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山鳴り

第七十一話 山鳴り


⸻


 朝が来ていた。


⸻


 炉の火は残っていた。


 灰の奥に赤い芯があり、そこから細い熱が上がっている。


 夜の間、誰かが薪を足し続けたのだろう。


 火は大きくはない。


 だが、消えていなかった。


⸻


 スズリはもう起きていた。


 灯火の横で筆を動かしている。


 昨夜から書き続けているらしかった。


 髪は少し乱れ、目の下に影がある。


 それでも背筋だけは崩れていなかった。


 筆先が紙を擦る音が、炉の火よりもはっきり聞こえた。


⸻


 シンは起き上がった。


 体が重かった。


 眠ったというより、ただ横になっていただけだった。


 目を閉じれば白い衣が見えた。


 黒髪。


 桃の髪飾り。


 火を返すフツの鞘。


 そして、名前を呼んだ時だけ揺れた目。


⸻


 モモ。


⸻


 その名を胸の内で呼ぶと、喉の奥が熱くなった。


 だが泣けなかった。


 泣くには、まだ目の前にいる。


 助けるには、遠すぎる。


⸻


 シンは外へ出た。


⸻


 静かだった。


⸻


 静かすぎた。


⸻


 いつもなら、朝のイサワには細かな音がある。


 馬が鼻を鳴らす音。


 誰かが水を汲む音。


 炉の前で子どもが叱られる声。


 川の音に混じる、鳥の声。


 木を割る音。


 革紐を締める音。


⸻


 今日は違った。


⸻


 川の音だけがあった。


 それも、いつもより遠く聞こえた。


 馬は柵の端で固まっている。


 鼻を地面に向け、落ち着かない呼吸をしていた。


 脚を動かそうとして、すぐに止める。


 耳だけが森の方へ向いている。


⸻


 犬が一匹、森の方を向いて座っていた。


 吠えなかった。


 唸りもしなかった。


 ただ、向いていた。


 尾は下がり、体だけが固い。


⸻


(山が静かすぎる)


