どこかへ向かっていた。
炉か。
火種か。
記録か。
それとも、イサワそのものか。
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モレが現れた。
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どこから来たのか分からなかった。
白桃の前に立った。
肩で息をしている。
腕にも脚にも血がついていた。
だが目は死んでいなかった。
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「ここまでだ」
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短刀が走った。
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白桃が動いた。
フツが抜かれた。
抜いた音が遅れて聞こえた。
炎の光が、刃の上で白く跳ねた。
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金属の音がした。
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一つ。
二つ。
三つ。
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数えられたのは、そこまでだった。
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モレは受けていた。
ただ押されているのではない。
白桃の刃を、短刀と体のずらし方で外している。
足を引き、腰を落とし、肘を畳む。
刃を正面から受けない。
袖を斬らせる。
髪をかすめさせる。
肩を削らせながら、足へ入る。
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強かった。
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シンは初めて、モレの強さを見た気がした。
山を歩く強さではない。
怒鳴る強さでもない。
死ぬ場所を一寸ずつずらし続ける強さだった。
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モレの短刀が白桃の袖を裂いた。
薄い桃色の布が飛ぶ。
白桃の頬の横を、モレの肘がかすめた。
次の瞬間、フツの柄がモレの肋へ入った。
鈍い音がした。
モレの息が止まる。
だが倒れなかった。
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低く潜った。
白桃の膝を狙った。
白桃は跳ばなかった。
足を半歩引いただけだった。
それだけで刃が外れた。
フツの背が、モレの肩を打った。
血が落ちた。
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モレが押されていた。
今まで見たことのない状態だった。
だが、崩れてはいない。
白桃の異常な速さに、ぎりぎりで喰らいついていた。
人間の経験が、人間でないものへ爪を立てていた。
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「下がれ、モレ」
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アテルイが来た。
弓を持っていた。
白桃を見た。
一瞬で判断した。
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「近づくな」
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イサワ全員へ向けて叫んだ。
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「あれには近づくな。散れ」
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モレが下がった。
納得ではなかった。
だが従った。
引き際を間違えないことも、強さだった。
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白桃は追わなかった。
フツを下げた。
刃に血はほとんどついていない。
それでも、モレの腕から血が落ち続けていた。
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白桃は炎の中へ向かった。
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火矢が続いていた。
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倉の近くの屋根が燃えた。
柵の一部が崩れた。
焦げた木が倒れ、火の粉が風に散る。
煙が低く流れた。
人の声が、煙の中で割れた。
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「火を残せ」
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炉守りの老女が叫んでいた。
建物の話ではなかった。
種火の話だった。
炉の火種の話だった。
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客間が燃え始めた。
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シンは外から見ていた。
炎が屋根を舐めている。
煙が上がっている。
中に人がいた。
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老女がいた。
火種の袋を抱えたまま、煙の中で動けなくなっていた。
床には墨があった。
記録があった。
スズリが置いていった紙が、束のまま残っている。
交易。
金砂。
炭。
白桃。
戦。
イサワがここにあったこと。
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スズリが柱を掴んで止まっていた。
泣きそうな顔だった。
入ろうとして、入れなかった。
炎が邪魔をしていた。
煙が喉を塞いでいた。
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シンは走った。
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「シンさん!!」
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スズリが叫んだ。
シンは止まらなかった。
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炎の中へ入った。
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熱かった。
顔の皮が縮むようだった。
息を吸った瞬間、喉の奥が焼けた。
煙が入った。
咳が出る。
目が痛い。
涙が勝手に出た。
それでも進んだ。
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「残さないと駄目なんだろ……!」
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誰にも聞こえない声で言った。
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アサメを思った。
海辺で死んだ彼女を思った。
アサメの名を、誰かが覚えていなければならないと思った。
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モレを思った。
山のために怒り、山のために傷を受けた男を思った。
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スズリを思った。
震えながら、それでも書き続ける手を思った。
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炉守りを思った。
燃えた後に残るものを知っている老女を思った。
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山が続いてきた理由を思った。
誰かが火を残したからだ。
誰かが炭を残したからだ。
誰かが墨を作ったからだ。
誰かが、あったことをなかったことにしなかったからだ。
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老女の手を掴んだ。
軽かった。
熱で力が抜けていた。
シンは老女を引きずるように動かした。
火種の袋を受け取った。
墨を拾った。
記録の紙束を抱えた。
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出口へ向かった。
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煙が濃くなった。
黒い。
ただの霧ではない。
喉へ貼りつき、胸の中を塞ぐ煙だった。
呼吸ができない。
吸えば焼ける。
吸わなければ苦しい。
体が勝手に空気を欲しがる。
欲しがった瞬間、煙が入る。
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天井が鳴いた。
柱が軋んだ。
屋根の茅が燃え、火の粉が雨のように落ちた。
腕に落ちた。
首に落ちた。
痛みが一つずつ増えた。
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出口が見えた。
その向こうに、スズリの影があった。
誰かが老女を受け取ろうとしている。
シンは火種の袋を投げた。
墨を投げた。
紙束を胸へ抱え直した。
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その時。
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炎の向こうに、白い影があった。
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白桃だった。
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炎越しに、シンを見ていた。
止まっていた。
動いていなかった。
フツは下げられている。
白い衣の端が、火の赤を受けて揺れていた。
黒髪が煙に流れ、桃の髪飾りがぼんやり光っている。
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白桃の目が、炎の中のシンを見ていた。
火種の袋を。
墨を。