⸻


 アテルイの言葉が戻ってきた。


⸻


 山が静か、という言葉の意味が、少し分かった気がした。


 音がないのではない。


 音が逃げている。


 鳥も、獣も、馬も、人も。


 何かが来る前の場所から、息だけが引いている。


⸻


 アテルイが来た。


 シンより早く起きていたらしい。


 川の方を見ていた。


 顔には眠気がなかった。


 疲れていないわけではない。


 疲れを置く場所がない顔だった。


⸻


「いつ来る」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


「今日中だ」


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「確信か」


⸻


「馬が言っている」


⸻


 それだけだった。


 それで十分だった。


⸻


⸻


 イサワが動き始めた。


⸻


 子どもたちを北の倉へ移す準備が始まった。


 老人も同じ方向へ。


 歩けない者は背負われる。


 幼い子は一枚の布で二人ずつ包まれ、母親の腕に抱えられた。


 泣きそうな子には、干した木の実が握らされた。


 口を塞ぐためではない。


 手に何かを持たせるためだった。


⸻


 食料を運ぶ。


 水を確保する。


 炭を倉へ移す。


 火種を土器へ入れ、さらに革で包む。


 馬を奥へ引く。


 矢を数える。


 縄をまとめる。


 怪我人を寝かせる場所を空ける。


⸻


 戦の準備だった。


 だが、戦争ではなかった。


 生き延びるための準備だった。


 それがイサワのやり方だった。


⸻


 アテルイは声を荒げなかった。


 怒鳴らなかった。


 短く指示して、歩いた。


 それだけで人が動く。


 命令に従っているというより、同じ山を知っている者たちが、それぞれの場所へ戻っていくようだった。


⸻


 モレは武器を確認していた。


 刃の状態を見る。


 弓の張りを確かめる。


 矢羽根を指で撫でる。


 折れているものを抜き、使えるものだけを脇へ置く。


 その手は速い。


 だが乱れていなかった。


⸻


 それから、シンを見た。


⸻


「お前は戦えるか」


⸻


「……状況による」


⸻


「正直な奴だ」


⸻


 モレは少し口の端を動かした。


 笑ったのかもしれなかった。


⸻


「死にたくなければ、俺の前に出るな」


⸻


「出たくて出るやついるのか」


⸻


「いる」


⸻


 モレは白桃が消えた森を見た。


⸻


「守りたいものが目の前にいる時だ」


⸻


 シンは返せなかった。


⸻


⸻


 午前中、シンとスズリは客間で記録を整理した。


⸻


 スズリが昨夜書いたものを確認していた。


 交易の記録。


 会話の記録。


 イサワの構造の記録。


 モレとアテルイの言葉。


 外周に見えた松明の数。


 白装束の侵入。


 倒れた男の状態。


⸻


 その中に一枚、文字が少ないものがあった。


 線が乱れている。


 墨がところどころ濃く、紙の上で滲んでいた。


 言葉になりきれなかったものを、何度も書き直した跡があった。


⸻


「これは何の記録だ」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 スズリは少し間を置いた。


⸻


「昨夜の、白装束を」


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「書けたか」


⸻


「ほとんど書けませんでした」


⸻


 スズリは筆を持ったまま、紙を見た。


⸻


「怖かったです」


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「そうだろうな」


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「でも」


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 少し間があった。


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「あの人、少し泣きそうでした」


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 シンは手を止めた。


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「そう見えたか」


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「はい」


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 スズリは思い出すように目を伏せた。


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「戦うための目ではありませんでした。恐ろしいのに、何かを堪えているようで」


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「……」


⸻


「人を見ていないのに、誰かだけを探しているようにも見えました」


⸻


 シンは、昨夜の白桃の目を思い出した。


 色硝子のような冷たさ。


 その奥で、一瞬だけ揺れたもの。


 シン、と呼んだ声。


⸻


 そして、もっと前の記憶が来た。


⸻


 前の時代の終わり。


 白い光。


 白雷に体を奪われたモモ。


 自分を殺すために振り下ろされる刃。


 止めたいのに止まらない手。


 感情を顔に出せないまま、目から落ちた一粒の涙。


⸻


 また会えても、何百年後かわからない。


⸻


 あの時の声が、胸の底から戻ってきた。


 正確な言葉なのか、死の前に歪んだ記憶なのか、シンには分からなかった。


 だが意味だけは残っている。


 離される。


 奪われる。


 それでも、どこかでまだ繋がっている。


⸻


「私の見間違いですか」


⸻


 スズリの声で、シンは戻った。


⸻


「違う」


⸻


 すぐに答えた。


⸻


 スズリはシンを見た。


⸻


「知っている人ですか」


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「……ああ」


⸻


「そうですか」


⸻


 スズリはそれ以上聞かなかった。


 筆を持ち直して、記録へ戻った。


⸻


 その横顔を、シンは少し見た。


 聞かないのが、スズリというひとだった。


 記録する。


 けれど、踏み込まない。


 人の傷を、文字のためにこじ開けない。


⸻


 だからシンは、少しだけ言えた。


⸻


「俺が、見つけないといけない人だ」


⸻


 スズリの筆が、一瞬だけ止まった。


⸻


「では、記録します」


⸻


「何を」


⸻


「見つける前のことを」


⸻


 スズリは紙へ視線を戻した。


⸻


「見つけた後、忘れないように」


⸻


 シンは黙った。


 その言葉は、思ったより深いところへ入った。


⸻


⸻


 昼前に、見張りが走ってきた。


⸻


「森の外縁に、増えています」


⸻


 アテルイへ報告した。


 息が切れている。


 だが言葉は崩れていなかった。


⸻


「数は」


⸻


「昨夜の倍以上」


⸻


「旗は」


⸻


「毘沙門天の旗。ほかにも、見たことのない紋が複数」


⸻


 アテルイは頷いた。


 表情を変えなかった。


⸻


「動いているか」


⸻


「動いていません。森の縁で止まっています」


⸻


「そうか」


⸻


 モレがアテルイの横へ来た。


⸻


「今だ」


⸻


 低い声だった。


⸻


「今、叩く。待てば囲まれる」


⸻


「先に刃を出せば、終わる」


⸻


「黙って囲まれるよりましだ」


⸻


「先に動けば、ヤマトへの反乱になる」


⸻


「もうなっている」


⸻


 二人が向き合った。


⸻


 初めての、正面からの衝突だった。


 モレは引かなかった。


 アテルイも引かなかった。


 周りの者たちが息を止める。


 炉の火が小さく鳴った。


 川の音だけが続いていた。


⸻


「向こうは、こっちが先に動くのを待っている」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「待たせておけばいい」


⸻


 モレの声は荒くない。


 荒くない分、硬かった。


⸻


「腹を空かせた獣を柵の外で待たせて、何が変わる」


⸻


「こちらが獣にならずに済む」


⸻


 モレの拳が固まった。


⸻


「その間に、子どもが死んだらどうする」


⸻


 アテルイはすぐには答えなかった。


 川を見た。


 それから森を見た。


⸻


「死なせないために、今日は動くな」


⸻


「アテルイ」


⸻


「今日は、だ」


⸻


 モレは黙った。


 拳を握った。


 それだけだった。


⸻


⸻


 昼。


⸻


 タダが炊き出しをしていた。


 火を大きくして、大鍋を二つかけている。


 保存のきく汁だった。


 根菜と干し肉を煮込んだものだ。


 余れば持って逃げられる。


 冷めても食える。


 薄めれば、もっと多くの人間に回せる。


⸻


 食べ物の匂いがした。


 戦の前でも、腹は減る。


 恐怖だけでは体は動かない。


 だから鍋が要る。


 火が要る。


 塩が要る。


⸻


 子どもが一人、タダの横をうろついていた。


 昨夜から親の顔を見ていない子だった。


 母親は北の倉へ運ばれる者の手伝いに行っている。


 父親は外周にいる。


 子どもは、それを言葉にできない顔をしていた。


⸻


 タダは何も聞かなかった。


 干し肉を一切れ渡した。


⸻


 子どもはそれを受け取って、黙って食べた。


 硬い肉を、小さな歯で少しずつ噛む。


 噛んでいる間だけ、泣かなかった。


⸻


 タダは鍋を混ぜ続けた。


 表情はいつも通りだった。


 だが、混ぜる手が少しだけ丁寧だった。


 いつもより丁寧だった。


 焦がさないためだけではない。


 今ここでできることを、一つも雑にしない手だった。


⸻


⸻


 夕方になった。


⸻


 川向こうに、白い影が立っていた。


⸻


 昨夜と同じ場所だった。


 単独だった。


 動いていない。


 森の縁を背にして、こちらを見ている。


 夕方の光は弱く、山の影はもう川まで伸びていた。


 その中で、白い衣だけが沈まなかった。


⸻


 黒髪が風に揺れる。


 桃の髪飾りが、沈む光を小さく返す。


 フツの鞘が、左腰で細く光る。


 抜いてはいない。


 それでも、川のこちら側の空気が硬くなった。


⸻


 桃の香りが、川風に乗って来た。


⸻


「行く」


⸻


 シンは言った。


⸻


 モレが即座に前へ出た。


⸻


「駄目だ」


⸻


「話せる」


⸻


「あれと話せると思うのか」


⸻


「昨夜、止まった」


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「一瞬だ」


⸻


「一瞬でいい」


⸻


 モレは黙った。


 シンを見た。


 長く見た。


⸻


「知り合いか」


⸻


「ああ」


⸻


「それでも関係ない。お前が死ぬだけだ」


⸻


 アテルイが来た。


 シンとモレを見た。


 川向こうを見た。


 それから、もう一度シンを見た。


⸻


「行け」


⸻


 アテルイが言った。


 モレへ向かって言った。


⸻


「止めるな」


⸻


 モレが固まった。


⸻


「アテルイ」


⸻


「見てみたい」


⸻


「命令か」


⸻


「頼みだ」


⸻


 モレは奥歯を噛んだ。


 それから、下がった。


⸻


 スズリが来た。


 紙を抱えていた。


⸻


「私も行きます」


⸻


「駄目だ」


⸻


「でも」


⸻


「俺一人の方が止まりやすい」


⸻


 スズリは少し間を置いた。


 それから頷いた。


 納得ではなかった。


 だが、信じた。


⸻


「戻ってください」


⸻


 シンは答えなかった。


 答えると、嘘になりそうだった。


⸻


⸻


 川へ向かった。


⸻


 水が冷たかった。


 膝まで浸かって渡る。


 流れは強くない。


 だが足首に絡む水が、やけに重く感じた。


 川底の石が滑る。


 体が少し傾く。


 それでもシンは、白桃から目を離さなかった。


⸻


 白桃は動かなかった。


 シンが対岸へ上がるまで、ただ立っていた。


⸻


 距離は十歩。


⸻


 近い。


 近すぎる。


 けれど、あの前の時代の最後よりは遠かった。


 あの時は、刃が届く距離だった。


 白い光の中で、モモの手が動き、自分の死が来た。


 シンはその寸前に、彼女の涙を見た。


 声を聞いた。


 何百年後かも分からない再会を、約束とも呪いともつかない形で残された。


⸻


 今、目の前にいる。


 何百年かどうかも分からない。


 だが、来た。


 また会えた。


 それなのに、抱きしめることも、触れることもできない。


⸻


「モモ」


⸻


 シンは呼んだ。


⸻


 白桃の目が動いた。


 一瞬だけ焦点が来た。


 また消えた。


⸻


「……認識」


⸻


「俺だ。シンだ」


⸻


「……シン」


⸻


 昨日より、少し速かった。


 名前が出てくるのが、少し速かった。


 それだけで、シンの胸が締め付けられた。


⸻


「火を覚えているか」


⸻


「……」


⸻


「タダの肉を食っただろ」


⸻