記録を。
老女を。
全部を抱えて、炎の中で立っているシンを。
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桃の香りが来た。
炎の熱と煙の匂いの中に、桃の香りが混じった。
焦げた木。
焼ける草。
人の汗。
血。
その中で、桃だけがまっすぐ届いた。
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「……シン」
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白桃が言った。
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機械の声ではなかった。
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「……火」
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その二文字が。
全然違う声で来た。
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モモだった。
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シンは笑った。
煙で咳が出た。
胸が裂けるように痛んだ。
それでも笑った。
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「思い、出したか」
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出口はもう歪んでいた。
梁が落ちかけている。
火が、逃げ道の端を舐めていた。
それでもシンは、白桃を見た。
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「火は…残るんだよ」
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煙が濃くなった。
声が掠れた。
息が足りなかった。
それでも言った。
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「炭に、なって」
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手の甲が燃えた。
熱が痛みに変わり、すぐに別の熱で塗り潰された。
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「墨に……なって」
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紙束の端に火が移った。
シンは胸で押し潰した。
熱い。
熱い。
熱い。
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「残、るんだ……!」
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白桃の目が揺れた。
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揺れた。
揺れ続けた。
止まらなかった。
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一粒だけ。
涙が落ちた。
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炎の光を受けて、白く光った。
前の時代の最後に見た涙と、同じだった。
泣けないはずの顔から、こぼれたものだった。
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その瞬間。
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天井が落ちた。
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音が消えた。
次に、熱だけが来た。
背中に落ちた。
肩に落ちた。
髪が焼ける匂いがした。
皮膚が縮む。
息を吸おうとして、火を吸った。
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苦しかった。
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痛いより先に、苦しかった。
息がない。
空気がない。
体が暴れる。
手が紙束を離しそうになる。
離すな、とどこかで思った。
離したら、全部燃える。
離したら、またなかったことになる。
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シンは紙束を抱えた。
火の中で、抱え直した。
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白桃の目が最後に見えた。
揺れていた。
泣いていた。
人間の目で、泣いていた。
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(モモ)
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声にはならなかった。
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視界が焔に覆われた。
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燃えた。
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燃えて。
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燃えて。
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死んだ。
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息が入った。
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「っ……」
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目が覚めた。
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炉の火が残っていた。
スズリが筆を持って座っていた。
静かな朝だった。
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シンは立ち上がった。
喉が鳴った。
声がうまく出なかった。
それでも叫んだ。
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「火を守れ!」
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スズリが固まった。
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「火種を、記録を!」
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「シンさん?」
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「……炉守りは」
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「外に」
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シンは止まった。
外を見た。
山が静かだった。
鳥が鳴いていた。
馬の鼻息が聞こえた。
炎はなかった。
煙もなかった。
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(戻った)
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今回は違った。
体が激しく震えていた。
炎の熱が、まだ手のひらに残っている。
煙の匂いが、まだ喉に残っている。
胸の奥が焼けている気がした。
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焼け死んだ。
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それだけが、今までで一番はっきりと体に残っていた。
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シンは外へ出た。
朝の空気が来た。
冷たかった。
生きていた。
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森の方を見た。
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高い枝の上に、人影があった。
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金髪。
軽い立ち方。
朝の光を受けて、そこだけ少し明るく見えた。
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笑っていた。
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こんな朝に。
人が死に、火に焼かれ、まだ喉に煙が残っている朝に。
まるで何かを最初から知っていたみたいに、枝の上で笑っていた。
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ワカレだった。
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シンは見上げた。
息が整わなかった。
焼けた喉が、まだ痛んでいた。
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ワカレは枝の上で、片膝を立てていた。
風に金髪が揺れる。
軽い目が、シンを見ている。
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逃げる気配はなかった。
消える気配もなかった。
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ただ、そこにいた。
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風が来た。
山が鳴った。
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(第七十三話へ)