 白桃の瞳が、わずかに揺れた。


⸻


「……火」


⸻


「そうだ」


⸻


「……肉」


⸻


 声は薄かった。


 だが、そこに分類ではないものが混じった。


 意味ではなく、匂いに引かれたような反応だった。


⸻


「そう。肉」


⸻


 シンは笑いそうになった。


 泣きそうにもなった。


⸻


「お前、あの時も食ってた」


⸻


 どの時代のことか、自分でも分からなかった。


 最初の時代か。


 前の時代か。


 火のそばで、何度も。


 モモは少し離れた場所にいて、何も言わずにシンの食べ方を見ていた。


 誤差、と小さく呟いていた。


 それだけのことが、今はひどく遠い。


⸻


 桃の香りが少し強くなった。


⸻


「……胆沢」


⸻


 白桃が言った。


⸻


「そうだ。ここにある」


⸻


「……修正」


⸻


「修正しなくていい」


⸻


「……止め」


⸻


 そこで、途切れた。


⸻


 白桃の目が少し揺れた。


 揺れて、戻った。


 揺れて、また戻った。


 水面に映った光が、流れで崩れては戻るようだった。


⸻


「……」


⸻


 声が来なくなった。


 だが、消えなかった。


 そこに立っていた。


⸻


 シンは少し前へ出た。


⸻


「モモ、まだいるか」


⸻


「……」


⸻


「いるんだろ」


⸻


 長い間があった。


 川が鳴っていた。


 森の奥で、鳥ではない何かが枝を踏んだ。


 遠くで馬が短く息を吐いた。


⸻


「……いる」


⸻


 その声だけが、少し違った。


 機械でも、巫女でも、白桃でもない声だった。


 水底から浮いてきたみたいな、ただのモモの声だった。


⸻


(まだいる)


⸻


 シンは確信した。


 壊れたままで、でもまだいる。


 消えていない。


 誰かの命令の奥で、白い光の奥で、まだ耐えている。


⸻


「迎えに行く」


⸻


 言ってから、シンは自分で息を止めた。


⸻


「何百年でも」


⸻


 白桃の瞳が、揺れた。


 今度は少し長かった。


⸻


「……不明」


⸻


 その言葉は、ひどくモモらしかった。


 分類できないものを、分類しようとしている声だった。


⸻


 そこで、桃の香りが止まった。


⸻


 白桃の目から、焦点が消えた。


 色硝子の冷たさが戻る。


 呼吸の気配が薄くなる。


 手が、フツの鞘へ近づいた。


⸻


 また、白桃に戻った。


⸻


 だが抜かなかった。


 後ろへ下がった。


 森へ向かう。


 白い影が木々の間に溶けていく。


⸻


 シンは追わなかった。


 追えなかった。


 あの一言を聞けただけで、足が動かなかった。


⸻


⸻


 川を渡って戻ると、見張りが走ってきた。


⸻


「来ます」


⸻


 声が裏返っていた。


⸻


「数が、昨夜の比ではありません」


⸻


「方角は」


⸻


 アテルイが聞いた。


⸻


「南と西。東にも」


⸻


 モレが動いた。


 笑っていた。


 怒りではなかった。


 戦う顔だった。


⸻


「来たか」


⸻


 低い声だった。


⸻


 アテルイが前に出た。


 武器を持っていた。


 初めて見た。


 弓だった。


 大きい弓だった。


 木の色は黒く、使い込まれている。


 弦を張ったその形は、山の枝をそのまま武器にしたようだった。


⸻


 それを持ったアテルイは、さっきまでと別人だった。


 穏やかな男ではない。


 川を見ていた男でもない。


 山そのものが、人の形を取って前に出たようだった。


⸻


 タダがシンの横に来た。


 子どもを全員、奥へ連れていくという。


 声は低かった。


 無言で、大きな手がシンの肩を叩いた。


 それだけだった。


 だが、その手は重かった。


 生きろ、と言っている重さだった。


⸻


 スズリは震えていた。


 それでも筆を持っていた。


 紙を抱えていた。


⸻


「記録します」


⸻


 声が震えていた。


⸻


「これも、記録します」


⸻


 シンはスズリを見た。


 何も言えなかった。


 だが、頷いた。


⸻


 森の奥で、松明が灯った。


⸻


 一つ。


 十。


 百。


⸻


 数えるのをやめた。


⸻


 火が横へ広がっていく。


 木々の間に、赤い点が増える。


 ただの光ではなかった。


 人が持っている火だ。


 人が運んでくる戦だ。


⸻


 シンは白桃が消えた森を見た。


⸻


 その時。


⸻


 高い枝のあたりで、何かが揺れた。


⸻


 鳥ではなかった。


 獣でもなかった。


 ほんの一瞬、金色のものが闇の中で光った。


 それは髪のようにも、枯れ葉が火を返したようにも見えた。


⸻


 軽い気配があった。


 こんな時に笑っているような、ふざけた軽さだった。


⸻


 シンが目を凝らした時には、もう何もなかった。


 枝だけが揺れていた。


⸻


 足音が揃う音が、森から来た。


⸻


 低く。


 重く。


 山の底から響くように。


⸻


 山へ、戦が戻って来た。


⸻


(第七十二話へ)


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